喜連川→日光納涼?ドライブ:湯沢屋&中禅寺+余談
      川村 知一 

7月8日(土):11:00出発→外環→東北道→喜連川15:00着
 珍しく土曜のホテル予約ができ、1泊であったが喜連川亀の井ホテル(旧簡保)のペット同室に宿泊し、息子家族(中3、小6)と夕食を共にした。
 3年近く、コロナ禍で面会したのは3回程度、夕食は「黙食」、記念写真を撮るときにマスクを外し、という具合であったが、今回は「黙食」ではなく会話あり。
 中3は気の毒で、小学校修学旅行なし、卒業式簡素化、中学入学式簡素化、私が小5で会って、次に会ったのが中2であった。
 小6は前日修学旅行(1泊)から帰ったところ、鎌倉(大仏、鶴ケ丘八幡)→新横浜泊→国会議事堂→国立科学博物館→東京スカイツリーの話であった。
 今時は途中の様子を学校のホームページで刻々と写真入りでレポート、妻は自宅のパソコンでフォローしていた。

 写真:写真1.国会議事堂1、千代田区立永田町小学校(現在廃校)は観光バスから(2016年1月)、写真3,4はパレスホテル11階から(2018年9月)。
 現在の国会議事堂は高層ビルに埋まっている。その後ろが現在廃校の永田町小学校(私の出身校)であった。

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写真1.国会議事堂1
 
写真2.永田町小(廃校)

写真3.国会議事堂2

写真4.皇居

7月9日(日):10:30ホテル発→喜連川道の駅→東北道→日光高速→12:00市内(湯葉、酒饅頭、天然氷カフェ)→13:10中禅寺立木観音駐車場→13:20定期遊覧船(1時間)→帰路→19:00自宅着

 ホテルのチェックアウトは今時珍しい10:00、喜連川道の駅で新鮮な野菜を仕入れ、直帰の予定で東北道に乗ったが、宇都宮出口手前300mで、やはり日光へと急ハンドル、目的は日光の涼気を調べるため、であったが、湯葉と湯沢屋の酒饅頭に変更、湯沢屋は変貌し、隣接の大谷石の蔵を改造した「鉢石カフェ」で天然氷をトライ、気温29℃、このまま引き返すのは渋滞に巻き込まれるだけと思い、さらに涼気を求めて中禅寺立木観音駐車場へ、定期観光船の時刻表を調べると13:20発、急いで愛犬を乳母車(犬は顔を出してもダメ)に乗せて、間一髪で乗船。屋上デッキ(3階)に登ると満足な涼風であった。
一周60分、男体山は山頂まで見え、船尾の日の丸と記念写真を撮った、奥白根は見えなかった。

写真5.変貌の湯澤屋
 
写真6.天然氷(1100円)

写真7.湯沢屋脇

写真8.定期観光船から1
 
写真9.男体山と日の丸

写真10.船上デッキ

写真11.犬用乳母車

写真12.調理後の揚げ湯葉
 
写真13.湯沢屋の酒饅頭1

写真14.湯沢屋の酒饅頭2

写真15.湯沢屋の酒饅頭3

相変わらずの駄句;
“酷暑では駄句と言えどもままならず”松戸馬笑

余談;千代田区立永田町小学校(現在廃校)関連
 私は占領下の昭和26年、小4二学期から日光町立清滝小から千代田区立永田町小に転校した。母方の祖父が戦前から住んでいた青山6丁目の焼け野原に家を建て、私に「来ないか?」で一人上京居候した。当時、丹勢社宅の上級生、Tさん、Oさん、Mさんなど7名ほどが中学から丹勢を出て、全寮制の桜美林中学(Tさんのご親戚が創立)に入学していた。
 国鉄日光駅から蒸気機関車で上野まで3時間半、夏休み明けには皆で乗車して上京した。上野で銀座線に乗り換える時、薄暗い地下道を通るが、白熱裸電灯の下には家の無い数百人の人々が横になっていた。
 国会議事堂周辺は国有地が多く焼け野原のままであった。さらに議事堂の天辺は防空の黒ペンキが残っていた。小学校は奇跡的に焼け残り、屋上には高射砲の基礎が残っていた。周辺は高い建物はなく、民家はほとんどが平屋で、屋上から東に東京湾の汽船の煙突が見え、西には富士山が見えた。道路を挟んだ北には木造2階建ての自由党本部があり、その隣は元ドイツ大使館で、レンガの瓦礫で埋まっていた。
 昭和27年の「血のメーデー」では、自由党本部の窓ガラスがデモ隊の投石で全部割られたが、反対側の小学校は無傷であった。自由党本部には講堂が無く、党大会は小学校の講堂を借用し、黒塗りの車に乗った吉田茂首相が私たちの目の前で降りて講堂に向かっていった。

 古い話では、二・二六では反乱軍の一部が永田町小学校を占拠し、緊張の中、教師たちは奉安庫の教育勅語と御真影をタクシーに表示して赤坂経由で番町小学校に奉遷した。この様子をドイツ大使館から日本の憲兵が電話でどこかへ報告していた。電話の会話一部始終が録音され、そのアルミ録音盤がNHKの倉庫の中から発見された。
 事件が終息し、番町小学校から教育勅語と御真影が永田町小学校へ奉還され、校門では6年生全員が敬礼をして迎え、校庭では校長先生以下全員で君が代を斉唱した、という話が10年ほど前の文芸春秋に載っていた(戦後教育の私には奉安庫は初耳であった)。
      令和5年7月12日