那須塩原:ヒマワリ&那須湯本:真っ二つの“殺生石”
      川村 知一 

8月7日(日)から10日(水)3泊4日、再び那須のホテルに宿泊した。
今回の主目的はコロナ禍で実現しなかった孫たち家族(1泊)と合流して、2年半ぶりの面会であった。

8月7日(日):ヒマワリ&孫家族と合流
那須塩原に“明治の森”という公園があり、ヒマワリが満開情報で両家族が合流した。
公園には付随して“道の駅“があり、さらに明治初期のドイツ公使、外務大臣を務めた青木周蔵の西洋建築“旧別邸”がある。青木氏は国際結婚、東北線塩原駅から別邸まで馬車で、ロマンチックな光景が目に浮かぶ、土壌があまり良くない那須に農場を開いた、とある。

前回は2016年8月23日、ヒマワリは晩年ゴッホのヒマワリ状態であったが、今回は初々しい満開のヒマワリであった。

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写真1.ヒマワリ1
 
写真2.ヒマワリ2

写真3.ヒマワリ3

写真4.記念写真

写真5.旧青木別邸

写真6.2016年8月23日

8月9日(火):史跡“殺生石”&“鹿の湯”
今年3月6日、那須湯本を過ぎた所にある史跡“殺生石”が真っ二つに割れているのが発見され、地元紙などで報道されていたので、今回、野次馬で訪れてみた。
“殺生石”は“奥の細道”で芭蕉、曾良が訪れて句を残している。
当時は現在よりも火山性の亜硫酸ガスが強かったようで、虫の死骸が見られた様子が記録されている。

芭蕉が残した2句;
“石の香や夏草赤く露暑し”
“湯をむすぶ誓いも同じ石清水”

写真7.殺生石遊歩道
 
写真8.割れた“殺生石”

写真9.殺生石の由来 
 
写真10.記念写真

写真11.2015年2月7日

写真12.石の香橋にて

写真13.湯の花採取場跡

写真14.説明文

“鹿の湯”
“鹿の湯”は“殺生石”と那須街道を挟んで反対側の谷にある。
那須温泉の歴史は1,300年前、舒明天皇の時代に遡り、江戸時代には参勤交代で江戸に在住した大名たちが、将軍に休暇届を出して湯治に訪れた、とある。
“鹿の湯”は硫黄泉で古めかしい建屋、浴槽は1m立方のヒノキ×6槽、源泉は56℃、湯温は管理人によるマニュアルコントロール、細い木製の樋の傾きで湯量をコントロールする仕組み、41,42,43,44,46,48℃の6種類。駐車場には“那須御用邸源泉”がある。

“鹿の湯”には今まで50回ほど通ったが、今回は8月8日夕と8月8日朝、42→44→46℃を各2分、体が素洗いされた感じで、夏のベタベタ肌がサラサラ肌になり、(コロナ禍で)2年ぶりの“鹿の湯”を楽しんだ。
入口には水彩画の絵葉書と説明書があり、今回の説明書には英文が追加されていた。
下記をクリックすると「絵葉書の水彩」と「説明書(含む英文)」を見ることが出来ます” 
スキャン1.絵葉書の水彩 スキャン2.説明書(含む英文)

相変わらずの駄句
“大名も休暇届はソッと出し”  松戸馬笑
“鹿の湯で石の香の屁ソッと出し” 宇和野曾良

      令和4年8月16日