1月17日、満月を見て→1995年、阪神大震災
      川村 知一 

令和4年1月17日、澄んだ夜空を見ると満月が綺麗であった。早速カメラ:ニコンZ5(手振れ補正内臓)に望遠レンズ:ニコン300㎜F4を付け、手持ち撮影した。


写真1 撮影原画

写真2 トリミング拡大

TVニュースでは阪神大震災から27年、ネットでは当時「おはよう日本」アナウンサー住田功一氏が当時を後悔した話が載っていた。

私は海外に行くと必ず夜空を見て日本と同じ星、月を見て、時には感傷に浸る。
1995年1月16日、私は韓国に出張、空港からタクシーでソウルのホテルに向かうと道路はクラクションの喧騒、まもなく「ドスン」と衝撃、トラックに追突された。
さらに進むと交通事故を起こしフロントガラスを大破したバスが道路の真ん中に放置され、ただ事ではない交通事情を知った。

ホテルに入る前、空を見ると綺麗な満月であった。
翌朝は5時に目が覚め、TVを点けるとNHKBSが映って昨日の初場所の映像、暫くして地震のテロップ、京都震度6、その後震度5に訂正(当時の震度は機器ではなく観測員の判定:関西ではあまり大きな地震がないせいか?など疑問をもった)。

次に、たまたま神戸(六甲?)に帰省していた住田アナウンサーに電話が繋がり状況報告「ガタガタと大きく本棚が揺れ、戸を開けて下界を見下ろすと特に異常は見られず――」(このレポートがネットで後悔、とあった。)

私は韓国自動車メーカーを訪問、ボディーシートなどアルミ化のPR、市場調査目的であった。初日はホンダと提携してノックダウンしていた大宇自動車(日本車の完成車は輸入が禁止されていた)、翌日はマツダと提携していた起亜自動車、翌々日は三菱と提携していた現代自動車を訪問した。
特に起亜は事前に研究室長ほか1名が来日して福井工場を案内していたので、レクチャーには50人ほどが熱心に聴講、工業技術院のメンバーも同席していた。
レクチャー後、室長から「この度は――」のお悔やみがあり、ホテルに戻りTVを点けると地震の犠牲者数が250人になっていた。
さらに現代自動車訪問後、釜山のホテルのTVでは2,500人の犠牲者報道、帰国すると6,000人を越えていた。

追記;前年1994年1月17日、ロスアンゼルス大地震
1994年1月16日デトロイト着、翌朝TVを点けると火災のシーン、暫くするとロスアンゼルで大地震があり、乗じて暴動・略奪、特に韓国系スーパーマーケットが狙われて、店員が銃を持って警戒中、物々しい雰囲気であった。

当初の出張予定はロス→ダラス→デトロイトの順であったが、大陸を西から東へ移動すると時差で睡眠時間が短くなるので逆コースにして正解であった。

ただ東部は20世紀2番目の寒波で -35℃ ウィンドチル -50℃、シカゴ・オヘア空港が1週間閉鎖された。

デトロイト泊→バトルクリーク泊→カナダ領ロンドン・オンタリオ泊、ダッジ・レンタカーで粉雪(小麦粉のようでスリップしない)の中を移動、給油で外に3分いると、耳から冷気が脳の芯まで伝わり、氷水を食べたような頭痛であった。

その後、ロスアンゼルスに移動すると気温は20℃、その夜、ホテルのベッドから満月が見えて、暫くすると余震。
高校時代に天文部に所属していたので、大地震と月齢の相関を調べたが無関係であった。

ロスの地震では日本の建設省の調査団がロスの高速道路の崩落を見学してのコメント「日本では考えられない」が記憶に残った。

まとめ;
家族から「父さんが海外出張すると大地震になるから止めて」と言われ、最後の海外出張であった。
      令和4年1月18日