カメラ三昧(2):50年前のポジ写真修復と記憶蘇生
川村 知一
 はじめに
50年前、私は29才独身、アルミ押出プラント輸出でルーマニアに6か月滞在、往復で撮影したアルバムの写真が退色して赤味を帯びて劣化してしまった。
劣化したL版プリントをデジタルカメラで複写+補正すると、原画より優れた画像が得られた。新型コロナ禍の外出自粛で画像を修復していると、撮影時の記憶が蘇ってきた。

 当時の時代背景
出張は昭和45年12月末から46年6月末、当時の日本は47年の列島改造論直前、円はまだ弱い通貨の固定相場、1ドル360円、海外での両替は空港、銀行のみであった。

ルーマニアはチャウセスク政権の社会主義、空港、駅、橋ではカメラ撮影は禁じられていた。現地の生活水準は戦後の日本のように食糧事情が悪く、特に冬場には果物はおろか野菜不足、米、魚など無し、滞在の日本人は1か月で1㎏痩せ、手の甲の皮膚を摘まむと皮下脂肪がないのでシワがなかなか戻らない、栄養失調気味。
インフラは整っていたが、夜間断水、給湯蛇口は湯が出ず、入浴、洗髪ができず、トイレットペーパー、ティッシュなど日本で見られる日用品が全く無く、生活面での苦労が多かった。

 *COMECONとルーマニア
ソ連を中心とした分業経済圏COMECON、ルーマニアの分担は農業であった。ブカレスト大学冶金学科卒のチャウセスクは反発して工業化を推進、バランス外交もあって西欧各国は多額の融資を行った。
アルミ押出プラントはその一環で、すでにペシネーのアルミ精錬、プロペルジ線などが稼働していた。当時のルーマニアは石油を産出、銅などの地下資源が豊富であった。急激な工業化による債務返済は国民生活を圧迫し、革命に至った。

 往路
昭和45年12月24日クリスマス・イブ、午後8時羽田発KLMアンカレッジ経由アムステルダム行き、冷戦時代でソ連上空を飛行できない時代。
180人乗りDC8、搭乗率は30%、私は初の海外、航空機に乗るのも初めてであった。4発ジェットDC8は翼にも燃料を入れて、羽田3000m滑走路目いっぱい滑走して重そうに離陸すると間もなく、ターキーの入った機内食が出てきた。

ガラガラの機内、中央の座席3席の肘当てを上げて横になって寝て、9時間ほどでアンカレッジ近くになると、スチュアーデスが「左の窓をご覧ください」、窓から見ると朝日でピンクに染まったマッキンリー(現在は現地名デナリ)が見えた。
空港トランジット待合室には巨大な白熊の剝製があり、記念写真を撮り、給油して再び飛び立つと、アラスカの山々が見えた。

写真 (写真はクリックで拡大)

1.ピンクのマッキンリー

2.巨大白熊の剥製と

3.アラスカの山々1

4.アラスカの山々2
 復路
出張は3か月の予定がプラントの進捗遅れで6か月滞在、昭和46年6月末、ようやく帰国の目途が立ち、旅程は各自が作り、トーマスクックの時刻表で空路乗り継ぎを調べた。
ホテルは国際電話予約であるが、冷戦時代、何かと国際電話は難しく、通話料も高額なのでホテル予約なし航空券のみの旅程になった。冷戦時代で直行便などは無く、航空運賃は途中経由でも同料金なので、ローマ、ジュネーブ、パリ経由、各地2泊とした。以下、各地をカメラ:ニコマート+50㎜1.4、フィルム:富士ASA400(36枚撮り)×10本で撮影した。

7月1日
7:00AMブカレスト発、100m毎に自動小銃を持った兵士が立つ滑走路を離陸、1時間ほどでローマ着、バスで市内へ向かうと、灰色の社会主義国からカラフルな自由主義国、街角の八百屋に並ぶ黄色いバナナ、ピンクの桃、オレンジなど、6か月ぶりの光景に感激した。

メモしたテルミニ(終着駅)近くのホテルを訪れるとストライキ、若いベルボーイが100mほど離れた2つ星のホテルに案内してくれた。

チェックイン後、徒歩とタクシーでコロッセオ、フォロロマーノ、バチカン、スペイン階段、トレビの泉などを回りホテルに戻ると1:00AMになっていた。
印象的であったのはバチカン、荘厳なシスティーナ礼拝堂内部はガラガラ、撮影も可能であった。像の一つに、亡者(手に札を持った骸骨)が、腕を伸ばして免罪符を乞うユーモラスな像があった。

*7月初旬、夏のバカンスシーズンの始まり、ローマ、ジュネーブ、パリ市内は閑散としていた。市民は夏の陽差しを求めて2か月ほど南へ移動、代わりにNYなどからアメリカ人が涼を求めて欧州へ繰り出す構図、日本人の姿はパリで数人見かけただけであった。

写真

5.ティトゥス凱旋門

6.スーツ姿などで?

7.ファッション

8.コロッセオ内部

9.犬連れの女性

10.サンタンジェロ城

11.鶴瓶CMの階段

12.21:00日没

13.バチカン1

14.バチカン2

15.バチカン3

16.免罪符の賄賂?
7月2日
8:00AM起床、テルミニに向かい、切符窓口で「プリマクラッセ(1等車)ナポリ」を求めると、「発車間際だから車内で買うよう(イタリア語で、らしく聞こえ)」、改札を素通り、車内は6人掛けコンパートメント、若い米国人新婚カップルと米国人バックパッカー。バックパッカーは盛んに車窓の観光案内をしてくれる、「あれがローマの水道」など。

写真 

17.コンパートメント

18.山の上の集落
2時間半ほどでカンカン照りのナポリ駅(宇都宮駅のような感じ)に到着、サンタルチア海岸を目指して徒歩、かつてシネラマ「80日間世界一周」にあった、道路両側のアパート上階窓から道路を横切って張ったロープに洗濯物が万国旗状態、路面電車の後部に子供が飛び乗り降り遊ぶ姿、シネラマそのままであった。

折角のナポリ、道路に面したレストランのテラス席に着き、スパゲッティをオーダー、実のところナポリタンは日本独自、数あるメニューはイタリア語、ウェイターのご推薦に任せた。
初めて口にする本場のアルデンテ、麺の断面が2重構造になっているような、芯だけが歯ごたえ、見事なアルデンテであった。

30分ほど歩いて、ようやくナポリ湾が見え、さらにサンタルチア海岸を東に5㎞も歩いて卵城まで行くと、ヴェスヴィオ山が見えた。
海岸では数人の船頭が「カプリ、カプリ」とカプリ観光を勧めるが、時間が無いので断った。

写真

19.路面電車と子供

20.サンタルチア海岸

21.彼方に卵城

22.ヴェスヴィオ山
7月3日
国際的にハイジャック事件が多発し、前年、日本では「よど号」事件があり、空港のチェックが厳しくなり始めた時代。
12:00AMレオナルド・ダ・ヴィンチ空港からスイスエアーB727でジュネーブへ約1時間のフライト、無風快晴、バカンスシーズンにも係わらず搭乗率20%ガラガラ。
飛行機はフランス領からモンブラン上空をかすめてジュネーブ空港へ、途中、眼下にアルプスの山々、かつてシネラマで見たと同様(熱気球でモンブラン越え、若い喜劇役者ジェリールイスがモンブラン頂上の氷を削り取って水割りを作るシーンを思い出す)、モンブラン頂上付近の飛行で、シャモニーの大氷河メールドグラスが見えた。

写真

23.アルプスの山々1

24.アルプスの山々2

25.モンブラン上空

26.メールドグラス
<つづく>

令和2年12月8日