月と金星接近+富士山+山中湖+オリオン座など
川村 知一
 はじめに
カメラ雑誌を読んでいたら、2月27,28日、月(月齢4日)と金星が接近、とあった。
2月18日、河津桜見物の折に乙女峠から見たスッキリした富士山を思い出し、コラボをイメージして早速、仙石原のホテルを予約した。

2月27日12:00自宅を出発→外環三郷西→美女木→首都高5号線→西池袋→山手通り→初台→首都高→東名御殿場着15:30。

関東地方の天気予報は快晴であったが、富士山の南側は吹雪いて白雲に覆われ、乙女峠からの富士山は絶望的と判断した(寒気の南下と南からの温かい空気の衝突による)。
空を見ると富士山の東側は快晴なので、急遽138号で山中湖へ。
16:00山中湖に着くと、残念ながら富士山の5合目以上は雲に覆われていたが、周辺は快晴なので日没時刻17:35を待つことにした。

17:00ころ、雲の切れ目から富士山頂が顔を出し、日没から少し過ぎた17::30ころ、うっすら月齢4日の月が見え、17:55には金星が見え始め、山中湖+富士山+月+金星のコラボの撮影を開始した。幸い富士山は、ほぼ全景を見せ始めた。

撮影は、カメラ:ニコンD810、レンズはシグマ20mm1.4、気温は2℃→―2℃、指先が凍えながら18:30までコラボを撮影し、好天なので18:45までオリオン座付近(左下に“シリウス”、右上に“すばる”を入れて)を撮影した。

ホテルは会員制で、この騒ぎの中、来客は70%、部屋はツインに和室付き、温泉は単純泉だが珪酸が多くスベスベ、ただ夕食、朝食はビュッフェ形式なので、前回同様敬遠し、家を出てから帰宅まで4食、コンビニのおにぎりとサンドイッチで過ごした(素泊まり)。

乙女峠のリベンジで、日の出前の雪景色の富士山(紫→紅→オレンジ→黄→白)を見ようと3:00起床、4:00ホテルを抜け出し138号で乙女峠へ。残念ながら富士山はまたもや雲の中、天中には北斗七星が大きく見えたが、写真は撮らずに引き上げた。

ホテルに戻り、6:00からの朝風呂に浸り、自室で朝食、12:00チェックアウトまでくつろぎ、東名御殿場経由で帰路→環八→新目白通り→御茶ノ水→上野、浅草通りに入って右すぐ右折→コインパーク→行きつけの蕎麦屋「翁」にて“大ざる”。「翁」は古い店で、喉越しの良さでは都内で一番と思われ(日曜は休み)、腹を満たして帰宅したら17:30であった。

写真; (写真はクリックで拡大)

写真1.
ダイヤモンド富士?

写真2.
山中湖の白鳥

写真3.
富士山+月+金星1

写真4.
トリミング1

写真5.
富士山+月+金星2

写真6.
トリミング2

写真7.
富士山+月+金星3

写真8.オリオン座1

写真9.オリオン座2
 追記(など);冬の早朝の富士山の思い出
私の母方の祖父は明治15年生まれ、5歳で父を亡くした母子家庭、出来立ての京都大学機械科卒、昭和10年に富士山麓の須走村の外れに和洋折衷の別荘を建設、戦争中は青山から疎開して居住、まだ女学生であった叔母達も住んだ。
昭和20年の東京大空襲では、B29の編隊200から400機がサイパンなどから飛来したが、B29の編隊は道路標識のように一路富士山を目指し、方向転換して東京に向かった。
存命で90才代の2人の叔母達の話では「(B29の)あの音は嫌な音だった」話であるが、400機ものB29が頭上を飛んでいく音は、さぞかし不気味な音であったであろう。
私が須走を始めて訪れたのは、清滝幼稚園卒業間近の昭和23年3月、祖母に連れられてであった。ステンドグラス付きタイル張りの風呂場からは富士山が見え、早朝、雪化粧の富士山が紫→紅→オレンジ→黄→白に変化する素晴らしい姿が印象的で脳裏に残っている。

須走に滞在して数日後、39℃の高熱が出て、御殿場から医者を呼んだら“お多福かぜ”、清滝幼稚園の卒園写真には私の姿は無いが、多数の幼稚園生が写っていて、清滝最盛期のころ。

写真10.
昭和23年清滝幼稚園卒園式 子供達
昭和23年の富士山一帯は、宝永山の噴火の名残で、荒涼たる火山灰地帯であった。木々は少なく低く、現在の姿とは似ても似つかぬ世界であった。
御殿場から木炭バスに乗り須走に向かうと、火山灰道路で、現在の富士平原GCあたりには、道路の真ん中に10m四方くらいの大きな溶岩が露出、非力なバスは所々で火山灰にスタッグして立ち往生、乗客は降りてバスを押して進んだ。

江戸時代、須走村は東海道と甲州街道を結ぶ街道の駕籠坂峠手前の小さな宿場、名残で“ちょうちん屋”などがある。
須走には母方の祖母のルーツの墓があり、私のルーツの1/8は富士山を間近で毎日見て暮らしていたことになる。私の富士山へのこだわりは、帰巣本能に由来するものかも知れない。
令和2年3月3日