尺八に魅せられて半世紀 |
「目次」 |
▲初めに P、2 ジャンプ ▲私の略歴と私が師事した尺八師範お二人のご紹介を少し P、2 ジャンプ ▲まず手始めにこんな雑学をいくつかご紹介しよう P、4 ジャンプ ▲尺八とはどんな楽器か P,5 ジャンプ (1)名称と歴史 (2)構造 P,5 ▲尺八の伝承と継承に係る普化宗と虚無僧 P,6 ジャンプ (1)普化宗とは何か P,6 (2)虚無僧とは何か P,7 ▲尺八楽の確立 P,8 ジャンプ (1)本曲の制定 (2)尺八の大衆化 P,8 ▲尺八の吹奏 P,9 ジャンプ ▲三味線と箏について幾つか P,11 ジャンプ (1)三味線の伝承と改造 P,11 (2)唱歌とは何か P,11 (3)当道とは何か P,12 ▲尺八と箏、三味線との係りあい P,13 ジャンプ ▲生田流、山田流 P,14 ジャンプ ▲六段の調とキリスト教「聖歌」とのつながり P,14 ジャンプ ▲地歌について P,15 ジャンプ (1)歌ものと語りもの P,15 (2)邦楽の発声法 (3)美しい地歌の詞 P,16 ▲邦楽が世界に認められた日 P,17 ジャンプ ▲摩訶不思議な笛と海外に進出した日本生まれの楽器 P,17 ジャンプ ▲おわりに P,18 ジャンプ |
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尺八に魅せられて半世紀 |
平成28年4月 |
中央公民館「尺八サークル」会員 水谷 照 |
『初めに』 昭和34年秋に尺八を習い初めて、今年であらかた約60年になる。しかるに未だ初心者の壁を抜け出せないでいる。然しそうは言いながらもこの半世紀、尺八から喜びや楽しさを数多くもらってきたな との思いもある。 更に思い起こすと私には60年もの間、稽古嫌いの私に尺八に興味を与え、吹き続けさせてくれた数々の逸話や伝説の記憶がある。何れも師や尺友たちが折に触れて語ってくれたものである。 これら伝説や逸話は私に尺八を続ける動機付けそのものになって来たと思う。今回これらを思い起こしながらまとめ、尺八半世紀の来し方を振り返ってみた。 纏めの作業をしたお蔭で満80歳になっても未だ知らない未知の古典や本曲、更には新しい吹奏技法等に一つでも二つでも挑んでもう少し上手くなりたいとの欲が湧いてきたが何にもましてこれが嬉しい。 『私の略歴と私が師事した尺八師範お二人のご紹介を少し』 私は昭和24年に中学に入学した。その頃の日本では、尺八の置いてある家は流石に少なくなっていたが大抵の家庭には箏の一面や三味線の一棹(挺)位はあったものだ。そして時にはどこかの家から謡曲を楽しんでいる声が聞こえてきたり、又レコード屋では「邦楽」のコーナーに箏や三味線や浪曲などのレコードが並べられていたものだ。 然るに今はどうだろう!家庭から邦楽はほぼ完全に駆逐されてしまっている。教養の為に娘に箏を習わす家庭などはもう殆ど見られなくなってしまった。 レコード屋では「邦楽」のコーナーには日本人が歌っているポップスや歌謡曲のCDなどが並んでいて箏、三味線、尺八は「純邦楽」として別コーナーに追いやられているか或いは扱われていないかである。 私の父は観世流謡曲を趣味として楽しんでいた。一方私は若い時から柔道に精を出し大学時代は柔道部の主将も務め、4年生の時に4段に昇段した。また柔道と並行して東北弘前の柔術古流「本覚克己流」(ほんがくこっきりゅう)にも深い関心を持ち、日夜、武道追求に没頭していた。 私は昭和34年3月に大学を卒業して古河電工に就職し日光工場に勤務した。そしてその年の秋に工場の琴古(きんこ)流尺八同好会に入会した。 毎年2月の紀元節に日光二荒山(ふたらさん)神社正殿で寒空の中、紀元節の歌を吹奏したのは懐かしい思い出の一つである。 当同好会の師は尺八琴古流江雲会(こううんかい)二代目宗家「井上江雲」(いのうえこううん)師であった。 |
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師は東京の豊島園に住んでおられたがそこから毎月1回、日光迄稽古にお出で頂いていた。師は尺八の人間国宝「山口五郎」師とは若い時から「ゴロチャン!シゲチャン」と呼び合って切磋琢磨しあった仲であったとお聞きしたことがある。 正直なところ「なかなか鳴ってくれない、音出しが難しい」尺八の稽古よりもその師が稽古の合間に語ってくださる邦楽の世界が真に魅力的で楽しく、月1度の稽古日をいつも心待ちにしていた。 数年後、私は日光工場から東京に転勤してからは豊島園にお伺いしてご教授して頂いた。然し営業マンの私には週1回の稽古は無論のこと自宅での復習稽古もままならない忙しさで、稽古は中断も同然の状態にしばしばなってしまった。やがて地方へ転勤。その後は転々と地方勤務が続き結果として東京を長く離れることになった。 しかし地方勤務中に東京出張の際には井上先生にお眼に掛かる機会も作り、時には臨時の稽古で貴重な時間の思い出を重ねることもあった。 長い年月を経て再び東京に戻ってきたのは20年ののちであった。楽しみにしていた教授再開は残念ながら先生が老衰で入院されており念願は実現されなかった。そしてそのまま時が過ぎ先生は平成21年(2009)に故人となられた。(享年87歳) 尺八曲は楽譜にすべてを書き表すことが難しくそのため師からの直伝が必要である。独学では新しい曲も覚えられないし尺八吹奏の技法も全く学べない。 爾来、私は約10年以上の間、師を求め探し続けた。 丁度そのころ私の住居地である千葉県船橋市中央公民館に「尺八サークル」があるのを知り平成22年春に入会させて頂いた。以来同サークルの教授『斉藤政道(さいとうせいどう)琴古流竹心(ちくしん)会師範』および『琴古流竹籟(ちくらい)会大師範』に御教授を頂いてこんにちに至っている。 斉藤師範は尺八だけに留まらず詩吟(複数の全国大会で優勝されている)、箏、三味線などでも師範を取得され、更に空手、ボーリング(パーフェクトも数回達成されている)等のスポーツにも卓越した技能を有される多彩な方である。 私は前の井上師からは主として古典の「外曲」中心に教授していただき「本曲」はまだ初心者であったので教えていただく機会は限られていた。 改めて斉藤先生から「本曲」のご指導をいただくことになったが、先生の技術の粋を集めた本物の「鳴り」に初めて接したときは、心底より感動し、からだが震えた。真に得難い師に巡り逢うことができた。幸運に感謝したい。 |
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本稿は決して「邦楽とは?」を解説するつもりでは全くない。素人が口を挟む領域とは思ってもいない。私の稽古嫌いを背後から押してくれた師や友人たちの邦楽の話を私の少しばかりの勉強も添えてまとめ、起稿したものである。 私にとっての尺八吹奏の魅力は「古典」と「本曲」に尽きる。これが私の尺八の楽しみ方であり関心の対象である。民謡、小学唱歌、洋楽、流行歌、ラジオ歌謡などは親しみ易くまた幼少より馴染みもあって、興に応じて吹くのは真に楽しい。しかしこれらを勉強することは、あくまでも古典の吹奏技術向上の為の一つの過程であり私の目指す対象ではない。 『先ず手始めにこんな雑学を幾つかご紹介しよう!』 ●1977年米国が打ち上げた惑星探査機ボイジャーⅡ号には、日本の音として尺八奏者の人間国宝「山口五郎」(故人)師演奏の琴古流本曲『巣鶴鈴慕』(そうかくれいぼ)が地球の音の一つとして搭載され現在も飛び続けている。 「仮名手本忠臣蔵」八段目山科閑居の場で虚無僧が吹奏しているのはこの曲。 尚Ⅱ号機にはその他カーター大統領挨拶、鳥の鳴き声、ベートーベンの曲等も搭載されている ●邦楽は奇数が縁になっているものが多い。 邦楽の音階は5音階、尺八の指孔は5つで竹の節は七つ、能管の指孔も七つ、箏の弦は13本と17本、三味線の糸は3本、琵琶の弦は5本、雅楽の笙は17組の竹の組み合わせ、和歌は五七五七七、応援団は三三七拍子。 ●一方洋楽の方はどうだろうか。逆に偶数が多い。 バイオリンは弦4本、チェロも4本、ギター6本、ピアノ88鍵、音階は7つの音で構成され8番目の音を含めて8音で1オクターブを構成。 ●洋楽はどの楽器でも譜面は5線譜であるが、邦楽は楽器別に固有の表現を可能にする楽譜を使用している。然し最近では邦楽にも「5線譜」の譜が出てきている。「声明」(しょうみょう)も本願寺派では5線譜でも練習しているようだ。「声明」を集団で唱える時は「鈴を振る導師の声」で音合わせをする。尚歌謡曲の「こぶしまわし」の原点は声明と言われている。 ● 交響曲におけるクラシック音楽の最終章は多くの場合、全ての楽器を参加させて且つ最大音響を奏でて勇壮のうちに終わるのが多い。 しかるに邦楽では多くの場合、曲の最後は静かに終わる。 ●日本の雅楽は世界最古の交響楽としての歴史はヨーロッパよりもはるかに古く7~8世紀の頃には交響楽の音楽として完成している。その音楽理論、衣装、楽器、楽譜などはその後も大きく変わることなく現代に伝わっている。 ついでに雅楽演奏者は世襲制。多(おおの)氏、安倍(あべ)氏、東儀(とうぎ)氏等は奈良時代からの楽家の子孫。 |
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●音楽とは関係ないがついでに言えば、日本の武道やスポーツは構え方を見れば国産か外国生まれかがすぐに分かる。 右ききであれば、右手と右足を前に出し左手と左足を引いて構える武術には純国産が多い。柔道、相撲、剣道、合気道などがそれである。 右利きで、左手と左足を前に出し右手右足を後ろに引く空手、ボクシング、レスリングなどは外国産。 『尺八とはどんな楽器か』 (1)名称と歴史 ・ 尺八の語源は、唐の貞観年間(627~649)の書「唐書」列伝の「呂才伝(ろさいでん)」の記事によると言われている。 呂才という音楽家が、それまでに存在した竹製のタテ笛を当時の音階に合わせて整えて長短12種の短縦笛を作り、その中で基準となる中国の標準音である黄鐘(こうしょう―日本の壱越‐いちこつ 、D)と呼ばれる筒音階を持つ笛の長さが1尺8寸であった所から尺八と言われるようになったという説が有力である。尚、中国の1尺8寸は約46.6cmであるが今の日本の尺八は曲尺(かねじゃく)で1尺8寸は約54.5cmである 尚現在の中国には尺八という楽器も名称も残っていないし存在もしていない。 ・奈良朝の頃に六孔尺八が中国より伝来し古代尺八として正倉院に遺存されている。平安時代には雅楽の伴奏楽器として活躍したが、何故か次第に雅楽の伴奏楽器から除外されていった。(音階と音量の不足が主な理由か?) ・源氏物語に「さくはちのふえ」と言う言葉が出てくる。当時、詩歌管弦は単なる遊びではなく教養そのものであって尺八も普及していて結構楽しまれていたようだ。 ・次いで中国より伝来したのが、東京芸大邦楽科の入学試験でしばしば振り仮名をつけよと出題された「一節切」(ヒトヨギリ)と言われる尺八。この「一節切」の名前の由来は竹の節が一つであること。普化(フケ)尺八より短くて細い。その為半音を含む音階が不足しており幕末には姿を消した。 ・現在の尺八はその昔、かの一休和尚(臨済宗)が吹いていたと同じ姿、形が変わらずに今に伝わっている。即ち5孔尺八がそれである。 (2)構造 ・尺八に息を吹き入れる所を歌口(うたぐち)というが、尺八は歌口から吹き込まれて生ずる管内部の空気の振動で音を出す竹製のノンリードの縦笛。歌口には鹿か水牛の角を使う。 |
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・歌口と唇との距離が世界で最も近い楽器は尺八である。 ・竹の種類は真竹(まだけ)。七つの節のある竹の根本を切り取る。約3年乾燥させる。その後竹に熱を加えて形を整形する。 ・尺八は歌口の内径がもっとも太く、先(下の方)に行くに従って内径は細くなる。指孔は表側に四つ、裏側に一つ。 ・管内面の製作は砥の粉と漆を混ぜたものを内面に塗布して行き、仕上げには漆を塗る。音程と音質の具合は、畢竟この内面の工程が鍵を握る。 ・ 尺八の長さは古典の世界では2尺7寸~1尺6寸までの範囲が中心である が、詩吟、民謡ではもう少し短い尺八も使われている。 ・尺八と尺六は長さ2寸の差である。これで音の高さの調律は半音二つ分となっている。即ち長さ1寸ごとに半音上下する(尺貫法が存在していなかったら尺八は多分出来なかったであろう?) ・ さらに現在では7孔尺八9孔尺八も普及している。尺八では最も尺八らし い「音」は「メリ音」とされているがこれが5孔尺八では大変難しい。7孔尺八はこの「メリ」が出しやすく且つきれいに出るようである。 『尺八の伝承と継承に係わる普化宗と虚無僧』 (1)普化宗 ●臨済宗の一派である普化宗では、読経や座禅の修行は無く、替わりに尺八を吹くことを仏道修行の道としている。座禅に対して吹禅と称して尺八を吹きながら修行し托鉢をおこなっていた。従って普化宗では尺八は楽器でなく神聖な法器であった。その為虚無僧以外は尺八を吹くのを(表向き)禁止されていた。この為一般社会に普及されていれば多分なされたであろう楽器や楽譜の表示法などの改良改善は全くなされてこなかった。法器を改良して吹き易くすることは吹禅への侮辱であり到底受け入れてもらえなかったであろう。然し逆にそれ故に宗教音楽で面白みの少ない尺八曲も「行」(ぎょう)の音楽としてシッカリと保存され名曲の継承がなされてきたのであろう。 ●三味線や箏や笛太鼓などは早くから歌舞伎にも取り入れられ重要な役割を与えられたので曲や楽器そのものの改良改革も進んだ。しかし虚無僧以外は尺八の吹奏を許されていない為、尺八は江戸時代では歌舞伎とも無縁の存在であった。尺八が庶民に迎えられたのは明治4年(1871)に普化宗が廃止になってからの事である。その後は舞台でも虚無僧が出る時は尺八も吹奏され、又お囃子のなかに時には伴奏楽器の一員として入るようにもなった。 ●虚無僧以外の一般人の尺八吹奏及び三味線や箏との合奏が禁じられたのは元禄七年(1694)で、京都の明暗寺から禁止条例が出された。 こうした禁止条例がわざわざ出されたのは、当時民間では実は尺八と箏三味線との交流が既に結構日常行われていたからであろうと推測できよう。 |
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●普化宗は檀家なく、墓所なしの特殊な宗教。 徳川幕府は一向一揆等の宗教一揆を防ぐ目的で宗教に向けて色々な法度(はっと)を制定した。中でも家康によって新しく制定された檀家制度は全ての日本人がいずれかの寺院の檀家にならなければならないと言うもので、実質的な住民登録制度の導入であった。これは神との契約が主従のちぎりに優先する教えを持つキリシタンの布教防止にも役立ち、キリシタン弾圧の道具にも使われた。 そんな重要施策が普化宗だけはなぜか適用除外となっていた。 ●普化宗は明治4年に廃止となったが同時に尺八まで禁止され廃嫡されそうになった。琴古流を中心とした関係者の尽力で、今後は法器ではなく単なる1楽器として扱う旨の申し出が認められ救われた。 (2)虚無僧とはなにか ●普化宗の僧である虚無僧は江戸幕府から種々の庇護と特権を与えられ、一種の治外法権的存在にあった。 『国内の托鉢行脚はいかなるところであってもその往来は自由、関所はフリーパス、川の渡し料は無料、天蓋を取って顔を見せなくてよい、他人の門前に長く留まって尺八を吹いても咎められない。虚無僧以外は尺八を吹くことは許されない、敵討ちは自由に許される等々』 当時の川柳にあり ♪ 虚無僧に出る前 曽我の宮へ行き ♪ 又虚無僧の伝道印(一種の通行手形)には「十二街道吹尺八東西南北自由身」とあり日本中を自由に往来できた。 ●虚無僧は武士出身者に限定され且つ武士の保証人が無ければ虚無僧になれない。そして半俗半僧の者が多かった。 「大阪夏の陣」の前後は徳川に反旗を翻したかどと後継藩主の申請手つずき不備による大名のお取り潰しなどが盛んに進められ、町には浪人が溢れていた。普化宗擁護は、これら浪人の救済策とする説が大変有力であるが或いは幕府の隠密とか色々と推測もされている。 ●映画では虚無僧にしばしば隠密役を演じさせている。 尺八本曲「雲井獅子」(くもいじし)は午後にしか吹かない習慣になっている。それを午前中に吹けば何かの異常を知らせる合図では?といかにも秘密の通信めいた話を作り上げ、その辺から幕府隠密説が生まれたのであろうが実態は不明である。 ●尺八は江戸時代当初は割合に細い竹を使っていたが虚無僧が武器としても使うようにもなり次第に太くなっていった。此れが町奴にも波及し、武器の携帯を認められない町奴は好んで尺八を帯びるようになった。浮世絵絵師「歌川国芳」はしばしば腰に太く誇張された尺八を帯びている伊達男の浮世絵を画いている。 |
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『尺八楽の確立』 (1)本曲の制定 ●江戸中期に虚無僧に尺八を指導していた元黒田藩武士「黒澤幸八」は若くして虚無僧になり諸国を行脚。各地の虚無僧寺(全国に70寺)に伝えられる曲を習得しこれを36曲に整理して『尺八本曲』(ほんきょく)として制定した。こうした努力を積み重ねて、修行の為の尺八から『尺八楽』のレベル(曲の質の向上、曲の譜面化等))に迄高めていき、自身の名も「黒澤琴古」(くろさわきんこ、1710~1771)と改めた。その後、実子の二代目が琴古流を名乗るようになった。 ●「本曲」は全て詞のつかない器楽曲である。但し曲名は「三谷清攬」(さんやせいらん))、「一二三鉢返調」(ひふみはちがいしのしらべ)と言ったような、庶民には意味の良くわからない曲名がついている。 尚曲に詞がつかないのは洋楽クラシックでは普通であり尺八だけの特徴ではない。 (2)尺八の大衆化 ●黒澤琴古は普化宗の内々の了解の下に尺八の教授所を設けて一般の人に教えていた。しかし教えている「本曲」は箏や三味線の耳触りが良く且つ美しい詩が付いている曲とは全く違っており、曲名だけ麗々しくとも宗教的雰囲気の旋律が多く且つ他楽器との合奏が禁じられているので普及は遅々としていたようだ。 ●「外曲」(がいきょく)の誕生と三曲合奏の始まり 尺八は虚無僧以外は吹奏を公には許されていなかったが、江戸時代後半には尺八と箏や三味線との個々の合奏は密かに行われており交流は始まっていたようだ。尺八界では本曲以外の曲をすべて外曲と称しているが、明治4年の普化宗廃止後、尺八界が箏や三味線の曲である「外曲」を大いに取り入れてから急速に尺八の大衆化が始まった。そしてそれまで行われていた箏、三味線、胡弓による三曲合奏から次第に尺八が胡弓に取って代わるようになっていった。 箏、三味線、尺八による三曲合奏の始まりである。 |
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●明治29年に「中尾都山(なかおとざん)」が都山流をおこし、尺八ばかりでなく邦楽全般の改革をも進め、邦楽地位の確立と発展に多大な貢献をした。 ●尺八は特に民謡との相性が良く民謡の世界に広く深く浸透していった。 ●現在では、外国人の男性や女性の尺八演奏家も多く誕生している。日本に定住して各地で演奏会を開催し,またCDなども出し活発に活動している。 ●日本の尺八奏者も日本だけでなく世界に羽ばたいて活躍している。彼等は洒落た服装で気軽に内外の洋楽家とアンサンブルを組んだりして共演を楽しんでいる。 今、三味線も世界に羽ばたきだしたが尺八の方がその時が少し早かったかもしれない。 ●尺八「本曲」が人に聞かせる「鑑賞」の音楽ではなく「行」の音楽と考えられる傾向はもう日本では殆ど無くなっているが海外ではむしろ逆で、そのような演奏の仕方を希望されることが今でもしばしばあるようだ。 風聞すれば「本曲」の演奏に際しては欧米では着物、袴を着用し、瞑想している顔付きで演奏するのを依頼されたりするようだ。 又欧米では次のような格言みたいな日本での「言い伝え」なども良く知られているようだ。 「尺八は心で吹くな、手で吹くな、寒夜に霜の降るごとく吹け」 「1音成仏」(1音1息で成仏できるほどに全身全霊自己の全てを込めて吹く)。 『尺八の吹奏』 ●音の出し方と指使い ・尺八の代表的な流儀には琴古流と都山流がある。 琴古流は例えば指の運用法が定まっており仮に違う指使いで同じ音階を出せても許されない。 都山流は洋楽との交流を盛んに行い又指導法や演奏会等に色々と工夫を凝らすなどして邦楽の普及に大変貢献してきたようだ。 ・尺八では入門して先ず教わるのは音階の出し方とその指使いである。 更にあるレベルに達するまでは師匠の前に楽譜を置いて正座し、先ずはカタカナで書かれてある譜を大声で読み乍ら右手で右腿を左手で左腿を叩き、調子とメロディーを習得する。この段階を通らなければ人前で吹くレベルにはまず到達できないのではないか。拍子、間が取れないからである。 尺八の稽古はどんなに多くの弟子が待っていても一人一人の個人教授で進められる。しかし民間のサークルや学校の同好会などでは集団での稽古が工夫されており家元での稽古とは少しやり方が異なってきているようだ。 |
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・尺八の楽譜はそれなりに多くの表現が盛り込まれているが曲の機微は表現しきれていない。どうしても師匠に直接指導してもらわなければ本曲も外曲も習得することは難しい。尺八が独学での習得には限界があるといわれる所以である。 ●邦楽の音階(音階と言う言葉は明治期の翻訳語) ・邦楽の音階は5音階で「宮(キュウ)、商(ショウ)、角(カク)、徴(チ)羽(ウ)」と称す。洋楽のドレミ・・・・・・という音階名に相当する。 尚この5音階とその音階名は尺八だけのものでは無く邦楽全体の共通のものである。 ・12平均律では半音上がっても下がっても同じ音階だが、5音階の邦楽ではそうではない。尺八では半音を均等化した平均律でないので、指孔を半開にしたりアゴを挙げたり下げたりして半音階の機微を表現する。半音が広くなったり狭くなったりと微妙に変化し独特の味わいになって聞こえてくる。 ・ドップラーの「ハンガリア田園幻想曲」には5音階に似た表現もでてくるせいか日本ではよく聴かれるようである。 ひと昔前(否20~30年前?)、世界的バイオリストの諏訪根自子氏は洋楽にこの感覚を取り入れてカーネギーホ-ルで喝采を浴びたと言われている。 ●尺八の音符は、文字(カタカナ)、数字、記号によって奏法譜を表し、 音のイメージを大切にした指使いが出来るよう書かれている。 交響曲の演奏は始まる前にオーボエが「ラ」の音を出して音合わせをする。尺八の音階ではこの「ラ」音は「チ」である。 尚吹奏を始める前に「チ」音は、尺八を正規の持ち方のままで且つ音も出しやすいので「乙と甲」音で少し慣らすとスムースに吹奏に入れる。 ●吹奏のテクニック(奏法)の色々 ・「首振り3年コロ8年」との言い伝えがある。「桃栗3年柿8年」をもじったものだが、最低限の吹奏技術が身に付く年限をよく言い表している。 ・具体的な吹奏技術にはおよそ次のようなものがある。 メリ、カリ、コロコロ、カラカラ、玉音(たまね)、むら息、ユリ、横ユリ、タテユリ、息ユリ、回しユリ等 そのほか押し送り、ナヤシ、スリ、などがある。 しかしこれら技法は書かれている説明書を読んだだけでは習得は不可能である。 ・これら尺八の用語は柔道の「一本」と同じように今では世界中に日本語で通用している。 |
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☆「与太話」をひとつ 虚無僧になりたての人たちもこのような技法を教わり、日夜只ひたすら「吹禅」に励んでいたと思うが、残念なことに尺八の音が出るまでには少々時間が掛かる。 このような僧が音を出そうとして一生懸命、顔を真っ赤にして首を振っている様は清々しくもあろうが滑稽でもあったであろう! 然しその彼等が武士という特権を捨てて仏の道を歩み吹禅に励んだ結果、素晴らしい数々の「本曲」を作曲し伝えてくれた事を忘れてはならない。 ●音色(ねいろ) 邦楽では音の質の良さを「音色」と言う表現で表すことがある。近代邦楽界の楽聖宮城道雄師は「音には白い音、黒い音、赤い音、黄色い音などいろいろな音がある」と言われていた。 尺八の音色については古くから「紫の色」と表されることが多かったようだ。紫は高貴な色といわれている。名人の吹く尺八の音色は宗教色の雰囲気をかもしだし、それゆえに最高級の賛辞を得たのであろう。 『三味線と箏に就いて幾つか』 尺八は三味線や箏との合奏の機会が多い。そこで少しこれらに触れてみたい。 (1)三味線の伝来と改造 ●三味線は織田信長が全国制覇を目指していた永禄年間(1558~70)に琉球より伝来の三線(サンシン)が原点である。日本に入ってから色々と改良されて三味線になっていった。 義爪(ぎそう、ピックの事)をバチ(初期は琵琶バチを使用)に代えた。皮は琉球と違って大きな蛇が居ないので猫や犬に代えた。 胴体はそれまでは木をくり貫いて作っていた。そして胴体を膝の上で安定させる為に木の4枚張りに変え更に大型化した。 ●色々な改良点の中で最も優れた改造は「サワリ」(1の弦を上駒から外す)の導入ではなかろうか。琵琶にヒントを得て改造したものだが世界に例の無い発想である。 ●邦楽界は昨今の動物利用の制約で材料として必要な、象牙、犬、ネコ、蚕繭、蛇などが入荷困難で楽器製作で苦労している。 カーボン等の新素材への切り替えを積極的に試みている。 (2)「唱歌(ショウガ)」とは何? ●琵琶や筝曲(そうきょく)、地歌(じうた)等は主に盲人によって作曲、 演奏がなされ伝承されてきた。当然の事ながら盲人は譜面が読めない。唱歌」と言われるものがあって始めて盲人による技術の伝承が可能となった。 |
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●コケッコウーと書けば誰でもニワトリの鳴き声を連想する。ただしこれを五線譜で表すのは大変に難しく、むしろカタカナで書いてしまった方がニュアンス迄も的確に伝えることが出来そうである。 ●このような聞こえる音をそのまま書き表した言葉を「擬態語とか擬声語」というが日本の多くの伝統楽器はこの聞こえるままの音を言葉にして「唱歌」(しょうが)と呼び今に伝えている。 ●三味線では奏法が網羅されている非常に合理的な「口三味線」(即ち唱歌)を覚えることでニュアンスを同時に伝えている。従って譜面には口三味線とポジションが歌詞の横に書かれているようだ。 ●箏の譜面は、奏法が網羅されている唱歌(ショウガ)と音とリズムを書き記している。 ●盲人ばかりでなく一般人にとっても理解と習得を早める為「唱歌」(しょうが)は欠かせない技法として役に立っている。 ●唱歌の例 三味線 チン・トン・シャン 能管 オヒャイヒューイ・ヒョウイウリー 六段の調 テントンシャン シャシャコロリンツウ トンコロリンシャン 尚チャンバラの語源であるが明治大正の無声映画時代、剣戟の見せ場では三味線が長唄「筑摩川」の「千鳥の合方」をBGMとして演奏していた。 これを「口三味線」で言うと ♪チンチリ トチチリ チチチ チリトチ チンリン となるようだ。一般の人には「チャンチャンバラバラ」と聞こえ、ついには「チャンバラ」になったと言われている。 (3)当道(トウドウ)とは何? ・室町幕府は平家琵琶を語る盲目の法師達が生活を守る為に職業組織を作ったのを認め、これを「当道」と称して保護した。武道や芸では自分の流儀を「当流」と言うことがあるが両者は似たような言い方である。 ・平家琵琶を語る盲人達は自分たちのことを当道と言って普通の盲人の職業集団であることを表し、宗教組織に属する盲僧と区別した。 ・江戸幕府はこれを更に厚く保護し、目あきには「灸、鍼、平曲(へいきょく)や地歌、筝曲等」を職業とするお許さず盲人の占有とした。そして階級を制定してこれを厚く遇した。階級は下記の通り。左側が高位。(組織は明治に廃止) 検校(けんぎょう)、別当(べっとう)、勾当(こうとう)、座頭(ざとう) (参考)勝 新太郎の座頭市が有名 |
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『尺八と箏、三味線との係わり合い』 ●尺八における外曲の重み 尺八は腕が進むと、初伝、中伝、奥伝と進む。各段階で克服する曲は決まっている、不思議なことにその曲には尺八固有の「本曲」ではなく「外曲」の箏、三味線の曲が選ばれている。 「私が入門した「江雲会」の曲数は次の通り」(なお民謡は教科に含まれていない) 生田流 山田流 琴古流 錦風流 初伝 39 9 中伝 34 10 本曲 30 10 奥伝 31 6 ●「本曲」は器楽曲であり歌詞がない。箏曲にも八橋検校(やつはしけんぎょう1614~1685)が作曲した「六段の調」(ろくだんのしらべ)「乱倫舌」(ミダレリンゼツ―通称ミダレ)など歌詞の無い純器楽曲もあるが、殆どの外曲には美しく情感豊かな歌詞が付いている。 ●「うた」の漢字は江戸系のうたは「唄」、上方系では「歌」を用いることが多い。 長唄、端唄、唄浄瑠璃、地歌、歌浄瑠璃などでありこれらの発展によって日本の伝統音楽では80%以上が声楽曲であり器楽曲は極く僅かとなっている。 ●関西の歌即ち、地歌(ジウタ)には子供に説明しにくい男女の機微に触れるものが多い。三味線地歌の情感溢れる代表的曲「黒髪」の歌詞を見てみよう。 ♪♯♭ 黒髪の むすぼれたる想いおば とけて寝た夜の枕こそ 一人ぬる夜のアダ枕~~ この詩を味わいながらの吹奏は、「本曲」での尺八の練習では味わえない楽しみがあるといえよう。1曲が上がれば又次の曲と自然に手が進むというものであろう。 ●尺八と箏、三味線との合奏の前には音合わせが欠かせない。 箏や三味線の調律は自由に出来るが尺八は長さごとに固有の音程しか出ないので、どの長さの尺八を使うかで弦楽器のほうで調律が必要になる。いわゆる音合わせである。音合わせをしないまま3種類の楽器で3曲合奏をしたらバラバラになり音楽にならない。そこで演奏前には必ず尺八の楽譜に書かれて指定されている箏と三味線の音合わせを実施する。 |
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●「生田流、山田流」(いくたりゅう、やまだりゅう) ・検校で最も有名な一人が前述の「八橋検校」(1614~1685)。 箏と三味線の名人で双方の器楽の交流をはかり普及に貢献した。三味線音楽である地歌から半音を含んだ陰音階(ミファラシド)を箏の調弦に取り入れ箏の基本的調弦である「平調子」を考案した。それ以降は琴柱(コトジ)の固定をやめ動かすようになったようだ。 (注)「平」とは普通の一般的な音の意と言われている。調子とは音の高低 や調弦法の言葉 『生田流、山田流について』 ・八橋検校が作曲した「六段の調」は当時では珍しい歌詞のない器楽曲であって尺八との相性は抜群である。比較的平易だが奥が深く、箏では「六段に始まって六段に終わる」といわれている名曲である。尚、彼の死後に建てられた顕彰碑は箏柱(コトジ)の形で作られているが、京菓子「八橋」はその顕彰碑の形を写して作られたといわれている。 その後彼の弟子「生田検校」が八橋検校の教えを広め「生田流」を創始した。 ・それから時代が100年くらい下がって、江戸へ進出した山田検校が江戸の浄瑠璃の特徴を取り入れて新様式を作り上げ、江戸で「山田流」を創始。 ・浄瑠璃の語源 浄瑠璃とは平曲、謡曲などを源流にした語り物の一つである。室町末期に琵琶を用いて語られた「浄瑠璃姫物語」の題名がその語源。のちに三味線と操り人形とが結合して庶民的演劇として発展。 その昔、名古屋近くの矢矧(ヤハギ)の長者の娘「浄瑠璃姫」と「源義経」がごく若いころに恋仲になる。やがて二人が別れるときが来て姫は悲しさのあまり乙川に身を投げるという物語である 『「六段の調」とキリスト教「聖歌」とのつながり』 「六段の調」は1600年代中頃に八橋検校が作曲されたといわれているが(作曲者名はほかにも数人あげられている)これがテレビ朝日の人気番組『題名のない音楽会』で次のように取り上げられた。以下はその概要である。 |
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「六段の調」はグレゴリオ聖歌「クレド」に似ており八橋検校は彼の作曲にその影響を強く受けたようだ。聖歌クレドはラテン語の歌詞がついているが検校が生まれた1614年の前年に江戸幕府はキリスト教を禁止していたので彼が聖歌と接触することはなかったはずである。 テレビ番組でこの聖歌と「六段」が合奏されたが実に似ており検校が何らかの影響を受けていたことが推測された。 「六段」は「主題と五つの変奏曲」で構成されており当時のスパイン風でいえば「六つのディフェレンシア―即ち六段」であり曲名につながる。 八橋検校が「六段」を声楽曲として作曲する可能性もあったがキリスト教禁止法に触れるのを恐れ、曲を生き残らせるためこれを歌詞のない器楽曲として作曲したのではなかろうかとの推測もある。 ●今まで「こと」の事を「箏」と書いてきたが同じ発音でもう一つ「琴」がある。これはそれぞれ「ソウのこと」「キンのこと」と呼ばれ別種のものである。 張った弦に「柱(ジ)」というフレットを立てる楽器が「箏」、柱を立てない楽器が「琴」。(一弦琴、大正琴) 『地歌について』 外曲のほとんどは地歌が主である。したがって地歌に少し触れたい。 (1)歌ものと語りもの ●三味線はそもそも琵琶法師が浄瑠璃の語り物の伴奏に最初に使ったようである。どんな歌の伴奏にも使えるので爆発的にブームを起こし色々と発展していった。 三味線の種類と用途 太棹 義太夫節、津軽三味線など 中棹 地歌、一中節、常磐津節、清元節、新内節など 細棹 長唄、河東節など ●三曲合奏での尺八の役割は伴奏であるがまれには主役の時もある。私には「六段の調」は尺八が主役ではないかと勝手に思っている。理由は吹いてみるとわかるがメロディーは尺八がリードしているように感じられる。 尺八の六段の調の「尺八の手」は誰が作られたかは知らないが真に名曲に作られている。 ●尺八との合奏で使われる三味線の「外曲」には地歌が多い。地歌とは地元の歌を意味しており上方で発展した。歌としては概して短く、且つ母音を長く引き延ばして歌う部分の多い旋律になっていて、歌詞よりもその旋律の美しさに重きを置いている。 |
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●長唄という名称は地歌の長歌に由来し江戸で歌舞伎の舞踊音楽として発展した。 ●ついでに言えば関西は曲節に重点を置く「歌もの」が盛んである。関東は詞節に重点を置く「語りもの」が主で、物語の展開や状況説明に重点が置かれている。 ●地歌は三味線曲である。元禄年間(1688~1703)の頃から三味線と箏は交流をし始め、三味線と合奏する為に「箏の手」が作られていった。 (2)邦楽の発声法 洋楽では誰もが共通して美しく滑らかに歌えるように「ベルカント唱法」なるものが開発工夫されている。楽器とのハーモニーを重視する歌い方のようである。 然るに邦楽は、概して地声を用い、ビブラートのある「ふるえ声」は嫌われる。 明るい開放的な発音は少なく、深みを持たせた発声を重んじ且つ高音域ではあまり裏声に逃げずに咽喉や鼻腔の共鳴を利用して滑らかに高音へ移行するよう工夫している。 座って演奏する為高音域の美しさは好むものの、どちらかと言えば美声よりも渋く味わいのある声を表現する為の発声法である。 (3)美しい地歌の詞 地歌の歌詞には源氏物語や芝居などの綾なす場景を巧みに詞に写し豊かに情感を表しているものが多い。それはどんな物語が多いのだろう? 例として次の二つの地歌に付いて、スジの概略を紹介しよう。 ★「夕顔」(源氏物語 巻四―夕顔) 源氏が17歳の頃、夕顔の花が綺麗に咲いた侘しい家の女性に心を引かれ、ある日源氏の別荘につれ出した。夜中になって物怪(もののけ)が現われ女性は気を失い死んでしまった。この情景が地歌となり芝居にも演じられ三味線と手が合うように箏曲が作曲された。 ★「黒髪」(くろかみ) この歌は天明4年(1784年),中村座公演の芝居「大商蛭小島」(おおあきないひるがこじま)のBGMとして使われた。その後、曲だけが人気が出て一人歩きをし、それ以来長唄や地歌となって人々に親しまれてきた。 伊東祐親(すけちか)の娘「辰」姫が頼朝への恋を政子に譲り、自分の髪を梳きながら嫉妬に胸を焦がす場景を歌った地歌である。 川端康成の「雪国」の中に、ヒロイン駒子の「小さい頃こうして習ったわ」「く、ろ、かあ,みい、の・・・」と書かれているが当時、地歌黒髪は小説に載るほど一般に知られていたようだ。 尚、浄瑠璃と言う名称は牛若丸との恋物語である「浄瑠璃姫物語」から取られた。 |
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『邦楽が世界に認められた日』 決定的に邦楽が世界に認知された「夜」について触れておきたい。 その夜の事は当時の雑誌に以下の様な内容で感激のありようがレポートされているのでそこから要点のみ紹介したい。 ◆1967年(昭和42年11月9日)夜、ニューヨークエイブリー・フィッシャーホールに於いて、ニューヨーク・フィルハーモニーニックの創立125周年記念公演として『ノベンバー・ステップス』(武満 徹作曲)が初演を迎えました。 小澤征爾の指揮で、琵琶のソリスト鶴田錦史女子(56歳)と尺八奏者横山勝也師(32歳、我が斉藤師範の師)が64名のニューヨークフィルムをバックにした演奏です。 当初フィルハーモニーのメンバー達は「琵琶にも尺八」にも認識がなく、3日前の1回目のリハーサルでは弾き始めるタイミングがわからない団員が何人もいました。琵琶や尺八の音を耳にして笑い出す輩さえいました。尺八はともかくとしても琵琶の「さわり」の音は彼らには聴きなれないものだったようです。しかし小澤征爾の巧みな指導により団員達は次第に鶴田と横山の技量の素晴らしさに気付きリハーサルは進んでいきました。 その夜の演奏が進み、終局で尺八が最後の雄叫びをあげ、その残響が消えると静寂がホールを支配しました。そして指揮台の小澤が緊張を解き約20分の大曲が終わりました。 万雷の拍手! 邦楽が世界に迎え入れられた夜となりました。 『摩訶不思議な笛と海外に進出した日本生まれの楽器』 ●能管はその構造に摩訶不思議な特徴がある。世界でもこの能管に似たような構造になっている笛は存在しない。 それは息を吹き入れる歌口と最初の指孔との間に「喉(ノド)」と称する細い竹管が差しこまれて入る。(長さ7~8㎝) その為旋律が演奏できないようになっている。同じ指孔で息を強く吹き込んでもオクターブ上の音にならない。 能管は正確な音程を要求する合奏には向かない。 |
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●雅楽の楽器の笙は17本の竹笛で丸く形作られているが、このうち音が出るのは15本で音を指さない竹管が2本ある。何故そうなっているのかは誰も知らない。尚笙は主として和音を担当しメロディーは篳篥(ヒチリキ)或いは竜笛などの 横笛が担当する。 ●日本の大半の伝統的楽器は海外からの伝来が多いが、逆にシルクロードを 逆走して海外に進出して使われ愛好されている楽器がある。 それは「大正琴」。大正琴は森田伍郎氏の考案で大正元年に売り出された 新しい日本産の楽器。音感が宗教的である。パキスタン、イスラエル、ベンガル、カシミール等の地区で深く定着している。 「おわりに」 ・日本の伝統音楽は明治期の急激な西洋化の中で単純な文化優劣論によって疎外され、邦楽は古い文化で近代化の妨げになるとの考えで学校教育から取り除かれた。 明治5年に学校教育に洋楽の唱歌(小学唱歌)が教科に制定、次いで12年にこれが洋楽中心となり、20年からは完全に邦楽は教科から除外された。その影響で以降各家庭から次第に邦楽が放逐されて行った。以来紆余曲折はあったが日本は21世紀の今日まで洋楽一辺倒の社会となっていった。 ・戦前の学校で、音楽の時間に民謡を歌わせていたら校長先生が飛んできて「誰だ!そんな卑俗なものをやるとは何事か!」と怒鳴り込んできた逸話すら残っている。 ・然し近年になって政治も動き出し、あれから130年経った平成14年になって小中学教育にようやく邦楽を体験する時間が取られる様になった。 学校教育では、邦楽の先生が居ないとか教材楽器等が十分でない等色々問題はあろうが、是非ともこの素晴らしい邦楽という伝統文化を末永く後世に伝えていけるよう教育界が率先して努力されるよう希望したい。 完 |
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