益荒男家政婦 野遊す
谷口 啓治

 いまひとつ天候が定まらないが、日光街道の“老櫻”も終わりに差し掛かった4月13日〜14日に亘って県北の温泉地に遊んだ。
我が○妻、その兄・妹と一緒であり、長女の送り迎え付きと言う豪華版であったが、我らが文友・川村知一氏がかねてレポされていた喜連川温泉の“かんぽの宿”に向かった。
 早くも脱線!

@ ;本来はきつね川と言っていて、宿の裏手にドッサリと
     きつねの巣があった。

A ;喜の字は、漢用数字の7を三つ重ねた“?”と言う文字を
     宛てていた。

(以上は、宿のパートさんに聞いたハナシ
・・・騙されたかも!)

 その名の通り、郵政省時代に簡易保険加入者用に設定されていた保養所だったらしいが、目下は、民営化されて(女性スタッフも年齢の点を除けば、様になっていて)サムライ風のサービスではなかった。

 写真1;ホテル玄関 芝ざくら歓迎看板

写真2;田舎でも太陽光発電 ホテル6階より

温泉は、1,200m.の地下から湧出していると言う硫黄、塩分、炭酸水素を含んだ原水に加水、加温を施している、と言う(この下りは少々?印)。

しかし、肌にぬめりを感じる点から 約25年前頃お世話になった愛知県の子会社近くにあった温泉を思い出させてくれた。

 朝ぶろをつかい、Al.缶入りビールを馳走になって、迎えに来てくれた娘のクルマで市貝町の“芝ざくら公園”へ。
4〜5年も前につれて来てもらった時よりも「広くなったし、整備されている」と感じながら一巡したが、ドッコイ花よりだんご・・で、銘酊して?イロイロ楽しんだ。

イ;芝ざくらの群生は、なだらかに下がった
   傾斜地に植えられていて、底の部分か
   ら戻るには、もと来た斜面を逆行するか
、新しく設えられたらしい階段を登る方法
  がある。

(ゆっくり登りながら数えたら100段あった)

ロ;受付のおネーチャンふたりに聞いた。

  「アノ階段は何段?」
  「数えたことが無いので分からナイ」
  「100段あったヨ」

  せっかくなのだから、こんなわずかな事でもお客さんとのやり取りに使うようにしてほしい、とお説教否お節介。

写真3;芝ざくら群生地 10日程早いと思われる

ハ;喉が渇いてAl.缶を熱望!数軒の屋台を見渡したが、同じ銘柄で値段が違う、しかも300対350である。勿論300の方を飲んだが、「なんで協定しないのか」、と不思議なり(このケースではお節介せず)。



 写真4;国語のテスト 左奥のテーブルに一斗桝
ニ;中古品を並べた店があったので冷やかしているうちに、「ダンナこれ読めるか?」、と古めかしい書体の看板を見せられたので、「フクソウトッカ/ネツバイチュウ」と読むと、「よく読めたネ」「俺は国語審議会の委員だゾ」とやり取り。ついでながら、剥げチョロケタ椅子はクボタか何処かのAl.鋳物製だゼ!と博学披露に及んだ。
 
ホ;あるは、あるは!機関銃の弾帯(空の薬莢付き)、棒秤、太平洋戦中に愛用された炭火入れ式アイロン、1斗桝(1.8lt.×10)e.t.c
   掘り出し物ではアキツ製石油エンジン(アキツ工業は川西航空機→新明和工業の下請けだったのではないか。太平洋戦争中のこと・・注記参照)。
   「オヤジ、動くのか?」「ウン」、と動かしてみせて呉れた。(スカスカと懐かしい音を立ててテストラン)、「フム、でなんぼ?」と問うたところ10万円との答えあり。
   昭和13年生まれだと言うこのオヤジは、石油エンジンについて可なり知見を有するやに見えた。
   今後接触したい、と考えて「名刺を呉れ」と要求したが、「ない」と断られたので“赤い糸”は繋がらず。
   

写真5;アキツ製石油エンジン
 奥のテーブル上 赤いハンドルの炭火入れ式アイロン

注記;京都府福知山市石原(いさ)に海軍航空隊が設置されていて、軍用機の製造を担当していた川西航空機・福知山工場が昭和20年6月から操業を開始したが、その関連企業だったらしい。
 そんな、こんなで楽しい一泊二日の野遊が終わった。
  
 さて、無事に帰還して夕食後、何気なくT.Vを見てびっくり。九州の阿蘇地区に発生した大地震の益城町は、我が三女の舅さんが独り暮らししている山都町と山地を隔てて10km;ぐらい離れた所であるから。
得た情報によると、「風呂から出た途端にグラっときた。棚のものが落ちたぐらいで大したことは無いが震度は5ぐらい」らしかったが、油断はできない。
  
またもや余談(飽くなき繰りごと)。

1;大騒ぎしている大地震に際しても、稼働中の九電の原発は「異状なし」と言う事で、稼働中止をしないとか。幼稚園生でも言えるような危機観を発信されるお方は、本当に危機管理ということがおわかりなのか?
または、世の中総すかんの消費税10%へアップの撤回理由が出来て安堵されているのだろうか?
ナーンチャって・・・。  

 
2;本文中のアキツ工業に関する部分は、完全な文献が見あたらなかったこと等を理由に曖昧なままに筆を進めた。お許しを乞う。
但し、戦後昭和27年〜30年の間、筆者はこの近辺に住んでいて農耕用機械などを造っていた「アキツ」の事は知っていたし、母校の府立綾部高校機械科を合併した「京都府立工業高等学校」が石原の山間部に新設されているのも承知している。
又、筆者上司、故・田邉穂積氏が学徒動員を受けて川西航空機に勤務されていた頃、神戸から「アキツ」へ出張された事実もお聞きしたことがある。
                   以上、
 
4月17日記す