“益荒男家政婦”奮戦記
谷口 啓治

 大根や里芋の晩期の手入れの時期と重なって、唯でさえ慌ただしいのに、何の因果か俄かに家政婦代行をやる羽目になった。
曰く、益荒男(丈夫・ますらお)家政婦を勤めざるを得ず。
10月端からの事ゆえ、既に三カ月を過ぎていて、初めの内は半ばルンルン(?)で「ナーニ、20年ぶりの単身赴任サ!」、と嘯いていたが、老々ふたり分の食事や何やらの面倒をみると言うことになると、独り勝手だった頃の事とは大分勝手が違う。

さいわい、長女と次女とが市内の比較的近い所に住んでいて、自営業の手伝いやアルバイト勤務の合間を利用して手伝ってくれるので“やや不良な” 家政婦を決め込んでいる。
 忙中に閑!以下に奮戦記を興した。

1、20年前までの単身赴任生活の“軌跡”について

  昭和58年夏からの大阪での生活は、追いだされた感が強く、やや腰かけ的な根性であったので自炊の準備などはせずに悪い仲間に誘われるままに飯屋などで用を済ませていた。
 但し淀川水系の水道水の匂いには閉口させられ、ナイトキャップの水割りウイスキーも楽しめなかったし、住まいのあった吹田市から比較的近い大阪市北区の江坂と言う所で“豊田商事事件”なる物騒な事(会長・永野一男が自称右翼のふたりの男に刺殺された)が起きて驚かされた。

 その時期と前後したと思うが、滋賀県草津市での新設工場に移り、国道1号から離れた山中(JRAの栗東トレセン近く)で、3DKのアパートに大人ふたりが詰め込まれて朝食は自炊、昼は工場食堂で命を繋いだ。夜は、不規則に遅くなる生活であったので国道沿いの“王将(例の外食屋)”で若い仲間たちと「割り勘食」で済ませていた。
 (この頃、グリコ社長が拉致されると言う「グリコ・森永事件」が発生、草津市もその舞台とされて大騒ぎになった。S59年3月のことだった)

 昭和60年5月からは、二度目の出向先・愛知県に移動させられ畏れ多くも“社長”を勤めさせられた。名古屋市中川区にアパートを借り上げて貰い、恐る恐る自炊を始めたが、相変わらずの“不良”ぶりで、夜食を作る間に(昼間の疲れが出て食前酒に酔いしれ)、ガス焚きの風呂をボコボコと熱間消毒することがあった。
 着任の年・S60年8月には、日航のジャンボ機が群馬県・御巣鷹山に墜落したりしたが、この頃はスーパーでの買い出しに男衆の姿が無くて寂しかった。
(そういえば、永年の喫煙(一日60本)をピタリと辞めたのが、着任後のS61年5月からであるが、金欠ゆえの苦肉策であった。)
 昭和天皇崩御の年、丸の内に無理を言って宇都宮の古河カラ―アルミに移動させて貰ったので、単身赴任は一旦途切れた。

 平成4年11月に、乞われて?宮城県柴田郡の古河線材(現・ニッケイ加工)へ転じて、銅のエナメル線製造からアルミ型材加工・他の工場へとリストラする作業に携わった。
 採算ベースに乗った年のH8年12月に、「親会社の方針」とかで延長勤務を短縮して退社させられた。
 此処では、借り上げ社宅のアパートで真面目な生活を送ったが、従業員手作りの“自家製塩辛”で食中毒にかかった。己の不注意であったがご丁寧に二度も同じことをやり、夜半の異常で苦吟していたトイレから電話機迄が遠く、救急車を呼ぶことが出来ず便器の上で長時間過ごしたものである。
 宮城でのメニューは、サンマや赤魚の粕漬けを焼いたものと手製の味噌汁に大根、茄子、キュウリなどの塩もみが多かったが、インスタントラーメンは食べなかったと思う。

 (以上、冴えない“軌跡”であるがご笑付下されたし。)

  閑話休題、

2、飯の炊き方の難しさ

 単身赴任時代に使っていた“変哲もない”電気釜でなく、今は最新式の釜を使っている。
米は丹波のコシヒカリ、水加減は米1;水1.33、浸している時間はやや長くて2〜3時間としていた。オカユの場合にはこれで良いが、ご飯の食味となると「味も素っけもない」と批判される。
 埼玉から時々訪ねて来る三女の作った飯は味が違うので、一計を案じて水を1.5に、浸漬時間を1時間に変更した。バッチリなのである。

 名古屋時代に飯屋のバーさんに聞いた「食塩を加える」と言う迷信は信じられない。
筆者が好んでやる市販の「混ぜご飯の具」を入れて○○メシに仕上げるのは、“お客サマ”の好みに合わないことがあるので「要・注意」也!
 炊き方ではないが、分量を適量にするトライ&エラーを怠らないことも肝要である。食べ残すとオカユになるから。

 脱線@;宮城で食べていた「ヒトメボレ」は美味しかったが、着任後 翌年(平成5年)の冷害時には宇都宮から粗米を送ってもらって凌いだ。

3、副食(オカズ)は面倒臭い・・

 名古屋時代に前任者が申し送ってくれた「多種類のものを食べる」と言う事が原則であるが、難しい。
精々野菜を切らさないように気を付ける。“温野菜”と言うのかなァ?
茹でて皿に盛りつけ、小塩とマヨネーズとで戴いて貰う「式」なのである。
 サラダはスーパーで買うし、天ぷらやフライの類は(火が怖いので)専ら出来あい品で間に会わせる。
面倒くさければ、煮魚は避けて塩サバの類(前記、粕漬けの魚)を焼いて供する。そのうち、娘が来てカレイとか鰯とかを煮付けしてくれる。
 簡単な漬けものは、日光地区で売っている「たまり漬けの素」を使って大根などの浅漬けにするとグーである し、大根のタクワン漬けや白菜の漬物はお手のものゆえ 切らすことはない。

一寸一服しよう、と思う。

下らないオハナシを続けたが、後記高齢者の仲間には筆者同様の環境に置かれている方が少なくないのではないか。
少しでもお役に立てば、否 俺もやるぜと力付けられればとの思いで今後も暇を見つけて“続報”をお届けしたい。
28年1月12日 珍しく寒い日に