双葉山の全盛期を六十九連勝中の時とすれば、それ以降引退までは円熟期であった。14年夏から19年春場所まで十場所あったがその間三回全勝、六回も優勝しているのである。
この頃になると、私の記憶も鮮明になり、さまざまな知識も得てくる。
とりわけ、大横綱双葉山が負けることは当時の私にとっては大ニュースである。横綱在位中双葉山が負けた相手の力士名を列挙しよう。
14年春(六十九連勝が止まった場所)4敗、安芸の海、両国、鹿島洋、玉の島、
15年春、1敗、五つ島、 15年夏、4敗4休、鹿島洋、桜錦、肥州山、五つ島、
16年春、1敗、前田山、 16年夏、2敗、桜錦、綾昇、 17年春、1敗、豊島、
17年夏、2敗、清美川、照国、 19年春4敗、松ノ里、増位山、汐ノ海、照国、
19年夏、1敗、照国、
以上六年間、十二場所、延べ20敗で複数回負けたのは3敗、照国、2敗、鹿島洋、五つ島、桜錦、の四力士である。これら力士名をよく覚えているのは双葉山を負かしたということの関連からだったと思う。
桜錦や豊島は突撃的押し相撲であり、五つ島や前田山は強烈な突っ張りを身上としており四つ相撲に絶対的強みのあった双葉山も苦手としていたのであろう。
私は本場所がある時は自作の星取表を作り番付、四股名、所属部屋等を一覧にし、日々丹念に結果をつけた。このことで副次的な効果として、
むずかしい漢字を(例えば「磐石」など)ずい分覚えたように思う。
双葉山の四股名は、立浪親方から、良い新弟子を探して欲しいと依頼されていた当時の大分県の警察部長双川喜一氏が、両者を引き合わせたことが双葉山の入門につながったので、
「双」の字をもらった。戦後第一号横綱(昭和22年)の前田山は主治医前田博士からもらったように、戦前はいろいろお世話になった「恩人」への恩返しが命名の動機になったケースがあったようだ。
しかし何といっても出身地の山や川からの命名が多い。たとえば当時番付表をみると、力士名で地名と関連する四股名は例えば、相模川(神奈川県)、肥州山、五つ島(長崎県)、
鹿島洋(茨城県)、笠置山、大和錦(奈良県)、安芸の海、備洲山(広島県)、羽黒山(新潟県)、名寄岩(北海道)、鯱ノ里(名古屋市)など出身地の地名と結びついている。
山に比べると川は思ったより少ない。山は動かないが川は流れ去るからということで四股名としては喜ばれないそうである。
小学生の私にとって日本地理を学ぶ上で相撲に熱心だったことが役だった。
幕内中堅に竜王山という相撲取りがいた。15年春場所の8日目双葉山と対戦した竜王山は一回目の仕切りで立ち上がったが、双葉山が受けてたち竜王山は負けてしまった。
いつでも受けて立つ双葉山の信念が称賛された。
竜王山についてはもうひとつエピソードがある。18年夏場所10日目、青葉山と取り組み右四つでもみ合ったが水入り、二番後取り直したがまたも水入りで、勝負がつかず引き分けとなった。
当日は山本五十六元帥の戦死が発表され、取り組みがいったん中止、全員黙とう後「打ちてし止まん」の大斉唱をおこなった。その直後、竜王山、青葉山戦の取り組みが引き分けで、
軍神去る日、敢闘精神が欠如しているという理由で、両力士は出場停止処分を受けた。この処分は力士会会長の双葉山が協会に再出場の許可を願い出、出場停止は二日で終わった。
この竜王山と青葉山の引き分け、山本元帥戦死の報、ともに四年生の私は覚えている。
しかし、それらは別々の日のことと記憶していて、同日(5月21日)に起こったこととは今回はじめて知った次第である。
当時はテレビなどない時代である。力士の顔、風貌は新聞や雑誌を通じて知るのが一般的であったが、私の場合それに加えブロマイドからである。名刺大のサイズでポーズはまちまちであったが顔ははっきりと写っていた。
名古屋に住んでいた 小学校の三~四年生の頃、近所の雑貨屋に行くとそれが売っていた。その店では天井からブロマイドの入った新聞紙の袋がまとめて釣り下がっていて、
一枚一銭だったと記憶している。当然横綱、大関など人気力士の枚数が多く一般の力士を揃えるためには何枚も引かなくてはならない。友達と交換したりして揃えるのだが、そんなことで力士の顔を多数覚えた。
ある時、一枚引いて家に帰り袋から写真を取り出そうとすると二枚引いていたことに気がついた。次に行ったときは意識して二枚を引いた。しかしこのような行為はいけないことと子供心にも直ぐに分かった。
それ以来そのような行為はもちろんしていないが、ほろ苦い記憶として覚えている。店番はやさしい老婆であった。(本稿記述して二,三ヵ月後、小沢昭一氏の著書の中に相撲のことがあったと思い出した。内容は重複するが以下挿入した。)
昭和53年3月文芸春秋社発行の小沢昭一「わた史発掘」134ページ以下に次の記述があった。「写真メン つまりは小型ブロマイド、相撲隆盛時代のこととて、
子供が愛好したのは相撲取りの写真。古新聞で作った紙の袋に、名刺よりやや小さい写真が一枚ずつ入った束が、駄菓子屋の天井からぶらさがっていたものだ。
たしか一枚一銭。私は半狂乱で収集した。・・・私は幕内全力士のメンコを部屋別にしたり番付順にしたりして、アルバムに貼ったり小引き出しや箱の中に整理して楽しんだ。
紙の袋を引いて中から出てくるのだから全く運まかせ。そうして集めたものが、リンゴ箱に二箱はあったから、何千枚ぐらいかと思う。私のタカラであった。」全国的な流行だったようだ。(小沢氏は私より四年上級)
昭和18年、四年生の秋、横浜市の花月園に相撲がやってきた。それがどのような性格のものか、当日の行事内容の記憶は何もない。おそらく地方巡業の一環として、
双葉山の土俵入り中心のことだったのでないかと思うが、行事終了後、双葉山の直ぐ後ろにくっついて歩いたことを記憶する。英雄を仰ぎ見たことは腕白仲間の自慢のタネであった。
しかし、もっと素晴らしい経験をした友人がいる。それは白土清實氏である。古河電工社報、1973年11月20日掲載の記事を抜粋引用しよう。
タイトルは「自慢じゃないけど双葉山と大相撲―日光・白土清實さんー」となっている。白土氏の顔写真と双葉山に彼が突っかかっている写真がつぎのような記事と一緒に掲載されている。
「日光の所内報あかがねの六月号に一枚のめずらしい写真がのった。大きな相撲取りにとびつく小さなイガクリ頭。しかもこの相撲取りが全盛時代の双葉山。
「写真は昭和17年の満州(今の中国・東北省)の奉天市です。私のかよっていた葵小学校で土俵開きがありちょうど奉天の準本場所で来ていた双葉山一行がお祝いに来てくれました。
当時双葉山は連勝記録こそストップしたが全盛時代。」当たりごたえがあったでしょう?
「おおきなお腹に思いきってぶつかった瞬間、大きな風船かスプリングにでも当たったように、
二メートルほどはねかえりました。あまりの驚きで一瞬首をかしげて考えこんでしまいました。観客は大笑いです」
写真の背景になっているおかっぱやハチマキ姿の子供の笑顔がいかにもくったくなくいい写真である。
「三歳から中学一年まで奉天市にいました。敗戦までは比較的穏やかだったですが敗戦直後にロシヤ軍が入って来て一変しました。引き揚げに際しては持ち出しが厳しかったですが、
これだけは、と思って、腹に巻いて、文字通り肌身はなさず持ってきました。
そんなことで写真はいたんでいますが私にとっては大切な大切な写真です」……と。
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