「魏志倭人伝」から「邪馬台国」の所在地は比定できない
窪田 城
 はじめに

 多くの人がご存知のように、「魏志倭人伝」から「邪馬台国」の所在地を比定する専門書、通俗書は数多く出版されている。これらの著者は、暗黙の内に「魏志倭人伝」を信頼に足る史料と考えているに違いない。権威ある広辞苑も「魏志倭人伝」を「日本古代史に関する最古の史料」と定義し、その信憑性に何の疑いも抱いていないかのようである。しかし、歴史には全くの素人ではあるが、正しい状況把握と問題設定、合理的思考をもっての問題解決を生業とし、中国人とのビジネスの現場では、しばしばその国民性(拙著「歴史が創る国民性」kindle出版参照)によると思われる彼らの論理と行動に当惑し、閉口した経験のある身としては、中国で三世紀に編纂された史書の記述内容を疑って掛かるほうが真っ当な気がしていた。事実、「魏志倭人伝」を信用に足る史料として然るべしと納得の行く論理的説明には、未だ御目に掛かって居ない。世で大御所といわれる学者が懸命になって研究しても、肝心の「邪馬台国」の所在地については、大和説、北九州説さらには出雲説、吉備説等々いずれも決定的な結論が出ないまま、際限なく議論が続いている。これは、陳寿の目的が他にあったがために、「魏志倭人伝」の地理的説明が多分に作為的になり、多様な解釈を可能にしているからではないかと考えた。そこで、暇に任せて、「三国志」、就中「東夷伝」を手に取って、掲題の仮説を検証することにした。
 著者の漢文に関する知識は、中・高校を通じて漢文を学び、断片的乍ら、史記や論語、漢詩などを返り点の付いた原文に書き下し文を添えたもので読んだ程度で、漢文では段落や句読点を置かず品詞の区別がない単語を並べるので、書き下し文だけに頼ると解釈を誤る可能性があること位は知っていても、原文だけで「三国志」に挑戦する程の能力はない。そこで、「東夷伝」以外で「三国志」に言及する際には、碩学井波律子氏が今鷹真氏と共に、裴松之(はいしょうし)の付した膨大な注の位置を段落ごとに正しく示し、解釈の統一性を目指した中華書局刊行の標点本に基づいて翻訳したちくま学芸文庫の「正史三国志」を参考にした。また、文法的疑問が生じた際には、講談社学術文庫より再版された加地伸行氏による「漢文法基礎」で、漢字の意味が曖昧な場合には、大修館の「新漢語林」、更には諸橋轍次氏による「大漢和辞典」で確認することにした。


  中国正史の問題点

 歴史を時の支配者の都合に合わせて書くことは、どこの国でも行われてきた。ご存知の通り、我国でも、明治維新から敗戦による新憲法成立に至るまでの歴史の解釈が政治的に中立とは言い難い。民主主義の国でもこうだから、専制君主の下では、上の意向を強く反映した形に歴史が歪められるのは、洋の東西を問わず当然である。H.G.ウエルズは「今を制する者は、過去をも制する」と喝破している。
現代でさえ官製史観が国民を強く拘束する中国の古代王朝においては、「三国志」でも彼方此方に見えるように、大抵の場合、支配者の意向に反することは、その場での斬首を意味するので、正史の編纂を命じられた者は、事実の選択とその解釈に際しては命懸けであったであろう。後世に最初の正史と認定された「史記」は、支配者に命じられて編纂されたわけではなく、司馬遷が使命感をもって歴史的事実をありのままに記したが故に、この著作が秦の始皇帝の目に触れることを非常に警戒したことが知られている。
 加えて、中国の公式の史書、所謂正史では、孔子や司馬遷の設定した二つの哲学的史観を踏襲しなければならないことになっている。この伝統に忠実であるためには、多くの場合、相当の範囲まで歴史を歪めざるを得ないことになる。第一に、クーデターや武力闘争で天子の座を奪った場合でも、初代皇帝は天子の座を、聖徳を評価されて天命によって与えられたという儒教的易姓革命思想を前提にした帝紀を設けること。第二に、世界は黄河中流域に漢民族によって創られた文化圏とその周辺の野蛮な民族群からなっているとする中華思想に従って、時の王朝が徳をもって、多くの周辺蛮族を帰順させたことを外夷伝で述べ、皇帝の偉大さの証としなければならないことである。その結果、王朝の下で史書を編纂する者には、当然の如く、歴史的事実よりもこの理念に従うことが期待された。因みに、「三国志」が三国時代の中国王朝の正統な歴史書に指定されたのは、唐の時代に国家事業として紀伝体での歴代王朝史の編纂が始まった時に、上述の正史の二つの条件を満たしていると認められたからであり、必ずしも歴史史料としての価値を認められたわけではない。これにもう一つ、歴史も文学であるべきという古代中国の通念に応えようとなると、詩文で使われる駢儷体の対句や美称を持ち込んで文学性を高め、理性よりも感性に訴えることになり、歴史的記述を歪めることへの躊躇いが益々薄らぐ。陳寿が頻りに使った「千里」なども、一種の美称であり、針小棒大の修飾を好む国民性に対しては、正確な数字を記すよりも強く訴える力をもっている。李白が「白髪三千丈、愁いに縁(よ)って箇(かく)の似(ごと)く長し」と謳い、白居易が、数多の美女の中にあって玄宗皇帝の寵愛を独占した楊貴妃を「三千の寵愛一身にあり」と表現したのは、漢詩を齧った者なら誰でも知っている有名な例である。「千里」も、白居易の「千里遠く相い遂(お)へる」や李白の「千里の江陵一日に還る」など詩文ではよくお目に掛かる常套句である。散文でも、唐の太宗曰く「千里を隔つと雖も、面に対して語るが如し」から、「千里の隄(つつみ)も螻螘(ろうぎ)の穴を以て漏れ」のような人生訓に至るまで、これを使って格調を高める工夫が為されている。陳寿も、随所にこの種の工夫をして、魏王朝の偉大さを感性に訴えることに成功している。


  著者陳寿の思惑

 中国の歴史書も、このような伝統に縛られると共に、当然著者の心情や思惑にも影響を受けることは避けられない。晋の著作郎(歴史編集責任者)として皇帝から魏の歴史編纂を命じられた陳寿が、司馬遷のように、後世に事実を伝えようとの使命感をもって書き始めたとは考え難い。それでは、皇帝の逆鱗に触れたり、他人から恨みを買ったりすることを避けながら、この機会を利用するために、どのような工夫をしたのであろう。先ずは、その生い立ちや人となりを調べることから始めよう。
 陳寿が蜀漢(今の四川省南充市)に生まれた233年といえば、劉備が後事を諸葛亮に託して死んだ十年後であり、翌234年には諸葛亮も死んでいる。従って、彼が見たのは、劉備の愚息劉禅の下で衰退へと進み、265年に魏に下るまでの暗い時代の蜀漢であった。その間、諸葛亮が「街亭の戦い」での敗戦の責任者として馬謖を処刑した時に彼の父親も連座させられたことから蔑まれ、彼の師の譙周が劉禅に降伏を勧めた側杖を食らって責められ、彼自身も父親の喪に従うよりも自分の健康を優先させたことを指弾されるなどした挙句に、齢三十有余にして国が滅び職を失っている。五、六年の浪人生活を送った後、創建間もない晋に仕官が叶い、著作郎の補助者として歴史資料の整理編纂に携わり、能力を買われて著作郎に昇進した。一方、私生活では、晋に仕官した後も、母親が死んだ時に、故郷に埋葬する手間を省いて手近なところに埋葬して済ましたことから親不孝の誹りを受け、蜀漢時代の兄弟子の李驤が仕官を求めて晋に来ると、これを邪魔して追い返すなど、非難されても止むを得ないような利己的な行動を続けた。以上の履歴と逸話からは、職務で抜きん出るほどに、古くから晋に仕える者たちの嫉みを買い、誹謗中傷を受け、下手をすると、折角苦労して得た晋朝での職を失い兼ねないという懸念を抱いていた姿が浮び上がる。
 このような境遇で、晋の前朝である魏の歴史編纂の勅命を受けた陳寿が、正しい歴史をと心掛けるよりも先に、晋朝廷の意に沿う史書を物にして、身の安全を確保し、あわよくば栄達をもと考えてもおかし
くはないであろう。彼は、早速、次のような構想を練り始めた。大筋は、魏が漢から正統な手続きで皇位を譲り受けたことから説き起こし、その魏から晋の初代皇帝が禅譲を受けた処で終わらせることに議論の余地はない。ここでの問題は、覇権を競った蜀漢と呉の扱いである。少し思慮のある人間には、次に誰が権力の座に就くか予想の付かない乱世が尾を引き、気に入らない人間を殺すことに躊躇いのない時代に、誰かの恨みを買えば、いつ何時、とんでもないリスクに身を晒すことになり兼ねないのは自明であった。どこかの国の首相のように、遥か彼方の同盟強国の大統領の尻馬に乗って、身近な敵を面罵するようなことを控えるのが、中国人の知恵である。実際、魏や司馬氏を過度に称揚するのを避け、蜀漢と呉にも出来る限り公平に言及することに腐心した様子が、随所に読み取れる。この点についても蘊蓄を傾けたいが、主題から逸脱するので別の機会に譲ることにする。
 次に、周囲の夷狄に対する影響力を誇示する工夫である。これには、公孫氏を征服し、魏が東夷の地にその威光を示すのに大きく貢献した晋の武帝の祖父である司馬懿の業績を称揚することに繋がる「東夷伝」を設けて、一石二鳥を狙った対応をすることにした。これがごく最近の事件であり、未だ体系的に纏まった史料が無いことが、陳寿に味方する。晋の朝廷にあって目を通せる人間が限られていた魏皇帝の起居注(首相の一日みたいもの)を初め、東夷諸国に派遣された使者及び軍隊の報告書や東夷の使者が都に来た際の記録などに自由にアクセスできる公文書の編纂責任者という地位を大いに利用することにした。宮廷には、本人同様、東夷の地はおろか、遼東郡にさえ足を踏み入れたことのない者が殆どであり、且つ情報へのアクセスが限られていたので、皇位継承の正統性の場合とは異なり、大胆に虚実織り交ぜた記事を作り上げることが可能であった。その結果、前人未到であった遥か東方の夷狄までに魏の威徳が及んだことを縷々書き綴った「東夷伝」が生まれ、その極みが我が国で「魏志倭人伝」と珍重される倭人の条であった。
 以上の推考の傍証として、「正史三国志」で確認した次の事実を挙げておく。「三国志」を手に取ると、陳寿の執筆から下ること150年の裴松之による「魏略」などの史料を引いての注の多さに圧倒される。しかし、陳寿の著した「魏書」をよく見ていくと、帝紀やそれに続く伝と末尾の「東夷伝」で注の数に大きな差があることに気が付く。因みに「武帝紀第一」の注の数を数えてみると、58の段落に計113の注が付されている。一方、巻末の「東夷伝」に眼を向けると、裴松之の注は、扶餘(ふよ)の条で二つ、東沃沮(よくそ)の条で一つ、古くから往来のあった韓の条でも五つ、倭の条には、「魏略」から引いた「倭人は正月を年の初めとして、四季を区別することを知らず、ただ春の種蒔と秋の収穫を目安に年を数えている」と陳寿の描く倭国への反証の如きものと「絳地(あかぢ)は絳綈(あかつむぎ)とすべき」という用字についての個人的見解を述べた二つがあるに過ぎない。この事実からも、「東夷伝」を著すに当たって参考にした大半の資料は、未だ編纂前の新しい記録などの類が多かったが故に、「三国志」に注を付すことを生き甲斐としていた観のある裴松之にさえ、探すことの出来ないものが殆どであったことが伺える。「付注魔」の裴松之は、注を付すことの出来なかった欲求不満を解消するが如くに、「東夷伝」の末尾に、後に述べる理由で陳寿が取り上げなかった西戎について「魏略西戎伝」から倭人の条を凌ぐ長さの文章を引用している。
 本論に進む前に、父親が馬謖に連座させられることになった「街亭の戦い」を指揮した諸葛亮についての記述を例に、彼の周到な心配りを見ることにする。「諸葛亮伝」では「馬謖は指示に背き、妥当性を欠く行動で大敗を喫したので死刑に処したが、真の責任は、指揮能力も無いのに総司令官の地位に就いた自分にある」と如何にも「万民に罪が有るならば、責任は予(湯王)一人に在る」という「書経」の言葉からヒントを得たようなセリフを書込み、諸葛亮が人格者たることを印象付けている。それではと「馬謖伝」を見ると、先主(劉備)は臨終に際して諸葛亮に向かって「馬謖は大言壮語の傾向があるから重要な仕事をさせては駄目だ」と言ったとし、諸葛亮が劉備の指示に背いたことを示唆している。これを知って「諸葛亮伝」の文末にある陳寿の評に眼を向けると、「彼は領民ファーストの公正な政治を行い、信賞必罰を旨とし、春秋時代の管仲にも匹敵する優れた政治家であるが、軍事的成功を収められなかったのは、臨機応変の軍略の才に欠けたからである」と、陳寿の父親も、彼の軍事能力の欠如の犠牲になったことを匂わせている。このように、言いたいことを直截に述べず、真実が那辺にあるかを曖昧にする彼の筆法が、「東夷伝」でも随所に認められる。


  魏と晋称揚のための「東夷伝」

 陳寿は、周辺「蛮族」に対する中華文明を体現する魏王朝の影響力の強さを、どのような形で表現したかを見ていくことにする。「三国志」は「魏書」30巻、「蜀書」15巻、「呉書」20巻の三部構成になっており、正統な王朝である魏の歴史を記す「魏書」は冒頭の四つの巻を帝紀に、巻末の第三十巻を外夷伝に当てている。魏を正統とするので、他の二書には帝紀と外夷伝は無い。外夷伝には、東夷西戎南蛮北狄の四つの「蛮族」への魏の影響力を謳うことが当然の如く期待される。しかし、南蛮には揚子江以南を支配する呉、西戎には四川省を拠点とする蜀というれっきとした漢民族の国が対峙し、魏は北狄と東夷以外に直接の影響力を持たないことは誰の眼にも明らかであった。北狄の烏丸と鮮卑は、曹操に屈し、魏の指揮下で高句麗と戦うなど記述に値する事件も多かったが、何分、この地は秦の時代から匈奴との接触があり、烏丸伝と鮮卑伝だけでは偉業を誇るには物足りない。そこで目を付けたのが、魏帝の勅命を体した司馬懿が公孫氏から遼東郡を奪還したことで、魏初まで絶域として放置していた東夷を支配下に入れたという事実である。東夷に脚光を当てることで、南蛮に触れないで済ますとしても、古くから中国の王朝に柵封しており、漢朝が都護司を置いて管理するほどだった西戎に、漢帝から禅譲を受けた正統な王朝である魏が、全く触れないわけにはいかない。しかし、「西戎伝」を設けて縷々述べるほどの材料はないし、古くから史書に色々記述のあるこの地域についていい加減なことを書くと、「魏書」全体の信憑性が疑われることになり兼ねない。そこで彼は実に巧妙な手を考え出す。「文帝紀第二」に「建安二(223)年、西域の蛮族が献上品を奉ったので使者を派遣して彼らを慰安した」と、「明帝紀第三」には「太和三(229)年、大月氏の王が貢物を献上したので親魏大月氏王に任じた」と、如何にも西戎が帰順するのは、歴史的に見れば、何ら特筆すべきことではないかの如く装って済ましている。一方で、東夷の場合は魏が新たに傘下に置くことに成功したのだということを、東夷伝の序文で繰り返し強調している。先ず「東は海に至るまで、西はタクラマカンの砂漠まで中国に服したことは既に書経にもあるが、その外側には漢王朝も足を踏み入れていなかった」と説き、「舜帝の時代から入朝の記録がある西戎については、魏が漢王朝の創設した都護府を受継いだので、漢王朝の場合と同じく、魏にも西域の大国からの朝貢が無い年はない」とした。その上で「東夷の地については、三国時代に至るも公孫氏が遼東の地を領有していたために、天子はこれを絶域として放置していたが、魏の明帝の勅命に従って司馬(懿)宣王が景初二(238)年に公孫氏を滅ぼしたことで、東夷を討ち、その先の大海にまで使者を送れるようになった」と、魏朝と司馬懿の偉業を讃えた。更に、東夷伝の末尾の評には「魏の時代には、匈奴の力が衰えて、烏丸・鮮卑さらには東夷までが現れて、使者や通訳が時々往来するようになった。歴史とはその時代の事件を記録するものだから記述の対象が時々で変わるのは当然である」と、西戎伝に代えて東夷伝を設けるのが史書の責務の如くである。この主張を尤もだと納得させるには、冒頓単于に追われてアフガニスタンに国家を作った大月氏にまで及んだ漢の影響力を、東夷への魏の影響力が凌駕していたと印象付けるための種を探さねばならなかった。著作郎の立場を利用して調べ上げ、帯方郡が倭人とかなりの頻度で接触していることを探り当てた。当時は、一世紀初頭の班固が漢書に「会稽の海外に東鯷人(とうていじん)あり」と書いたのを受けて、倭国は呉が支配する「会稽の東の海」にあると考えられていた。この地理概念に東の海に住む氏族の風習についての呉の記録を合わせて、倭国が近い呉を避け、懿徳を備えた遠方の魏を選んだことを誇る文章を完成させることにした。長い間絶僻にあった東夷については、自分の思惑に従った記事を書くのに支障を来すような史料がなかったことが、陳寿を大胆にした。
 以上を知った上で、「東夷伝」を、倭の条の前に置かれた六か国の地理的位置に関する記載を見てから「魏志倭人伝」へと読み進むことにする。


  「東夷伝」その1:倭以前の六か国の所在地に関する記述

 「東夷伝」には、倭の前に扶餘(ふよ)・高句麗・東沃沮(よくそ)・挹婁(ゆうろう)・濊(わい)・韓の六つの国に関する記述がある。これらの国は、遼東郡から陸続きで、距離も近いが故に、海の彼方の倭よりも彼が入手できる地理情報はずっと多かった。しかし、実際に様々な資料に当たった陳寿は、この地域では、侵略する中国への抵抗に加えて各民族間の闘争が激しく、魏の支配領域は勿論、各民族の領土も流動的で、現地を踏まずには、地理的状況をきちんと整理することは出来ぬ相談であることに気が付いた。これによって、彼は、「邪馬台国」を「会稽の東の海」に置くという目的のために、里程に関しては曖昧のまま心に訴える文学的表現に徹することに決めた。日本の歴史学者の最大の関心は、「魏志倭人伝」から「邪馬台国」の所在地を比定することにあるが、彼らは、倭に先立って取り上げられている六か国の所在地と領域を、「東夷伝」の記事から正確に比定できるかどうか試したことはあるのだろうか。多くの場合、彼の記述を深く検討することなく、現代の地図に照らして、大凡の位置と広さを推定しているに過ぎないように伺える。それでも、「魏志倭人伝」の記述から「邪馬台国」の所在地を正確に比定できるとするのは、日本が大陸とは海を隔てており、領土の大きな変更を経験していなかったが故に、暗黙のうちに「魏志倭人伝」は「東夷伝」の他の国とは別だと考えてしまっているからではなかろうか。確かに、陳寿は、倭人の条に格別の思い入れをもっていたと考えてもよい記述が色々あるが、真意は日本の学者が考えるのとは別の処にあったようである。
 これから、六か国夫々の地理的位置に関する記述を抜き出して、その内容を検討するが、その前に、序文で「公孫淵を誅殺した後、軍隊を船で運んで楽浪と帯方を攻め取った」とし、韓の条には、「明帝が帯方太守と楽浪太守を任命し、ひそかに海から攻めて両郡を平定した」と書くが、この二つの郡がどこに在ったかの記述はないことを断っておく。尚、これからは、この地域の地図を手に読み進めて頂きたい。 
1)扶餘の条:「扶餘在長城之北去玄菟千里南與高句麗東與挹婁西與鮮卑接北有弱水方可二千里(扶餘は長城の北に在り。玄菟を去ること千里。南は高句麗と、東は挹婁と、西は鮮卑と接し、北に弱水有り。凡そ二千里四方)」
 これは、玄菟郡の所在地とそこから扶餘に行く道は誰でも知っているとする現地駐在者の報告書を、そのまま引き写したことを伺わせる。「長城の北に在り」、「西は鮮卑と接し」と「北に弱水(松花江)あり」で扶餘の大体の場所の見当は付く。問題は玄菟郡の位置である。他の箇所に、玄菟郡に関する記述は無いかと調べると、東沃沮の条に「玄菟郡は、当初、沃沮城に役所を置いたが夷貊(いはく)に攻められて高句麗の西北に移された」とある。これと高句麗の条の「高句麗は遼東の東千里に在り」を合わせると、玄菟郡が高句麗と遼東の間、長城に近いところにあったと推察できるが、互いの距離については、五里霧中の中に置かれたままである。最後の広さ「凡そ二千里四方」を魏晋時代の1里≒440m(長里)で換算すると、880㎞四方となり、弱水は松花江でなく、アムール川(黒竜江)ということになる。
日本の学者が、「魏志倭人伝」に記載された距離と実際の距離との辻褄合わせに考え出した短里説の1里≒80mに拠るなら160㎞四方となり、「北に弱水(松花江)あり」とするには若干小さ過ぎるようだ。以
上から、陳寿は、正確な里程を意識せず、美称の「千里」を用いていると言ったら、どう論破するのであろうか。尚、「正史三国志」で、「方可二千里」を「その範囲はほぼ二千里」と曖昧に訳しているのは、「二千方里」(二千平方里)の誤りの可能性を示唆したのかもしれない。
2)高句麗の条:「高句麗在遼東之東千里南與朝鮮濊貃東與沃沮北與扶餘接都於丸都之下方可二千里(高句麗は遼東の東千里に在り。南は朝鮮濊貃(わいはく)と、東は沃沮と、北は扶餘と接し、都を丸都の下に置く。凡そ二千里四方)」
 「遼東の東千里」を長里で換算して遼東半島から440㎞だとすると、高句麗の西端さえ日本海に極めて近いことになる。地図で見る限り、短里で換算した80㎞が正しいという説を無下に否定することはできない。次に「南與朝鮮」を問題にする。紀元前107年に「衛氏朝鮮」が漢の武帝がよって滅ぼされると、1393年に李成桂が朝鮮を国号とするまで「朝鮮」という国が存在しなかったことは、この地域の歴史に興味のある者にとっては常識である。念のために、ここで漢の武帝が、いわゆる「漢四郡」を設置してからのこの地域での中国王朝と被征服民との抗争の歴史を眺めてみよう。武帝が、衛氏朝鮮の版図を楽浪、真番、臨屯、玄菟のいわゆる漢四郡に分割して直轄地とする支配体制を作り上げたのが、紀元前107年であった。その後この地の先住民の強い抵抗にあって、真番と臨屯からは設置後二十年余の紀元前82年に撤収したが、漢時代を通じて、何とか北の玄菟と南の楽浪郡を維持したとされる。後漢末に国が乱れると、遼東太守の公孫度が玄菟郡と楽浪郡を奪ったが、先住民の反抗に苦しみ、楽浪郡の南に帯方郡を設けて守るべき拠点とした。238年に魏の司馬懿が公孫氏を滅ぼして、これを引き継ぎ、玄菟郡に扶餘など北方の異民族の、帯方郡に韓と倭の管理責任を負わせた。しかし、晋が呉を滅ぼして天下統一を果たした280年の三十三年後、晋が江南に逃げて東晋を称する直前の313年から315年に掛けて、玄菟、楽浪、帯方の三郡すべてが高句麗に奪い返された。この歴史に照らせば、魏の時代は勿論、陳寿が「三国志」を著した時でさえ「朝鮮」は存在せず、かつての「朝鮮」は三つの「郡」として中国王朝の支配下にあったわけである。一度手に入れた領土は何時までも自分の領土だと主張しがちな漢民族が、三郡の名でなく「朝鮮」と被征服民族の呼称で書いたのはなぜか。現在では、この三つの郡の正確な位置は分からないが、陳寿の時代には実在したのだから、正確に所在地を示せた筈である。一方、韓国の「三国史記」にも、高句麗と魏は抗争を繰り返し、領土を取ったり取られたりしていたとある通り、三郡の支配地域は度々変わり、極端な場合は、先に紹介した玄菟郡のように、大きく移動したのである。従って、陳寿は都に送られた報告書の中で三郡の所在地の記載が頻繁に変わっているのを見て、これをそのまま書くと、魏の力不足を訴えたと受け取られ兼ねないのを嫌い、曖昧に「朝鮮」と記したとの考えが浮かぶ。高句麗は「遼東の東千里にあり」、「南を朝鮮と接す」とあるのを、先に述べた玄菟郡の位置と合わせると、「朝鮮」は、高句麗の西北の玄菟郡から南に楽浪郡、漢江河口から川に沿って内陸に伸びる帯方郡までを指したのであろう。高句麗の都が鴨緑江中流の丸都にあったのだから、高句麗は北緯39度、平壌の辺りまでを領土としていたとすれば、領土面積が扶餘と同じく二千里四方と書いたのは、一応筋が通っている。「正史三国志」ではここも「その領域は二千里ばかり」と曖昧である。
3)東沃沮の条:「東沃沮在高句麗蓋馬大山之東濱大海而居其地形東北狭西南長可千里北與挹婁夫餘南與濊貃接(東沃沮は高句麗蓋馬大山の東にあり。大海に沿って住む。地形東北は狭まり、南西は長く凡そ千里。北は挹婁扶餘と南は濊貃と接す)」
4)挹婁の条:「挹婁在扶餘東北千餘里濱大海南與北沃沮接未知其北所極(挹婁は扶餘の東北千余里に在って大海に沿う。南は北沃沮と接し、未だ其の北は極まる所を知らず)」
扶餘の条では「扶餘は東を把婁と接し」とあり、ここでは「挹婁は扶餘の東北千余里」とある。これも、陳寿が地理的記述に殆ど重きを置いていない証左の一つとして挙げておく。
5)濊の条:「濊南與辰韓北與高句麗沃沮接東窮大海今朝鮮之東皆其地也(濊は南を辰韓と北を高句麗と沃沮に接し、東は大海に極まる。今の朝鮮の東は皆其の地なり)」
 ここには、距離の記載はない。「今の朝鮮の東は全部濊の領土だ」の「今」は、陳寿が、三郡の場所や面積は度々変化していたと認識していたことを示唆するが、今の朝鮮が公孫氏の時代より広くなったのか、狭くなったのかは曖昧である。
6)韓の条:「韓在帯方之南東西以海為限南與倭接方可四千里有三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓辰韓者古之辰國也(韓は帯方の南に在り。東西は海を以て限りと為し、南は倭と接す。広さはおよそ四千里四方。三種有って、一に曰く馬韓、二に曰く辰韓、三に曰く弁韓。辰韓は古の辰國なり)

 ここで初めて「韓在帯方之南」と帯方郡の位置に関する記述が出てくる。高句麗の条の「南は朝鮮濊貃と接し」、濊の条の「濊は南は辰韓と接し、今の朝鮮の東は全部濊の領土だ」を合わせると、濊が接する辰韓の西にある馬韓は北で朝鮮、即ち、帯方郡と接していたことになる。陳寿が、「韓在帯方之南」と記し、「北與帯方接」と書かなかったのは、扶餘の条の玄菟郡の場合と同様、様々な資料に様々に記載されている帯方郡の場所をきちんと整理できないままに曖昧に済ませたことを匂わせる。「漢書地理志」に「帯水は西行し、帯方に至って、海に入る」とある。また同書では大同江を「列水」と呼んでいるので、「東西海を以て限りとする」韓の直ぐ北で「帯水」を探すと漢江となり、帯方郡はソウル近辺にあったことになる。但し、先に述べたように三郡の位置は動いており、魏時代には平壌の南にあったという説を否定するだけの材料はない。彼の示した「広さはおよそ四千里四方」を現在の韓国の国土面積約10㎢に当て嵌めて逆算すると、1里は約80mとなる。これは魏では短里を採用していたとする説とも合致する。しかし、正確な地図を手にできる現在の我々が見ると、扶餘や高句麗の面積が、韓の四分の一(4千と2千の自乗の差)は有り得ないこと一目瞭然である。ここまで書いて来た陳寿は、「邪馬台国」が帯方郡から遥か遠くにあることを印象付けるために、扶餘や高句麗で「方可二千里」としたのを無視して「方可四千里」と筆に任せてしまったのであろうか。尚、「正史三国志」でも、ここは「その広さは縦横四千里ばかり」と訳し、扶餘や高句麗の場合とは変えて、面積であることを明確にしているのは、後に読む「魏志倭人伝」の冒頭にある「七千餘里」を念頭に置いてのことかもしれない。
 ここまでの議論から、多少の問題はあっても、短里説で陳寿の示した距離の説明が付くと考える向きも居るだろう。しかし、得心する前に、次の例を見て頂きたい。「明帝紀第三」に、都洛陽において明帝が司馬懿を公孫氏征伐のため遼東に出兵させるに際し、「四千里の彼方へ赴くのだから、戦費をけちってはならない」と言う場面がある。この場合の四千里を、長里(約440m)で換算すると1760㎞となり、短里(約80m)では320㎞となる。高速鉄道での洛陽から瀋陽までの距離1460㎞と比べれば、どちらが正しいかは明白である。その上で、地図を見ると「方可四千里」が荒唐無稽であることを認めざるを得ないであろう。古来中国では、路傍に樹を植えたり、塚を立てたりして里程標としていたので、公文書には正確な距離が記載されており、陳寿はこれを写していた。しかし、夷狄の地には里程標はなかったので、使者や軍の報告書に記載された距離も怪しげであった。これを知った陳寿は、「東夷伝」を書くに際して、倭は「会稽の東」だとする自分の頭の中にある地図に従い、「千里」など適当な数的形容を使って文学的感性に訴えて説得力を高めるたのである。「魏志倭人伝」を読む際にも、この点に留意して頂きたい。


  「東夷伝」その2:「魏志倭人伝」を案内に「邪馬台国」まで

 東海の彼方の「倭」について二千字を超える記述を行った「魏志倭人伝」について、我が国では、陳寿が「三国志」を完成させてから四百余年後に編纂された「日本書紀」の神功皇后摂政の三つの条に「魏志によれば倭国が何々した」と言及されているだけである。当時の日本の支配者や知識階級は、大陸の政治文化に高い関心を持ち、更に下ること四百余年の平安時代の紫式部さえ「漢学の素養があってこそ、大和魂が強く世に用いられる」と考えるほどに「和魂漢才」を目指すことが、支配階級のMUSTであったという事実に照らせば、卑弥呼が大和王朝と関係があった場合には、権威付けにこれを利用したに違いない。それにも拘わらず、このような素っ気ない記述で済ましたのには、次の理由が考えられる。「魏志倭人伝」にある倭人の生活振りを見ると、縄文・弥生時代に南方からやってきた民族が未だ完全には大和民族に同化されずに九州に居を構えていたのが「邪馬台国」であり、大和朝廷とは関係なかった。韓の条に「倭は帯方郡に属す」と属国扱いされた「醜い」という意味がある(大漢和辞典による)「倭」と大和朝廷は違うことを主張するために「日本」と改めさせようとしていたが、「三國志」の存在を知っていたことだけは外交儀礼として伝えた。また、これに詳しく言及すると日本書紀のストーリーに破綻を来たすから深入りを避けたとの理由も一概に否定出来ないが、編纂から約四百年後の「唐物礼賛」の日本でも、「魏志倭人伝」は真剣に相手にされなかったのは事実である。情報化が進んだ現代の我が国でも最近起こった事件の真相が仲々分からないくらいであるから、同じく直近の事件を扱った「三國志」にも晋朝や陳寿の思惑が働いて事実が歪められていたことは想像に難くない。これに注を付すことを生きがいとしていた裴松之さえ、付注のための史料を探せなかった「魏志倭人伝」の歴史史料としての信頼性に疑いをもつことこそ理に適っていると思う。ところが、「記紀」に書かれた天皇の系譜や物語を、時の権力の影響下に編纂されたので、そのまま信用することはできないとする学者が、同じく時の権力者の下で書かれた「魏志倭人伝」の記述に無条件に信を置くかの如くであるのは、どんな論理によるのであろうか。
 それは兎も角、陳寿は、班固の書いた漢書などから、古来中国では、倭国は朝鮮半島の南に南北に長く伸びる島であり、道徳的に優れていると考えられていたことを知り、これを上手く使って、倭国を西域の大月氏に匹敵する柵封国として描くことに決めた。ここに至って、倭の地を踏んだ経験がないことが、出張報告などの資料の自由闊達な利用への躊躇いを除いた。何の違和感もなく、「計其道里當在会稽東治之東(その道里を計るに當に会稽東治の東に在るべし)」と「絶対こうである」を意味する「當」を使って、「女王国」が、呉の領地である「会稽東治の東」の海の中にあると断言している。加えて、かなりの文字を割いて「倭」が素晴らしい国であることを喧伝し、恰も大海を隔て魏の侵略を恐れる必要のないこの素晴らしい文化国家さえ、柵封を願うほどに魏の威光と力には恐るべきものがあったと誇るかの如くである。陳寿のために断ると、時代が下ること千年、1274年の元寇は仲々攻め落とせない南宋を海から攻略する作戦の一環であったとの説もある如く、この地理概念は長い間受け入れられていた。余談になるが、世界を見ると、様々な思惑・誤謬・曲解で実際とは似ても似つかない形で地図に描かれた島や國は数多ある。ナショナル・ジェオグラフィックは、このような幻の地図を集め、“PhantomAtlas”と題して出版している。この本に載る1592年のオルテリウスによるヨーロッパ初の日本周辺の地図では、朝鮮は中国の東海岸に沿って南北に長く横たわる島となっている。勿論1700年前でも、多少の海岸線の変化はあっても、現在の地形と大幅に異なることはないので、実際に現地を踏んだ者が書いた出張報告を読めば、既存の地図概念では説明が出来ない矛盾点が出てきた筈である。しかし、当時の洛陽の知識人の間で共有されていた地理の概念を無視して、現地を踏んだ者の情報に沿って記述すれば、「魏志倭人伝」の信憑性が疑われることは勿論、陳寿本人の人格さえ否定され兼ねないことは、「我が社の常識は世間の非常識」と唱える者の行き着く先を知る人間にとっては議論にも値しない。そこで、既存の地図概念に準拠して倭人の条を纏め上げることにして、この矛盾解決の糸口発見に努めた結果、「對海國」と「一大國」に関する記述に比べ「邪馬台国」に関する報告内容が雑駁であることなどから、使節団が実際に行ったのは伊都国までで、その先には行かずに、倭人から聴取した道程の説明で済ませていた可能性に気付いた。これで構想通り、巧みに事実と創作を綯い交ぜて、目的に沿った倭人の条を矛盾無く仕立て上げる目途が付いたのである。
 愈々、「魏志倭人伝」の地理的記述の検討に入るが、その前に、「東夷伝」が、地理学の書ではなく、漢から魏、更には晋への禅譲の正統性とその周辺夷狄への影響力の大きさを説くことを目的とした史書の一部であることを認識しておく必要がある。出発点の帯方郡の所在地が不明のままなのも、韓の領土を誇大化したのも、陳寿が、この目的のためには、地理的事項を曖昧にしたり捻じ曲げたりすることを厭わなかった証である。
1)「從郡至倭循海岸水行歷韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里(郡より倭に至るには、海岸を廻って水行し、韓國を経て、南と思えば東を繰り返し、其の北岸狗邪韓国に至るに七千余里)」

 「七千餘里」を「魏志倭人伝」の前にある韓の条の「韓は帯方郡の南にあって、東西を海に挟まれ、南を倭と接し、領土は一辺四千里である」に照らして解すると、次の二つの説が生まれる。一つは、帯方郡を発し、朝鮮半島の東南端、今の釜山の付近にある狗邪韓國までの約四千里四方の二辺八千里程を船で行ったとする。この説を唱える者は、「七千餘里」は許容範囲の誤差だというが、幾何学の初歩を知る者にとっては、説得力を持たない。この件の書き下し文の「乍」に「しばらく」と仮名を振って、「西の沿岸を暫く南下した後に陸に沿って東に向かって暫く行った」と解釈する学者がいる。大漢和辞典によれば「乍」は、「乍寒乍熱」(寒くなるかと思えば忽ち熱くなる)のように用いられるとあり「暫く」の意はないので、この書き下し文は牽強付会の感がある。他説は、「漢書地理志」の「帯水が西行し、帯方に至って、海に入る」を受け、漢江を下り海岸を廻って、韓國の西北部に上陸し、東南端に向かってジグザグに陸行したとする。韓の条には、「西に位置する馬韓には、衛氏に追われた箕子朝鮮の子孫が居り、漢の時代には、楽浪郡の支配下に置かれ、季節ごとに役所に参上し朝謁した」とある。これと弁韓辰韓も鉄の取引などで帯方郡と通交があったことを考慮すれば、海より安全な陸行を選ぶのが当然となる。陳寿の簡略にして曖昧な文章からは、どちらが正しいかを決め兼ねる。次の「到其北岸狗邪韓國」については、「今通譯通所三十國(今、通訳通じる所三十国)」に従って陳寿の記す倭の小国を数えると、「狗邪韓國」を倭の小国の一つとしなければ数が合わないから、これは倭に属するとする学者がいる。しかし、この文章は「東京の南、多摩川の岸に在る川崎」という粗略な文章と同じで、関連する知識なしにこれを読んでも「狗邪韓國」が倭と韓のどちらに属するか分からないのが普通である。万事に用意周到な陳寿がこう書いて済ませたのは、これ以前に然るべき文章があることを思わせる。
 「東夷伝」をきちんと読むと、韓の条に弁辰十二国の一つとして「弁辰奴邪國」とあり、それを受けて「狗邪韓國」、即ち「奴邪という韓の國」としたことに気が付く。陳寿が、倭の条だけを取り出して「魏志倭人伝」として熱心に読む人が出てくることを想定していれば、「到其北對岸弁辰狗邪國」と書いたかもしれないが、「東夷伝」を通して読む晋の知識人には、「到其北岸狗邪韓國」で十分だったのであろう。こう言うと、それでは、三十国でなく、二十九国ではないかということになる。「魏志倭人伝」の文章からは、いや「女王国」と「邪馬台国」は別だから三十でよいのだという反論が出ても簡単には否定できない。事実そう主張する学者もいる。事程左様に、彼方此方の資料から自分に都合の良い箇所を引用して、巧みに目的達成に邁進する陳寿の文章は、「邪馬台国」の所在地を比定するには、曖昧且つ作為的な記述が多過ぎる。
2)「始度一海千餘里至對海國(初めて一(ひたすら)に海を渡り、千里余りで対海国に至る)」
3)「又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國(又、南に一に海を渡ること千里余る。名を瀚海と言い、一大国に至る)」

 先ず、「初めてひたすらに海を渡る」とあることから、韓を陸行したとするのが正しいと考えられることを申し添えておく。当時でも、朝鮮半島から倭国を目指すなら、東南端の狗邪韓国、現在の釜山辺りから対馬・壱岐と島伝いに海を渡るのが最も合理的且つ安全なルートであることを経験から知っていたのは間違いない。従って、「對海國」か「對馬國」、「一大国」か「一支国」は些末な問題であり、九州を目指したなら、対馬から壱岐経由の経路に疑問の余地はない。問題は「千餘里」である。今までの議論を読んでも、未だ実際の距離との関連性に拘りたい人は、釜山と対馬の北側の比田勝港までをほぼ直線で結ぶフェリーの距離が76㎞であり、対馬の厳原港と壱岐の印通寺港までは68kmなので、当時の距離計測能力と潮流の激しい対馬海峡を考えると、短里で換算すれば両方とも「千餘里」で問題ないと言うだろう。確かに、著者のヨットでの経験からも、航行距離は潮の流れや風の強さと向きに影響され易く、海図で正しい方向を割り出し、羅針盤に従って操舵しても、潮流や風によっては、目的地からかなり外れた方向に流され、航行距離は海図で測った距離を相当上回ることがよくある。当時の技術では、急な潮の流れと風の影響を受ける対馬海峡で、ある程度の精度をもって実際に航海した距離を計測するのは難しく、陳寿が参考にした資料に記載された距離も、様々だったことは容易に想像できる。このような状況にあって、「邪馬台国」を「会稽の東」にすることに決めた陳寿は、正しい距離に無頓着のまま、遠距離を表す常套句としての「千餘里」を連発して済ましたのである。寧ろここで注目したいのは、対馬海峡の東水道を「瀚海」と呼んでいることである。「瀚海」が「広いこと海の如し」を意味し、中国では古来ゴビの砂漠からバイカル湖に至る西域の美称であった。これを知れば、倭国は、扶餘や高句麗に比べようもないほど広大な韓の更に先の果てしない海の向こう、西域よりも遠くにあると見せたいために、陳寿が「瀚海」を借用したという考えに至る。尚、陳寿が、708.7㎢の対馬を「方可四百餘里」と133.8㎢の壱岐を「方可三百里」としているのは、対馬は韓の百分の一くらい、壱岐は対馬の半分くらいと見当を付けた結果かもしれない。
4)「又渡一海千餘里至末廬國(又一に海を渡り、千里余で末盧国に至る)」
5)「東南陸行五百里到伊都國(東南に陸行して五百里、伊都国に到る)」

これでは、壱岐からどちらの方向に向かって未盧國に着いたのかは不明である。しかし、続いて伊都国には「陸行」とあるので、未盧国は小さな島ではなく、大きな陸地の一部だと推察できる。多くの歴史学者が主張する「未盧は松浦に通じ、未盧国は唐津市周辺の何処である」が正しいとすると、壱岐と未盧国の間は約42mと釜山と対馬の間の距離の約半分であるが、陳寿は、ここも「千餘里」で片付けている。これに対し、伊都国から未盧国までは陸路なので、当時の中国の測量技術をもってしてもかなり正確に距離を測定出来た筈である。先ほどと同じく短里の80m/里を適用すると40㎞となり、伊都国が現在の唐津から約30㎞の福岡県糸島市であるという説を支持する。しかし、魏の時代の一里が約440mで換算すると200㎞以上となり、幾ら曲がりくねった道を行ったとしても合点がいかない。これまでの陳寿の記述から推するに、実際の里程に関心を示さず「千里」より短かったので、簡単に「五百里」と書いたに違いない。
 ここで距離とは別の記述に眼を向けることにする。後段には、「自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國(女王国より北、特に一大率を置き以って検察する。諸国之を畏憚し、常に伊都国を治る)」とある。この文章の主語は誰であろう。魏だとすれば、松本清張氏のいう「一大率は帯方郡より派遣された軍政官」で、「女王国」の北の七か国は魏の行政下に置かれていたことになる。卑弥呼を首長とする連合体が主語だとすれば、伊都国は、大陸との通交の窓口として帯方郡からの使者への対応も行う要地であるため、常に一大率の統治下にあったと解せる。差し詰め江戸時代の長崎である。例によって、主語を省いた曖昧な筆法を用いているので、どちらが正しいのか一概には判断できない。しかし、その直ぐ後ろに「於國中有如刺史(国内に於ける刺史の如きあり)」と、中国国内の刺史のような役職の者がいると解せる文章を書いているのを見ると、「一大率」も陳寿が中国で似た職務を行う官職名を用いたと考えるほうが当たっているようである。よって、事実は後者で、伊都国に「駐倭魏大使館」のような機関が存在し、帯方郡からの使節団はこの地に留め置かれ、ここより先には行けなかったとすると、次の記述に納得が行く。
6)「東南至奴國百里(東南の奴国に至るには百里)」
7)「東行至不彌國百里(東に行き、不彌國に至るには百里)」
8)「南至投馬國水行二十曰(南の投馬國に至るには水行二十日)」
9)「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月(南の邪馬壹國、女王が都とする所に至るには水行十日陸行一月)」

 伊都国の次に出てくる奴国、不彌国、投馬国、邪馬台国の所在地を示す記述を見ると、それまでの方位・距離・国名という順序から、方位・国名・距離という順序に変わっている。「東南陸行百里至奴國(東南に陸を百里行くと奴国に至った)」と「東南至奴國百里(東南の奴国に至るには百里)」を比べると、前者は実際に行った者の言であり、後者は伊都国に居て方向と距離を聞き取った者の言葉を思わせるようである。また、実際に魏の使節が夫々の地に足を運んで書いたならば、投馬國と邪馬壹國だけを里程ではなく、所要日数で距離を表す筈がないという主張もできる。これを読んだ唐時代の魏徴は、蛮地に派遣された使者が道程を所要日数で測るなど論外だったのであろう、倭人の言と決めつけ、「隋書」の「東夷伝・倭国」に「夷人不知里數但計以日(夷人里数を知らず日を以て計るのみ)」と馬鹿にしている。日本の学者が拘る次の問題は、伊都国を発して順々に歩を進めたのか、それとも里程は夫々が伊都国からの距離かである。前者を順次式、後者を放射式と称して論争を続けているが、「邪馬台国」を呉領である「会稽の東の海」に位置させることだけが関心事だった陳寿にとっては、これは、どうでも良いことであった。しかし、目的と頭の中の地図に照らせば、方向は南でなければならなかったので、倭人が示した方位を「南」に変更した可能性は残る。「東北」とあったのを「南」と変えたが、反時計回りの順序はそのままにしてしまったと言えば、出雲説に加担することになるか。更に、「邪馬台国」への「水行十日陸行一月」を「水行ならば十日、陸行ならば一月」と読ませる学者がいる。陳寿がそう言いたかったのならば「或水行十日或陸行一月」のように書く筈である。ここも、「邪馬台国」をより遠くにあると思わせるために、曖昧なままに四文字対句を用いて文章を整えたに違いない。このように、比定に向けて色々の説が出されているが、何れも、陳寿の意図から見ると、見当外れの感は免れない。
 陳寿は、これまで見てきたように、地理的正確さに拘らずに文学的表現を駆使することで、当時の中国人の地図知識に従って、倭国は呉に近いにも拘わらず、困難を克服して広大な海を渡ってでも魏に柵封を請うほどに魏ひいては司馬氏の威徳が行き渡っていたことを示し、正史編纂の重責を無事果たせたと考えたに違いない。これでも尚「千餘里」などの陳寿の距離の記述が実際の距離であり、問題は一里が何メートルかであると主張する人には、後段にある「自郡至女王國萬二千餘里(帯方郡より女王国まで万二千余里)」や前述1)の「到其北岸狗邪韓國七千餘里」を、地図を見ながら鮮卑伝にある鮮卑の領土「東西萬二千餘里南北七千餘里」と比較することをお勧めしたい。それでも「萬二千餘里」や「七千餘里」は、正確な距離を示す数字だと考えられるだろうか。
 16世紀以上も後に、日本人がこの書をもとに、邪馬台国の所在地について喧々囂々と議論を重ねているのは、彼にとっては笑止ではなかろうか。周到な彼のことだから、裴松之のような人間に論(あげつら)
われないように、中国の伝統の一つであり、最近は日本の行政もこれに倣っている「焚書」によって、都合の悪い文書は破棄してしまったのかもしれない。


  「邪馬台国」の場所を決めるには

 このように見て来て、南を東とか、一月を一日と読み替え、短里説を導入することで「邪馬台国」の所在地を自分の望む場所に誘導することは出来ても、「魏志倭人伝」の合理的な分析によって万人が納得出来る形での「邪馬台国」の場所の比定は有り得ないという仮説を認めて頂けたであろうか。
 それでは物的証拠の「親魏倭王」金印が発見されれば、そこが所在地かというと、「漢委奴国王」の印が志賀島で発見されても、糸島の細石神社が自社から江戸時代に紛失したと主張しているように、金印が遺物である以上出土した場所や状況から科学的合理的な説明がなされなければ出土場所、即ち「邪馬台国」の所在地と断言することはできない。加えるに、「漢委奴国王」に関しては未だに真贋論争に決着を見ないが如く、日本人の唐物好きも問題を複雑にする。卑弥呼が百枚貰ったとされる三角縁神獣鏡も模倣されたり、別途持ち込まれたりして日本全国で五百枚も出土しているし、遣唐使と共に日本に運ばれた螺鈿の模倣品が現在も正倉院に保存されている位だから、「親魏倭王」の印さえ模倣された可能性も否定できない。「親魏倭王」の印が出土しても、「委奴国」と同じくその地を「邪馬台国」と言い切れない可能性は残る。それなら、どうすればよいのか。日本に律令制国家の先駆けである古代国家が成立するのが7世紀であり、3から4世紀に掛けては、「邪馬台国」を軸としたような首長連合体が、彼方此方に誕生していたので、日本中の遺跡を掘って、出土品を科学的に分析する以外に「邪馬台国」の場所を比定する方法は無いと言ったら、素人が何を言うかということになるのであろうか。