3.ミヤネ町の郊外のモンゴル橋とお城
イランという国は何処の国道を走しっても車窓から、粘土焼結レンガを積み上げた塔、崩れた城跡、寺院跡などが数多く目に入る。
イランのように多くの民族が入れ替わり立ち代って建国した歴史があると、それらの遺跡には、その民族の持っていた文化や嗜好がデザインや構造に色濃く現れている。
特にその遺跡から、橋や塔、城などの具体的な姿がはっきりしているものには一層興味が湧いてくる。
ここミヤネの現場にもモンゴル時代の橋がザンジャン川にかかっていた。
現地の人は橋を“ポーレ ドホタール”と呼んでいる。娘橋である。
イランには遺跡が無数にあるために歴史的に有名なもの以外は住民も知られていないので、名前がない遺跡にはドホタールと呼ぶ習慣になっている。だからいたるところにドホタールが氾濫している。


3−1.モンゴル橋

この橋はテヘランータブリーツ間の幹線国道に架かっている。航空写真で示されたようにミヤネから数キロのところに城と橋が連なっている。現在は写真のように破壊されて、放置されている。
また新しい鉄骨の橋がその脇に建設されている。
現場やテヘランを往復するたびに、車窓から見るこのモンゴル橋はタイムスリップした歴史の面影を放っている姿は気になって仕方がなかった。


13世紀頃のフラグ汗時代に建設されたモンゴル橋


3−1−1.橋の建設経緯

この橋が建設されたのは1258年ごろにフラグ汗がタブリーツ市を首都とするイルハン朝を建てたからである。では何故ジンギスガンのモンゴル帝国が西アジア征服を計画したのかというと二つの目的があった。“西アジア史 永田雄三編”によると、その一つが暗殺教団の脅威を取り除くことだった。レポート第一話で報告したが、概要繰り返すと11世紀ハッサン イ サバーフを始祖とするシーア派の異端派とされるイスマイール派がイランからシリアにかけて点在する峻険な山塊に難攻不落の山城を連ねて、その中でも最強で堅牢なアラムート城を暗殺教団の拠点として、刺客を養成し、政敵や暗殺請負の標的に刺客を送り、セルジューク朝の宰相、十字軍やイスラム教徒の要人を暗殺した。またカラコルムにまで刺客の手が差し伸べられたという噂が広がって、この大きな恐怖、脅威を取り除かねばならいと当時のモンゴル帝国の大汗モンケが考えて弟フラグにペルシャ遠征を命じた。
フラグは1253年秋にカラコルムを発って、1256年秋に教団最後の教主フルーシャー(1255−1256)が篭城していたマイムーンデイズ城(アラムート城より北へ6.5km)に到着して、本格的な攻撃を開始した、そして11月にフルーシャーは降伏して城を明け渡した。
彼の降伏後も山城の中でもアラムート城よりも強固な城とされたギルドクー城(テヘランより東へ330kmダムガン市近郊)が抵抗を続けたので、モンゴル軍の分岐隊が長期戦で攻め続けて、足掛け14年間粘られた1271年にようやく降伏させたことで、この暗殺教団の息の根は完全に断たれた。
しかし現在インドの大富豪アガ カーン4世はハーバード大学卒で、イギリスの貴族の女性と結婚して、競走馬のオーナーで世界のトップに君臨する人物であるが、実はこのイスマイール派の教祖の子孫であることはあまり知られていない。
二つ目はバグダードのアッパース王朝を倒して、シリアへ進出して、エジプトも支配下に置くというモンゴル帝国の西アジアの覇権であった。

イルハン国は当時東西交流の重要な拠点であったことが“西アジア史 永田雄三編”に次のように書かれている。
イルハン国の時代にはユーラシア大陸の東西を制覇したモンゴル人の支配のもとで、東西交通が活発化し、東西の文化交流が進んだ。中略 西方からも、ヴェネチア生まれの商人マルコ ポーロやモロッコのタンジール生まれの旅行家イブン バットウータをはじめ、多数のヨーロッパ人や西アジア、北アフリカの人々が東アジアに旅した。イランの地は東西の両方からみて、必ず立ち寄ることになる、重要な交通上の中継地であった。

従って、カラコルムとタブリーツを繋ぐ幹線道路の重要な橋の一つであったと思われる。
そしてミヤネの住民の話によると昔は使われていたと聞かされた。
現場で橋の壊れ方を良く観察すると、補修、改修があったにしても、数百年の使用による疲弊とか消耗の姿には見えない。両側の橋脚は綺麗なせん断面を残して、橋の中央部分だけがストンと落ちている。


3−1−2.この橋は何故破壊されたのか

この橋は何かの理由で壊されたのではないかと思って歴史を調べた。その結果アゼルバイジャン州の州都タブリーツ市は過去に二度、イラン政府に対して、独立宣言を発した経緯があった。
その都度イラン政府は軍隊を派遣して、力で州政府を解散に追い込んだ。
この紛争の中で、橋を破壊しなければならない必要性が生じたと推定した。
最も新しい独立宣言は1945年12月にアゼルバイジャン州内でイラン史上初めての普通選挙によって選出された国会議員によりアゼルバイジャン国民政府の樹立を宣言した。
しかし翌年12月には中央政府の攻勢が強化されて瓦解した。
この時の戦闘ではパーレビ朝で装甲車や戦車など重砲火機が中心で、このレンガ橋は強度不足で使われなかったと思われる。
この橋が壊されたのは第1回目の独立宣言の時だった可能性が高い。
第1回目の独立宣言内容は「西アジア史」から概略次のような流れが読み取れる。
カジャール王朝(1796-1925)冶下で19世紀初期から始まる西欧列強、特にロシア、イギリスの利権に絡む獲得競争で干渉が強まり、ロシアとの間に勃発した第一次(1804年)第二次(1826年)戦争で敗北してコーカサス地方の領土を割譲し、カスピ海のロシア軍艦の独占的航行権、領事館設置に関する規定で治外法権を認させられた。二つの敗戦の戦争賠償金支払い債務を背負わされた。19世紀後半ではイギリスの利権獲得は熾烈を極めた。
その中でイラン国民を絶望の淵に追い込んだのはタバコ独占利権(期限50年)で、年間1万5千ポンドと利益の16%を支払う条件で、イランで産出されたタバコ葉を国内消費であろうと輸出用であろうとすべて買い取る権利を1890年イギリス人タルボットに供与した。当初秘密裏に供与されたタバコ利権の噂が伝わるや全国と主な都市で抗議行動が始まり、特にアゼルバイジャン州のタブリーツ市では住民がナーセロッテイーン王(1848−1896)に利権破棄を求めて抗議行動はエスカレートした。
結局1892年に王は利権破棄を表明した。 中略
こんな中で1904年を迎えると、この年は全国的な不作やコレラの発生に加えて、日露戦争の勃発により食料品の高騰が発生した。
しかし日露戦争で日本が勝利するとアジアの立憲国家が西欧の専制国家を打ち破ったとして、王朝の専制政治対する批判をタバコボイコット運動の経験を通して政治、経済闘争に結びつける動きに発展した。中略
1906年中旬には、これまでの要求のほかに国民会議の開設要求が登場した。
モザファロッテイーン シャー(1896−1907)は8月にこれらの住民の要求を受け入れて立憲制樹立の勅旨を発した。
このようにして立憲制は急速な展開をみせて、9月9日には選挙法が公布され、10月7日には議員数の多かったテヘラン選出議員出席による第一議会が開催された。中略
1907年に入り、強固な反立憲派として知られたカジャール朝第六代モハンマド アリー 王(1907−1909)が即位した。中略
1908年に入るとイラン全土で立憲派と反立憲派の軋轢が先鋭化して、大都市で武力衝突が発生した。
王に対するテロ暗殺未遂事件も発生して、王は戒厳令を発令した。
同時に集会禁止、地方政治結社の解散を宣告して、軍隊に対して鎮圧命令を下した、そして強引にも議会を砲撃して立憲派の多数を殺害して議会を解散に追い込んだ。しかし王のクーデターは成功したが、立憲擁護、回復の運動はまもなく全国の主要な都市を拠点に開始された。
タブリーツの政治結社は第一会議の立憲派議員が中心にタブリーツ市市内の大商人による小麦粉の退蔵禁止、肉、パンの日用必需品の価格高騰の抑止、統一計量単位の導入の実務行政を担うとともに警察部門を掌握して、裁判業務も管轄下に置いた。中略
この政治結社の運動を支援したのが1906年ごろに結党した社会民主党であった。
王のクーデターで政治結社は弱体化したが、1908年、後を継いだ社会民主党の指導の下でモジャヘデーン(義勇的武闘争集団)が組織されてタブリーツは蜂起した。
これに対してシャーが差し向けたタブリーツ包囲網部隊に対して、2万人のモジャヘデーンが11ヶ月の防衛戦を戦い抜いたが屈服せず1909年タブリーツをイランの臨時の首都とし、国民議会の任をおうことを全国に宣言した。


この戦いで、タブリーツ包囲網部隊の進行を事前に阻むために、この橋を爆破したのではないかと私は想像した。


3−2.不思議な城の遺跡

この城跡は幹線道に沿ってモンゴル橋から数百メートル、ミヤネ町方角へ向かうと左側の絶壁の上に建っていた。
従って、城から何か物を落とすと道路に直撃する位置にある。
この城も村人は“ガレア ドホタール”と呼んでいる。娘城である。
城の歴史的な資料は全くないので、何も判らないが、11世紀のアラムート城の採集した器片は灰色の焼結粘土製で厚さが6−8mmほどあったが、この城の頂上付近に散乱していた器片はレンガ色で厚さが3−5mmと薄く表面もきめが細かくて硬い、従って建設時期はアラムートよりもかなり新しいと思われる。

ミヤネの郊外にある城跡全景(城1)
城門から城の本丸の基盤への眺望(城2)  城門(城3)

城門正面の壁は石灰岩のような石を綺麗に表面加工した板をランニングボンド配列で施工されている。
門の頂上には銘板が嵌めてあったような長方形の枠がある。
城1の写真から判るように門に導かれる道は城壁に沿って、正面左から獣道のような人間一人歩ける幅しかない。門の正面からは急な斜面で人馬とも直接接近できない。
この城の目的はいろいろ思案しても判らなかったが、次の三通りが考えられるのではないだろうか。

3−2−1.関所
シルクロードの中継基地タブリーツ領内を出入りするキャラバン隊や旅行者の持ち物や身分の検査、通行税などの徴収などの任務。

3−2−2.橋を守る警備隊の城
イルハン王朝以降の帝国でタブリーツに首都を置いたのは短期間ではあるがサファヴィー朝(16世紀)であった。
その後ガズヴィンに遷都しているので、当時の幹線道路にかかるこの橋は戦略的にも重要だったに違いない。
それでこの地方の状況掌握のために守備隊とか警備隊を常駐させたのかもしれない。

3−2−3.強盗団の城
これはキャラバンや旅行者を城から偵察して、上客が現れると城から投石して、前進を阻み馬で駆け下りて荷物を強奪する。

兎に角イランには歴史に記録されない城跡や橋、塔、寺院跡が無数に点在している。今は黙して何も語らない遺構にも歴史の変遷の中で、多くの民族が織り成す生活習慣や文化、経済社会の人間ドラマがぎっしり詰め込まれているのではないか思い巡らすからイラン病疾患はなかなか治らないのだ。

  参考文献

     西アジア史 永田雄三編 
     週刊東洋経済 昭和57年4月24日
     世界の歴史 イスラム時代 前島信次著

1. 水場の難工事
2. 禁酒国イランでウオッカ醸造した話