2. 禁酒国イランでウオッカ醸造した話

2−1.何故現場では酒が必要なのか

前述したように、この工事には基礎、鉄塔組み立て、電力線の架線の三つがあるが、工事の初期にはルート測量、基礎の敷地内測量、足入れ設計などフィールドとデスクワークを伴う測量士の仕事があり、品質保証上日本人の技術者、職人が参加して、いろいろな専門職が重なり合って、進められていく。
その結果測量士、鉄塔組み立て、架線の技術者、職人を該当する会社から派遣してもらう、派遣社員の事務所や宿泊所、食事、洗濯などの生活サービスは我々の管理下にある。
国内では請負であるから、親方の目標出来高に拘って頑張るが、海外では派遣契約で仕事に参加するので出来高に関係ない、従って仕事に対するモチベーションは非常に異なる。
1974年ごろ世界で初めての難着雪工事に携わった折、送電業者も初めての仕事でリスクを取れないから請負ってくれない、それで業者から職人を派遣してもらって工事を進めた経験がある。
このような経験から兎に角管理者は彼らにやる気を起こさせて持続させることに専念しなければならない。
鉄塔組み立てや電線の架線工事は高所作業で、所謂とび職人(電工さんとも呼ぶ)によって進められる。彼らは典型的な職人気質で、仕事の段取りさえキチンと整えておけば、班長が率先垂範で部下を使って、テキパキと仕事に集中する、またそうしないと危険を伴うのである。彼らの気風は単純明快で、気分がいいとどんどん仕事をする。仕事が上手だ、速い、それによって信頼されてまかされるという結果を求めて努力する。職人同士お互いに技術を競い合い、それを盗んで自分の糧にする。彼らはいろいろな現場で、多くの顧客(例えば東電、関電など)と接触するので、いい仕事をして認められることに誇りと自負心を持っている、
だから結果には親方も管理者も率直に認めて、それを表現することが重要だ。
このような職人気質の人々は仕事に対して、積極的で労を惜しまない性格が多い。ある区切りまで終わらないと仕事を止めない。
それは何故かというと架線工事会社はほとんど中小企業、昔職人だった親方が親戚、家族の若衆を集めて、職人に仕立てて、同僚と一緒に“組”を構成する所謂有限会社である。
雇用が不安定で、一匹狼的な気質が強い、人より優れた技術と施工能力を備えるとそれが素直に親方から評価され班長になったり、手当てが上がる、また実力が評判されると他の組から引抜かれたりする。
とび職人は高齢になると続けられないから、若い内に稼いで後に備えるという考え方だ。
また夏は里に戻って、田畑や昆布取り、漁夫として漁業に従事し、冬になると職人として工事に参加する人もいる。
海外の工事事務所では、このような職種の職人や技術者が集まり、寝食を共にして1,2年間を過すことになる。
言葉の通じない海外の異常な環境で、気持ちよく仕事をしてもらうには、彼らが日本で使い慣れた工具、材料、運搬などは整えることが大切だが、これは事前に日本からすべて取り寄せているから問題ない。しかし仕事が終わって、事務所に戻ってからの生活環境が特にイスラム社会では、彼らの気質には全く合わないのである。
彼らは賭け事(競馬、競輪)やナイトライフ(居酒屋、バー)を好む。
老若いずれの職人も精一杯体を動かして、疲れた体を入浴して、晴れ晴れした気持ちで夕食を迎えたとき、酒がない生活はありえなかった。
ネカーゼアラン プロジェクトのヘザロチャム現場では道路が作れないので、スキーリフトのような簡易索道を敷設するために四国で材木を山から里に下ろす索道業者 曽我部組の社長、副社長(いずれも職人)に派遣契約で敷設してもらったが、冗談半に副社長は”酒がないなら仕事は出来ないから帰る”と脅かされた。
というわけで、職人に仕事をしてもらうには酒は欠かせないのだ。


2−2.イランの酒事情

一方このプロジェクトの契約した1978年頃のパーレビ王朝時代はテヘランのスーパーではウイスキー、ウオッカ、ビール、ワインなど世界中のブランドが売られていた。
テヘランの繁華街ではギリシャ、フランス、アジアの女性が給仕として、あるいはダンサーとして働くキャバレー、バーが沢山あった。
都会のイラン人にとってお酒に対する感覚は我々と同じかそれ以上だった。
しかしホメイニ師が1979年2月に戻ってから突然禁酒国になったから国民は大変なことになった。
当然密輸入、密造が開始された。
トルコはお酒が自由だから、トルコからの出入りのトラックには必ず密輸入のアルコールが積まれていた。
検問で厳しくなるとウイスキーやウオッカのボトルを紐で縛って燃料タンクにぶら下げて持ち込んだりする。
帰りは売った酒の代金でイランの安い燃料を満タンにして帰って行く。
故中山良顕氏から聞いた話であるが、巡回中の秘密警察が、一人で来たときには酒の造り方にあれこれ口を出し、自ら醸造液をかき回したり、味をみたりして作り方を指導したのに、二人で同時に来合わせたときには“酒は造っていないか もし作っていたら罰するぞ”とわざとポリバケツ(醸造用)の方に背を向けて怖い顔。
二人以上集まるとモスレムになるが、一人だけのときはモスレムではない。
日本大使館主催の年始祝賀会に出されるワインはヨーロッパのブランド酒よりも美味しいというので、わざわざアゼルバイジャン州のワインを取り寄せていた。
特にウルミエ湖周辺のワインが際立って美味しかった。
ミヤネ、タブリーツはアゼルバイジャン州であり、タブリーツに向かう国道筋には秋になると10キロ入りの干し葡萄の箱を高く積み上げて売っていた。
一般には種無しの白葡萄であるが、酒の材料にはこの葡萄が最高である。
イランの砂漠で栽培される葡萄は粒が大きくて、甘みは格別だった。砂漠だから、水を流す葡萄の木に水路を設けて、夕方送水するが、水路以外は流れないので、雑草が生えない。だから葡萄棚など必要なく、地植えの場合もあった。昼間は年中太陽がガンガン照らすのだから、甘味が極限まで達するのだ。
イランの果物は姿は悪いが美味さでは世界最高だろう。ハラボゼ(瓜科でラグビーボール大)の糖度は15度以上、ヘンダワネ(スイカ)でも最低でも13度はあった。
こんな酒作りの好条件が手短にそろってしまうと故中山氏の話も味方して、もし密造が発覚しても外国人には情状酌量の余地はあるのではないかと都合の好い解釈で、密造を決行してしまった。


2−3.酒造方法は如何に

一箱10kgの種無し葡萄を確か1,700円ぐらいで一度に10箱ぐらい買ってくる。
事務所の地下室でコックに葡萄のヘタを取らせて、50リットルぐらいの大きいポリバケツに入れる。水を干し葡萄と同じ高さまで注いで、新聞紙で蓋をして、その上に割り箸で適当に穴を開ける。
毎日午後7時ごろに新聞紙の蓋を開けて、両手で水分を吸収して丸くなった葡萄をゆっくり揉み解して、葡萄のエキスが溶液に溶け出すようにする。
秋のイランの地下室の室温は約4度付近で保たれるので、この条件下だと約20日間経つと溶液は甘さが完全に消えて、アルコールに変化する。
最初の頃はごくありふれた蒸留方法図2の方法でウオッカを蒸留していた。
その手順は次のようにする。
1.圧力窯に醸造液を7分目ほど入れて蓋をする。
2.火を中火にして、蒸留が始まるのを待つ。
3.蒸留液が銅管から滴下し始めたら、15分毎に小皿に2,3滴受けて、ライターで点火する。
4.ライターで点火して、青い炎が上がるときは蒸留を続ける。
5.点火して炎が出なくなったら火を消して、圧力容器の溶液を捨てて、新しい醸造液を入れて蓋をして、
1に戻って、同じ事を繰り返す。
この作業を繰り返していくとコックは点火しなくなるのが何時間後かということが推定出来るようになる。
そうすると15分毎というのが1時間後から5分毎というようにチェックポイントが絞られてくる。
このようにして、最初は100%のアルコールが徐々に純度が低下して、点火しなくなるときは15%ぐらいである。蒸留されたウオッカを上下均一に混ぜ合わせるとアルコールが約43度になって、市販のウオッカと同じレベルになるのだから、市販のウイスキーやウオッカが43度前後になるのは理にかなっている。
こんな方法で醸造していたら、ある日事務所の庶務係のアスカリプール氏がミヤネホテルのコックから効率のいい蒸留器があるから、買わないかと持ちかけられたと言ってきた。
兎に角持ってきて試してみて、良ければ買うよと言って持ってこさせたのが図3の蒸留器だった。
図2 図3

結論を先に言うとこれは構造が簡単で素人の工作でも容易に作れるし大型化が出来るので一度に大量のウオッカを蒸留できる。しかも圧力釜を使わないので安全である。誠に優れた装置であることがわかった。
構造の概要は次の通りである。
まず大型アルミ鍋は直径約50センチ、深さ40センチ強、雑貨屋では大中小各サイズのものが売られている。
この構造で重要な部分は上部の本体で、傘を逆さまにした部分が上下二箇所ある。
上の逆傘は天井を構成している。これはアルミ製深鍋上下逆にして、底をたたいて浅くV字型に成型して、周りにアルミ帯板巻いて、鍋の胴にリベットで据え付けていた。
下の傘は天井から落ちてきた水滴を受けて集めた蒸留酒を本体の外側へ取り出す構造になっている。
また下の傘を本体に保持する構造はAA’矢視で示したように、4箇所のリブを介してリベットで固定している。
従って傘と本体との間にはリブの間隔だけの隙間が出来ている、下から上昇する蒸気はこの隙間を通って上の傘天井に接触して、水滴になって滴下する。
下傘と取り出しパイプは銅製である。従って部材の繋ぎは鉛が蒸留液に触れない側にして半田付けである。
水や蒸気の漏れには耐熱性ゴムパッキンや帯を挟んでいる。
操作手順は次の通りである。
  1. 大型アルミ鍋に醸造液を七分目ほど入れる。
  2. 本体を鍋の受けに載せて、矢印Bの所に小麦粉を硬めに練ったダンゴを紐状にしてシール代わりに使って隙間に充填する。
  3. 本体の天井には冷水をかけ流しにしておく。
  4. ガスバーナーに点火して醸造液を煮沸する。
  5. 蒸留液が銅管から滴下し始めたら、15分毎に小皿に2,3滴受けて、ライターで点火する。
  6. 点火して炎が出なくなったら火を消して、圧力容器の溶液を捨てて、新しい醸造液を入れて蓋をして2.に戻って、同じ事を繰り返す。
このような方法で、一回の仕込みで10から20リットルぐらいのウオッカを作っていた。
また他の材料として、糖度の点からみるとナツメヤシは葡萄よりも甘いので、もっと有効だと判断して仕込んでみた。
当時の値段は忘れたが、2007年のテヘランでは1kgが4000リアル、一米ドルが8500リアルなので
60円ほどである。
これを買ってきて、種が大きいので、取り除く。
この材料も葡萄と同じように皮に酵母菌が付着しているので、自然と発酵が進む。
葡萄と同じ手順で進めていくと濃い紫の醸造液が出来上がった。
この醸造液を蒸留すると同じようにウオッカが出てきたが、ここで驚いたことにウオッカの色が薄紫になっていたことだ。
蒸留されるとみんな無色透明になるはずだと信じていたがそうはならなかった。


2−4.事件の勃発

ある日現場から帰ってくると古河の運転手がジャンダメリ(地方警察)に連れて行かれたと聞かされた。
工事開始以来自動車事故やイラン人のストや喧嘩もなかったし、平穏無事で過してきたので、何だろうと取り乱すような気持ちにはなれなかった。
アスカリプール氏に調べさせたところ、何と問題の運転手が、自分の働いている事務所では酒を醸造しているとジャンダメリに出向いて密告したというのだ。
ジャンダメリはすぐ運転手を連れて、我が事務所を訪れて、工事の目的、働いている人が日本人であるなど調べた挙句に、何と運転手を逮捕すると言い出したそうである。
理由は“外国人が酒を醸造して、飲食することは一向に構わないのだ、何が悪いんだ”、と逆に運転手を叱りつけて、“お前は何でこんなことを我々に告げ口するんだ”“お前が悪い”といって連行したという次第だった。
酒のことは日頃から警戒はしていたが、飼い犬に咬まれるとはまさにこのことか。
翌日アスカリプール氏をジャンダメリ事務所に派遣して、運転手を貰い下げの交渉に当たらせた結果、翌日には開放された。
この運転手はその後も雇用し続けた。
これをキッカケに正々堂々と励んだ次第である。
もともとパーレビ時代、酒は自由だったのだから、外国人には規定がなかったのかもしれない。
平成21年9月

1. 水場の難工事
3. ミヤネ町の郊外のモンゴル橋とお城