第三話 京都祇園祭の山鉾に展示されるペルシャ絨毯
 
毎年、七月中旬の京都は祇園祭一色となる。そして祇園祭を見る多くの人は山鉾巡行の山鉾の音楽を奏でる囃子方やカラクリ人形、曳子、音頭取のしぐさ、鉾車の方向転回など、山鉾巡行全体の動きに惹きつけられて、遠目に見える懸装(山鉾の前懸、胴懸)、水引、天水引に展示される工芸品は良く見えないので、見落としている。
しかし祇園祭の由来は“祇園祭の美”(京都市自冶百周年記念特別展)で、次のように述べられている。
祇園祭の始まりは貞観11年(869年)、全国に疫病が蔓延して、ト部日良麻呂が勅を奉じて66本の矛を立てて牛頭天王を祭ったのが祇園会の起源とされている。
祇園祭の山と鉾は、中世後期頃から巨大化と風流の固定化の道を歩んだ。それと共に、時代時代の最新技術と巨財が山鉾を飾る懸装品や装飾品に投入され、「動く美術館」とも言われる祭礼として定着する
祇園祭が町内会の主催で山鉾巡行を恒例の行事として始めたのは室町時代である。各山鉾町(町内会)の町衆は500年に渡って、京都が誇る最高級の染織物、工芸品を集めただけではなく、彼らの美的センスに強く訴えることに成功した海外の作品を買い集めて山鉾の懸装に使ってきた。
祇園祭は山鉾町(町内会)の町衆が懸装品のセンスの良さ、美しさ、斬新性、珍しさを互いに競い合って意気を顕示する格好の場であった。その結果祇園会には多くの古美術品が伝承されてきた。
宵山(本祭りの前日)には各町内会所を昔から引き継がれた工芸品(過去に使われていた懸装品)の展示場としている、また懸装品の飾り付けが完成した山鉾は会所前に駐留している、民衆は32箇所の町内会所を巡回して、懸装品をじっくり観賞するのである。これはまさに祇園祭が世界的にも類まれな“動く美術館”であると言える。
私はイラン送電線工事の終了後も、古い民族性豊かな天然染料のペルシャ絨毯を探しに毎年イランを訪れてきた。
またヨーロッパの美術館を訪ねて、多くのペルシャ絨毯を観賞して来た。
2006年に京都の祇園祭の宵山で、17世紀イスファハンで作られた“ポロネーズ風ペルシャ絨毯”に南観音山町内会所で出会ったときは驚きで息が詰まった。
17世紀ヨーロッパの王侯貴族が家紋や名前を入れて特別注文した古美術界でも評価の高い超高級絨毯が、なぜこの極東の島国にあるのだろうか。
世界の絨毯コレクターが知ったら、本当に腰を抜かすほどの驚きであることは間違いない。
彼らにとって、垂涎の的なのである。
ポロネーズ風ペルシャ絨毯は世界の有名な絨毯美術館でもなかなかお目にかかることは出来ない。例えば世界で最も有名なアルダビール絨毯を所蔵するロンドンのヴィクトリア アルバート美術館、比較的有名なフランスのリヨン装飾美術館でも所蔵されていない。この絨毯の1枚はニューヨークのメトロポリタン美術館にある。祇園祭では18世紀から19世紀初めにかけて、中近東の絨毯が懸装品として使われるようになった。
山鉾町に伝来する渡来系絨毯は63点あるが、国内ではこの道の研究者がいないので、その詳しい内容が全く掴めていなかった。それで京都市は1986年6月にワシントン染織美術館研究員、シンシナテイ美術館中近東美術部長、メトロポリタン美術館染織品保存部長等絨毯研究家をアメリカから呼んで、学術調査が行われた。
その結果ペルャ系絨毯7点、インドラホール絨毯3点、インド絨毯23点、アナトリア絨毯1点、カザフ族絨毯2点、イギリス織絨毯6点、中国近辺絨毯21点と分類された。
ポロネーズ風ペルシャ絨毯はペルシャ系絨毯7点の中で、材料全部が絹で作られた2点の内の1つである。
絨毯を使う習慣がなくて、なじみの薄い日本人がなぜ懸装品として絨毯を選んだのかという疑問が残る。
しかし友禅、中国刺繍、紋織り、染繍などが使われて来たので、ペルシャ絨毯のような遥か遠い国の珍しい舶来品を懸装に使うことは、町衆にとって画期的な試みであり、一方好奇心の強くて、珍品を尊ぶ京都市民にとっては新しい斬新な印象を抱いて大評判になったのではないだろうか。
その結果大流行となって、各町内会は競って全国から渡来系絨毯を求めたり、あるいは上記の学術調査で報告されているようにデザインを指定してインド、イラン、パキスタンに注文して買い集めたらしい。
いずれにしても南観音山の町衆は織方、材料、染色、デザインで他を全く寄せ付けないずば抜けた絨毯なので、さぞ面目躍如だったであろう。
ただ残念なことに庶民にはその真価を評価してもらえなかった可能性はある。
今回はこの絨毯を紹介しよう。
 
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