イラン病患者からのレポート 第十二話(6) 暗殺教団の城(ペルシャ篇)
”マイムンデイズ城
北島 進 
序文

 イスラム教シーア派の異端派と白眼視されながら、自治領国家を形成して、領民から税金を徴収して160年間その執政を行ったニザリ派の宗教国家も遂に1256年11 月モンゴル帝国の司令官フラグの率いる西方遠征軍団との戦いに敗れて崩壊した。
 この時の最後の教主は八代目にあたり、略称フルシャー、正式名はルクン ウデイーン イブン フルシャーといった。執政期間は1255年から56年の一年間だけであった。
 この城はフルシャーの居城である。当時のモンゴル帝国の大ハーンはフラグの兄のモンケであったが、彼の西方遠征軍団派遣の最初の目的は執拗で敵の陣内に多くのニザリ派教徒を送り込んで、タキーアの原理、即ち自分たちの宗派の生命、財産、社会を守るために己の宗派や宗教を隠匿して、相手の宗派に成りすまして生活することを教義で正当化した原理の下でスパイをしながら、刺客の派遣のタイミングを計り、その執行をバックアップするという複雑に仕組まれた暗殺はシリア、イラク、イラン、中央アジアのスルタン、カリフ、宰相、知事がいつ襲われるか判らない底知れぬ恐怖に陥れた、いわゆる恐怖政治で有名なニザリ派教団を滅ぼすことであった。
 その恐怖は大ハーンにも及んでいたことがフランス王の使節としてフランドルの司祭ルブルクが1253年にモンゴル帝国の首都カラコルムへ派遣された時に判明した。それは使節が宮廷に入廷する前にあまりに入念な警備体制を敷いているのに驚かされた。理由を尋ねると大ハーン モンケを暗殺するために40人のニザリ教徒が様々に変装してカラコルムに最近送り込まれたという事が判明した処置だという。彼らは宮廷内の職務に雇用されて、アラムートの指令によってスパイ活動をするのが目的であった。 
 司令官フラグは1254年ごろにカラコルムを出発して1256年6月頃にペルシャに到着すると最初に取り掛かった仕事が教主でありイマームでもあったフルシャーのいるマイムンデイズ城の攻撃であった。
 私は2014年4月にこの城を訪れて状況を調べたので、歴史家や英国の調査隊の報告などを交えて全体像を報告したい。写真1はアラムート街道をマイムンデイズ城へ向かったとき西南から見た城の風景である。

1.マイムンデイズ城の地理的な位置

 この城はアラムート、ラミアサールと同じルードバール地方にある。ルードバールとはペルシャ語で川の両岸という意味であり、地図1のアラムート川、タラガーン川、この二つの合流して出来たシャー川の両岸地帯を指している。(写真2) 
 
この地帯は準砂漠地帯であるがエルブールス山脈からの雪解け水が岩の隙間にプールされて、気温の上昇と共に伏流水となって川に流れ込むので、この川を挟んだ両側に広がる平坦な耕地では農作物栽培が盛んで、イランでも恵まれた農民が住んでいる。
 
 送電線工事ルートと城との位置関係は地図1に示した。タラガーン川に沿ってジョエスタン、ナリアン十字路、パラチャン、ギャラーブ、ギャタデイの村々があった。ギャタデイの川向にドホタール城のローソク状遺跡が立っていたのを思い出されるだろう。
 この城へのアクセスは地図2で示したように現地でもアラムート街道と命名されているこの道が唯一つの道である。
 ラージェ ダシュト橋からこの道をアラムート城に向かって進むと30qほどでモアレム キラエ村(写真2.1)に至る。この村から更に街道に沿って30q行くとアラムート城に至る。
  尚1966年(昭和41年)朝日新聞社と深田久弥氏の探検隊がニザリ派教団のアラムート城を訪ねてジープ2台で来たが、シャールード川の橋が壊れて、横断できず引き返した。この橋がラージェ ダシュト村の橋である。(写真2参照)アラミアサール城近くには横断する橋が現在はあるが、当時あったかどうかわからない。現在もこの二つの橋しか横断することは出来ない。 
   
 モアレム ケラェ町に入る手前で(写真2.1)左へ直角に曲がる舗装されない道に出会う。ここを左折して登坂すること約3分ぐらいで、マイムンデイズ城の城下村サム ケラェ村に到着する。ここで車を駐車して、サムとモアレムの村を貫通している小川沿いに山の方向に登っていくと30分ほどで城の絶壁に到着する。マイムンデイズ城の城主フルシャーはイマームである。しかし初代ハサンはイマームの代理人でという職位であったからイマームの方が聖職者の位は上である。
シーア派では代理人はイマームの意思を汲み取ることが出来るが、イマームは神の意志を汲み取ることが出来るという違いがある。ではなぜイマームの代理人がイマームになったのか、このあたりの変遷の歴史を概観したい。

2.ニザリ派宗教の歴史

 初代ハサン サバーフがエジプトのファーテイマ王朝の君主をイマームとするイスマイリ派イスラム教のイランの首席伝道者(ダーイー)となってイランに戻り、1090年にルードバール地方のアラムート城を拠点にイスマイリ派の積極的な布教活動により改宗者を増やして、彼らの生命、財産を守る代償として、彼らの収益の一割税を課して、イスマイリ派教徒を自治領国家の領民とすることに成功した。彼らの国家運営を唆す敵対国は最初セルジューク朝とアッバース朝、2番目にホラズムシャー朝、三番目のモンゴル帝国という変遷をたどった。
 建国1090年から8代目イマーム フルシャーのモンゴル軍による敗北と崩壊1256年までの160年間を生き延びる爲に、初代ハサン サバーフは自分自身に対する強い忠誠心、自己犠牲の献身的な心を教徒に抱かせる狂信的な宗教教義を確立した。圧倒的な戦力を持つセルジュークやアッバース朝の攻撃に対して、難攻不落な城に立てこもり、ピンポイントで相手の中枢の人物を暗殺するという威嚇によって、譲歩を引き出す恐怖政治を執った。
 そのためにアラムート城に若い信仰心の強い教徒を刺客として養成する組織があった言われている。一方暗殺を成功するためには敵の正確な状況把握が不可欠だ。そのためにいろいろな人種のニザリ教徒をタキーヤの原理を使って相手側の教徒に成りすまして、敵の懐に深く入りスパイ活動を行い、その君主、司令官、宰相の動静の詳細な情報をアラムートに集めさせて、乾坤一擲のチャンスを狙って、命を捧げた決死の覚悟の刺客を送り込んで、スパイは陰からその執行をサポートするという戦術であった。

しかしこのような過激で怨恨を伴う手段は教団の長い運営の中で内部に起こる経済、政治、社会の不安定な時にはベストの選択ではなかった。そして実際に彼らはその時々の置かれた環境と敵の状況を照らし合わせて、臨機応変な対応が執られた。自分たちの力に比べて敵の力が圧倒的な時はひたすら教団の存続維持のために自己否定にも繋がるような改宗してまで敵の媚を売るような選択までしてきた。  宗教的な最初の転機は初代ハサンが1087年エジプトでファーテイマ朝イスマイリ派イスラム教の宗教原理を伝授されて首席ダーイーとしてイランに戻りで宣教活動をしていた。ところが1094年にイスマイリ派の本拠地カイロで宗教的な事件が起こった。それはファーテイマ朝のイスマイリ派第8代イマーム ムスタンシルの後継者問題であった。この時のムスタンシルは高齢で、行政が停滞して政治が不安定になり、行政の安定と軍事力の増強が求められていた。この要請に答えて就任した軍出身の宰相はムスタンシルが亡くなると自分の執政に都合がいい人物をイマームに選んだ。その人物はイマームの次男ムスタアリーであった。ハサン サバーフはシーア派(イスマイリ派はシーア派のイマーム継承で分派)のシャリーヤ(儀式、法律規範)通り長男に継がせるべきだと主張して、それを拒否した。 ハサンは長男ニザームをイマームとするニザリ派を創設してファーテイマ朝と袂を絶った。これ以降イランの教団をニザーム イスマイール派と歴史家は呼んでいるが、本稿ではニザリ派とする。しかし長男ニザームは翌年この継承問題でファーテイマ朝に抵抗して動乱を起こした後逮捕され獄中で死亡した。その結果サバーフはイマーム不在の中でイマームに関するニザリ派の教義を決めなければならなかった。
 そしてサバーフはイマームについて教徒にどう教えたかは知られていない。しかしその後二つの説が伝えられている。一つはイマームは死亡したのではなくて、お隠れになった。いつか我々を救済するために現世に現れるという説を唱えた。これはシーア派ではよく使われる説で、理由はシャリーアでは常にイマームはマホメットの娘婿アリーの血統を継ぐ者でなければならなかった。そこには大きな弱点が秘められていた。それはイマームの血統が尽きるとイマームの不在になり、宗教的に計り知れない痛手になる。その為にイマームの親族は常に命を狙われて度々殺害された。その都度イマームの不在が生じた。その時に教徒を説得する手段として、このような教が生まれたのだろう。
もう一つはエジプトからイランへ一人の幼児が密かに連れて来られて、アラムートで育てられた。その子が実はニザールの孫であったという説である。初代ハサン サバーフ、二代目ブズルグ ウミード、三代目ムハンマド一世(ウミードの長男)もシャリーヤを忠実にかつ厳粛に守って、位は代理人であった。
ところが四代ハサン二世の統治は4年弱だが宗教的には非常に重要な変革を行った。

2.1 ハサン二世の宗教改革

 ムハンマド一世の息子(ハサン ズイクリヒル サラーム)ハサン二世(1162年−1166年)は青年に成長した時に、初代ハサンや祖父のイスマイリ派、ニザリ派教えやイマームの経緯について詳しく研究した。
 彼には生来持って生まれた宗教家としての特異な才能が備わっていたらしい。ニザリ派の教義に関して彼の雄弁で卓越した語り口は多くの人々を心底から魅了させた。父ムハンマド一世にはこのような才能が全く欠けていたために、息子は大学者ようにみられて、一般の人々も代理人ムハンマドよりもハサンの指導に従うことを望んだ。
 文献によると初代サバーフが教義の中でイマーム不在に関する二つの説の中の最初の説でイマームはいつか人々を救済するために降誕するとした事がもしかすると現実に起こって、このハサン二世がイマームではないのかと人々は思い始めたとある。ハサンには人を惹きつける話術とか、振舞い、超能力的な素質が備わっていたのではないか。現代でも似たような現象は新興宗教の教主にもみられる。例えば野田市にある霊波の光の波瀬善雄氏とか高山市にある崇教真光の岡田光玉氏、オーム真理教 麻原彰晃氏などである。
 それに対して代理人ムハンマドは息子の行為はニザリ派の原則とはすべて矛盾していると考えた。
そして彼は息子を激しく糾弾して、人々に次のように告げた。
「このハサンは私の息子である。私は今までイマームではなく、イマームの意思の伝達者にすぎない。息子の言葉に耳を傾け、それを信じる者はすべて無神論者である。」そして彼をイマームだと信じている人々を拷問にかけて処罰された。ある時は250人をアラムート城内で処刑したり、また同数の人々を城から追放した。
しかし1162年にムハンマドが死亡すると35歳のハサンが何の抵抗もなく後を継いでハサン二世で即位した。
ここでハサンが教義を解説した内容の中に、従来の代理人としての解釈ではなくて、もし自分がイマームだったらこう解釈するといった飛躍したものが含まれていたらしい。その点をムハンマドは問題にしていたと思われる。その問題とはイラン、サウジアラビアなどのイスラム教神権国家は一般に現在でも言えることだが、教徒に対してシャリーヤを教条的で厳格に守らせようとする傾向があった。それに対して彼は教徒の信仰を内面的な深さに向かわせるような解釈に変えていったのではないかと考える。もしそうならば親父ムハンマドの反発も次の復活のイマーム誕生もわかりやすい。

2.2 復活(キヤーマ)のイマーム

 ハサン二世は即位して2年半後のラマダーン月(イスラム教徒は断食をする)の1164年8月8日、彼の命令で集められたニザリ教徒に向かって、次のようなことを宣言した。「自分はお隠れになったイマーム(ニザーム)の孫である。私は宗教で課せられた義務を今後解除すること。みなさんは新しい世紀即ち復活の日を迎えたのであって、アラーの神を直感的に瞑想することに専念すればよいこと。そしてこれが本当のお祈りであること。みなさんはもはや一日5回の礼拝をする必要はなく、宗教によって規定されているその他の外面的な儀礼を守ることは必要ではないこと.」続いて食卓が並べられ断食を破るために民衆が招かれた。そして竪琴や三弦を弾いて娯楽に興じて大いに酒を飲み、、この月を過ごした。これより以降ラマダーンの月はニザリ派教徒にとって復活祭として祝われた。
 しかしこのシャリーヤはイラン革命以前のパーラビ朝時代でも大ぴらにはとても通用はしないほど
脱線しているとしか思えないのである。このようなゆるみが信仰を内面的な深さに向かわせるような働きになったのか否か歴史家は述べていない。
 このハサン二世の行動はイスラム教ではキヤーマの宣言をしたということで、キヤーマとはイマームが救世主として再臨した、即ちハサン二世が初代ハサンが約束した隠れイマームが現世に再臨したのが私であると宣言した。救世主が現世に現れたということはそれ以降宗教規範を破棄してもよいことを意味する。イラン、シリアのニザリ派教徒はハサン2世をイマームと認めて、完全に彼の主張を受け入れた。
 再臨したイマームの下でのニザリ教徒の現実の生活は限りなく神に近いイマームの発する指導、教義の実践は絶対的なものとして受け止められていたであろう。それはニザリ教徒にとって、次のようなご利益があったし、安心感にもつながったそうである。教徒はイマームによって選ばれた僕である。復活のイマームは彼らを罪から守ることができた。同じく復活したイマームは神に近いから、教徒を死からも救うことが出来た。復活したイマームの国は神の意向に基づいた国だから、法による支配は必要がなくなり、教徒自ら神の実在を観照できるようになり、また生きながら彼らは真理を認識することが可能になった。このように復活したイマームはニザリ教徒を精神的な楽園に導くことができた。またニザリ教徒は天国への切符を手にすることができた。(The Assassins by Lewis,The Secret Order of Assassins by Hodgson)
 このような宗教規範を大幅に緩めると道徳の低下と頽廃的な乱脈に陥るおそれがあるとされている。
 この危惧が的中したかのような現象がシリアに起こった。シリアのニザリ派教団について、次のような話がヨーロッパに伝えられていた。
 ここでシリアでの教団活動を概観すると、ここで予備知識として、11世紀セルジューク朝が侵攻する以前のシリアはファーテイマ朝の領土であり、支配されていた。従ってイスマイリ派住民が多く住んでいた。1100年ごろにハサン サバーフが派遣したペルシャ人ダーイー(伝道師)がアレッポやダマスカスの山塊でイランと同じような方式の布教活動で現地のイスマイリ派(後にムスタアリー派)住民をニザリ派に改宗させて味方につけて、教団の拠点造りを進めていたが、アラブ人相手で言葉の違いやシリアの統治者はシリア セルジューク朝だったために、イランでの大セルジュークに対する敵対意識ほど強くはなかったが、布教活動、土地建物所有権,課税問題で恣意的な厳しい条件が課せられて思うように進まなかった。ところが1162年にハサン二世によって、アラムートからシリアへダーイーとして派遣されたラシード ウデイーン スイナーンが優れた政治力と指導力、統率力によってシリアのニザリ派の最盛期を現出させた。当然シリアはキヤーマ宣言を受け入れて、ニザリ教徒はシャリーヤを破棄した新しい生活を実践した。
この新しい生活習慣がエルサレム奪還のためにヨーロッパから派遣された第三回十字軍やその年代記者、旅行者の間にニザリ教団の良からぬ噂話が地元やヨーロッパに広がった。
この話が本当なのか否かは歴史上はっきりしていないが、下記のようなものである。
ローマ皇帝フリードリヒ バルバロッサが1175年にシリアとエジプトに派遣した使節団の報告であった。それは次のようなものである。
「ダマスカスとアンテオキア、アレッポの国境の山中に、彼ら自身の言葉で”山の老人”と呼ばれるアラブ系の一族が住んでいることに注目しなければならない。この人々は無法の中で生活し、彼らの教祖山の老人の掟に逆らって豚の肉を食べる。また彼らは自分の母親や姉妹も含めすべての女性と区別なく交わる。彼らは山中に住み、十分に強固に構築された城砦に潜伏しているので、ほとんど難攻不落である。彼らの土地はあまり肥沃ではないので、家畜によって生計を立てている。また彼らは一人の君主を戴き、その君主は隣のキリスト教国の君主だけでなく、遠方近隣のアラブ系の国の王様たちにも最も恐ろしい恐怖の念を与えている。なぜならば彼は驚異的な手段によって彼らを殺害する常習を持っているからである。この手段とは次のようなことである。この君主は多くの山岳に美しい宮殿を持っているが、それらは高い城壁に囲まれて、何人も一つの小さなしかし充分防護された扉以外に中に入ることは出来ない。これらの宮殿で彼は支配下にある領地の農民の息子達を集めて、幼少の頃から養育し、彼らにラテン語、ギリシャ語、ローマ語、アラブ語その他多くの言葉を教えた。これらの若者たちは幼少の頃から成人になるまで、彼らの先生たちによって、次のように教えられた、君たちの国の君主のすべての言葉と命令には服従すべきこと、そしてそれが守られるならばすべての生ける神々に影響を及ぼす力のある君主はお前たちに必ず楽園の喜びをもたらすであろうと。」
この文献がヨーロッパに流されたニザリ教団に関する最初のレポートだとされている。
このレポートの後半はマルコポーロの東方見聞録の”山の老人”の章と非常に似ている。
ポーロはイランで聞いた話としているが、当時イランには”山の老人”と呼ばれる人物はいなかった。
従って彼の山の老人の話はこのレポートの模倣に近い。
さすがにこれほどの変革にはとても追従できない信徒が出てきても不思議ではなかった。
そんな中にギーラン州のダイラム地方(地図1参照)に住むダイラム族の貴族の子孫でハサンの妻の弟がいた。
かれの信心深さと敬神の心は人並み以上であったから、ハサンの変革は明らかに間違いで恥ずべき行為だとして、その行為に耐えることはできなかった。
 そして1166年1月9日ハサン二世がラミアサール城(ギーラン州)に滞在していた時、この義弟によって刺し殺された。
 この後を継いだ息子(ヌール ウッデイーン ムハンマド)ムハンマド二世(1166-1210)も復活の教義にはより熱心だった。(彼も復活のイマームと呼ばれる)イマーム職にも、より大胆な特権力を主張して、それを執行した。一方ニザリ派の宿敵大セルジューク朝のスルタン サンジャルが1141年に耶律大石が率いるキタイ人の西遼軍が現在のトルクメニスタンへ侵攻したために、これを撃退しようと出撃してカトワーンの戦いで敗れてしまった。
 この西遼軍の中央アジアへの進出で、玉突きのようにそこに住んでいたトルクマン族は1153年頃サンジャルの地盤であったイランのホーラサン州に逃れて、そこで反乱を起こした。
 サンジャルはそれを鎮圧しようとしたが、逆に敗れて捕虜になり、1157年病没すると大セルジューク朝は滅亡した。宿敵の消滅や周辺諸勢力との関係においても比較的平和であった爲に、このイマームの40年間の統治は安定していた。シリアのニザリ派が全盛期を迎えるのもこの時代である。ムハンマド二世は1210年9月1日に没し、彼の息子ジャラール・ウッディーン・ハサンすなわちハサン3世があとを継いだ。

2.3 隠れたる(サトル)ハサン三世 (ジャラール ウッデイーン ハサン)     

ハサン三世の時代(1210-1221)は政治の不安定な時代であった。ムハンマド二世の晩年にはスンニー派のトルクマン族でセルジュークの属国的な主従関係にあったホラズムシャー朝はセルジュークの滅亡で急速にイラン、イラクの支配権を掌握して、1197年アッバース朝のカリフから正式にイラクとイランを支配するスルタンの称号を認められて、大セルジューク朝の後継者として認知された。
強大な軍事力を背景としたホラズムシャー朝の圧力は非常に強く、ハサン三世は従来のような徹底的な対立関係を維持することは難しいと判断して、最低でも自治領国家の存続維持を確実にするには周辺イスラム諸国からムラーヒダ(道に迷える者)と蔑視されている祖父ハサン二世による復活のイマームの教義、規範を廃止し、こともあろうに従来敵対していたスンニー派イスラム法学者を招聘して講義を行い、スンニー派シャリーヤの実践を人々に命じた。すなわちニザリ派からスンニー派へ改宗を行った。イラン人のようなアーリア民族は当時被支配民族だったために、マホメット死後彼を支援して共に戦ったアラブ系の資産家、メッカの商人、貴族の中からイスラム共同体の合議制で最高位聖職者カリフ(モハメッド血統に無関係)を決めるというスンニー派に対してマホメット娘婿四代目アリーの血統のつながりがカリフ、イマームの絶対条件としたシーア派を選択した経緯がある。これはアーリア人の宗教は昔ゾロアスター教だったこと更にアラブ系に対する民族的な対抗意識が底流にあった。
 この改宗にはニザリ教徒の抵抗が大きかったはずだ。国民を説得させた手段とはいつものニザリ教団の奥の手であるタキーヤの原理(信仰秘匿)によって、スンニー派への改宗を受け入れたと考えられる。従って社会環境が好転した時には速やかにニザリ派へ自然体で戻るのである。この改宗宣言によりハサン三世は1211年、アッバース朝と和平を結び、ニザリ領域の統治権をアッバース朝カリフの名において認められた。これはとりもなおさずホラズムシャー朝による認知されたことを意味した。
 このイマームには先を読む優れた外交の逸話がある。それは1216年にモンゴル帝国のチンギス ハーンがホラズムシャー朝へ派遣した商業使節団一行400人をホラズム・シャー朝のオトラル総督が、この使節の目的は中央アジア侵攻のための密偵であると疑い、一行をすべて殺害してその保持する商品を奪う事件が起こった。これに激怒したハーンは1219年彼自ら率いたモンゴル軍の大規模な侵攻が始まった。この時モンゴル軍がイランのクーヒスタン、ホーラサン、ルードバール地方にも侵攻して来ると察知したイマーム ハサン三世はモンゴル軍がジャイフーン河に到着したころにチンギス ハーンへ書簡を送り、その中で恭順の意思を伝えたという。この征服者に恭順の誓いを申し入れたイスラム国の君主としては彼が最初の人物だった。
1221年11月ハサン三世は没し、息子アラーウッディーン・ムハンマド(ムハンマド三世)があとを継いだ。

2.4 七代 ムハンマド三世 (アラー ウデイーン ムハンマド)   

 このときムハンマド三世( 1221-1255 )は9歳で、父の宰相と官僚たちによって政務が代行され、スンニー派教義は継続された。 一方1230年には金曜日の公衆礼拝の中でホラズムシャー朝のスルタンの名を読み上げてから行うように要請された。これはタキーアの原理の下でスンニー派信仰を受容していたニザリ派聖職者、教徒にとって、スンニー派スルタン ジャラール ウデイーンの名前を告げさせられて礼拝を始めることは屈辱的な話だったに違いない。ムハマド三世が政務を執るようになるとスンニー派のシャリーヤの実践が徐々に弱められるようになった。それは同じ1230年に、ホラズムシャー朝 スルタン ジャラール ウデイーンは東部アナトリアでルーム・セルジューク朝とシリアのダマスカスを支配するアイユーブ朝の連合軍に敗れ、その兵力の半数を失った。1231年モンゴル帝国のオゴタイ ハーンはイラン方面に将軍チョルマグンを指揮官に討伐隊を派遣する。当時ホラズムシャーの根拠地はアゼルバイジャン州のタブリーツあたりだった。モンゴル軍が到来を知ったタブリーツの住民とホラズムシャー朝の宰相シャラフ アル ムルクなどの配下はスルタンに反旗を掲げた。討伐隊の攻撃を受けたスルタン ジャラール ウデイーンは東部アナトリアの山中に逃亡するが、アゼルバイジャンやクルデスタン州に住むクルド族によって捉えられて殺害されてホラズムシャー朝は滅びた。従って1231年以降ニザリ派はタキーアの原理を取り除き本来のニザリ派に戻った可能性はある。ところが教団内部では異常な現象が発生していた。それはイマームであるムハマンド三世が成人になるにしたがって精神分裂症の疾患が悪化して、イマームとしての威厳を保つために臣下たちは取り扱いに最大の神経と気配りを払った。例えば医者や政務代行者はあえて治療を施そうとしなかった。またその持病を公表しなかった。その理由はイマームが狂人だということを許さない信者によって暗殺されることを恐れたからだ。それでもイマームが発する狂言的な言行を信徒は神の霊感によるものだと信じさせられていた。またイマームの怒りに触れて、恐ろしい結果を招くことには極力避けるために腫れ物に触るように世の中の現実の話、不愉快な話は知らせようとはしなかった。その結果自治領国家内には治安の乱れから盗賊が跋扈した。他にも狂人イマームの引き起こす奇妙な問題それは後継者いじめであった。後継者予定のルクン ウデイーン フルシャーはイマーム18歳の時の子供であった。ニザリ派の教義によって長男が後継者に決まるので、彼が幼少期を過ぎると人々は将来のイマームとして父以上に敬慕した。それを知った父は嫉妬して彼を虐待し始めた。フルシャーは我慢が出来なくなって、イマームの日頃の無茶な言動から絶望的な嫌悪感を抱いた親族のところに訴えに行き父の政治行動がモンゴル帝国の軍隊をこの国へ引き寄せていると嘆いた。そして息子を取り巻く親族や貴族の中に同調者があらわれて、彼に服従を誓い、最後の血の一滴まで彼を守ると約束した。このような取り決めをしていたある日、1255年12月1日イマームは酒に酔って、ラージェ ダシュト村の橋(地図2参照)の手前の山(シャールード川を渡らない)の頂上にあるシールクー(白い山という意味で後にシールクー城が出来る)にある羊小屋の隣の竹と藺草で作られた建物の中で眠っていた。彼はあまり趣味のよくない娯楽があり、それは羊飼いと行うある種の娯楽のためにこの建物に住んでいた。彼の周りには下男と駱駝飼曳きが泊まっていた。夜半になって、気が付いたら彼はこの場所で死んでいた。彼の首は胴から離れていた。彼のそばに寝ていた一人のインド人と一人のトルクメニスタン人は少しの傷を負っていた。一週間いろいろな人が嫌疑をかけられ拷問を受けたが、最終的に父の暗殺者はハサンという人物で父の親密な腰巾着で、切り離せない仲間、娯楽の相手であった。送電線工事時代にもシャリーヤで金持ちは5人までの妻帯を許されたが、貧乏人は結婚できないので男色が各地でみられたことを思い出した。今でもイラン人に話すと噴き出して笑う逸話がある。それは暗殺教団のルードバール地方のただ一つの大都会ガズヴィン市に伝わる。”渡り鳥さえもガズヴィン市の上空を飛ぶ時は必ず手を尻に当てて飛んでいる。”というものだ。
 イマームが死亡して、長男ルクン ウディーン フルシャーがあとを継いだ。
 イマームのフルシャーは彼を裁判にかけないで、暗殺させた。
この時代で最も輝かしい話はイマームが幼少で、政務を宰相や官僚が代行していた時代は教団はスンニー派宗教を実践していたので、スンニー派の神権的な権威の中心にいたアッバース朝との関係は非常に良かった。また1231年ホルムズシャー朝も滅びた。
 こんな権力空白に乗じてインドへニザリ派宣教師を派遣して、再び宣教活動を活発に展開して成功している。また文化的にも多くの学者例えば天文学者で世界的に有名なナシール ウデイーン トウースイーなどがアラムート城を訪れて、ハサン・サッバーフの遺した図書館を利用し研究を行った。

2.5 八代 ルクン ウデイーン フルシャー     

 フルシャー(1255-1256)はニザリ派最後のイマームである。居住はマイムンデイズ城であった。
なぜアラムート城ではなかったのか、父の虐待や日頃の無茶な言動、奇妙な娯楽などを避けるためだったのかもしれない。マイムンデイズ城はアラムート城より難攻不落な城だとされているが、未だに城の全容がはっきりされていない。このイマームはニザリ派国家の存続のために強敵モンゴル軍の司令官フラグと丁々発止の政治外交を展開するが最後には命運尽きて滅び去る。

3.モンゴル帝国の西方遠征団

 モンゴル帝国の大ハーン モンケが西方遠征団を派遣を決意した主な理由はモンケがかってチンギス ハーン率いるモンゴル軍に加わって先述した使節団皆殺し事件に対する報復としてホラズムシャー朝討伐のためにサマルカンド、ブハラに出征中であった1219年頃のある日ガズヴィン市の大法官シャムス ヴイッデーンが鎖帷子(鎖でできたチョッキ)を身に着けて自分の前に現れたのに驚いた。モンケはこの法官に理由を尋ねたところ、それはニザリ派の短剣から身を守る為に常に衣服の下にこのような鎧をつけているのである。と答えて更にこの機会に、この大胆不敵な教団の陰謀について詳しく述べたので、この話が彼の心に生々しく刻み付けていた。この法官の居住地ガズヴィン市は地図2で示した通りニザリ派教団とは僅かに一つの山脈で隔てられていて、この山脈とエルブールス山脈の間がルードバール地方で、そこが彼らの本拠地であった。この都市の住民は絶えず彼らの攻撃に曝されて、常に警戒をして生活していた。
また先述した1253年から5年にかけてフランス王の使節が伝えた大ハーンを暗殺するために様々に変装した40人のニザリ教徒がスパイ活動のために最近モンゴル帝国の首都カラコルム送り込まれたというように当時イラン、イラク、シリアではニザリ派自治領国家が敵対するシリア セルジューク朝、ザンギー朝、サラデイン、エルサレムのキリスト教国、パレスチナの十字軍に仕掛ける神出鬼没な暗殺行為に各国の君主や宰相、司令官が戦々恐々としていた。
 その理由は暗殺が刺客の単独犯行のため、成功しても失敗しても、その場で取り押さえられて殺害された。
仮に逮捕された刺客を拷問にかけて、刺客の黒幕を割り出そうとしても、タキーアの下で死んでも秘密を漏らさないことが宗教的に徹底していたから、受けた側は見えない敵に怯えるという底知れぬ恐怖を抱いた。
  モンケは西方遠征団の司令官に弟のフラグを任命して、何よりもまず自分の命を狙うニザリ派教団を根絶するようフラグに命じた。
 次にイラクのバグダートのイスラム教スンニー派の宗教的権威国家アッバース王朝カリフを滅ぼすことが命ぜられた。
最後がシリアに進出して、可能ならばエジプトもその支配下に置くことであった。
 そしてまず1253年にニザリ派教団のイランのホーラサン州の東方にあるゲルドクー城を倒すために将軍ゲドブカとココ イルゲイと12,000人の軍隊を先遣隊として送り込んだ。フラグの本隊は1254年4月出発してアム川を渡ったのは1256年初頭だった。
 1256年5月には西方遠征隊のフラグ司令官はイラン東部のホーラサン州の町サーベに到着して幕営を張り本格的に指揮を開始した。
フラグはサーベからホーラサン州に点在するニザリ派教団城と将軍ゲドブカとココ イルゲイの戦況を確認した。それによるとこの両将軍はこの州のいくつかの要塞は占領して破壊したが、肝心要のゲルドクー城が落とせなかった。それまでの対策とは、この城を水も漏らさぬ包囲陣を張った。
筆者が現地調査した結果、それはゲルドクー要塞のニザリ守備隊からの攻撃やニザリの他の城の軍隊からの攻撃に備えるために、ゲルドクー要塞の東南西方向に開かれた地帯に(北側はエルブールス山脈があって侵入できない)モンゴル軍の駐屯地を挟んで前後二重の大きな堡塁を築き上げていた。写真3参照(2014,4,2撮影)今から760年前に建設された石積み堡塁は風化が激しくて高さは低いが、城の南側をぐるりと取り巻くように長く連なっていた。ヨーロッパの調査隊は20世紀に入っても、ゲルドクー城の調査はしていないので、この写真は歴史家にとって珍しいものであろう。そしてこれほどの強固な防塁でゲルドクー城を孤立化したにもかかわらず、イマーム フルシャーの派遣した110人の援軍はゲルドクー城への侵入をまんまと許してしまった。 数キロにわたって兵隊12000名で24時間監視するのは不可能だったろう。フラグがイランに到着した頃でも、ホーラサン州の多くのニザリ要塞が持ちこたえていた。フラグの到着までにあまり芳しくない成績だったので、急遽実績作りのため、両将軍はトーン城を攻め落として、若い婦女と子供を除く全領民を殺害した。この手柄を携えてフラグに合流するために幕営に向かった。

4.無血開城を狙うフラグと延命を乞うフルシャーの駆け引き

  フルシャーはモンゴル軍のイラン到着を知ったが、ニザリ派内部には何とか事前の交渉で戦闘を避けてながら、譲歩で被害を最小限に事を納めたいと考えた人々と最後まで戦う方を選んだ人々で意見が分かれた。フルシャーは前者で、また彼の相談相手だった天文学者ナシール ウデイーン トウシーはイマームの星回りが不吉であると理由で降伏を選択するように勧告した。それには自分の方から素早く降伏の意思表示をして良い印象を与えようと居城マイムンデイズから一人の使節をハマダーン市にいるモンゴル軍の将軍ノヤンへ派遣して、モンゴル皇帝へ降伏の書状を使節に託した。これに対してノヤンはその使節にホーラサン州のサーベにフラグ司令官(写真4酒飲みフラグ)到着したので、その幕営にイマーム自身が赴くように勧告した書状を託した。しかしイマームは1256年5月自分の弟のシャーハンシャー(王の中の王という意味)を派遣するとノヤンに返答した。フラグはサーベの幕営でイマームの弟シャーシャンシャーに謁見した数日後の1256年6月イマーム フルシャーに書簡を送って、その中であなたが弟を派遣して降伏の意向を示したことを評価して、あなたがモンゴル人に対して行った過失を忘れてもよいこと、そしてもしあなたが自分の要塞や城を破壊して、自ら私の幕営に来られるならばあなたの領土に対して何ら危害を加えるようなことはしないことを伝えた。これに対してイマームは幾つかの城塁を破壊して、最重要なアラムート、マイムンデイズ、ラミアサール各城の城門を取り除かせて、その防備施設の一部を削り取らせた。イマームはフラグに服従を誓い、モンゴルの徴税官をルードバール地方に受け入れたけれども、自分はフラグの幕営に赴き朝貢することは一年間の猶予を求めた。フラグは1256年9月ビスターム市から使節をイマーム フルシャーのいるマイムンデイズ城に派遣して、その書簡には慈しみと威光の言葉を並べて、速やかにあなたが朝貢に来られるように促すものだった。その使節が城を去る時に、教団の宰相シャムス ウデイーン ギーラキーを同行させて、フラグに対する自分の朝貢の遅延させたことについて弁解させる任務を託した。この他にもフルシャーはフラグにアラムート、ラミアサール、マイムンデイズの三城は保有できるように約束してほしいと懇願していた。そしてその条件の下で、その他のすべての城塁はフラグに引き渡すと約束していた。またフルシャーはゲルドクー城およびその他の北ホーラサン州の全ての要塞の守備隊の将官に命令を発してフラグの幕営へ赴き降伏する意思表示をするように指示したことをフラグに知らせた。フルシャーはこの大きな譲歩を考慮して朝貢の猶予を承認してくれるだろうと期待していた。フルシャーにとってはこのマイムデイズ城のような山間地域では軍事活動が妨害される冬の到来まで時間を稼ごうと企んだのが朝貢遅延の目的だった。 
しばらくして再びフラグはダマーバンド市付近に置かれた幕営へ降伏の意思を伝えるためにイマーム自身が来るようにと勧告した。もしあなたが政務の処理で数日要するのであれば、まずあなたの子供を派遣するようにとの指図を受けた。この新たな伝言にフルシャーはびっくり仰天したが、さっそく息子を派遣する旨表明して、さらに300名の徴募兵を提供するから自分の国ルードバール地方を侵略しないという条件で城塁の取り壊しに同意すると伝えた。しかし1256年10月7日実際は自分の息子ではなくて、父とクルド人の女奴隷の間に生まれた7歳の幼児を息子と称して、それに数人の官僚を同行させて派遣した。フラグはこの計略をすぐに察したが、知らないふりをして、この幼児はあまりにも若すぎるといって送り返した。同時にフラグはフルシャーの弟のシャーハンシャーを派遣するよう要請した。同年10月26日要請通り弟シャーハンシャーと徴募兵300名を派遣した。これでフラグは満足して、年内は自分を朝貢にこだわることはないだろうとフルシャーは期待していた。冬が来て雪が積もれば居城から出られなくなるという口実ができるはずだった。その間にまた動きがあってゲルドクー城の守備隊の司令長官のところにフルシャーの命令文を携えて行った教団の宰相はこの司令官をレイ市の近くのフラグの幕営に連れて行った。これはアラムート、ラミアサール、マイムンデイズの三つの城以外の城をフラグに明け渡すと約束した。そしてこれらの城の守備隊の司令官はフラグに会に行って、降伏の意思を表わすことも約束されていた。この宰相が帰還する際に弟のシャーハンシャーも送り返して、フラグは次のようにフルシャーに要請した。すぐにもマイムンデイズ城の防備を撤去して、イマームが自ら朝貢しにくればあなたを丁重にもてなすであろう。さもなければ未来のことは神のみぞしることになると告げさせた。
その返答が前回と同じ弁解と逃げ口実だったので、フラグはルードバール地方を遠巻きに駐留していた軍隊に対して、同時にルードバールに侵攻するように命令を発した。それは1256年10月31日であった。まず右翼のマーザンダラン州(カスピ海地方)からブカ テイムールとココ イルゲイ両将軍が進軍し、左翼は現在のセムナーン州(ゲルドクー城のある州)からゲトブカとネグテル オルグの将軍が進軍して、ブルガイとトタルはアラムートの側面(ガズヴィン市から現在のアラムート街道)から進んだ。フラグは1万の軍隊を引き連れてビスキルからタールカーン路(タラガーン川沿いの道)を通してルードバールに向かって進軍した。
この軍隊の食糧は付近の各地方から、さらにはクルデスターン州(クルド族の州でトルコ国境、タブリーツ市方面)やアルメニア(現在のアルメニア共和国でタブリーツ市から近い)、グルジアからも運ばれることになっていた。運搬用の駱駝隊は準備万態整っていた。フルシャーが提供した300人の徴募兵はガズヴィーン市の近くでひそかに殺された。
全軍が1256年11月9日マイムンデイズ城に集合した時にフラグは城の周りを一周して、その様子を調査した後将軍並びに参謀と時を移さずただちに戦闘を開始するべきか、それとも翌年に延期すべきか相談した。時はすでに冬であり、食糧も馬糧も不足していた。
この理由により将軍は戦闘を翌年に延期したい意見だったが、参謀は強気な発言があった。
フラグは後者を採用して、攻撃の舵を切ったが、尚も戦わずして交渉でことを済ませないか試そうとしていた。そして将軍の一人をイマーム フルシャーに派遣して、自分が現地に到着したことを知らせるとともに、かれが戦争を避けたいならば、我々はあなた達にいかなる危害も及ぼさないこと、あなた達が降伏するまでに五日間の猶予を与えること、この期限が過ぎれば攻撃が開始されることなどの約束を彼に伝えさせた。城からはイマームが不在で、その命令なしには城を明け渡すことはできないとという返事がきた。
そこでフラグは攻撃を決断して、軍隊は材木を伐採して投石器を作り、これを近くの山間に運んだ。フラグは出来るだけ高いところに司令部を設けた。フルシャーの守備隊からは終日弓矢や槍での交戦が続いた。翌日戦闘が再開されるとフルシャーは使者を派遣して来て、自分は今までモンゴルの司令官が到着しているとは知らなかった、戦闘行為は中止させること、自分は本日か明日フラグの司令部に出頭するつもりであることを伝えた。そして翌日フルシャーは降伏条件文書を要求した。フラグの宰相アタ マリク ジュワイニーはその希望に沿って文書を作成することを命ぜられた。この文書はイマームに送られて、彼は翌日降伏すると約束した。しかし翌日かれの弟が城を出ようとしたとき城内で暴動がおこった。人々はかれの出城を阻止したのである。投降の意思のある人々は生命の危機に晒されたのである。イマームは自分の約束を守る行動に対する妨害と出城すれば殺すと唆す部下からの危険についてフラグに通知した。フラグは危険を冒さないように要請した。こんな談判が行われている間にモンゴル軍による投石機が据え付けられた。翌日周囲が一里ほどしかない城は四方八方から一斉に攻撃された。戦闘はその晩まで続いたが籠城軍の戦闘方法は塁壁からの大きな岩石の塊を転がし落とすことだった。

5.イマームの開城降伏

 予想をはるかに超えたモンゴル軍の投石機による激しい攻撃と例年にはないほど温暖な年でイマームが抱いていた希望的な観測がみな外れてしまった。
1256年11月19日ついにイマームは降伏を決意して、まず自分の子供と重臣をフラグの幕営に送り、翌日イマームはフラグの司令部に出頭して平伏した。その時にイマームと同伴していた人はトウース市出身の有名な天文学者ナスイール ウデイーンとハマダーン市出身の有名な医師ムワフィーク アッダウラトおよびライース アッダウラトであった。
これらの人は降伏の際はフラグに完全に服従することが事前に通告されていた。それほど重要な人々であることがモンゴル側でも知れ渡っていた。特に天文学者ナスイール ウデイーンはモンケがカラコルムに連れてくるようにフラグに命令していた。世の人々には全く想像もできないような夥しい財宝をイマームはフラグに献上した。フラグはこの財宝を将軍に分配して、翌日マイムンデイズ城から守備隊が撤退して、住民も持ち物を携えて城の外に出たので、モンゴル軍は城に進駐した。
イマームはフラグから厚遇されたが、モンゴル軍の将校の監視下で、ルードバール地方、クーミス、ホーラサン各州のニザリ派の要塞の司令官にそれらの要塞をモンゴル軍に手渡すことを命令するように強いられた。そして彼の代理人がフラグが要求した降伏勧告のために派遣した使者に同行させられた。40以上の城塁がこのようにモンゴル軍に引き渡されて、彼らによって空にされたのち破壊された。僅かにアラムート、とラミアサール、ギルドクー城の司令官は降伏を拒否してフラグが自ら現れるならば直接この城砦を手渡そうと言い逃れをした。フラグはダイラム朝の古都シャフラック(ダイラム朝の揺籃期の本拠地)を通ってアラムートへ向かった。かれはこのシャフラックで九日間の宴を開いて、彼の計画が運よく成就されることを祝った。シャフラックは今は小さい村であるが、アラムート川とハウデガン山脈から流れ落ちるアンデジ川が合流する水量豊富な農村地帯である。
そののちアラムートの山裾に赴き、そこからイマームをこの城塁の城壁の下に派遣して、その部下に降伏を呼びかけさせた。城の守備隊の司令官はそれを拒否した。フラグはこの城郭を包囲するために一部隊を残した。その後二、三日して、守備隊の司令官は考えを変えて、イマームに数回使者を送り自分たちの降伏後の助命と程よいとりなしを乞うてきた。イマームはフラグとの交渉が成立して、彼らの罪状をフラグは許して、彼らの財宝や所有物を運び出すために三日間の猶予が与えられた。四日目にモンゴル軍の軍隊とイラン人の民兵が城郭に上り、そこに残っていたものを強奪して、家屋に火を放った。時に1256年12月はじめだった。
 アラムート城の編でも述べたが宰相アタ マリク ジュワイニーはハサン サバーフが集めた多くの貴重な図書がアラムート城の図書館に蔵されているを知ってフラグに保存することを申しあげたら、彼はこれを調査することを命じた。宰相はその蔵書の中からコーラン経の諸本とその他貴重な図書および天文観測機器を取り出した。
 フラグは1258年にタブリーツに首都してイル汗国を建設した。捕虜になったハマダーン市出身の有名な医師ムワフィーク アッダウラトおよびライース アッダウラトはフラグに仕えたが、天文学者ナスイール ウデイーン トーウシーに命じてタブリーツ市郊外のエル ゴリ公園に天文台を建設して研究をさせた。モンケがこの天文学者をカラコルムの召喚するように命じていたが、この時彼はすでに死亡していた。

6.降伏したフルシャーの処遇と使い捨ての末路

 ラミアサール城へフラグは赴いたが開城降伏しなかったので、フラグは将軍タイル ブカにモンゴル人とペルシャ人の軍隊を与えてこの地を包囲させた。この城も更に一年の間耐え忍んだが、ついに1258年モンゴル軍に降伏した。ゲルドクー城の守備隊の司令官はイマームの説得を拒否して、14年間の籠城の末に1270年ついにモンゴル軍に降伏した。
 フラグはガズヴィンの近くにある自分の司令部へ帰り、この地で一週間にわたり宴を催した。その後イマームはフラグに随行してハマダーン市へ来たが、ここからフラグはシリアのニザリ派教団の諸城の城主に対して、これらの城塁をすべてモンゴル軍に引き渡すよう命令するために自分の幹部2,3人をシリアへ派遣することに決めたが、フラグはイマームにニザリ派の幹部を同行するように命令された。
イマームはフラグの幕営で滞在している間に、素性の卑しいモンゴル女性と親しくなった。フラグはイマームに彼女と結婚することを許した。この時まではフラグもイマームたち捕虜を厚遇してきた。それはニザリ派の多くの城塁を武力によって奪取するには多くの時間と労力が伴うので、イマームの権力を使って諸城塁の城主や司令官に降伏を促し勧告することに利用した。この手段によって、モンゴル軍は交渉による降伏を勝ち取ることにある程度成功した。
 ここに至って、フラグはもうこれ以上イマームを必要としなくなった。しかしマイムンデイズ城明け渡しの際に降伏条件文書の中に重臣と王侯の生命は守るとの約束があり、かれを亡き者にしたいが、自ら自分の言葉を破ることはできなかった。幸い以前からイマームは一度モンゴル帝国の皇帝モンケのもとへ朝貢で行きたいという希望をフラグに伝えていた。1257年3月フラグはいい口実が見つかったと思って、数名の将校を護衛にしてイマームとその九人の随行員を派遣した。イマームはモンケの宮廷に到着したが、モンケは彼に会うことを拒否して言った。この旅は何にも必要ではなかった。ただ駅馬を無駄に使って疲労させただけだと。イマームと随行員はこの地から引き返しモンゴル高原のカンガイ山付近に来た時に、護衛の将校たちによって殺された。
 モンケの最初からの命令でニザリ派教徒を皆殺しにすることであったために、イマームの全ての領民はモンゴルの部隊に分配された。イマームがモンケのところに朝貢に出かけている間に部隊が預かっているニザリ教徒を殺すように命令が発せられた。ゆりかごの中の嬰児まで免れることはなかった。イマームの家族はガズヴィン市とアブハル市の中間あたりというから、多分現在のターケスターン市に連れていかれて、そこでみんな殺されて、この家系の子孫は完全に絶えた。
 さらにフラグはモンゴル軍隊の民兵募集という建前で人口調査をすると言って、ホーラサン州のニザリ教徒を集合させ、これを惨殺したが、その数12,000人に及んだ。
このニザリ教徒の運命についてはその後の諸説が浮かび上がってきた。
フラグの宰相アタ マリク ジュワイニーの著書”世界の征服者の歴史”の中に、「これ以降ムラーヒダ(ニザリ教徒)はユダヤ人と同じように諸国に分散した。これらの刺客の脅威を受けていた国王たちはその不安から解放されて、ルーム セルジューク(アナトリア)、シリアのザンギー朝、パレスチナのフランク(十字軍の国)の王侯たちは彼らに支払っていた貢納を免れるようになった。」
しかし実はこの出来事でムラーヒダは全滅したと当時は考えられていたが、「1500年ごろホーラサン州ではニザリ教徒が相変わらずハサン サバーフの一割献金という習慣を維持して税金を納めて、その収入で彼の墳墓の維持管理、装飾に充てられていた。」とペルシャ人の著書ヘラート史の中に語られている。
またバーアナード ルイス著”The Assassins"によるとフルシャーの小さな息子(ないしは孫)シャムス アッデイーン ムハンマドが生き残り、父の死とともにイマームを引き継ぎ生きながらえて、イマームの血統を伝えた。1275年ごろにはアラムートを一時奪還したとも伝えれれている。その後タブリーツ市周辺のアゼルバイジャン地方に身を隠して1310年ごろに没した。
 そしてニザリ派国家の滅亡後、ニザリ派の村の人々は四散したが、一部の人々はタキーヤによってニザリ派信仰を秘匿して、スンニー派や十二イマーム派、そしてイスラム神秘教団スーフィー教を装う者が現れた。アゼルバイジャンで没したイマームの血統はその後はっきりしないが、新たな宗派が二つ生まれる。一つは1375年ごろダイラム(ルードバール地方からカスピ海へ抜けるエルブールス山系の地帯ダイラム朝の里)地方で活躍していたムハンマド シャー派、もう一つがカースイム シャー派である。前者の血統は18世紀には完全に消滅した。カースイム シャー派のイマームは15世紀半頃から自分たちの本来の宗教活動の他にイスラム教神秘教団スーフィー教のタリーカ(教団)を形成して、教徒が神と一体になるための神秘的な修行を積み重ねることを指導するピール(長老)とかシャイフと呼ばれる師匠を務めていた。この頃のニザール派はタキーヤで隠匿しながら穏健なイスラム神秘スーフィー教団に化けているので、16世紀にはサファビー朝や十二イマーム派スーフィー教団の援助を受けて勢力を拡大した。サファビー朝の生まれ故郷はアルダビールで、そこで王様の祖父がスーフィー教団のピールとして多くの奇蹟を起こしたために沢山の信者が集まり、それが大きな勢力に成長した。その後多くの歴史的な紆余曲折を経て、この派のイマームが19世紀のニザリ派のアーガー ハーンの誕生に繋がる。現在のアーガー ハーン四世がニザリの血統を継いでいるか否かはDNAで鑑定しないと判らないと思われる。しがしご存知の通りイギリスの貴族として殿下の称号で呼ばれる彼はアーガー ハーン開発財団を組織して、パキスタン、アフガニスタンなど第三世界各国で社会福祉活動を行っている。またヨーロッパの競馬界では最強の競走馬の馬主としても有名である。

7.マイムンデイズ城

 この城は先述したようにイマームの統治したニザリ派国家最後の城である。 この城に関しては英国人ピーター ウイリーを隊長にカメラマン、地図測量士、医者、考古学者で構成された総勢6名の調査隊が1959年と1962年に各数ケ月わたって、ルードバール地方の主要な教団の城を現場の近くの村でキャンプを張って滞在し、現地人を雇って掘削、運搬、道具造りをして調査していた。イギリスのマンチェスター大学やイラン政府の協力の下で大規模な調査であった。この調査報告書(略称PW報告)”The castles of Assassins”の中のマイムンデイズ城が世界で最初の調査報告だった。記載された調査箇所は主に馬の厩舎とそこに通じる幾つかの洞窟内の予備部屋と三か所の泉、西門を調査した様子が書かれているだけだった。他の城に比べると未熟な調査結果であった。
 さて今回この最後の城を調べるために2014年4月に訪れた。
2010年にラミアサール城を案内してもらったガズヴィン市のホテル”イラン”の経営者はニザリ派教団の城に詳しくて、欧米観光客にも自ら有料で案内してくれたが、今回は体調不良で不在、部下の若いマネージャーを雇って現地に向かった。残念ながら英語が良く通じないし、現地は垂直に切り立った絶壁の下を歩き回るので、落石の危険があり、彼の案内に任せることにした。それで案内された場所とPW報告、ジュヴァイニの歴史書から想像できる現場の様子を写真によって説明したい。
                   

7.1 南方から見たマイムンデイズ城
   
   
 マイムンデイズ城は写真6の左が西側、右が東で、奥が北、正面が南である。そしてPW報告によるとこの城の城郭は南西側の角に建てられているという(写真6-1の白枠)。従って城郭は写真6の左端から右側のA,Bへと伸びていた。左端の谷には小川がサム、モアレム キラエ村に向かって流れ落ちている。
北側はエルブールス山脈の支脈ハウデガン山脈が繋がっていて、敵はこの険しい二つの山脈を越えて攻めるのは不可能で、北側の防御には重きを置かなかったとジュヴァイニ述べている。また西側は写真6、6-1に示すように切り立った幅の狭い岩塊で同じく不可能である。東はPW報告ではE,G地点を経由して山の頂上に登れるが城がない。従ってフラグの攻撃は南側からであった。今回ガイドは最初にAの断崖の下に案内して、その崖下をB,Cへとトラバースして村に戻った。
 この日(4月4日)も写真から判るように前日降雪があって、先述したフルシャーが期待したように12月に入れば積雪で攻撃できなくなるので、フラグとの交渉を来年までだらだらと引き伸ばそうと企んだ意図はうなずける。しかし残念ながらフラグの攻撃日1256年11月の気候は温暖だったので、雪はあったであろうが戦闘には支障を来さなかったらしい。

7.2 西門

 案内人が真っ直ぐに連れて行ったところがA辺りで(写真6、7)あった。何が根拠で、ここに案内したのかよく判らなかった。従ってA地点を案内されたときは、ここがPW報告の西門の挑戦したときの梯子の場所とは全く気付かなかった。
しかしじっくり自宅でPW報告の写真P と今回撮影した写真K1,K2を見比べたところ、ここに案内した理由が判ってきた。
 それは本に記載されている写真Pの壁面H,I と筆者が撮影した写真K1,K2の壁面H,Iを比較するとカメラアングルが若干違うが穴の形状は全く同じだということが判明した。
 PW報告によると雇用した村の住民に長さ18mもある梯子の材料を準備させた。そし1962年8月30日にそれらの材料を筆者を案内してくれた地点Aまで運ばせて(写真P1 )、梯子をこの絶壁に組立させた。
従って彼らの梯子を掛けた壁面が案内されたA点の壁面であった。
即ちA地点が英国調査隊が梯子を掛けて西門を探した地点であった。
そして案内人がなぜストレートにここへ案内したのか、その理由は彼らが調査隊に雇われて仕事に参加したサム ケラエ村の住民から情報を得て、すでに知っていたということであった。
     
   
 
 
 現地調達のポプラの生木で18mはとてつもなく重い、一本を5人で運ばせたとある。釘は村で手造り、横木は薄い板で頼りがなかったが梯子は組み立てられた。村の城案内人を先に登らせたが、体重でギシギシ音がして左右に揺れたが無事中間の穴に着いた、次に隊長が登ったが体重が重く、しかもステップが60p間隔で脚の持ち上げが大変、しかも横木の取り付け位置が狭くて、足の置く位置が不安定で難儀の末に穴にたどり着いた。実は現場確認後隊長が降りる際に、地上から5mのところから梯子を踏み外して落下して、大けがをしたと述べている。
 隊長の目論見ではその穴から、何とか道らしい通路で西門に行けると判断して梯子を使ったが、実際はロッククライミングの技術がないと行けないことが判明して、この西門への挑戦は断念したと書かれていた。
 このA地点を南側からもう少し全体の位置関係を見ると写真7になる。A地点の左右の壁は南方角へ100度ぐらいで開いている。この絶壁にはかなり大きな洞窟の穴はあるが、どれが西門なのか確定は出来なかった。
 写真7の右下の別荘の脇を左右に横Vの字に道が折れて登って行く途中で、A 点の眞下の道から何か上の方に洞窟の大きな穴があるので撮ったものが写真8である。
この右側の穴が調査隊の梯子の壁にあった壁面Hであったことは机上で写真を調べている過程で発見した。
写真8はA点に案内されていた時に上の方に大きな洞窟があるので、望遠レンズで撮影したので、手前の横岩板が遮っているが、写真P のように実際は高い絶壁の上の方にある穴である。
 PW報告はこの穴を西門とは見なしていなかったと思われる。従って隊長はこの穴まで梯子で登ったが、西門は更に15m上で、しかもロッククライミングのような技術が必要だと判断して断念したのだろう。
西門はこの壁面のどこかにあるらしいが、それを確認することはできなかった。
左のV字の切り欠き穴は何か。

7.3 城の痕跡 

 このA周辺の絶壁を眺めていると、マイムンデイズ城はアラムートやラミアサールと違って、城の重要な城門、監視塔などの構築物の痕跡がほとんど残っていない。
 PW報告書にも城門、監視塔などの写真はなくて、洞窟内の馬小屋とそれに通ずる回廊、警備、貯蔵部屋の床や壁の掘削した跡などの写真しかない。PW報告によるとマイムンデイズ城の防塁はジブラルタルの岩の内側に造った防塁と同じ概念で造られたと述べている。
モンゴル軍による徹底的な破壊も痕跡消滅に加担したであろう。
   
   
 また厳しい自然環境が影響している。それは山の岩質が砂岩で冬季の降雪と春の雪解けで、1256年放棄されて750年も経過すると小石とレンガをセメントで固めた城壁は壁の内側に侵入した水分の氷結、解凍の繰り返して崩落したのだろう。この現象は山全体にも影響している様子(写真9)が岩の柔らかな所が降水で洗われて丸くなり、流れ落ちる時に壁を溶かして深い溝が出来ている。
現場で発見できた唯一の城の痕跡はA点から左側の壁に張り付いた小石とセメントの半円柱状のもの(写真10)である。この構築物は山の肌色と同じ色彩の塗料で塗られている。城をできるだけ目立たないようにカモフラージュしたようだ。

7.4 モンゴル軍の戦闘態勢

 フラグが1256年11月9日攻撃を決断して、村民は軍の指導で材木を伐採して多くの投石機を作り、これを近くの山間に運んだ。モンゴル軍は投石機を城郭の周囲に据え付けた。その間籠城軍は矢や槍を投射してきたが、翌日モンゴル軍が一斉に投石機で周囲が一里しかない要塞を四方八方から攻撃した。その結果防戦するフルシャーの籠城軍はもっぱら塁壁の高いところから大きな岩石を転がり落として対抗した。この地域では例年なら雪で道路が使えなくなるが、この年の気温が異常に温暖で、予想以上の猛攻撃にフルシャーは降伏を決意した。
今回撮影した写真をもとに、フラグがマイムンデイズ城を攻略する過程を想像してみたい。

7.4.1 城への侵入ルート 

  これはフラグの宰相で歴史学者イラン人のジュワイニによるとアラムート川から城に迫ったとある。このことは現場の地形から見て、当時の名前は違っただろうが、モアレム キラエ村、サム キラエ村の川沿いを通って侵攻したのだろう。
 ここではフルシャーが城に迫って来たモンゴル軍の様子をどのように観察したか それを城の西門の直下からアラムート川の眺望が写真11で示した。
この写真で分るように城の西門の壁面は約100度の扇状に開いているから、扇の要は奥まっている、それで左右が影を作っている。左遠方にモアレム、サム キラエ村が見える。侵入ルートのエンドポイントが写真12の別荘のある緩い丘陵ではなかったかと想像している。
右の男はガイドさんである。
平成26年4月5日は前日雪が降って地面が白っぽい。

7.4.2 モンゴル軍の司令部

 フラグの参謀として従軍していた歴史家ジュヴァイニは司令部と軍旗を城を見渡せるような丘陵を選んだと書かれている。
 教団の籠城軍の戦闘方法は塁壁からの大きな岩石の塊を転がし落とすことだった。従ってあまり城壁に近いところは危険で選べなかったはずだ。
この別荘の存在が落石の心配がないことを証明している。また城全体を見上げる位置にある。これを可能にする場所は西門の丁度眞下の別荘のある平坦地ではないかと推測した。(写真12)ここは丁度写真11の下方に扇状に広がる緩やかな傾斜の丘陵地である。

7.4.3 投石機

 ヨーロッパでもこの時代の城攻めの定石として投石機が使われていた。ジュヴァイニによると「近くの材木を伐採して、多くの投石機を作って山間部に運んで据え付けた。それが完了した翌日周囲が一里ほどしかない城は四方八方から一斉に攻撃された。」とある。
 城の周囲は確かにA,B,C周辺だけなので、一里ほどは正しいと思われる。写真にもあるように豊富なポプラが木材として利用されたと思われる。しかしこの辺は地盤の傾斜が急で、しかも岩の凹凸が激しくて投石機のような平坦地に据え付けないと不安定なものを沢山据え付けることが出来たのだろうかと疑問に思われる。投石機は石を飛ばすメカニズムとして大きな弓や太い強力なゴムバンドを取り付けて威力をあげる構造だ。これなら現地調達の部材で簡易投石機が造れる。ただし弓、ゴムバンドはこのような田舎にはないので、モンゴル軍は城攻めに必要備品として常に携帯していただろう。写真は古代、近世の地中海、ユーラシア大陸で使われていた簡易な投石機の見本である。実際の投石機部材はポプラの生丸太をロープや木の皮で結束し、車輪は必要なかっただろう。

7.4.4 モンゴル兵のキャンプ地と馬の舎場

 フラグは1万の兵隊を連れて、また他の3部隊がマイムンデイズに向かったというから全部で2万以上の軍隊になっただろう。これらのキャンプ場は平坦部のない城周辺は無理なので、サム キラエ村の北部で城に近いところ(写真13)、民家のある辺りではないだろうか。ここは4月でも小川が流れていた。

8.城の崖下のスナップ

 崖下には山から落ちて来たと思われる直径1mぐらいから10cmまで無数の落石が散乱していた。案内人の説明では、これらの落石には写真15のように赤茶色の斑点がついている。周りの石よりも光沢がなくて、エッジがあり、表面が粒状の凝結肌であった。
 山側から流れている小さな小川を発見した。(写真16)
 この小川が城の泉からあふれて来たものかもしれない。
 
     

9.謎の多いマイムンデイズ城

  この西門がこれほど高い位置にあるとすれば当然地上から長い歩道がなければならない。それは恐らく絶壁に穴をあけて丸太木材の梁を打ち込んで、あるいは凸壁を削って台を作り、その上に小石とレンガをセメントで壁と接着して梁として、梁と梁の間を板材でつなげば歩道は出来る。この低勾配の歩道をジグザグにして西門まで設けられたのかも知れない。
マイムンデイズとはイラン語で猿という意味であるが、この城は猿城、確かに人間の運動機能では思うような居心地にはならないが、猿のような軽くて敏捷な運動能力には安全で居心地が良い城かもしれない。
しかし洞窟には畑は出来ないし、水、貯蔵設備などスペース的にも技術的にも限界があるだろう。長期の籠城は不可能ではなかったかと推察される。戦闘結果をみても戦闘開始の翌々日には白旗を上げているので、歴史書に書かれているほど難攻な城ではなかったのではないかと思われる。兵糧攻めが最も効果的ではなかったろうか。
 イランが再び世界に開かれた友好国になったら、新たな調査で城の詳細な実態が解明されることを願っている。

10.あとがき

 平成25年2月にゲルドクー城を紹介した際に、暗殺教団の話は終了すると述べた。
 しかしその後シリアの教団を調べている内に、この小国が160年間もの歴史を刻んだ背景には単にテロによる恐怖政治と臨機応変な駆け引きだけで、いつも譲歩を勝ち取ったとは考えられない。それでイマームの代理人やイマームという聖職位で8代に亘って引き継がれた宗教政治を調べたところ、意外な宗教の変遷をたどっていたこと、そしてモンゴル軍による敗北の経緯とイマームの三大居城の一つマイムンデイズ城の三つのテーマをレポートしたかった。
これを書いている矢先、アフリカ、イラク、シリアで毎日イスラム教スンニー派教徒によるテロや拉致、戦いのニュースが報じられている。
 話題の中心イスラム国という武闘集団はその信仰の篤い無垢な教徒を兵役に利用してシーア派との宗教対立で自己を正当化し、自らの国盗り合戦をやっている。そのやり口は何でもありの無法者、無神論者の集団だと断定したくなる。
 送電線工事時代にテヘランでは窃盗、すり、ひったくりの事件の新聞報道があった。
しかし田舎の人々は文盲率65%でも信仰心の篤いお年寄りが家庭を統率しているので、”いじめ”やストーカー、強姦、殺人などが全く聞いたことがなかった。銃などは一切許可されていないのか見たことがなかった。田舎では信仰にもとづく慎ましいイラン人とその家庭を見てきた。特にイラン人男子は背丈が高く武骨で逞しいが、黒いチャドルをかぶった信心深い母親にたしなめられるように言われると全く抵抗できないというイラン独特な逸話が沢山ある。
 グローバルな世界で商売をするためには難物のイスラム教もマスターしなければならないだろう。
 その一端として、このような話も役立つかもしれないと期待している。
 
参考文献

モンゴル帝国史             ドーソン著
The Secret Order of Assassins マーシャル ホジソン著
The Assassins        バーナード ルイス著
The History of the World Conqueror マリク ジュヴァイニ著 アンドリュ ボイル英訳
 
平成26年8月28日