イラン病患者からのレポート 第十三話 タクテ ソレイマン
”ゾロアスター教神殿
北島 進 
序文

   ソレイマンという言葉はイランではよく聞かれる。例えばエルブールス山脈にタクテ ソレイマンという山がある。ペルシャ語でソレイマンとはソロモンを意味する。ソロモンとはBC970年ごろのユダヤの第三代目の王である。イスラム教でも彼は預言者の一人として崇拝されていた。またタクテ(Takht e)が”の玉座”を意味するので、ソロモンの玉座となる。
   しかしこの神殿の最盛期即ちササン朝時代の6世紀頃は”アザル ゴシュナスブ”(Azar Goshunasb)と呼ばれていた。現在はこの遺跡全体を”タクテ ソレイマン”とイラン人は呼んでいる。またこの地方一帯は昔BC6世紀のメデイア王国の領地で、その後アケメネス朝、パルテイア朝と支配者が変わっても、ペルシャ語で”ガンザクまたはガンジェ”、ビザンチン帝国のローマ人は”ガザカ”と呼んでいた。 当時はササン朝とビザンチンは度々パレスチナ、シリア、アナトリアの領土問題で紛争していたので、ローマ人にもこの神殿は非常に知名度が高かった。
   右上の銘板にあるように、この遺跡は200355日に世界の文化、自然遺産としてユネスコに登録された。登録名はタクテ ソレイマンである。非常にユニークな地理的な地盤に建設されており、周囲の風景と相まって独特な雰囲気を漂わせている。まずは全体の景色をご覧頂こう。

   この写真は現地のチケット売り場で買ったガイドブックから転写した。
   この神殿は湖を中心にして楕円形の城壁で囲まれている。
   左側の遠方に見える富士山のような綺麗な稜線を描いた山は中心部に大きく口を開いた深い絶壁に囲まれた天然の穴があり、底部には湧水とガスが滲み出している。
   この山の周辺にはソレイマン以前に使われた神殿があった。
   その中間に広がるのどかな田園風景の中にノスラタバード村が横たわる。

1.タクテ ソレイマンの地理的位置

   ソレイマンはタブリーツを州都とするアゼルバイジャン州にあり、写真1からは一見平野に見えるが、全体は山脈に囲まれて、しかもそれらは活火山地帯である。タブリーツから南東へ300km、テヘランから750kmほどの所に位置する。
   200910月この遺跡を訪れた時はイラン送電線工事プロジェクト(ゼアラン変電所ータブリーツ変電所間)のザンジャーン事務所があったザンジャーンに一泊して、翌日ビジャールへマイクロバスで向かった。ロシア革命(1917年)以前にロシア帝国は南下政策の活発化でカスピ海の沿岸都市ラシット市に傀儡政府を樹立してイランのカジャール朝と対立した時代に何故か多くのロシア人がビジヤール市に住み着いたと言われている。それでこの街には色白で金髪や薄茶の髪をしたスラブ系の人々がよく見かけられた。またこの街は地方色の強い独特なデザインと素材の堅牢さで名を馳せた絨毯が生産され、欧米では有名な町である。

   この街を見学した翌日にソレイマンに向かったが、直接行くバスはないので、神殿の手前42kmの町タカーブへマイクロバスで出発した。時間ぐらいで到着する。
   タカーブから神殿へのマイクロバスはないので、タクシーである。約30分の道のりで到着した。道程は砂漠の平原で、まず前方に富士山が近づいて来る。この山を右方向に迂回して4kmほど進むと神殿の大きな外壁が現れてくる。道なりに進むと大きな駐車場に到着。

2.神殿の歴史

   この神殿の歴史を語る前に、ササン朝時代の主要な神殿の成り立ちと特徴、そして使用され方の変遷に触れたいと思う。ササン朝誕生から滅亡までに王朝の公的に運営された神殿は三つ挙げられる。
尚アザールとは火を意味する。これらの神殿の位置を地図に示す。

A. アザール ファランバーグ(Azar Faranbagh )

   三大聖火神殿の中で第一位とされている、ササン朝による最初の公的な神殿であった。
   ファランバーグは南部ファールス州のシラーズ市の近くにある。聖職者と司祭たちに特化した守護を司る聖火の神殿とされた。3つの神殿の中でも最も偉大で最強のものとされた。ササン朝初期の王達は先祖の都スタフルで戴冠式を行い、その後国家の鎮護、安泰を祈願するために必ずこの神殿を徒歩で訪れて、聖火を聖職者、司祭と共に参拝した。しかし世紀はじめにソレイマンが建設されると権威はそちらに移された。14世紀ごろイスラム教の侵攻により、神殿が衰退して荒廃した結果、ここの聖火は現在ヤズド市のゾロアスター教大本山に移された。(イラン患者からのレポート第9話を参照)

B. アザール ゴシュナスブ(Azar Goshnasb)

   この神殿がタクテ ソレイマンである。王家や貴族、軍隊の守護を司る聖火である。
   廃殿後の聖火の行方は不明である。 

C. アザール バルジン メール(Azar Barzin Mehr)

   この神殿は東部ホーラサン州のニシャプール市の近郊のサブゼバール町の近くにある。
   この神殿は農民の守護を司るとされていた。廃殿後の聖火の行方は不明である。 

2−1. ササン朝時代の繁栄

   このガンザク地域に人類が最初に居住した痕跡は紀元前1000年ごろであった。この神殿のオリジナルはパルテイア時代(BC248-AD226)の遺跡の上にササン朝第17代皇帝ペローズ(459−484)によって5世紀後期に始められた。
   この神殿の規模を現在の姿に構築したのは、ササン朝時代(AD226-642)の黄金期を築いた名君第20代皇帝ホスロ−1(531ー579と第22代皇帝ホスロ−2(590〜628によって行われた。彼らは自分達の先祖であるアケメネス朝と同じアーリア民族である。従って宗教もゾロアスター教であった。特に両ホスローの時代はビザンチン帝国(東ローマ帝国で東方正教会)と度々戦って勝利したために、領土が拡張され、政治経済が非常に繁栄した。
   過去のアケメネス朝ダリウス3世がBC330年ギリシャのアレキサンダー大王によって滅ぼされた後を引き継いだギリシャ系のセレウコス朝、これを倒したアーリア人でペルシャ系パルテイア朝から権力を奪ったササン朝は、ギリシャ、ペルシャの伝統文化の上に独自の創造した芸術や建築様式を開発して、ゾロアスター神殿を建設した。
   この神殿はササン朝様式の典型的な建築物で、後世で繁栄するイスラム教国家の建築様式に多大な影響を与えた素晴らしい記念すべき建物だったとユネスコは評価している。
   多民族国家のアケメネス朝は被支配民族の宗教を認めていたが、ビザンチンはキリスト教以外の宗教は認めないとして、他宗教の住民に改宗を追ったり、追放した。一方ササン朝はゾロアスター教を国家宗教と定めて、被支配民族の多い国民の国家に対するアイデンティティを醸成する目的で、ゾロアスター教の浸透を末端まで行き届くように宗教儀式の励行強化や神殿組織を再編した。そして政治と宗教とつながりを強化するために神殿建設に力を注いだ。国家権力の移譲を明確にして、皇帝の権威を強調するために、初期の歴代皇帝の戴冠式は当時の首都アルダシール ファッラフで行われ、その後官僚、貴族を引き連れて徒歩で巡礼先の大聖火神殿アザール   ファランバフへ向い、ここで司祭による盛大な聖火拝礼祭が行われた。しかし世紀以降は新首都クテシフォン(イラク)で戴冠式を行い、巡礼先をこのタクテ ソレイマン(アザール ゴシュナスブ神殿)に変わった、勿論巡礼の旅程は徒歩であることに変わりはなかった。このように壮大な神殿を建設して、戦利品や財宝を献納し盛大な礼拝祭を挙行したことは執政と宗教との強い関わりを意味していた、ササン朝の執政者が如何に宗教との繋がりに依存していたかを現していると歴史家は語っている。
   また王が神殿に滞在するために、”皇帝の玉座”が備えられていた。だから”ソロモンの玉座”と呼ばれた理由も少し誇張されているが頷ける。
   ゾロアスター教の信仰対象は”火”を介して神アフラマズダを認識するという神の使者とみなし、また水は生命の源であるとして、水の神(大地の女神)”アナーヒタ”を崇拝する宗教である。
   この神殿には他の二つの神殿にはない毎分44リットルの湧水に恵まれた湖水がある、それでホスロー世によってアナーヒタを祀る神殿が併設された。それによってこの神殿はより魅力的で格調が高められた。
   二人のホスロー時代から、この神殿がアザール ファランバーグより格上で最高の権威を持った大聖地となった。

2−2 衰退と廃墟

   ゾロアスター教を国教として、ササン朝の精神的な拠り所であるタクテ ソレイマンが宿敵の報復のターゲットにされたのは歴史的ドラマである。衰退はそれによって始まった。
   それは昔からビザンチンとササン朝は犬猿の仲であった。しかしこのドラマの発端はホスロー1世の時代から始まったビザンチン帝国との戦いの歴史にヒントがある。
   それで関連する主なものを拾って見えると、

ホスロー1世の時代(531-579) 

   戦いの発端は今のグルジア共和国での話である。グルジア人とは身近なところで相撲の臥牙丸、エドワルド シュワルナゼ(ソビエト連邦外相)の国である、その風采からロシアと同じスラブ系だろう。
   このグルジア国の位置(地図3参照)は黒海の東岸に位置し、西岸にはビザンチン帝国の首都イスタンブールがある。カスピ海と黒海の中間にはコーカサス山脈があり、そこにグルジア、アゼルバイジャン、アルメニアなどの国が並んでいる。当時グルジアはビザンチン帝国の隷属国だった。現在のアルメニアとアゼルバイジャンはササン朝ペルシャの隷属国だった。従って元気の良かったササン朝はグルジアさえ支配下に置けば黒海へ出入りが自由になり、軍事、交易に計り知れない利権が獲得できる。グルジアもアルメニアもキリスト教である。工事に参加してくれたアルメニア系イラン人故ベギヤン氏や事務の女性の風采からもスラブ系のように思われた。
   6世紀中頃のグルジアの王グバゼス2世はもともとはビザンチン帝国の王家の血統を継ぐ友好的な隣国の王として即位した、しかしビザンチン帝国はグルジアに守備の軍隊を配備したが、この時の駐留軍司令官がビザンチンの利益を推進するために、グルジア商人の貿易に制限を加えた。そのために541年に国民の不満が爆発して暴動化した、弱気なグバゼス2世は密かにビザンチンの宿敵ササン朝ペルシャに支援を求めた。
   同年グルジアの要請を受けて、その年の春に、ホスロー世と彼の部隊は、グルジアのガイドの案内で山野を行進し、グルジアへ入場した。ビザンチンのグルジア駐留軍は最も戦略的に重要なペトラ要塞で勇敢に抵抗したが、司令官が殺されて、要塞はすぐに陥落した。ホスローはペトラにペルシャ駐屯軍を残して国を去ったが、クリスチャンのグルジア人がペルシャの国によって支配を受けることになるとゾロアスター教の司祭の宣教の熱意が高まってきて、ペルシャ人に対する違和感が高まった。おまけにビザンチン国との貿易禁止令まで出されて、548年に反乱が起こった。その背景にはグルジアの戦略的重要性を認識していたホスローは、グルジア全体の人々を移住させて、ペルシャ人に置き換えることを意図していたと現在のビザンチンの歴史家プロコピウスは述べている。ペルシャの計画ではまずグバゼス2世を暗殺することだった。 ホスローの意図を事前に察知したグバゼス2世は同年再びビザンチン側に寝返った。
   その後紆余曲折があったが、557年にはビザンチンとペルシャの間で戦闘が終了し、562年の "50年の平和"という休戦協定を結び、これによりビザンチン帝国は毎年ある量の黄金(量は不明)をペルシャ帝国に納める義務を条件にグルジアをビザンチンの属国にすることをホスロー世は承認した。

ホスロー2世の時代(591‐628)

   ここでの戦いの発端はキリストがゴルゴダの丘で磔にされた十字架(聖十字架)をホスロー2世が略奪したことである。
   本題に入る前に、彼の皇太子時代の話を紹介する必要がある。王子の彼はペルシャの属国、しかしキリスト教であるアルメニア国のシーリーンという絶世の美女をお妃に迎えたというゾロアスター教の指導者が執政と宗教を重視するご時世で、かなり大胆で融通無碍な行動に出た。
   その結果キリスト教に寛容な姿勢を持っていた。それはビザンチンとの関係を良くする方向に働いた可能性はあった。 
   590年に、彼とペルシャ司令官バハラームチョビンは父ホルミズド四世を倒して暗殺した。そしてバハラームチョビン(第21代皇帝590-591)は、自分が王位を継ぐべきだ主張して、彼と戦った。皇太子は敗北して、ビザンチン帝国へ逃れた。彼が何故敵国ビザンチンに逃れたのか、歴史書には詳しい話はない。ただ先に述べた彼のキリスト教に対する寛容さと柔軟な外交手腕が伝わっていたのかもしれない。兎に角、その時の皇帝マウリキウスがホスローに好意を抱かせていたこのは間違いない。
   591年にビザンチン皇帝マウリキウスは35,000人の軍隊派遣して、ホスロー2世の王位復活の支援を行った。そしてホスローのペルシャ軍とローマ軍の同盟軍はタクテ ソレイマンのガンザク近郊のバララソンの戦いで、バハラームチョビンの軍を破った。マウリキウスはホスローを王位につかせて、ペルシャと新たな同盟を結んだ。即位したホスロー2世はヴァン湖周辺の市:シルバン、マラーズギルド、アニ、とエレバンの大都市を含め、更にバン湖とセバン沼までの西部アルメニアの領土をマウリキウス皇帝に割譲して、彼の恩に報いた。
   ここで注意したいのはバハラームチョビンとの戦いがガンザクというソレイマン神殿の近くて起こったことである。後述するビザンチンの軍隊がタクテ ソレイマンを直接攻撃する事件が起こるが、ビザンチン帝国はこの参戦で、ガンザクとソレイマンの地理、神殿の重要さ、戦利品や秘宝の献納など多くの情報を掴んでいた可能性が高い。
   その後602年にマウリキウスは彼の将軍フォカス(602ー610)によって殺害されビザンチン王位を奪われた、ホスロー2世は表向きは、恩師マウリキウスの死に復讐するためにコンスタンティノープルに対して攻撃を開始したが、明らかに彼の目的は、できるだけ多くの割譲した領土を取り戻すのが目的だった。彼の軍隊はシリア、小アジアを略奪し、608年にはカルケドン(イスタンブルの対岸ウスクダラの近く)へ侵略した。613―614年には、シリアのダマスカスとエルサレムを包囲し、敵の将軍を捕虜にして、キリスト磔の真の十字架(聖十字架)を奪って、大勝利でクテシホンに帰還した。その後将軍シャヒンはビザンチンを何度も破って、アナトリアを行進した後、618年にエジプトを征服した。
   ホスローに蹂躙されたビザンチン皇帝フォカスから610年に王位を引き継いだ皇帝ヘラクレイオスは、622年までの12年間に強力な軍事力基盤を確立して、ついに624年、イラン北西部の現在のクルゼスタン州を通って進軍してアゼルバイジャン州のタカーブ市近郊のガンザクのタクテ ソレイマン神殿を攻撃して破壊した。
   この進軍経路はホスロー世の意表を完全に突いたとされている。ヘラクレイオス軍はまず聖十字架のある首都クテシフォン、バグダッドを攻めてくると予測した。しかしゾロアスター教のペルシャにキリスト教聖地エルサレムを蹂躙された怨念を敵の宗教の聖地タクテ ソレイマンを破壊して晴らしたいとビザンチンが考えたとのかもしれない。この攻撃で、ホスロー2世はかろうじて、聖火の火は消さずに避難することに成功した。現在はこの聖火がどこに移されたか不明である。
   627年にヘラクレイオスはニネベ(イラク)の戦いでペルシャ軍を破って、クテシフォンに向け侵攻した。 ホスローは抵抗することもなく、彼の好みの居住地、ダストゲルド(バグダッド近く)から逃げた。629年ヘラクレイオスは聖十字架とエジプトを返還させて、コンスタンティノープルに勝利で帰還した。 624年にホスロー(590-628)がビザンチン帝国との戦いで敗れてからは、神殿は侵略者の略奪や破壊に遭って、その影響力は低下した。イスラム時代には寺院は更に衰退して行った。

2−3 再興

   その後再び改修復興の手が加えられたのは第十二話で報告した暗殺教団に最後の留めを刺したモンゴル帝国の西方遠征軍団の司令官フラグが1258年にタブリーツを首都にしてイル汗国を建国したが、彼は1265年に亡くなると息子アバカが王位を引き継いだ。(1265−1282
   二代目アバカのお妃はビザンチン帝国(東方正教会)の皇帝の皇女であったが、彼自身はネストリウス派のキリスト教徒だった。彼はこのゾロアスター教神殿を自分の宮殿として使う目的で、神殿の復興と宮殿を建設した。復興対象は主に聖火神殿と王の天井桟敷、湖の周りの新しい建築物が含まれていた。この文化遺産登録に関するユネスコのコメントは次のようである。”モンゴルの修復と増築した建物には、イスラム時代の中でゾロアスター教神殿の復活とイスラム建築いう文化的な繋がりとして興味深いものがある。その自然や文化的な遺産の資質にはユダヤ教のソロモン、キリスト教の地上の楽園、聖杯のような様々な伝説や聖書の問題と関連している。”

2−3−1.アカバは何故この神殿を再興したのか

   この神殿は首都タブリーツから南南東に300km離れている。アカバが何故ゾロアスター教神殿を自分の宮殿として使いたかったのかという疑問に答える手掛かりはやはり宗教心からであろう。お妃がギリシャ正教教徒で、ネストリウス派のキリスト教徒だったアカバ王が、この神殿に惹かれたのは次の歴史的な史実に触発されたのではないかと想像される。”アケメネス王朝(ペルシャ最大の版図を領有した)の三代目キュロス二世(BC559-530)がイラン高原を支配していたメデイア王国(アーリア系)を滅ぼして、更にBC537年現在のイラクのバグダッド周辺を支配していた新バビロニア帝国のナポニダス王を滅ぼした。
   一方49年昔のBC586年に新バビロニアのネブカドネザル王がユダヤを征服して、半世紀にわたってエルサレムから数万のユダヤ人が捕因されてバビロンに強制移住させられていた。(バビロンの捕因)キュロス二世は新バビロニアを滅ぼしたので、このユダヤ人を開放して、エルサレムへの帰還して神殿の再興を許した。ユダヤ人はキュロス王の寛容な計らいを大いに称えて、彼の信奉するゾロアスター教に強い関心を抱いた。”この史実は旧約聖書のエズラ記の中に大きく取り上げられている。キリスト教徒ならば知らない者はいない。
   もう一つはこの神殿がユネスコの遺産登録のコメントにあるように、キリスト教の聖書や伝説に結びつく現場であることだろう。
   もう一つは風光明媚だっただろう。13世紀に残された数少ないゾロアスター教遺跡の中でも、彼の首都タブリーツから比較的近く、生命の泉が湧き緑豊かな環境は砂漠の住人にとっては地上の楽園であったに違いない。

3.ササン朝時代のペルシャ文化の日本への伝承

   6−7世紀のササン朝時代の文物はシルクロード通じて中国西安に渡り、遣隋使、遣唐使の手によって日本に齎された。
   これらササン朝の文物はアレクサンダー大王の征服により齎されたヘレニズムに染まりはしたが、バビロニア、アケメネスの伝統文化を基盤に独自の創造性を加味して生まれたものであった。  聖徳太子が仏教を国を治める手段としたように、ササン朝はゾロアスター教、ビザンチンはキリスト教だった。このような社会の中で、ホスロー時代にはまずビザンチン帝国のユスティニアヌス1世は529年頃キリスト教以外の学校を閉鎖する政策を実施したため、多くの失業した学者がササン朝に移住し来た。ホスロー1世は学問を奨励して彼らのための施設を作って受け入れた。
   そしてゾロアスター教の聖典”アヴェスタ”のギリシャ語翻訳が進められて、貴重な文献が多く後世に残された。
   この時代に日本に齎された工芸品の中で、ササン朝の文化の影響を受けた品物を紹介すると 

  A.象木ろうけつ染め屏風   B.白瑠璃碗                 C.法隆寺夢殿の戦勝旗
       











A,Bは奈良正倉院の所蔵で、A856年頃作 ササン朝ペルシャの樹下動物文のデザインを使っている。制作は中国か。木には猿が、下の奇岩には猪が疾走している。Bはペルシャ製。
Cは聖徳太子の霊を弔う夢殿に秘蔵された戦勝旗のレプリカの拡大図である。左右に馬上のホスロー2世が振り返りざまに胡弓で、襲い来る獅子を射る。

4.地盤と建築物

   写真でわかるように遠くの火山系山脈に囲まれた平野の上に地盤が形成されている。
   地盤の大きさは長さ550mx350mの楕円形である。
   建物の材料は主に石とレンガ、石膏で接着剤にモルタルを使っていた。
   ササン朝時代の建築物で、この神殿だけに適応された特筆すべき技術とは石を加工して石材を作り、基礎や壁、バルコニー、建物を建築したが、そこにレンガを併用したことである。
例えば石材で壁を作った後にレンガを使っている。(写真
   この神殿の建物の配置が写真4に示したように湖と拝火部屋の中心線が神殿の南北軸上に乗っている。
ゾロアスター教の建物には次のような建築上特殊な仕掛けが必要であった。
   一つは拝礼者には聖火が隠された状態になっていなければならない。
   もう一つは聖火の部屋には太陽の光が当たることは許されない。
   従って聖火の燃える部屋は狭くて四角い壁に囲まれている。

   大きな湖が敷地の中心に広がっている。この水準は城郭の外側の畑地よりも20m高い。
   この湖は幾つかの箇所では深さが120mもあり、石灰岩を深く掘り抜いた井戸がある、そこから毎秒44リットルの水が当時から今日まで湧き続けている。多くの宮殿はこの神殿の周りに構築された。この湖水の存在は周囲の環境に素晴らしい景観を提供している。
   この湖水から南と北への2本の小川は城外へ流れ出て周囲の畑を潤している。それにより強力な農業や園芸活動が盛んになり、地域社会を経済的に潤した。
   この湧水の水質はソーダ水である。
   この湖水には不思議な話が伝わっている。45年前から住んでいる地元の指導者の話によると
今までに3人が溺れて亡くなったが、死体を発見ることは出来なかった。
   2005年にドイツ研究者が高度な潜水具を付けて潜ったが、30m以上潜ることは出来なかったという。また1kgほどの数千匹の魚を数年間放流したが、数時間後には姿が見えなくなった、魚の死体も上がらないし、姿もないので、生きているのか死んでいるのか判らないという。専門家の話では湖の中央から、他の水域に通ずる水路があって、その魚達はその水路を通って別な水域に行ったのではないかと主張している。
   またこの湖はモンゴルのイル汗国によって建設された長方形の回廊と列柱で囲まれていた。(写真を参照)
   ササン朝時代に構築された城郭は写真に見られる様に38個の塔があり、入口は南北に二つある。城壁の高さは13mであった。
   イル汗国の回廊の西隅には巨大なレンガ造りの天井桟敷が建てられた。ホスロー世のギャラリー'と呼ばれた。この建物はササン朝建築様式の特徴が顕著に表現されているという。


写真が敷地図である。

 
   :ササン朝時代の建造域
 
   :モンゴル時代の建造域
建物は全て池の北側にあり、ササン朝時代の寺院敷地は一辺が180mの四角形である。
その四角形の敷地の主な施設は次の11ケ所である。
1:火を拝む神聖な場所  
2:永遠に燃える聖火部屋 
3:アナーヒターを祀る所
4:ゾロアスター教の北中庭
5:列柱ホール
6:王室の人々の食事処ろ
7:祝祭ホール
  8:接客ホール
  9:宗教的な境界の周辺回廊
10:宗教的な境界の周辺回廊
11:ホスロー王の天井桟敷

4−1.天井桟敷とイル汗国の遺構 

4−2.聖職者の調理室と食堂

4−3.聖職者の個室

写真10は拝殿から聖職者の部屋に通じるトンネルである。
写真112009年イラン人研究者によって発掘調査が進められていた。

5.あとがき

   聖徳太子が593年に摂政になって、604年憲法17条を制定して、天皇を頂点とする中央集権国家の統治に当たり、役人や国民に発布したものである。この時代はホスロー世の治世(531−624)に重なる。面白いことにこの憲法にはゾロアスター教の教義に関連するものや政治と宗教の繋がりを意図しているものがある。それを拾っていくと
条  仏教を深く敬う。
条  天皇の命令には必ず従う。
条  悪を懲らしめて、善を尊びなさい。
   第条で仏教によって、執行者や役人、国民に道徳、社会規範を与えて、第条で絶対権力の象徴を天皇として、天皇には絶対服従としている。これはササン朝、ビザンチン帝国の政治と宗教の関わりに似ている。
   またゾロアスター教の主な教義には性善説と善悪二元論があって、前者は”人は本来善的な精霊を抱いて生まれたのであり、理性的で良心的な性格の動物である。自分自身を見詰め、アフラ   マズダによって与えられた精霊を認識して、それを十分生かしながら生活をし、社会に貢献する義務がある”と説く。
   後者は天界にも善悪の二つの霊があるが、現世にも善悪の霊が人の心の中で、戦っている。人は善霊を持って生まれてくるが、現実の社会の狭間で、悪霊に捕まり、良心、理性を失って常道を逸してしまう。この時に霊能ある者(司祭者、神官など)が逸脱した人の精霊を理解して、彼を生来の善人に指導することが出来ると説く。この説は第6条の実践根拠として十分な説得出来る教義である。

参考文献
ゾロアスター教史 青木 健著
Fire Temple at Sassanid Era Dr. Zakarya Valaei (Journal of American Science)
タクテ ソレイマン 世界遺産登録レポート
ゾロアスターの神秘思想 岡田明憲著
                     
平成25年7月22日