イラン病患者からのレポート 第十二話(5) 暗殺教団の城(ペルシャ扁)
ゲルドクー城
北島 進 
 
序文

   暗殺教団の始祖ハサン イ サバーフ(略称ハサン)が自治領国家を構築する為にイランのギーラン州の穀倉地帯ルードバール地方で、急峻な独立峰の山塊を見つけてはそこに難攻不落な城を建て、ニザリ派の布教によって改宗された村民を味方にして、宗教的に敵対するスンニー派セルジューク朝及びバグダードのアッバース朝と戦っていた歴史を彼らの根拠地だったアラムート城やラミアサール城を通して説明してきた。
   しかし1090年のアラムート城の略奪から1256年モンゴル帝国の西方遠征軍団の司令官フラグによって滅ぼされる160年間に、イラン、シリア領で何と暗殺教団の防塁や城郭、砦が約300以上に及んだといわれている。
   それらの城の中でも、城の構造や辿った歴史から見て、興味が惹かれる城の一つが暗殺教団の最後のイマーム ルクン ウッデーン フルンジャーが立て篭もってモンゴル軍に包囲されて再三攻撃されながら、頑固に抵抗し続けた末に降伏した城がマイムンディース(ペルシャ語で猿)城であった。この城はアラムート城の西隣の村に位置して山塊に深く掘り抜かれた特殊な構造をしている。二つ目はセルジューク朝のお膝元イスファハーンの近くにもシャーデイズ城、カラボジ城があって、敵のテリトリーに位置した極めて危険な環境の中でハサンの指令を受けてはセルジューク朝に対するスパイ活動、住民へニザリ派の布教活動をやっていた。
   しかし何といってもアラムート、ラミアサールの次に挙げなければならない城が、このゲルドクー城である。それは次のような歴史と城郭構造の観点から見逃せない特徴があった。第一は城の防衛力の高さであった。それを証明する根拠は、モンゴル帝国の大ハーン モンケが西アジアで猛威を振るっていた危険なニザリ派の暗殺教団とアッバース王朝を滅ぼすことを目的に弟のフラグに命令して編成された西方遠征隊の先遣隊として12,000人の部隊の大将キドブハ(ケドブカ)が1253年にペルシャのホーラサン州に侵攻して来たとき、最初に攻撃に取り掛かった城がこの城であった。
    一方司令官フラグの本隊は1256年中ごろペルシャに到着して、同年末にはアラムート、マイムンディーズ、ラミアサール城を相次いで陥落させた。
   しかしその間キドブハは攻めあぐんで、城の麓に城壁をめぐらして、長期戦に臨んだ。
   結局この城はアラムート落城後14年間も篭城を許して1270年にようやく陥落した。
   この年にはマルコポーロがこの城のすぐ脇のシルクロードを東に向かって通過している。
降伏した原因に面白い逸話が残っている。それは食べ物や飲み物の欠乏ではなくて、着る物がなくなって裸同然の姿で投降したと伝えられている。
第二点は財政的な豊かさである。それはアラムート城の略奪に成功したとき教祖ハサンはセルジューク朝のスルタンの所有認可を持ったアラムートの旧城主ミフデイーに対して3,000デナールの金貨を支払ったことが歴史家ジョヴァイニの著書で語っているが、ハサンは当時ダムガーン市のホーラサン州知事をしていたムザファール ヌスタウフィに依頼して支払わせた。
   この知事が後にゲルドクー城の城主となる。
   同じような金銭的な援助を要請している事件が起こっている。それは1107年頃、セルジュークのスルタンのムハマッドがハサンの権力増大を阻止するために宰相を司令官として、軍隊をルードバール地方に派遣した。ところが敵はなかなか降伏しないので業を煮やした彼らは敵の農作畑を徹底的に破壊して撤退した。その結果城の中ではひどい飢饉が発生して人々は草を食べてしのいだ。この時ハサンは布教活動や教団の維持管理の費用捻出する為、服地の機織に従事させて、それに見合った賃金を与えてくださいという手紙を添えて、自分の妻と二人の娘をゲルドクー城へ送った。城主ムザファールは快く受諾して彼女たちを受け入れた。
   この城はイスファハンやホーラサン地方の教団がセルジュークの攻撃で窮地に陥った際の緊急避難場所として、またその後の社会的な騒乱が起こった時にはダムガーン市民にとっても重要な避難場所であった。

1. ゲルドクー城の地理的な特徴



   この城の地理的な特徴として、地図Aに示すようにネカ発電所をスタートした電力送電線工事ルートの現場事務所があったサリー市は海抜マイナス30mのカスピ海沿岸に位置して多雨多湿地帯である、従って水耕栽培のできる農業の盛んなマーザンダラン州とエルブールス山脈を超えてシルクロードという交易要衝の街ダムガーン市と街道で結ばれている。そのために古くからそこを通過するキャラヴァン隊や旅行者から通行税を徴収する利権があり、戦略的に魅力的な位置にある。
   城主ムザファールはセルジューク朝の出身なので、この利権を与された時代もあった。
   この城はアラムートやラミアサール城のような近寄り難い断崖絶壁の山岳地ではなくて、ダムガーン市周辺の地形が示すように西東方面に浅い丘陵が広がり、南にはイラン国土の約三分の一を占めるカヴィール砂漠が延々と広がっている平坦地に立っている。北はエルブールス山脈が横たわるが、近くにはその支脈の低い山が点在している。従ってゲルドクー城は平場の単独峰である。
   イタリアの商人マルコポーロは1270年ごろトルコのアナトリアを通ってイランのアゼルバイジャン州のタブリーツ、ガズヴィン、テヘラン、ダムガーンのシルクロードを通過して北京に向かった。
   ゲルドクー城の位置は歴史書によるとダムガーン市西南方17kmにある。
   しかし1937年頃イギリスの女性探検家フレア スターク女史がルードバール地方からタラガーン川流域、送電線工事でチャルース市近郊のハッサンキーフ変電所のあるマーザンダラン州までの主な教団の城を踏査して作成した著書“暗殺教団の谷”でもこの城は取り上げられていない。
また英国の探検家ピーター ウイリー氏が率いる調査団が1960年頃暗殺教団の城を調査した報告にも、この城は全く触れられていない。しかし前述したように教団に対するこの城の政治的且つ経済的な貢献度は高く、防衛能力も教団の中で最も優れた城であり、彼らが知らないはずはないのである。
   ペルシャ人の歴史家アタ マリク ジュヴァイニの著書“世界の征服者の歴史”の中でも再三取り上げられている。
   しかもシルクロード上にあり、彼らにとって所在が判っていれば容易にアクセスできる。
   どうも聞くところによると20世紀はじめまではその所在が不明だったと言われているのでそれが原因なのかもしれない。
   ところが1991年NHKスペシャル “大モンゴル帝国 第一集 幻の王 プレスター・ジョン” (1992年放送)でこの城が取り上げられて、カメラマンがこの城に登って撮影している。(数分だが)
 位置関係を地図Aから概略の位置を示すことにする。まず本拠地アラムート城からテヘランまでは現在の道路で約220km、一方テヘランからゲルドクー城まで約320kmあり、アラムート城とゲルドクー城間は約540km離れている。ダムガーン市西方18kmに位置する。

2. ゲルドクー城獲得の経緯

   教祖ハサンが1090年にアラムート城を略奪した後次に狙ったのが、防衛上からも、交通の重要な拠点にある戦略的に優れたゲルドクーの要塞の獲得であった。
   ハサンとこのダムガーン市とは古い縁があった。それはハサンが十二イマームシーア派からイスマイリ派に改宗を決意して、ペルシャを出発してイスマイリ派の本山ファーテイマ朝の首都カイロに1078年到着した。そこでイマームから直接イスマイリ派の宗教原理を伝授された後1081年ペルシャに帰還して、イスマイリ派の布教活動をペルシャ全土で巡回した後、理由は不明だが三年間ダムガーン市に滞在した。その間にアラムート城を略奪する為、ダムガーン市からガズヴィン、ルードバール地方へ宣教師を派遣して指揮を執っていた。
   従ってこの滞在期間にゲルドクー要塞のことは知っていたに違いない。
   しかし今度は逆に本拠地アラムート城からダムガーン市に密使を派遣した。この時のホーラサン地方(ダムガーン市も含まれる)の知事は先述したムザファール ヌスタウフィという人物だった。
   ここから城を獲得する経緯は著者マーシャル ホジソンの“暗殺者の秘密指令”の中に概略次のように書かれている。
   ”この人物はセルジューク朝の将校という立場でもあったが、実はファーテイマ朝カイロのイマームの次席にあたる首席宣教師アブドウル マリク イブン アターシュの導きによって、ニザリ派への秘密の改宗者になっていた。
   けれども自分の宗派を隠匿して、秘密裏にセルジューク朝の将校という地位にあった。
だから当然ハサンの密使たちは彼から大いに歓迎された。
そして密使がこの要塞を手に入れたいことを知ったムザファールはただちに行動を開始した。
まずセルジュークのスルタンに未だ自分は忠実な将校であるという姿勢を見せながら、スルタンにゲルドクー(セルジュークの所有)を要求して、自分をそこの司令官に任ずるようにセルジュークの将軍を説得した。
将軍とスルタンは彼の要望を聞き入れたので、ムザファールは正式にゲルドクーの司令官になった。彼はその将軍の権威の下で、セルジュークの費用負担により要塞に思い通りの堅牢な胸壁、監視塔、兵舎などを建設した。特に包囲された場合の用水には注意を払い、非常に深い井戸を掘り、また兵器、食糧は数年分に備えて備蓄した。
   さらに、そこに備えるべき備品や財貨を蓄えた。かくして準備万端整ったところで、ムザファールは自分がニザリ派の信徒であり、ハサンの信奉者であると宣言した。彼はその後この城を40年間にわたって統治した。”と述べられている。
   そうは言っても、完全にセルジュークと袂を割って敵対関係になったのでは40年はもたない。
   歴史家ラシッド アドデイン(ジョヴァイニとほぼ同時代、集史の著者)が言うにはムザファールは今までセルジューク朝の上層部の人間と非常に巧妙に接触していた、それは将軍の愛顧を勝ち取ることが出来たこと、そして彼がこの城を獲得した時でもセルジュークの事務拘わりを優先しながら、許容範囲内でニザリへの協力促進をしたなどに現れている。
   またムザファールはアラムートに対して自分の忠誠を維持しながらも、一方ではセルジュークのスルタン サンジャルに対しては自分の軍事力を提供して服従するという約束をしている。
   ムザファールと最初はホーラサン地方の小セルジューク朝スルタンだったが、最後は大セルジューク朝スルタンになったサンジャルとの幼少時代からの長い人間関係の中で、サンジャルの信頼を獲得していたという。小セルジューク時代にニザリの城塁を誰も破壊しようとは思っていないというハサン宛に送られた親切なサンジャルからの手紙がアラムートの図書館で発見されたとフラグ汗の歴史家ジュヴァイニが記録している。

3.ゲルドクー城   

   この城の特徴を表す中国人の逸話がある。それはフラグ汗がイラン、イラクに遠征した後、その兄で中国の元朝世祖クビライが漢人常徳に命じて、この地域を探査するために派遣された。
この常徳の土産話が“西使記”の中に書かれている。それによると、“暗殺教団ムラーヒダ(異端者)の山城は360もあったが、みんな降伏した。たがダムガーンの西方の山城でゲルドクーという名の城があった。孤峯がそそり立ち、矢も石も届きはしない。1256年王師がこの城の下まで来たがその高く険しいことは、仰いでこれを見上げると帽子が落ちるほどである”と記している。
   2011年10月にイランの友人にゲルドクー城の資料はないかと尋ねたところ、ペルシャ語で書かれた資料が提供された。
   これを彼に英語に翻訳してもらったものが次のようなものである。
   “ゲルドクー城はダムガーン市にあり、別名は”ゴンバタン デジ”という。ゴンバダンとはドームを意味し、デジとは城を意味する。
   この城はあまりにも美しいし、興味が尽きない、ダムガーン市から西方18kmにあり、ホダラート 村から8kmにある、城に向う道路は非常に悪くて、城に到着するのが困難である。
この城のある山はドームのようである、それでこの名前がついだのである。山の高さは215mあり、その長さは500mある、歴史的にもイラン人にとって古からイザというときの避難場所だった。
   ゲルドクーの東側には三つの貯水池を有する一つの堅牢な建物があった。
   建物内にある貯水池の大きさは長さ27.8mx幅21.54mx深さ20.4mあるが、現在は時の経過で土に埋もれてしまった。
   現在では井戸水を見るようには水を見ることは出来ない。



   貯水池の上方には”ピチハール”という小さな泉があり、そこから水路管で導かれる。
   (この泉は多分城の北側のエルブールス山脈にあるのだろう。)
   幾つかの小さな建物が周囲を監視する為に監視塔が城の回りに建てられた。建物は石材で造られた。
   最後に城に入る道路は城の東側からであり、監視用の建物よって注意深く観察される位置だ。“と書かれている。
   また“世界の歴史”(イスラムの時代)によると“ギルドクー城は円筒状の巨岩が約215mもの高にそそり立ち、その頂上の近いところをくりぬいて城砦にした。飲料水はやはり岩を掘って空洞を作りそこに雨水をためるようにしてあることはアラムートその他の山城と同じであった。”
   ムザファールはセルジュークの費用負担のため徹底的な満足される築城をしたが、特に水の確保には力を入れた。困難な地形の上に深い井戸を掘らせたが、うまく水源に到達出来なかった。
   しかし幸運にも一年後に地震が起こって、そこから水が湧いて来たとマーシャル ホジソンの“暗殺者の秘密指令”には書かれている。 

3−1.城壁

   写真3は写真4の左側城郭の壁である。人物の大きさから全体のスケールや壁厚なども推測できる。
   石積みのモルタルで固めたものだろう。
   写真5は写真4−1の右側の角城壁を高い位置から角の内側をショットした景観であろう。
遠方にカヴィール砂漠の雄大な広がりが眺望できる。


 

3−2.井戸

   写真6はムザファールが非常に深い井戸を困難な地形の上に掘らせたが、水に到達することが出来なかった。しかし幸運にも一年後に起こった地震よって、水が湧き出たと言われた。ここがその井戸跡ではなか。
   堆積物で完全に埋まってしまった。



3−3.貯蔵庫

   写真7、8は食料の貯蔵庫である。これらは写真E'のラミアサール城の構造と同じである。





ラミアサール城の貯蔵庫






3−4.石の弾丸

 城のいたるところに弾丸が転がっている。
現場を見た中国人査察官常徳が述べているように矢も石もとどきやしないと述べているから、恐らく投石機は使えなかったのだろう。
 それで猛将キドブハでも攻めあぐねて山城をとり囲むように麓に大きな濠を備えた城塁を築き上げ、かれらの陣地の後ろにも城塁を築き上げた。
   それによって城と外部との一切の文物の交流を遮断して兵糧攻めの長期戦となった。
しかしその後ギドブハは諦めてフラグの軍隊に合流してエジプト、アナトリア、シリア方面に転戦していた。
   従ってここに見られる石弾丸は1270年頃にモンゴル軍が改めて攻撃した際に使った新しい投石機によって打ち込まれたものだろうと推察される。
   確かに城の南側のカヴィール砂漠は平坦で配置可能で、投石機の配置は思いのままだ。
一方アラムート、ラミヤサール城には周りがそそり立つ断崖絶壁(クリフ)で投石機の置き場もない。
弾丸の大きさは抱えている人の腕や手のひらから推定できる。



3−5.投石機(トレビユシェット)

 ウイキペデイアによるとヨーロッパで十二世紀頃に使われていたトレビュシェット(写真)は巨大な錘の位置エネルギーを利用して石を投げる。大型で威力と安全性に信頼の置ける鉄砲、大砲が出現するまで利用された。岩石などを詰めた箱の重量を利用するので、大きく造ればそれだけ威力が増した。また、詰め物の重量を変えることで射撃距離を自由に調整でき、精度も高かった。この投石器は最大のものは140kgの石を最大300mも飛ばすことができた。石のほか、伝染病が蔓延することを狙って、人や牛の死骸を目標に投下することもあった。一方元軍(モンゴル)による南宋の都市襄陽の包囲攻撃の際にトレビュシェットが導入された。これはペルシャから来た回教徒の技術者により導入され使用されたので、襄陽砲もしくは回回砲と呼ばれた。従って使われた機械は回回砲だったかもしれない。回回砲は89kgの石弾の投射能力があった。

4.あとがき

   ペルシャでの暗殺教団の城の紹介はこのゲルドクーで終了して、次にシリアのアレッポとハマ中間にあるシリア暗殺教団の中心的な根拠地マスヤーフ城やアファーミヤ城を紹介したと思っているが、ご承知の通り国内の内乱で、一歩も近づけない。誠に残念である。
   シリア編は当分延期して、次回はゾロアスター教神殿、タクテ ソレイマンを紹介したい。


参考資料
モンゴル帝国史  ドーソン著
The Secret Order of Assassins マーシャル ホジソン著
暗殺教団     ビイ ルイス著
世界制服者の歴史 マリク ジュヴァイニ著
NHKスペシャル 大モンゴル 第一集 幻の王 プレスター・ジョン
 
                              
平成25年2月10日