イラン病患者からのレポート 第十二話(3)暗殺教団の城(ペルシャ篇)
アラムート城
北島 進  
4.ハサンと歴代の君主

4.1 ハサンの人物評価

   ハサンは1090年から34年間当時の王朝君主や宰相、法官、知事、市長の生死を左右した恐ろしい凶悪な人物と想像されるが、歴史に残されたハサン像は意外性に満ちている。
   彼は1124年5月に病没した。
   同時代の歴史家ラシード ウッディーンは次のように述べている。
   「彼は死に至るまでの残りの時間を住んでいる建物の内部で過ごした。書物を読み、布教活動についての言葉を書きとめ、彼の支配下の諸々の業務を管理することに専念した。そして禁欲的で節制ある敬虔な生活を送った。」
   当時のアラブの伝記作家は彼に対して好意的ではなかったが、次のように評している。“彼は非凡な才能を持ち、明敏で有能で幾何学、天文学、魔術などに精通していた、また彼は思想家であり、著述家でもあった。”
   2章で述べたように彼のイスマイリ派へ改宗した際に陥った宗教的な神秘体験がいろいろな才能の開眼へ導いたらしい。更にジュヴァイニによると、ハサンはアラムートに住を構えてから、死ぬまでの34年間一度も山を下りることもなければ、2度だけ部屋の外に出たが、それは屋根に上がっただけだった。
   その他の時間は家の中で、断食と祈り、読書、彼の王国の事務を行い、あるいは管理することだった。
   この間彼は誰一人とも公然と酒を飲んだり、それを注いだりしなかった。彼の禁欲主義で節制を重んじる態度は自分に対抗する敵対者だけではなく、自分の身内に対しても向けられた。そのいい例が彼の二人の息子の内、一人はワインを飲んだという理由で、処刑された。もう一人はある伝道師を殺害しようと企んだグループの一員との嫌疑をかけられて、死に追いやられた。このような行動は自分の身内の者に対する贔屓にするという心は微塵にも抱いていない、自分は常に公明正大であることを周囲の人々に証明する結果となった。
   他にも彼の厳格さは城の中で、笛を吹いた者がいたが、彼を城から追い出して、二度と戻すことはなかった。
   1107年頃、セルジュークのスルタンのムハマッドがハサンの権力が増大することを座視できないと判断して、宰相を司令官として、軍隊を編成した。司令官はアラムートを包囲した、しばらく戦闘を続けたが、その間農作畑を徹底的に破壊した。どうしてもハサンを倒すことが出来ないまま、軍はルードバールを引き揚げた。農作物の破壊で、城の中ではひどい飢饉が発生して人々は草を食べてしのいだ。この時宣教活動や教団の維持に貢献する為、服地の機織に従事させて、それに見合った賃金を与えてくださいという手紙を添えて、ハサンは妻と二人の娘をゲルドクー城へ送った。
   そしてそれ以降、彼は女性を同伴しなかった。
   このようにして、彼は禁欲主義と節制、正義の賛美、不正義には不寛容という自分の主義主張を法律とした。
   歴代の君主名と居城と統治期間は次の通りである。

  君主名   統治期間 統治
年数
常駐した城 宗教の教義の変更
初代 ハサン イ サバーフ 1090-1124 34 アラムート イマームの代理、自治領国家の君主
二代 ブズルグ ウンミード
ムハマド イブン
1124-1138 14 ランブサール 同上
三代 テズルグ ウンミード 1138-1162 24 ランプサール 復活のイマーム、君主
四代 ハサン二世 1162-1166 4 ランプサール 隠れたるイマーム、君主
五代 ムハンマド二世 1166-1210 44 ランプサール イマーム、君主
六代 ハサン三世 1210-1221 11 ランプサール イマーム、君主
七代 ムハンマド三世 1221-1255 34 ランプサール イマーム、君主
八代 フルッシャー 1255-1256 1 マイムンデーズ イマーム、君主


4.2 ハサンが主導したニザリ派の宗教体系

   1095年にカイロのファーテイマ朝イマーム継承問題で彼らの新しいイマーム(ムスタアリー)をハサンは拒否して、長男のニザールをイマームとするニザリ派を興してカイロと袂を分かって以来、この派のイマーム(長男ニザール)は継承問題で反乱を起こし、カイロの牢獄で獄死した。従ってニザリ派にはイマームがいなかった。ハサンにとってイマーム不在の神学論と教義の確立が最も重要な問題だったと思われる。この点についてハサンが信徒にどのように説いたのかは知られていない。初期の頃は二つの説が伝えられており、一つは密かにニザールの孫がカイロからアラムートへ連れてこられて、育てられた。もう一つはニザールの子を妊娠した妾婦が連れてこられ、彼女がイマームを生んだというものである。しかしこれらのことは当時、厳重な秘密として何年も後まで知らされていなかった。ハサンは熟慮して練り上げられた神学論や教義とは次のようなものであった。“ニザームは死んだのではなくて、一時隠れたのだという隠れイマームとして、ある時イマームは突然現れて、我々信徒を苦難から救うのだ”という所謂メシア思想(救世主)である。9世紀後半にシーア派の十二代イマームが突然お隠れになったときに、十二イマーム派が誕生した時にも同じようなメシア思想を唱えたので、別に目新しい思想ではない。しかし後世の信徒から、その主導者として彼は崇拝されたという。
   ニザリ派の鋳造貨幣にはニザールのイマーム名アブ マンスールと刻まれている。


5.アラムート城

5.1 アラムート城の生い立ち

   この城はダイラム地方のある王によって建てられたと言われている。ある日狩りに出掛けた王は一羽の慣らした鷲を放った。するとこの鷲は、その岩の上に止まった。王はその場所の戦略的な価値を悟り、直ちにその岩の上に城を建てた。“そして彼はその城を鷲の教えという意味のダイラム語でアールフ アームートと呼んだ”という。別な史料によるとアラムートの語源は“鷲の巣”とも書かれている。860年に、アリー家君主の一人によって再建され、ハサンが来た時にはセルジュークのスルタンから所有権を得ていたアリー家のミフデイーという人物のものだった。

5.2 ハサンの城の略奪

   ハサンがこの城を略奪した経緯について、次のように述べている。“私はガズヴィンから、再び一人の宣教師をアラムートに派遣した。中略 アラムート城内の一部の者が改宗させられ、アリー家のミフデイーにも改宗するように求めた。ミフデイーは一旦改宗されたかのように見せかけて、その後改宗した人をすべて城から追い出して、城はセルジュークのスルタンのものであると言って城門を閉鎖した。そして大議論の末に再び入城を許されて、改宗者は城に戻ったが、それ以降ミフデイーの命令には従わず城から降りることを拒否した”今や城内に自分の信徒を居座らせたハサンはガズヴィンを出発して、アラムートの近辺にしばらく潜伏していた。1090年9月4日水曜日に、彼は密かに城内に導かれた。

   しばらくの間、彼は変装して城内に居たが、やがて彼の正体が知られるに至った。ミフデイーは何が起こったのかを悟ったが、それを止めることも変えることも出来なかった。ハサンはミフデイーに城を去ることを許した。この結果ハサンは信徒とそのまま城を占拠して略奪に成功した。ジュヴァイニによると彼は城の代金として三千デイナール金貨をミフデイーに支払ったという。
   この城の姿をいろいろな比喩で表しているが、ジュヴァイニの時代には“アラムートはひざまずくラクダがその首を地面に載せさせている姿に似ている山だ。”確かに上の写真は左に向いて、首を地面に休めた一瘤ラクダの跪く姿に見える。瘤の辺りが山城の本拠地である。
   イギリスの探検家フレア スターク氏は“軍艦の片舷”と表現したが、これも西側から見た写真から納得できるであろう。

5.3 アラムート城へのアクセス

   1984年頃は日産ピックアップ四輪駆動車でテヘランを早朝7時ごろ出発して、タブリーツ方面の高速道路でガズヴィン市に向かい、1.5時間後市に入る手前0.5kmに立っているアラムート矢印道標看板を右折して、対向二車線の道路を道なりに進むと1.5時間ほどで、シャールード川横断橋に着く。更に約30分でガザルハーン村に至った。
   従って2、3時間現地に滞在して、昼食をしてもテヘランには午後5時ごろには帰宅出来た。
   現在はイラン文化省のアラムート文化遺産調査班が調査、修復作業をしているので、道路は良くなり普通乗用車でもアクセスが可能になった。
   十字軍との関係でヨーロッパ人には人気の高い観光スポットであり、特にイギリス人の探検家や大規模な調査隊が長期に亘りアラムート以外にも多くの城の発掘調査を繰り返してきた。ここを訪れた日本人グループは次の通りである。
1. 1966年(昭和41年)朝日新聞社と深田久弥氏の探検隊がジープ2台で来たが、シャールード川の橋が壊れて、横断できず引き返した。
2. 1972年に北海道大学の研究班が数週間滞在して、発掘調査を行った。 
 3. 1979年の革命後にNHKシルクロード取材班が訪れている 
   筆者は1984年3月、1995年9月、2011年11月に訪れているが、前2回の時点では全く旧態のまま放置されていたが、昨年訪れて、イラン政府の本格的な調査復旧の作業による変貌振りに驚かされた。

5.4 城の敷地と遺構

   この敷地図は英国人ピター ウイリー著 The Castle of the Assassinsから抜粋したものである。
   このアラムート城は高さ180メートルのアラムート山の頂上に建っている。この岩塊は概略北西(宮殿)から南東に向かって伸びている、宮殿平面図1敷地は長さ135メートル、幅は9から38メートルで変化している。訪問客がこの城に向うルートはガザルハーン村の東外れの駐車場からアラムート山西端の歩道に沿って、城の裏側(山側)に回り込むように進む。(写真B参照)その後ハウデガーン山の尾根とこのアラムート山の間には150メートルほどの溶岩丘が狭い首部で繋がっているので、この溶岩丘に至り、そこから急斜面をジグザグで登って行くと最初の城門に至る。(城門は破壊されて現在はない)
   このルートは普通の健脚な人なら村の駐車場から30分もあれば十分である。
   写真A、B、Cや敷地図では省略したトンネル右側の要塞も同じように絶壁と60度以上の急斜面で囲まれた難攻不落の要塞であるが、このアクセスルートが唯一の城攻めの拠点である。しかしジグザグの斜面は60度強あり、当時は城内と溶岩丘の間に16メートルの高い城壁が聳えていたと伝えられている。
   写真Cに示すようにガザルハーン村から歩道に沿って登ってくると幅数メートルの溶岩丘に着く。ここで右折して急な勾配をジグザグで登ると写真Dの城門のある城壁の根付遺構を過ぎると城内の観視塔のあったトンネル、左側には低い城郭が伸びて、右側にはハサンや司令官、官史、学者の居住室、モスク、貯蔵庫、貯水池などが地下に造られていた。









   写真Dの城門をイラン観光局看板では低い城郭の門と呼んでいる。今は城門の跡形もないが、建設はイスマイリ時代で、観視塔(トンネル)と城壁で囲まれた空間には馬やその他の動物が登りやすくする為に階段が彫られた通路によって城郭へアクセスされた。この城門がアラムート城の唯一つの外部に開かれた門であった。低い城郭には(トンネル向って左側に狭い幅で伸びている)岩に掘られた一つの守衛室や暖炉があり、そして絶壁の表面に居住者の移動を可能にする幾つかの削り出された通路がある。
   写真Dの坂を登って、突き当りのトンネルを通ると写真Eのようなアラムート渓谷からタラガーン川方面への眺望が開ける。

   更に看板の説明によると、この城は海抜2100mであり、横長な不規則な長方形でユニークな岩崖の上に建てられた。
   1090年にハサン サバーフがアラムートにおける村の君主になり、村人の長老の地位についた。
   彼は水の貯蔵設備や水源の整備そして防塁の強化と修復および城の規模拡張を進めた。
   アラムート谷に潅漑ダムを建設して、その谷に多くの樹木を植えた。城の敷地面積は約2万平方メートルあり、必要とされた建造物は断崖斜面に、異なった水平地盤に傾斜を上手く活用して用途に適した建物を建てた。城は二つの区域に分かれている。トンネル(写真D)から北西部(右)の高い位置にある建物が君主、司令官、幹部が住む宮殿であり(この敷地図)、トンネルより左側は狭くて細長い敷地(敷地図では省略)宮殿側より4メートル低い位置にあり、主に看守、守衛の詰め所や観視塔、倉庫、石の中に刻まれた幾つかの寝室(小部屋)などがある。









   宮殿は幾つかの異なった区域に分かれる。広場(庭)、四つのテラスのある主要な入り口の門、塔などが互いに階段や通路でつながっている。
   宮殿のモスクと庭はイスマイリ派(セルジューク時代)の建物で、170年間に亘る彼らの居住地の中心地は南側にあるメッカへの方位と北側にある壮麗な入り口門の中にある祈祷用ホールがその空間である。庭は100m2で、その地下に二つの部屋がある。このホールには東と西側にも各々入り口があり、レンガやタイルを積み上げることによって、いろいろな幾何学文様を描いて建てられている。残された壁の高さは5mあったが、原型は11mに達したであろう。それは天井の高さを意味している。
  










   宮殿の東部及び南部、そして北部の各区域には貯水槽、倉庫、守衛所、馬小屋などが各々通路で繋がったものがセットになって3000㎡の中に組み込まれている場所があり、それらはトンネルの左側の低い城郭から石の壁で隔離されている。(写真D左側石壁)北西部の長くて狭い土地(写真G)にはイスマイリ時代の貯水槽(W1,W2)があり、いつも水で満たされている。写真Gの貯水槽は調査足場が組まれて、よく見えないので、95年撮影の槽の窓形状を上部に添付した。W2は確認できなかった。この貯水槽(地下に広く掘られている)の大きさは長さ13m、幅3m、深さ4mである、この敷地には塔、壁、防御室、観視室などが互いに岩に刻まれた階段によってつながっている。(現在は調査中で見ることは出来ない)
   同じ斜面の更に低い所にワニの目のような180度のパノラマを備えて、北および東の谷を監視することが可能なルツボのような形の守衛所があり、それを“2人の歩哨の家”と命名されている、これも防塁の建築上の高度な技術を現している。この部分はイラン調査隊による新たな発見で、英国調査隊の報告には見当たらない。英国報告ではこの土地にはブドウ畑が足場組の近くに葡萄畑、また井戸室が岬の先端にあったとあるが、危険で接近できなかった。
   南西には一つの大きな張り出した監視塔がある。
   この塔はイスマイリ時代に作られたトンネルで城の表のアラムート渓谷と裏のハウデガーン山を観視する塔である。現在はトンネルしか残っていないが、当時はトンネルからせり出した構造物が作られたのだろう。
   この観視塔によって、ガザルハーン村やアラムート渓谷一帯、更にタラガン領域とそれに結びつく交通路を監視する為の場所で、トンネルの長さが12.5m幅4m高さ3.1mある。
   写真貯蔵庫1、2は宮殿にあり、イスマイリ時代に作られた。
   アラムート城における特徴的なことは観視所や居住地区の近いところに水や食糧の貯蔵庫が設けられていたことだ。
   食糧や水の供給は敵の包囲攻撃には城の居住者にとって生死に関わる致命的な機能である。
最も大きな貯水槽は144㎥である。これらの貯水槽には屋根があり、雨水や土管によって水源地から運ばれていた。
   











写真の説明
A: アラムート川からガザルハーン村へ向う道路から撮影した。一瘤ラクダが首を地面に付けて跪く姿に似ている。遠方に聳えるのがハウデガーン山である。
 B: ガザルハーン村の高台から城の西先端を撮影した。
 C: ガザルハーン村から歩道を登って、溶岩丘に来たところである。写真左の絶壁の上に宮殿が建っている。 
D: 溶岩丘からジグザグして登ってくると城門が設けられた城壁があったとされる場所が城壁の根付の遺構で判る。(84年には根付けに石灰でレンガを付けた痕跡があったが、今はない) 
E:  もし私がスルタンに対して好意を抱いていなかったとすれば、床の上に立てられたこの短剣は貴下の胸に突き刺されていたでしょう。この岸壁の頂上から私は貴下の周辺の人の手を遠隔操縦していることを承知あれと語らせた風景である。生きて帰らぬ刺客を見送ったり、ファーテイマ朝の要人に信徒の信心深さを証明する為に信者をこの絶壁から飛び降りることを命令した場所でもある。 
F: トンネルの西口から宮殿を撮影したが、調査局の足場やぐらや事務建物があって、イランの遺跡発掘調査の意気込みが感じられる。
F’: 1995年にほぼ同じ場所から撮影した昔の宮殿の姿である。
G: 位置としては写真Bの尖った先端の頂上から山側へ入った所である。手前の敷地も狭いが次第に先細りになっている。貯水槽が2箇所あって、その調査のために足場やぐらが組まれている。英国隊調査では、この辺にはブドウ畑、井戸室があったとある。 
モスク1、2: 現在掘削調査中であり、看板の説明のようには全体像がつかめないが、近い将来全容が解明されるだろう。
貯蔵庫1、2:  貯蔵庫2の看板説明でも、この写真の地下が倉庫だと書かれていた。貯蔵庫1も調査中で具体的な構造がまだ表されていない。 

5.5 水源からの導水について

 英国調査隊の報告にも、この点については何も触れていないが、イラン人のガイドによると岩の隙間に溜まっている雪どけ水や湧き水を城に導いていたと話していた。英国隊の発見した導管は次の写真である。これまで現地を3度訪れて、この水源確保に思い当たることがあったので、それを簡単に説明したい。
   セルジューク朝との戦いで、長い篭城を余儀なくされた時、水運びの余裕はないし、いわんやこの山頂へ運ぶのは至難の業である。従って自動的に水が貯水槽(144㎥)に満たされるには山の水源地と水源槽の間をサイホンの原理を利用して、この導管で繋いでいたのではないかと推察した。
   そしてこの最大の貯水槽から管路を使って低位置に作った第2,3,4の貯水槽に流して貯水量を増やして分散したのだろう。
   サイホン原理のため、水源はハウデガーン山の麓で導管の敷設が容易な溶岩丘を経由して城と連結できる所、且つ貯水槽と水源地の海抜がほぼ同じ箇所を探したであろう。
   導管を外部から感知されないために埋設されていたとすると、溶岩丘周辺でそれに適した箇所はガザルハーン村から歩道を登って溶岩丘に至る手前の右の絶壁(写真Cでは左壁)に、それを可能にしたと思われる場所が見つかった。(写真H)
   水口の周りの保護壁は1984年に撮影した拡大部を添付した。
   この推測の当否は調査修復の完了予想2年後には判るだろう。

6.あとがき

   この城は16世紀のサファヴィー朝時代にも手が加えられたといわれているが、17世紀から18世紀に支配王朝に対する反対派メンバーの牢獄として使われていた。その獄舎はトンネル低い城郭に集中して作られた。
   その後パーレビ朝時代には全く放置されて、英国調査隊(1956、62年)の時にはイラン人の盗掘が盛んに行われた形跡があり、遺跡の年代分析は不可能と診断された。イラン政府は数年前から観光開発を目的に各城の修復に取り組んでいるが、世界遺産登録を目ざしているのだろう。次回報告予定のランブサール城にも2009年に訪れた際小規模であるが、監督、作業者が調査発掘やアクセス改善のために働いていた。
   現在のイラン政府の国際的な立ち振る舞いからは当分日本人観光客が、これらのお城を見学する機会は来ないだろう。しかし夜明けの来ない夜はないというから、せめて一条の淡い光でも差し込むことを期待しよう。

参考文献
The History of The World Conqueror アタ マリク ジュヴァイ著(アンドリュウ ボイル訳)フラグ編
The Castle of the Assassins    Peter Willey著
The Secret Order of Assassins   Marshall G.S Hodgson著
The Assassins            Bernard Lewis著
モンゴル帝国史          ドーソン著
東方見聞録            マルコ ポーロ著
暗殺教団の谷           フレア スターク著

 平成24年6月20日