イラン病患者からのレポート 第十話
アルダビール市の霊廟に眠る秘宝
北島  進  
   今回この町を取り上げた理由は16世紀後半から18世紀に亘り、アーリア民族による最後の王朝サファヴィー朝(1502-1736)の始祖シェイク サフィ オデイーン(1252-1334)はイスラム神秘主義と言われるスーフィズムを指導した長老であった。かれから数えて6世後の子孫に当たるイスマイールがサファヴィー朝を起こして初代王になった。この二人の霊を弔う為に建てられたのがアルデビール霊廟である。この霊廟には世界で最高の品格と美しさを誇るペルシャ絨毯が二枚敷かれていた。更にサファヴィー朝を最も繁栄させた第五代王アッバース一世が“チニー ハーネ”即ち中国の家(館)という建物を増築して、そこに、彼が収集した世界でも傑出した品格で希少価値の高い宋、元、明時代の青花(染付け),青磁、白磁の陶磁器コレクションを奉納した。現在はこれらの名品は安全な場所に移されて、めぼしいものは何も残されていないが、好奇心にかられて、2007年9月に訪れた。1982年頃の送電線工事時代はタブリーツ、ミヤネ、ザンジャン、ガズヴィン,カラジに事務所があり、自分のミヤネ事務所は至近距離ではあったが、暇がなくて機会を逸した。この地域の特殊性は他の地域と際立って異なるので、それを触れておくと、旧アゼルバイジャン州(パーレビ時代)の州都タブリーツはトルコ、アゼルバイジャン共和国と国境を接して、その他の州、特に東のアフガニスタン国境の州に比べると政治、経済、文化の先進的な情報が速く伝わり、コーカサス(グルジア)への出稼ぎ労働者の人的交流を伴って、この住民の政治意識は他の州民に比べて高く、政府に対する批判精神も旺盛であった。その証拠に、ガジャール王朝、パーラビ王朝の政策に不満を抱いた民衆は州の独立宣言を発布して、中央政府と対立した。トルコからの移民が多く定住した結果アーザリーと呼ばれるトルコ系の言葉を話すイラン人が多い。
   テヘランバザールで絨毯商を営む私の知人はほとんどアーザリーである。
   またタブリーツは陸路によるヨーロッパ向け貿易(トルコ径由)の最後の中継都市であったため、全国の輸出商品の集荷市場になり、流通経済が活発で、他州より景気がよい。アルダビールは旧アゼルバイジャン州の小都市だったが、現政府は地方の自治区を細分化して、地方権力の分散化を狙っているらしい。その結果この町はアルダビール州の州都になった。カスピ海から70Km、東アーザルバーイジャーン州(パーレビ朝のアゼルバイジャン州)の州都タブリーツから東へ210Kmに位置する人口約34万の都市である。アルダビール州はサバラーン山(4811m)の東麓に広がり、海抜1300mの寒冷地である。冬はマイナス25度にも達し、夏は温泉、湖が多いので、避暑地として栄えてきた。
   現代では地理的にもテヘランから遠くはなれて、経済的にも観光以外には目新しい産業は見当たらないが、この霊廟のお陰で、外国人には意外感の持たれる町である。

1. スーフィズムとサファヴィー朝

   シェイク サフィ オッデイーンはイスラム教の教祖マホメットの娘と娘婿アリーの子フセインを父として、アーリア族のササン朝ペルシャの最後の王ヤズドギルド三世の娘を母として生まれた子孫である。
   従って彼の子孫であるイスマイール一世がサファヴィー朝を起こしたので、この王朝をアーリア民族の三番目の王朝とされている。(アケメネス朝、ササン朝)
   シェイク サフィ オッデイーンはデルヴィッシュ教団をアルダビールに起こした。デルヴィッシュ教団とはイスラム神秘主義宗教スーフィズムの活動集団のことである。この宗教は世俗から離脱して、神からの啓示を受けた長老の指導の下に、信徒は修道一筋に共同生活しながら、ひたすら禁欲と厳しい修行を重ねて、最後に神の啓示を受けるとか、神との一体化即ち霊的な覚醒を獲得する目的の集団である。
   この教団は教祖の名前から“サフィーの徒”即ちサファウィーヤと呼ばれたので、サファヴィー教団となった。
   教祖は地元で数々の奇跡を起こして民衆を救い、カリスマ的な存在になり、多くの帰依者を集めたので、アルダビールは各地からの巡礼者で賑わった。
   シェイク サフィ オッデイーンの子孫はその後サファヴィー教団が巨大化すると共に、軍隊を養うようになり、イスマイール(1487〜1524)は教団の教主であると同時に巨大化した軍を統率して政教両権力を握って、当時タブリーツ周辺地域を支配していたトルクメン族の白羊朝を1502年に滅ぼした。そして王の称号を得て、同年タブリーツを首都としてサファヴィー朝を起こして、初代国王になった。
   彼は絶世の美男子で、実際に彼と会った西欧人の記録には“あまりに美しすぎて、邪悪なものを感じるほどだ”とある。それに加えて、優れた資質の詩人で“異様なほどに神秘的な人物”とか“ 神がかり的で異常なカリスマ性”を感じさせるといわれた。
   小アジア、イラクなどを制圧して、イラン東部のホーラサン州に勢力を伸ばしていたウズベク族のシャイバーン朝を倒して、中央アジアに覇権を握っていたチムール朝の最後の政権を滅ぼして連戦連勝の常勝将軍として恐れられた。
   しかし1514年イスマイール一世がオスマン帝国のセリム一世とアナトリアのチャルデラーン平原での戦いで大敗北を喫して、それ以降一切戦いを止めて、狩猟や酒におぼれて37歳の若さで世を去った。
   この敗因は大砲、鉄砲を装備したオスマン砲兵隊と騎兵隊のサファヴィー軍団との戦術の違いだった。
   なぜかセリム一世は一旦タブリーツを占拠したが、まもなくイスタンブールに引き揚げたために、サファヴィー朝はタブリーツに留まった。イスマイール一世の死後タフマースブ(二代目)が継承した。
   そして1540年に首都をタブリーツからガズヴィンに遷都した。
   この時代に関連する出来事はアルダビール霊廟に献納されたアルダビール絨毯が1540年に完成したことである。
   本稿の主人公アッバース一世(五代目1587-1629)は1587年5月にガズヴィンで王位に就いた。しかし王朝の権勢は決して安泰ではなかった。それは先のチャルデラーンの戦いの敗戦原因だった戦術の改革が進んでいなかったが東方のホーラサン、中央アジア、インド方面では有利に戦っていた。
   そして1598年秋に二人の英国の武器商人がガズヴィン訪問するという運命的な出会いが待っていた。
   その時の経緯が世界の歴史(イスラム時代)に次のように書かれている。“それは英国の軍人、サー アントニー シャーリーとサー ロバート シャーリーの兄弟であった。この二人は10人の部下を連れていたが、その中には大砲鋳造の技師もいた。これまでイラン軍が宿敵オスマントルコ軍にたびたび敗れていたが、その主な原因はイランには大砲がなくて、トルコ軍の砲兵隊に抵抗することが出来なかった為であった。シャーリー兄弟とのめぐりあいの結果、アッパース一世は500門の真鍮砲と六万挺の小銃を持つに至り、以前から勇猛をもって鳴っていたその軍隊は格段に威力を増すにいたった。”

   これを契機にアッバース一世は戦力を強化すると共に、従来のサファヴィー教団の軍隊組織を騎兵式から砲兵式に、兵隊や地方長官にもサファヴィー教団団員にとらわれず、有能なら奴隷でも積極的に採用して、内政改革も断行した。1598年春には首都をガズヴィンからイスファハーンに移すために、首都建設を始めた。インド、イタリア、そして中国からも建築技師や工匠を招いて街、宮殿、寺院の建設に当たらせるほど建築、庭園、工芸などに並々ならぬ情熱を抱いて、ことに当たらせた姿勢は建築、ペルシャ絨毯、タイル、金工、染め織物などの工芸でもイスラム芸術の最高峰に導いた。
   それらの建物の内部に使われる絨毯も一流の織匠やデザイナーをイラン全土から選りすぐり独自の工房で作らせたのが王室工房の始まりである。
   王室工房では優れた職人の品質管理の下で、羊の飼育から染料植物の栽培、染色、材質の選択が行われた。
   この王室工房で作られた絨毯には金糸、銀糸が使われており、欧州の王家の戴冠式や贈答品に向けられた超高級絨毯であった。京都祇園祭の懸装される南観音山のペルシャ絨毯や京都高台寺の豊臣秀吉の陣羽織に使われた鳥獣文キリム絨毯更に滋賀県の信楽市にあるMIHO美術館の猛獣、動物闘争文様絨毯(サングスコ絨毯)などが、この時代の王室工房の作品である。

2. アルダビール絨毯

2.1 この絨毯の履歴


   この絨毯はペアー(二枚一組)で作られて、シェイク サフィ オデイーン廟のドームの礼拝堂に敷かれていた。
   この絨毯に織り込まれた銘によると1540年にサファヴィー朝二代の王タフマースブの時に、カシャーン(イスファハーンの隣りの町)のマクスッドという織り師によって作られたと記されている。
   そしてこの王が霊廟を建設したと言われているので、発注者は歴史的にハッキリしないがタフマースブ王だった可能性が高いと思われる。
   しかも同じ年に、この王は都をタブリーツからガズヴィンに遷都している。
   19世紀中頃よりイギリスとロシアはイランでの利権獲得競争で進出していた1880年に英国ロンドンの絨毯商によって、この二枚の絨毯は2400ポンドで買い取られた。
   この値段が妥当か否かは定かではないが、寺院で約340年間使われていた絨毯は見るに耐えないほどの痛み方だったと想像される。
   ちなみに傷み方の見本として、次の絨毯をご覧いただきたい。
   2009年に訪れたザンジャンの古刹寺院で古い天然染色の絨毯を洗濯修復した後、寺院の軒先で天日干しの絨毯である。
   上部の縦糸の房と外側ボーダー角や右端は共に破れて脱落している。
   またパイルも擦り切れて、横縦糸が露出し、一部破れて穴が修 復されている。
   寺院では礼拝者が一日5回礼拝に訪れるので、絨毯の劣化が一般家庭と比べて著しく早い。
   イギリスの絨毯商からボロ同然の状態で1893年にロンドンのビクトリア アンド アルバート美術館に持ち込まれた。そして二枚の片方の絨毯を犠牲にして、この絨毯を修復しようと決めたが、作業の費用が膨大で美術館にとって耐え難い負担になったため、広く募金を募り、それによって修復を完成した。
   犠牲にされた絨毯はアメリカ ロサンゼルスのカンテイー美術館に寄贈された。
   しかし1998年時点では、この絨毯は展示していない。
   尚現在霊廟にはアルダビール絨毯と同じデザインのものが二枚敷かれている。

2.2 この絨毯の特徴

   ロンドンのビクトリア アルバート美術館には絨毯専用の展示室がある。1997年に訪れたが、室内は絨毯保護のため照明を暗くするので、正面壁一杯に横置きで展示されていた巨大な壁に威圧感を感じた。眼が次第に慣れてくると大きなメダリオンの輝きがぼんやりとクローズアップされて、次第に深遠な輝きを増してくる。そして四種の文様で彩色された十六個の衛星メダリオンが金色に輝く中心のメダリオンを引き立てるので、なんとも幻想的な宇宙空間を現出してくる。そしてメダリオンの周りには黄金色や朱色の星屑が無数に散りばめられて、夜の宇宙から舞い降りて来た惑星が花を開いて近づいてくる様だ。

2.3 この絨毯の仕様

   この絨毯の仕様は次の通りである。
   寸法: 長さ:11.52メートル、幅:5.34メートル
   材質: 縦横糸は絹 パイルは羊毛である。             
   絨毯の密度(パイルの結び目):全体で3300万個 言い換えると一平方インチ当たり340個の密度で織られている。
   この密度は現在のイラン人の尺度に換算すると37ラッジ程度となる。
   このラッジとは縦糸の並び幅7センチ当たり、37個の結び目があることを意味している。このレベルは畳一枚の大きさの絨毯だったら、かなり粗いもので、安物に属するが、この巨大な寸法で評価すると気が遠くなるような根気と集中力が求められる。
   現在の専門工房の職人の能力:織り密度と材料の性質で異なるが、一般的には一日当たり一万ノット(結び目)と言われている。
   所要時間:幅が5メートルあるので、五人の職人が横一列に並んで作業をすると3300万ノット割る五人割ると660日かかる。一枚の絨毯に最低でも二年以上かかる計算になる。
   しかし銘にはマクスッドという人が関わったと書かれているので、一人だったかも知れない。そうなると3300日かかり、一枚に10年以上かかる計算だ。
   絨毯のデザイン:メダリオン コーナー
   中央に大きなメダリオンが配されて、そのメダリオンの外周に16個の衛星メダリオンで囲まれている。四隅のコーナーには中央のメダリオンの四分の一のデザインが配置されている。
   更に絨毯の縦方向の中心線上にはメダリオンの上下に鎖でつるされたランプが配置されて、フィールドに変化をもたせている。
   絨毯の銘:この絨毯の上部には長方形の枠があり、これが絨毯の銘である。
   この銘には概略次のように書かれている。
   “この世の中で汝の居場所の他には一切の身を守るところを持たない。
   この扉の他に自分の身を守ってくれるものは何もない。
   946年カシャーニーのマクスッドの奴隷の仕事“ この946年というイスラム暦はグレゴリアン暦では1540年に相当する。
   先にも触れたが1540年はタフマースブ(二代目)が首都をタブリーツからガズヴィンに遷都した時である。
   作られた場所:この銘からカシャーニーとはカシャーンの人という意味なので、カシャーン市のマクスッドが数名の職人と共同で限られた時間内に製作を命ぜられたように推察される。
   しかし資料によるとタブリーツとなっているが、疑問符が付いている。
   奴隷のような仕事と嘆いているので、家族のいないタブリーツで二枚だから20年以上も絨毯織りに専念させられたのかもしれない。
   銘文:奴隷の仕事という表現は銘文にはふさわしくないと思われるが、その理由は中国の元染付けのところで、触れることにする。

3.アルダビールの中国磁器コレクション

3.1 コレクションの内容

   このコレクションの内訳は1950年ごろジョン アレキサンダー ホープ氏が調査した結果、
   染付けの内訳は14世紀元時代のもの37点、15世紀前期(明時代)183点、15世紀後期(明時代)29点、16世紀(明時代)346点、その他白磁80点、青磁58点、色絵23点、黄磁16点、その他10で構成されていた。
   アッバース一世の在位は1588−1629年であり、中国の明時代に当たる。一方内訳をみると14,15世紀のものが多数含まれている。
   それは彼が前述のイギリスから大砲や銃を買い入れて、強化された軍隊でササン朝時代の領土(バグダートからバルフ)奪回戦に勝利した時に略奪した戦利品や贈答品、そして自ら発注した作品(明時代のもの)などで構成されているのだろう。
   このような例は先に述べたトルコのオスマン帝国のセリム一世と初代イスマイール一世とのチャルデラーンの戦いでイスマイールが大敗北したが、このときもセリム一世はタブリーツの宮殿から、62点の中国陶磁器を戦利品として持ち帰ったことが記録されている。
その他にもジギスガンの孫フラグ汗は1258年にタブリーツを首都にイル汗国を設立して、約150年間イラン全土を支配したのだから、元時代の中国陶磁器がタブリーツ中心のアゼルバイジャン州に相当数もたらされていたものがコレクションに加わった可能性があるだろう。
   そしてアルダビールコレクションは19世紀初期のロシアの南下政策で誘発されたイラン、ロシア戦争や19世紀後期のイギリス、ロシアの利権獲得競争でロシアの国境に近いアルダビールは危険に曝されていた。
   それで、パーレビ王朝は1935年に無傷のものだけ805点をアルダビール霊廟からテヘラン考古学博物館に移した。
   世界でも中国陶磁器コレクションで最も充実した博物館はイスタンブールのトプカピとアルダビールとされているが、この両者を比較して評価した陶器研究家三上次男著“陶器の道”の中で、次のように述べている。“大王と言われたシャー アッパースのコレクションにふさわしく、形は堂々として姿は正しく、色も模様も精美で重圧を感じるほどである。王者の蒐集の標本みたいなものと言えよう。
   模様の中には中東以外では見られないものがある。その点、イスタンブールのトプカピ サライ博物館のそれと性格は似ているが、質的にはアルダビールの方が兄貴格のような感じがする“
   更にアルダビールコレクションの状況について、三上次男氏はこれらの器が日頃使用したので、小さな欠損やひび割れが散見されたと言っている。
   アッパース一世の首都建設の姿勢にも見られるように、建築、工芸に対する高い芸術的な感覚や嗜好性が発揮された。
   同じように、この優れたコレクションにも彼の中国陶器の美しさに対する思い入れ、情熱が深く関わっていたと思われる。

3.2 元時代の染付け

   このテーマを語るにあたり、自分の陶芸歴に触れておこう。退職後、自宅にコンクリートの広い地下室を設けたので、灯油釜や電動轆轤を据え付けて、陶磁土を買い込み、釉剤をいろいろ調合しては狙いの色を出す釉薬の研究を三年間続けたことがあった。青磁は1200度で還元焼きを入れなければならないので、空気を絞って不完全燃焼させる。その結果煙突から真っ黒い煙が立ち上がる。隣近所の干し物を汚さないように寝静まった真夜中に釜焚きをやっていた。

   最も自負している品が右の写真である。   青磁を勉強するために、世界の名作を鑑賞して、形、色彩の感覚を磨こうと台湾の故宮博物館、北京故宮博物館、イスタンブールのトプカプ博物館、パリのギメー美術館、ロンドンのビクトリア アンド アルバート美術館、ドイツのドレスデン美術館、その他国内の主な美術館を訪れた。
   そして元、明、清時代を通して色絵、青磁、白磁、染付けなど約1万点以上も所蔵するトプカピ博物館を見学して、初めて時代の変遷の中で、各種の陶磁器がどのように姿、デザインが変容して来たかを理解することが出来た。
   中でももっとも強く感銘を受けたのは元時代の染付けだった。清、明時代の染付けは技術的に一定のレベルに到達して、審美的で完璧な美しさを求める結果、華麗で隙がなくて完成度が高い、しかし完成度の高い作品は美しいが緊張感とか威圧感を与えるものである。
   元の染付けには音楽ならば自由意志で独演するアドリブのように職人の作品に対する思い入れ、息吹のようなものが感じられた。
   染付けとは磁器土の素焼きにコバルト釉薬を筆で文様を描いて透明釉をかけて焼成するものである。元の染付けはコバルト釉薬の筆跡が伸び伸びとして、力強く生命観に溢れているのが特徴である。しかも元はジンギスガン等の騎馬民族の時代であり、描かれた文様は動物文が多く、躍動する麒麟や海草の中の魚、龍、鳳凰の姿が脳裏に焼き付けられた。それ以来どの美術館に入っても、真っ先に元の染付けにターゲットを絞って、どんな作品に出会えるのか、わくわくして鑑賞した。そしてその作品の質や数によって、その美術館の中国陶磁器コレクションを評価するようになった。
   元染付けに惚れた理由は次の三つである。
A. 元時代は染付けの技術の草創期で、文様が大らかでダイナミック、特に動物文様が伸び伸びとして、生き生きしている。
B. コバルトの釉薬で描く筆さばきによどみがなく、流れるように描く筆跡が美しい。
C. A,Bから筆のかすれや釉薬の溜まりが諸所に見られて、全体では荒削りな印象を与えるが、これらはかえって器に趣を与えて存在感を増している。
   この各国の美術館巡りで、トプカピ サライ博物館以外の美術館の元染付けが驚くほど少ないことが判明した。
西欧の美術館で所蔵するものは明、清時代のものがほとんどであった。
稀代まれな元時代の染付けを37点もあるアルダビールコレクションを一度見たいとイラン訪問の度にテヘラン博物館を訪ねるのだが、二階の展示室は何時も閉鎖していた。昨年も館員に尋ねたところ、コレクションは本館二階から隣の建物に移されて閉館して見られない、理由も判らないと言っていた。
   一方同博物館のイランの歴史、文化に関連する展示には力が注がれて、依頼すれば説明員がすぐ同伴してくれる。
   現在の教条主義的なイスラム教国は他国の世界に冠たる芸術品を大衆に見せても信仰心を深めるよりは外部の文化、芸術に関心が向いて、かえってマイナスになると思っているのかもしれない。
それではアルダビールの元染付けの面会は当分実現出来そうも無いと思わなければならない。
せめて写真集でもと思って、博物館の売店やテヘラン市内のブックセンターで探したが見つからなかった。
   ただ幸いなことに20世紀後半に、タブリーツ博物館とイスファハーンのチェヘル スツーン宮殿に一部を里帰りさせたという記事があった。
   それで昨年調べた結果タブリーツで染付け常設品5点とイスファハーンで4点を鑑賞した。しかし前者の元染付けは2点の中で、一点は元時代らしいがプレートが無いので判らなかった。後者は小粒で粗品で、恐らく後世に追加された作品だったのだろう。実際に追加されたという記録がある。しかも明時代のものだった。

   これまでに専門家によるアルデビールコレクションの調査は1950年代と1960年代に二人の研究家によって行われた、其の報告が次の2点である。

1) Chinese porcelain from Ardabil shrine 1956年 著者 John Alexander Pope アメリカ
2) 世界の染付け I 著者 三杉隆敏  調査は1964年に行った。


   不思議なことに、この二つの著書とも、記載されたコレクションの写真はすべて白黒であった。カラーフイルムは市販されていたはずだが理由は判らない。
   ここで掲載出来る元染付けのカラー写真はタブリーツ博物館所蔵の“魚藻文深皿”一点だけである。
   この作品は元染付けらしい伸び伸びとした筆さばきと、豊かな海草と遊泳魚がユーモラスな表現で、楽しさにあふれている。
   次に示す写真は三杉隆敏氏が昭和42年、テヘランに長期滞在して考古博物館に通い、805点のコレクションの中から300点を撮影したものの中で、元染付け37点から2点選んだ。    
   染付けの命である藍色が確認できないのは残念である。
             

   しかしこれらの写真から元時代の染付けのエッセンスは汲み取れるであろう。                                          



        牡丹孔雀文扁瓶 14世紀中期      霊獣牡丹唐草文梅瓶 14世紀中期

   元時代の聖獣の獅子が描かれている作品はアルダビールコレクションだけだった。

3.3 アッパース王の献納品に刻まれた刻文

右写真に示すようにアッバース王がシェイク サフィ オデイーン霊廟に寄贈した器すべてにアラビア文字で刻文を刻ませた。そこには次のような文章である。
“聖なる王の奴隷アッバースはサフィーの廟にこれを寄付する”
                                     
これを読んで、思い出されるのがアルダビール絨毯の銘文である。
“この世の中で汝の居場所の他には一切の身を守るところを持たない。
 この扉の他に自分の身を守ってくれるものは何もない。
 946年カシャーンのマクスッドの奴隷の仕事“               
王様と職人では立場が極端に違うが、共に奴隷という言葉が使われている。
この時代の奴隷は戦いで負けた捕虜であり、アメリカ南部の黒人奴隷とはかなり違った考え方で処遇していた。                        
 イスラム教でいう奴隷とはどのような存在なのか判らないが、少なくとも主人に対する絶対服従を意味するので、主人に対して自分を卑下する表現として使ったのかもしれない。

3.4 元時代の染付けが少ない理由

このレポートを書く際にアルデビール元染付けの文献を調べていたら、次のような資料が見つかった。
   それによると元の染付けは1960年代になって急に注目されるようになり、最近世界的に評価が高まったとされている。その理由は次のようなことであった。
   三杉隆敏著 元時代の染付けによると
   現在の中国磁器研究家や愛好家の間には“元の染付け”というだけで、あの濃い藍色を思い浮かべ、力強い筆描による文様や、器全体を文様で覆い尽くした白抜き文様など、大皿、壺、梅瓶などが頭に浮かび上がってくる。しかし今から50年以前の中国磁器研究家の間には、元染付けというグループは全くと言っていいほどに認められず、その占める位置は低く、専門家の間でも元時代14世紀を中心にした一種独特な味を持った染付けのグループのあったことは、ほとんど認識されていなかった。
   中国人の間でも、元時代は野蛮な北秋(蒙古人)が中国の中心部を占拠した時代であって、これといった芸術も文化も育たなかったという思想がかなり固定化して観念となって定着した。
   これが有名な美術館で元の染付けが少ない理由であった。

4.余談

   民放“なんでも鑑定団”の鑑定家中島誠之助氏のような鑑定力がないと古美術品で偽物を掴まされることが多いが、シャーアッバスの刻文のある器ならば本物である。
   このコレクションの一部が中東や、コーカサス地方のアゼルバイジャン、アルメニアなどに流出したと言われているので、これらの国を旅する時は巡り会える期待を抱いて古美術店を訪れることはロマンに満ちている。この刻文マークに注目したい。

参考文献
ペルシャ絨毯文様事典 三杉隆敏 佐々木聖著
世界の染付け I 三杉隆敏著
海のシルクロード 三杉隆敏著
世界の歴史    講談社
陶磁の道     三上次男著

                                                         平成23年1月10日