第一話 送電線プロジェクトと11世紀の暗殺教団
1.送電線プロジェクト
最初の話は、イスラム教異端派が起こして、世界中の王侯貴族を震撼させた暗殺教団のことである。
何とこの暗殺教団のお城が、当プロジェクトの建設現場や隣のギーラン州に集中して存在しているのである。
私は1978年から1982年まではマーザンダラン州(カスピ海に面する)のハッサンキーフ変電所からゼアラン変電所間のチャルース市に近いヘザロチャム(千曲がりの道)という急峻な山並みが連なる現場を担当して、現場の情報を集めていた。
  
        (地図をクリックすると、白枠部分の拡大図が表示され、ダブルクリックで元に戻ります。)


そして、最初のお城との出会いは次のような経緯の中で発生した。
1978年は年初から全土に反政府デモや暴動が起こり、工事の先行きが懸念された。その中で降雪が早く、工事期間も年8ケ月ほどと予想されるエルブールス山頂(海抜3000m)付近のルートサーベイを早く完了しないと工事全体の遅れになると判断して、カンダワントンネル近くのギャチサール村に事務所を設けて、多くの測量士、山男を投入した。しかし米国コンサルタント“ギブス&ヒルズ”は我々の西回りルートを決定していなかったので、提供された大雑把な地図をもとに徒歩とロバに乗ってルート探しに明け暮れた。

特に降雪量の多くて着雪のギャロッピング現象、鉄塔倒壊などの恐れのあるカンダワントンネル周辺はエルブールス山脈をカスピ海側から横断して、南のテヘラン方向に向かうルートである。最終ルートはカンダワントンネル手前から西方向の尾根に沿って尾根の北側山腹を降りていくことになった。向かい側の尾根の南側山腹との間に緩やかな谷が形成されて、左右の山稜から集まる湧き水がターラガン川になっている。その川筋を西方向へ順にギャラブ、ギャタデイ、ナリアン十字路、ジョエスタンという部落が数キロ毎に連なっていた。送電線現場事務所もそれらの部落に設けられた。


2.暗殺教団の城
ある日サーベイでギャラブ、ギャタデイ村(図右下)に来たとき、南側の尾根の丘陵に日干し煉瓦を積み上げた塔のようなものが見えた。(図右下3赤点)休日に徒歩で近づいてみたが高さ3mでL字形の破壊された建物の一部のように見えたが良く判らなかった。その後休暇で帰国時イギリスの女性探検家フレア スターク著“暗殺教団の谷”(注)を読んで、この塔が“ドホタル ガレア”(娘の城)と呼ばれる遺跡だと判った。イランにはいたるところに橋や建物の遺跡があるので、はっきりしないものにはドホタル(娘)という呼び名を付ける習慣がある。したがって彼女もイラン人から聴いて付けた名前だろう。本当の名前は違う可能性がある。この近辺には工事に携わった人たちはよくご存知のパラチャンという部落があった。これはペルシャ語で旗という意味であるが、この部落の近くに“アハマッド ラージェ”という城があったと同著に書かれている。残念ながら私は見ていない。いずれも城の大きさ、戦略的な位置からも重要度はかなり低い。そしてこのターラガン川を更に西に進むとシャー(王様)川と名前が変わり、ギーラン州に入る。この地域にはモンゴル帝国でさえ恐怖に陥れた11世紀に始まる暗殺教団の重要な城が数多く点在している。そしてギーラン州のシャー川から北側の1本奥の谷間を流れてくるアラムート川がシャー川に合流する地点にシル クー城がある。そこからアラムート川を数キロさかのぼるとカシルハーン村に至る、この村の東側に横たわる山塊の頂上に暗殺教団の最初の教祖ハッサン イ サッバーがテヘランやレイ(シーア派の町)で屈強な若者を探して、麻薬で眠らして、馬で城に運び込み、武術を教え、訓練をして刺客に育て上げ、エジプトの王、十字軍の将軍、モンゴル帝国の王の殺害のため刺客として送った難攻不落のアラムート城がある。1252年モンゴルのイル ハーンに成ったフラグが落城に3年かかったと言われている城である。このようなサスペンス物語を知るに至って、病はますます重くなっていった。退職後も事前に文献を調べては、毎年いろいろな遺跡を訪れて、当時の情景に思いを馳せるのが趣味になってしまった。
この他にラミアサール、ギルドクーの計3つの城が最も有名である。ギルドクーの所在地はいろいろ調べているが未だ不明である。
今回はアラムート城を紹介しよう。

3.アラムート城
この話が最初に報告されたのはマルコポーロ著“東方見聞録”である。
この中に“山の老人”の章で概略次のように述べている。
マホメットが楽園とは葡萄酒や牛乳、蜂蜜、水の流れる暗渠が走り、入園者を喜ばせるために多くの美女がいると述べているが、山の老人ハッサン イ サッバーは将にその楽園を地上に再現した。それは山の谷間を囲んでいろいろな果樹を植えた大きくて美しい庭園を造り、そこに壮麗な楼閣と宮殿を建てた。幾つかの川には葡萄酒や牛乳、蜂蜜、水があふれるように流れていた。妙齢の美女が楽器をかき鳴らし、上手に歌い、見事に踊っていた。彼は刺客(アッサシン)に仕立てるはずの人を除いては、誰も庭園には入れなかった。
テヘランやレイの町から、12歳から20歳までの武術の好きな青年を麻薬で眠らせて、城に連れてきた。彼らは老人からマホメットのいう楽園のことを聞かされる。その後少年を数人ずつ庭園に入れるのだが、まず一服もって深い眠りに落とした上で、運び込む。目が覚めると庭園の中にいたということになる。すばらしい光景の中で美女たちの満足のいくまで接待を受け、青春の喜びを満たし、これこそ楽園だと信じて、ここから出たいなどとは考えなくなる。
老人が何かの目的で刺客を送ろうとするときは、庭園内にいる青年に一服もって眠らせ、宮廷に運び込む。目を覚ました青年は自分が城にいるのに気づき、面白くないと思う。老人は彼を呼び出し、何処から来たかと聞く。彼は楽園から来ました。そこはマホメットの楽園とそっくりですと答えるのである。そこで老人は「これこれの人物を殺して来い。帰ってきたら、天使がお前を楽園に連れて行くだろう。たとえ死んでも天使が楽園に連れて行く」
という。「青年は楽園に帰りたいとの希望から、死の危険をおかして、この命令を遂行することになる。
このようにして老人は意のままに誰でも殺すことが出来た。」と伝えている。
アラムートは砂漠であるが、冬は降雪があり、エルブールス山脈からの雪解け水や湧き水が岩の空洞に溜まって、カシルハーン村周辺には湧き水が豊富である、庭園はカシルハーン村周辺に造られたのだろう。宮廷はアラムート城だと思いわれる。
英語のアッサシン暗殺者(Assassin)という言葉は、この暗殺教団の話から生まれた。その語源はハシッシー(大麻中毒者)というイラン語で、フランス語読みになり、Hが落ちたという話である。
一服をもったというのは大麻を吸わせたと解釈できる。
アラムート城の地下には貯水槽や食料、武器保存庫があり、構造は複雑で、現場には多くの地下へ通ずる穴がある。しかし個人では危険で入れなかったが、イギリスの探検隊が1965年に調査して報告されている。
貯水槽への水ためは城の北側のハウデガーン山の湧き水が出る個所の水位と同じところに城の貯水槽を設けて、サイフォンの原理を使って、その間を焼き固めた粘土管で繋いでいるとイラン人から聞かされた。勿論外敵から判らないように浅く土埋めしてある。
城の北側はハウデガーン山が迫っている。城門付近の城壁を破られる可能性はあった。しかし写真Aのように絶壁のような急斜面に垂直の城壁が立ち上がっているので、門以外は人力や道具では無理で、大砲のような武器が必要だったであろう。
←このアラムート山頂上に城がそびえていた。斜面は南に面して写真Bの広がりになる。背後はハウデガーン山が迫って、攻撃され難い。西端はこの写真の左部分で、ご覧のとおりである。東端も同じである。

AA:右の岩に穴があるのは城壁を岩に固定する根付の個所だろう。
この下側にも2列に同じような穴があった。この地盤は急斜面である上部は城壁か建物の壁の一部。人が立っているので大きさがわかる。
AB:城壁の材料は砕いた小石を石灰粘土で固めた(当時セメントはなかったので)みたいにみえる。
尚最初の工事現場をギャチサール村に設けたと記述したが、ギャチサールとはイラン語で石灰の村という意味である。

  ←南側絶壁に据え付けられた城壁
城の頂上から南側の眺望→
右の緑がカシルハーン村、この眺めから、攻めてくる敵の動静が正確に掴める。
4.教祖ハッサン イ サッバーが暗殺という手段を選択した理由

山の老人が何故このような行動に出たのかというと煎じ詰めればイスラム教の正統派(スンニー派)と異端派(シーア派)の宗教的、政治的な争いである。ある文献によると10世紀頃エジプトを支配していたファーテイマ朝はシーア派の分派であるイスマイリ派を信奉していた、その権勢の広がりに伴って、アラブ族の大多数がスンニー派だから、イスマイリ派を受け入れさせられる被征服者にとって大変なストレスだったろう。何故ならイスラム国家はイスラム教中心の政治体制だから、シーア派が主張するようにマホメットの血統的繋がりが無い者はカリフの資格がないというのだから、スンニー派の国家は、ファーテイマ朝の動静を戦々恐々として、うかがっていたに違いない。このような時代にコムで生まれたサッバーはシーア派の神学校に通って、イスラム教の奥義を究めるために研究に精励していたが、縁あってイスマエリ派の伝教師に出会い、彼の勧めでエジプトのカイロに行くことになる。ファーテイマ朝に歓迎されて気をよくして、且つイスマエリ派は英知と哲学の根源であると悟って帰依する、1090年ごろイランに帰り、このアラムート城を旧城主から狡猾な罠をかけて乗っ取ったといわれている。しかし11世紀に入るとファーテイマ朝の勢力は衰えて、その後半にはトルコ族のセルジューク朝が隆盛になり、イランの主要な都市はセルジューク朝のスンニー派の支配するところとなった。
その結果イランの国民中でもアーリア系イラン人はシーア派で、特に少数派のイスマイリ派の教徒は猛烈な迫害を受けていた。それに対抗して、イスマイリ派の勢力拡張を志す頑固一徹なサッバーは財力もなく、軍隊を持てないので、市民にも悪影響を与えない最も効率的で経済的な暗殺という手段を採用した。それは政敵の最も重要な人物だけを狙って暗殺し、攻められたら何年でも耐えられる準備をした難攻不落の城に篭城するという作戦だった。セルジュークの度重なる攻撃にも耐え、当時世界最強といわれたモンゴル軍団でも落城までに3年を要したことは、その作戦が成功だったことを物語っている。刺客を発する場合、事前にスパイを敵陣に潜伏させて、情報を集め万全な準備体制を敷いた上で、刺客には数人の同伴者が隠密に随行して敵陣に乗り込んだ。また首尾よく成功しても、間違いなく政敵の人物、暗殺された人物の確証を取ってからでないと帰還が許されなかった。
この暗殺教団はイラン国内だけではなく、シリア、エジプト、アフガニスタンなどにも拠点を広げた。
ハッサン イ サッバーの時代は政治目的だけに使われていたが、誰にも気づかれることなく、ある日突然姿が消されていたという彼らの巧妙な手法は世界中に知れ渡り、ヨーロッパ、中東の政治家、王族、貴族から依頼されて、暗殺を請け負うようになったといわれている。
その巧妙さにチンギス ハーンやフビライ ハーンは驚くと共にその脅威を取り除くためにも、フラグ ハーンはイラン征服を早めて、西アジア遠征軍を送り込んだとされている。

注)フレヤ・スターク (著) 勝藤 猛 (翻訳) 「暗殺教団の谷―女ひとりイスラム辺境を行く」
(現代教養文庫〈1063〉(1982年)

H20年10月