←このアラムート山頂上に城がそびえていた。斜面は南に面して写真Bの広がりになる。背後はハウデガーン山が迫って、攻撃され難い。西端はこの写真の左部分で、ご覧のとおりである。東端も同じである。 |
AA:右の岩に穴があるのは城壁を岩に固定する根付の個所だろう。 この下側にも2列に同じような穴があった。この地盤は急斜面である上部は城壁か建物の壁の一部。人が立っているので大きさがわかる。 AB:城壁の材料は砕いた小石を石灰粘土で固めた(当時セメントはなかったので)みたいにみえる。 尚最初の工事現場をギャチサール村に設けたと記述したが、ギャチサールとはイラン語で石灰の村という意味である。 |
←南側絶壁に据え付けられた城壁 |
城の頂上から南側の眺望→ 右の緑がカシルハーン村、この眺めから、攻めてくる敵の動静が正確に掴める。 |
4.教祖ハッサン イ サッバーが暗殺という手段を選択した理由 山の老人が何故このような行動に出たのかというと煎じ詰めればイスラム教の正統派(スンニー派)と異端派(シーア派)の宗教的、政治的な争いである。ある文献によると10世紀頃エジプトを支配していたファーテイマ朝はシーア派の分派であるイスマイリ派を信奉していた、その権勢の広がりに伴って、アラブ族の大多数がスンニー派だから、イスマイリ派を受け入れさせられる被征服者にとって大変なストレスだったろう。何故ならイスラム国家はイスラム教中心の政治体制だから、シーア派が主張するようにマホメットの血統的繋がりが無い者はカリフの資格がないというのだから、スンニー派の国家は、ファーテイマ朝の動静を戦々恐々として、うかがっていたに違いない。このような時代にコムで生まれたサッバーはシーア派の神学校に通って、イスラム教の奥義を究めるために研究に精励していたが、縁あってイスマエリ派の伝教師に出会い、彼の勧めでエジプトのカイロに行くことになる。ファーテイマ朝に歓迎されて気をよくして、且つイスマエリ派は英知と哲学の根源であると悟って帰依する、1090年ごろイランに帰り、このアラムート城を旧城主から狡猾な罠をかけて乗っ取ったといわれている。しかし11世紀に入るとファーテイマ朝の勢力は衰えて、その後半にはトルコ族のセルジューク朝が隆盛になり、イランの主要な都市はセルジューク朝のスンニー派の支配するところとなった。 その結果イランの国民中でもアーリア系イラン人はシーア派で、特に少数派のイスマイリ派の教徒は猛烈な迫害を受けていた。それに対抗して、イスマイリ派の勢力拡張を志す頑固一徹なサッバーは財力もなく、軍隊を持てないので、市民にも悪影響を与えない最も効率的で経済的な暗殺という手段を採用した。それは政敵の最も重要な人物だけを狙って暗殺し、攻められたら何年でも耐えられる準備をした難攻不落の城に篭城するという作戦だった。セルジュークの度重なる攻撃にも耐え、当時世界最強といわれたモンゴル軍団でも落城までに3年を要したことは、その作戦が成功だったことを物語っている。刺客を発する場合、事前にスパイを敵陣に潜伏させて、情報を集め万全な準備体制を敷いた上で、刺客には数人の同伴者が隠密に随行して敵陣に乗り込んだ。また首尾よく成功しても、間違いなく政敵の人物、暗殺された人物の確証を取ってからでないと帰還が許されなかった。 この暗殺教団はイラン国内だけではなく、シリア、エジプト、アフガニスタンなどにも拠点を広げた。 ハッサン イ サッバーの時代は政治目的だけに使われていたが、誰にも気づかれることなく、ある日突然姿が消されていたという彼らの巧妙な手法は世界中に知れ渡り、ヨーロッパ、中東の政治家、王族、貴族から依頼されて、暗殺を請け負うようになったといわれている。 その巧妙さにチンギス ハーンやフビライ ハーンは驚くと共にその脅威を取り除くためにも、フラグ ハーンはイラン征服を早めて、西アジア遠征軍を送り込んだとされている。 |
注)フレヤ・スターク (著) 勝藤 猛 (翻訳) 「暗殺教団の谷―女ひとりイスラム辺境を行く」 (現代教養文庫〈1063〉(1982年) |
H20年10月 |