戦争中、父がBerlinから持ち帰ったViolin
川村 知一
はじめに
  11月7日、練馬区にある有料介護施設にて、ピアノ+ヴァイオリン・コンサートがあり、私の手元に長らく放置されていたヴァイオリンが、72年ぶりに陽の目を見る機会を得た。

有料介護施設でのピアノ+ヴァイオリン・コンサート
  私の叔母が入所している有料介護施設では、毎月イベントが催され、今月は私の弟が企画したピアノ+ヴァイオリン・コンサートになった。
演奏は弟が習っている女性ピアニストとその友人の女性ヴァイオリニストのボランティアで、お二人とも国内外で活躍されている。
曲の途中で使用されているヴァイオリンについて説明があり、300年ほど前イタリアで製作され、年を経ることで音がまろやかになる話があった。
(写真1.演奏光景)

曲名
愛の挨拶 エルガー作曲
タイスの瞑想曲 マスネ作曲
川の流れのように
ヴァイオリンソナタ一番の第1楽章の一番 ブラームス作曲
シンドラーのリスト
シチリアーノ  バラディス作曲
チャルダーシュ  モンティ作曲
~皆で歌いましょう~ 紅葉

  コンサートが終わってティータイムになり、演奏家お二人に私が持参した72年前のヴァイオリンの来歴を説明し、出来れば一度音を出していただけたらとお願いした。
父が昭和18年ころベルリンで購入して持ち帰ったヴァイオリンで、72年間放置されたままになっていた関係で、コマの設置、調律、音の響きの確認など15分位を要して、何とか復帰した。
ヴァイオリンは父の購入から初めて、本格的なヴァイオリニストによって弾かれ、曲は「タイスの瞑想曲」で力強く甘味なメロディーが広がり、72年間の眠りから一気に目覚めた感じであった。

写真2.72年前のヴァイオリン
 写真3.内部の製作者名ラベル
想像であるが、父はベルリンで激しい空襲を100回以上経験した話で、父が購入しなければ、その後の激しい戦禍で灰になった可能性大とも思われた。

ヴァイオリンの来歴
  私の父は北島正和氏著「ベルリンからの手紙」にあるように、昭和19年元旦、第二次世界大戦中、ソ連のビザを得た日本人7人の1人として、シベリア鉄道経由、陸路約50日かけてベルリンから帰国した。
第二次世界大戦中のドイツには、米・英・ソ・連合国による激しい空爆の中、数百人の日本人が滞在し、帰国を希望しても独ソの激戦もさることながら、ソ連がビザを発給しなかったため帰国の道は閉ざされていた。
著書にあるように、昭和18年、ソ連人35人と日本人7人の交換条件でソ連のビザが発給され、官4人、民3人、計7名が外務省により人選された。

  帰国した父はスーツケース7個を持ち帰り、その中にベルリンで購入したヴァイオリン1本が含まれていた。(余談であるが、私は2才半で父と初対面であった。)
父は自己流でピアノ、三味線を弾いたが、ヴァイオリンは手にしたことはなく、購入目的は聞かず終いであった。

  平成11年、父が亡くなり遺品整理を行った際、古道具屋が来て「これ(ヴァイオリン)は買い取りますよ」に、私は「待った」をかけて自宅(松戸市)に引き取った。

  ケースを開けてヴァイオリンを見ると、胴体の共鳴板が剥がれるなど傷みがあり、近くのヴァイオリン工房に持ち込み修理を依頼した。
本体内部には紙ラベルがあり、製作者の名がドイツ語で書かれていた。工房の職人は10㎝ほどの厚い本を取り出し、英文で書かれた世界のヴァイオリン製作者の名を探してコピーをくれた。

 
製作者:Mathias HEINCKE
  1871年生まれ、ハンガリー人でドイツのマルクノイキルヒェンやイタリアで学び、ブダペストとベルリンで仕事をした、とある。
名機Stradivari、Guarneri、Maggini、Amatiなどのレプリカを忠実に製作する努力をしたとある。

 (添付1.製作者のコピー)
余談
   私の叔母は89才、彼女の青春期は戦時中で、昭和19年には日光丹勢社宅に来て暫く滞在し、ピアノがある北島さんのお宅を訪れ、近所の奥様方とコーラスを楽しんだ話を聞いた。
どんな曲を歌ったのか聞いたところ、「海行かば」など「軍歌」の返事であった。
戦後しばらく青山の実家で暮らし、結婚したが子どもは無く、お相手はK大卒、学徒出陣でスマトラ島へ、帰国後K建設に入社し、営業課長の時、古河千葉工場建設を受注したりしたが、10年ほど前に亡くなった。
叔母はマンションで独り住まいであったが熱中症で動けなくなったりし、危ないので今年の春施設に入所、都内に住む弟が全面的に手助けをしている。
平成27年11月13日