ペルシャの山の老人物語
北島 進 
まえがき

 キリスト教巡礼の聖地エルサレムをエジプトのイスラム教イスマイリ派(注3参照)ファーテイマ朝(注7)から奪還するために第一回十字軍が1095年にシリア,レバノン,パレスチナへ派遣された。そして首尾よく1099年将軍タンクレデイ等の活躍でキリスト教エルサレム王国が誕生した。
 それから約88年後の1187年にイスラム教スンニー派(注1)アイユーブ王朝スルタン サラデインが十字軍国家との停戦協定違反を理由にハッテインの戦でエルサレム王を捕虜にして大勝利し,同年10月2日聖地エルサレムはイスラムの手に落ちた。
 エルサレム再奪回に燃えて欧州は1189年に派遣した第三回十字軍との戦いで,サラデインは十字軍の名将リチャード1世に苦戦を強いられて地中海沿岸のアッコン,ヤッファ,アスカロンなどの諸都市を奪われたが、何とかエルサレムは守り抜いた。ちょうどこのスンニー派イスラム教と十字軍との戦闘史の中で、小規模ながら実に巧妙で大胆不敵な暗殺団の話が必ず登場する。それは1096年ペルシャ(現在のイラン)から送り込まれたイスラム教シーア派(注2)の分派であるニザリ イスマイリ派(注4)初代首席宣教師がシリアのアレッポに派遣されて設立したニザリ イスマイリ派教団に関わることであった。
 ペルシャのニザリ イスマイリ派教団とは教祖ハサン サバーフが1090年に首都テヘランから西隣りのガズヴィン州で敵の容易に近づけない急峻な山岳地帯にあるアラムート城を乗っ取り,ここを本拠地にして周辺のスンニー派セルジューク朝(注5)政治に不満を抱くシーア派住民をニザリ イスマイリ派に改宗させて領民とし,彼らの財産と身の安全を守る代償として徴税を課すことで成立する自治領国家建設に成功した。
 一方シリアでは909年にエジプトのカイロで設立されたイスマイリ派ファーテイマ朝がシリア,パレスチナ,レバノンを260年間支配していた。長老ハサンはシーア派からイスマイリ派に改宗後の1087年イスマイリ派の総本山ファーテイマ朝のカイロへ巡礼の旅をしていたが、その経路はトルコのアナトリアからシリアの諸都市アレッポ、ハマー、ホムス、そしてレバノンを通過していたので、シリアには多くの同胞のイスマイリ派住民が居住していることを知っていた。
 それでアラムート城と地理的に似たシリア西北部レバノンとシリアの国境の山岳地帯に住むイスマイリ派住民を対象にした自治領国家建設を目指して、彼は宣教師を派遣したのが、この教団のシリアにおける誕生の根拠になった。
 この教団のシリア活動は1096年から1272年頃までであるが、その間に7名の首席宣教師がペルシャから送り込まれた。そしてこの教団は1130年ごろから先述したシリア西北部レバノンとシリアの国境地帯に進出して、そこに住むイスマイリ派住民に宣教活動を進めながら、戦略的に有利な城や砦をイスラム領主から買収、略奪で得た領地を本拠地に自治領国家建設を進めてきた。1095年代の教団の敵はもっぱらペルシャと同様にシリアを統治していたスンニー派セルジューク朝であった。ところが1099年代になると教団の支配領域が十字軍国家のトリポリ伯国、アンテイオキア公国と隣接するシリア国境に分布していために、その周辺の戦略的に重要な城や砦の領有権を巡って十字軍国家との紛争が頻発した。
 そして1152年にキリスト教トリポリ伯国君主が、この教団の刺客に殺害されるという事件が起った。
これがこの教団によるヨーロッパ人で最初の犠牲者であった。
 この事件を契機にして当時エルサレムを巡って熾烈な戦闘を繰り広げていた主要な国家、十字軍国家、シリア セルジューク朝、アイユーブ朝君主サラデイン等がこの教団の暗殺という武器を戦略手段として利用しようとする政治情勢が生まれていた。そのような戦々恐々とした中で登場したのが優れた戦略家で知性派の第6代首席宣教師ラシード・ウッディーン・スィナーン(1168-1193)であった。
 この人物が後にヨーロッパで“山の老人”と呼ばれて恐れられた伝説の人である。
 彼らの暗殺の標的は常に最も困難だが敵に与える打撃は計り知れないという国家君主や宰相,将軍、知事などであった。そしてその執行が何年も前から敵国に潜伏して精励恪勤して幹部から信頼を得て為政者の身辺で働く人々に仲間入りした後,教団の長老“山の老人”からの伝令で突然変身して一本の短剣で標的に体当たりして刺し殺すというあまりにも深謀遠慮な罠なので,その成功確率が高かった。
 この事件以来地中海沿岸の十字軍諸国やビザンチン帝国の君主は何時襲われるか全く予想が付かないので,戦々恐々として恐怖の闇に陥れられた。
 暗殺事件の度に現場検証が行われたが,刺客はその場で殺害されるか拷問を受けても一切口を割らないので,誰が命令したのか,暗殺の依頼人は誰なのか解明されない。
これがニザリを利用したい国家が高い代償を払っても武闘戦略に組み込まれる核心であった。
 ラシード・ウッディーン・スィナーンが就任する4年前の1164年武闘派、過激派とされた掟の厳しいペルシャのニザリ イスマイリ派教団本部で宗教改革が断行された。それは第四代教主ハサン二世がイマーム復活宣言によって従来のイスラム教シーア派(ニザリ イスマイリ派の規範はシーア派と同じ)の教義から大幅に逸脱した自由奔放で世俗的な生活風習を実践させた。それを追認して受け入れたシリアの教団の奇妙な生活風習が周辺の住民に漏れ聞こえた噂話をキリスト教巡礼者,年代記者,十字軍兵士が興味本位な艶聞を加味して作り上げた“山の老人物語”としてヨーロッパへ喧伝された。
 暗殺という行為は昔から人類社会の権力者間で見られる一般的な社会現象である。しかし暗殺を英語で“アサシン”(Assassin)というが,この語源は“アシシニ”で“ハシツシ”(大麻)を吸う人という意味から“アサシン”に変化したと19世紀にアラビア語写本からヨーロッパの学者が断定したとされている。 
 そしてその言葉の語源がまさにシリアのニザリ イスマイリ教団にあった。しかもその教団の故郷が遥か東方のペルシャであり,大麻と関わっているというのは意外性に富んだ話である。
 山の老人物語を聞き知った欧米の探検家や歴史家は20世紀中頃から主要なペルシャの教団遺跡を調査して報告書が多数出版されている。
 イランは昔から多民族国家でしかもゾロアスター教,ユダヤ教、ネストリウス派キリスト教、イスラム教スンニー,シーア派など多くの宗教が混在して、その巨大な王朝が栄枯盛衰を繰り返した。
 その為にニザリ イスマイリ教団のような小さな自治領国家の存在は歴史の藻屑に消されて現在のイラン人には殆ど知られていない。 1979年のイラン革命以降ホメイニ師が指導した革命政府の対欧米外交は極めて硬直的で非友好的な為に長い経済制裁を受けた。
 筆者が1984年に初めて教団の本拠地アラムート城を訪れた時は羊飼いや隣の部落の子供が散策する程度でイラン人,欧米人観光客は皆無だった。 
 ところが2005年頃からイラン政府は遺跡をユネスコの世界遺産登録に向けて政府の文化遺産局が事務所をアラムート城に設置されて、スタッフが常駐して遺跡の本格的調査、修復が始められた。
それで最近電車やバスで、この教団の歴史をご存知の若いイラン人に出会うことが多くなった。
 そして2013年ハッサン ロウハニ大統領の就任で徐々に欧米関係が好転して,2015年初めには欧米との核合意で経済制裁が解除された。
 2016年10月この城を訪れたら,イラン人無料,外国人には600円の入場料が求められた。城地下室には喫茶店が出来て,茶ボーイが微笑を浮かべて迎えてくれる。多くの欧米人,若い中国人が訪れていた。
 筆者は古河電工社員だった1978年にイランのパーレビ王朝の電力省と締結した500億円の400KV架空送電線建設プロジェクトに参画して、その施工管理で約7年間イランの各地を巡回した折に、この教団の城跡が工事現場に近かったので,興味を駆り立てられた。
 退職後も数年にわたり城の遺構調査と内外の文献や旅行記などを調べて全体像の把握に努めてきた。
 このニザリ イスマイリ派自治領国家は1090年の建国からモンゴル帝国の西方遠征軍団によって1256年に滅ぼされる約166年間ペルシャとシリアで果敢に生き延びたのである。
 巨大な軍事力と経済力を持つ宿敵セルジューク朝に対して,多勢に無勢の弱小国家が如何にして宣教拡大、自治領拡大を計って生き延びてきたのか。
 この歴史をペルシャ側からの視点で総合的にまとめようとしたのが本書の目的なので書名を『ペルシャの山の老人物語』とした。

注1:スンニー派とシーア派
ニザリ イスマイリ教団の説明の中で頻繁に出てくるスンニー派とシーア派の本質的な違いを簡略に説明するとスンニー派はコーランとハデイーズと呼ばれる伝承集成のみを教義とする。イスラム教の預言者マホメットは後継者を指名しないで632年に没したが彼には男子がいなかったので、後継者を選ぶのに信徒の共同体の合議制によってマホメットの妻の父親アブー バクルが初代カリフに指名された。カリフとは信徒に対する神の代理人という意味である。二代目はバクルの親友ウマル、3代目はマホメットに経済的にも軍事的にも貢献したクライシュ族のウマイア家(シリア領)の後ろ盾によって選ばれたウスマーンであった。ウスマーンはウマイア家の一門を当然重要視して登用しすぎたために恨まれて656年暗殺されたので,ウスマーンの後4代目カリフにマホメットの娘ファーテイマの婿アリーが指名された。この人物の素性は若干複雑で本名はアリー・イブン・アビー・ターリブでマホメットの父方の従弟で母もマホメットの父の従姉妹である。後にマホメットの養子となりマホメットの娘ファーティマを娶った。マホメットがイスラム教の布教を開始したとき最初に入信した人々の一人であった。直情の人で人望厚く、武勇に優れていたと言われる。早くからマホメットの後継者と見做されていた。
第4代カリフとなったが対抗するシリアのウマイヤ朝初代王ムアーウィヤとの戦いに追われ、661年に反アリー派のハワーリジュ派によって暗殺される。
アリーが暗殺されたことによってただ一人カリフとして残ったダマスクスのムアーウィヤがイスラーム世界の統治者となった。その地位はウマイヤ家に世襲されることとなり、ウマイヤ朝が開始されるが、それを認めずにアリーの子孫のみをイスラム教の指導者(イマーム)であるとするシーア派が出現し、それに対してウマイヤ家のカリフを認めるスンニー派が対立するようになり、イスラーム世界は二分されることとなる。
カリフのアリーが暗殺されるとアリーを支持した人々は“シーア アリー”と呼ばれた。即ちシーアとは派を意味するので、アリー派となるが、これがその後シーア派と呼ばれるようになった。この派はマホメットとの血の繋がりのある子孫に超能力的な神聖性があるとして、マホメットとの血縁のないスンニー派のカリフを拒否して最高指導者をイマームと呼んで崇めると同時にイマームによるコーランや伝承集成の独自の解釈で理解し実践する。更にイマームは救済の道程における唯一人の導師であり、信徒たちが分裂して別々の道をたどらないためにはこのような指導が必要とした。

注2:イスマイリ派の誕生
シーア派6代目イマーム ジャファル サーデイクが765年に没した時、彼の長男イスマイール イブン ジャファルが後継者として指名されていたが、酒癖がわるいなど倫理問題が多かった。しかも755年に既に没していたので、サーデイクは改めて次男ムーサー カーズイムを指名した。
ところがシーア派の教義ではイマームは神の霊感によって行動し、絶対に誤りを犯さないものであり、言い直し、訂正などできないものであるとされている。したがって最初のイマームの指名は撤回できないものであるとして、ムーサーを拒否したグループがイスマイリ派を結成した。死去した長男の息子ムハンマド・イブン・イスマイールをイマームに担いだのがイスマイリ派である。

注3:ファーテイマ朝の誕生
9世紀末頃から、イスマイリ派の秘密の本部がシリアのホムスとハマーの間の小さな町サラミーヤにあった。ここからアッバース朝の領域、イラク、ペルシャ、イエーメンにダーイ(宣教師)を派遣して宣教活動を活発にした。
その中の秘密運動員の一人アルハサン ブン ザカリアーという人物がアルジェリアのカビール山地に住むベルベル族と接触する使命を受けた。この人物の活動が源になり、909年にイスマイリ派の子孫だと称する君主がアルジェリアの隣のチュニジアにイスラム王朝を興した。そしてマホメットの娘ファーテイマの名前を貰って、ファーテイマ朝とした。969年第4代カリフのムイッズはエジプトを支配していたイフシード朝の内部崩壊に乗じて、将軍ジャウハル率いる遠征軍を派遣した。ジャウハルは無血入城してエジプトを支配下に治めた。カリフのエジプト移転に合わせて将軍ジャウハルはエジプトの首府フスタートの隣のカイロに新都を建設した。
ファーテイマ朝の領域はエジプト、エルサレムを含む南シリア、メッカを含むアラビア半島西部のビジャーズ地方も保護下に置いた。これはイスマイリ派の布教域の広がりに一致する。

注4:イスラム教ムスタアリー派とニザリ イスマイリ派誕生
1095年エジプトのイスラム教イスマイリ派リーダー、ファーテイマ朝8代カリフ(イスマイリ派18代イマーム)ムスタンシルの没後、後継者に兄ニザールを決めていた。一方1070年以降このイスマイリ派ファーテイマ朝は宣教拡大を中央アジア、シリア、イラン東部のホーラサン、ダイラム地方、イエーメンに伸ばした。これらの国は1089年以降イスマイリ派のイマームに当初兄ニザールが継承を予定していたが、当時のファーテイマ朝の全権を掌握していた宰相アフダルが、政治的な理由でカリフの妹婿のアフマドをアル ムスタアリー ピッラーと命名してカリフでイマームに決めた。これに対してニザールは弟をカリフに仰ぐことは出来ないとして、アレキサンドリアで反乱を起こすが、すぐに鎮圧されてカイロに幽閉された後1098年頃までに死亡した。
1095年の宗教変革でムスタアリーをイマームとした以降ファーテイマ朝はムスタアリーをイマームとしたのでムスタアリー派と呼ばれた。従ってファーテイマ朝の支配地域のシリア、エジプトにはムスタアリー派の住民が多い。
このときムスタアリーを拒否し、ニザールを正統なイマームとした人々がイスマイリ派から分派してニザリ派を興した。
イスマイリ派教団長老ハサンはこの時ニザールを支持したために、1095年以降長老ハサンはニザリ イスマイリ派の教祖となった。そしてアラムート城を本拠地として、宗教的な対立したスンニー派セルジューク朝に刺客を送って暗殺という手段を使ったので、今日ではニザリ イスマイリ派といえば過激な暗殺教団と認知されている。

注5:セルジューク朝
王朝の遠祖セルジュークはアラル海の北側に住むテユルク系遊牧集団の族長であった。この集団が10世紀末から中央アジアに侵入して移住して、遊牧生活を送りながら、スンニー派イスラム教に改宗した。このようなモスレムのテユルク遊牧民のことをペルシャ語でトルクマンと呼ばれている。この集団のセルジュークの子や孫たちが一人のリーダーのもとに結集して武力集団になり、1038年イランのホーラサン州のニシャプールに無血入城して、その支配者に迎えられた。これがセルジューク朝の建国とされた。1050年にはイラン高原に転進して、イスファハーンをとり、イランの大部分を支配下に治めた。この頃からセルジューク朝の君主トウリル ベグはスルタンの称号を使い始めた。バグダードのアッバース朝(スンニー派)(注6)のカリフに書簡をおくり忠誠を誓って、アッバース朝の庇護者となった。そして当時イラン、イラクを統治していたシーア派のブワイフ王朝を滅ぼした。1071年には東ローマ帝国と戦って勝利し、ロマノス4世が捕虜となった。その結果アナトリアを占領して、多くのトルクマンが移住してトルコ化が進んだ。11世紀後半にはペルシャ人の大宰相ニザーム アル ムルクの政治力でアナトリア、シリア、イラン、イラク、中央アジアを強力な行政下に治めた大帝国に発展した。

注6:アッバース朝
西はイベリア半島から東は中央アジアに及ぶ領域を支配した正統派イスラム教スンニー派の大帝国である。
成立の特徴的な点はマホメットが他界後スンニー派のところで述べたように4代目カリフにアリーが指名されるとマホメットの妻アーイシャとシリア総監でウマイア家一門のムアーウイヤがこれに反対して、ムアーウイヤはカリフとしてシリアのダマスカスにウマイア朝を興した。この王朝はイスラムの税金の基礎は人頭税と地租であるが、これを異教徒と非アラブ人のイスラム教徒にだけかけた。この差別はコーランに違反しているので、シーア派のイラン人やアラブ人でも中心から外れた不満分子が連合した軍が750年にイスラム教のマホメットの叔父アッバース家の子孫をカリフとして、ウマイア朝と戦い、これを破ってアッバース朝イスラム帝国が成立した。しかしシーア派の協力の下で成立したアッバース朝であったが、イスラム教徒の大半はスンニー派であったため、支配を容易にする為スンニー派に改宗してしまった。シーア派の人々は完全に裏切られてしまった。
この裏切りはシーア派の深い宗教的な恨みや反抗を潜在化させて、アッバース朝の統治下でシーア派の反乱が繰り返される原因になった。

注7:アイユーブ朝
 
目次
 
1.十二世紀ヨーロッパ人に抱かせたニザリ イスマイリ派教団の艶聞物語
2.ペルシャのニザリ イスマイリ派教団の生い立ち
3.ニザリ イスマイリ派教団の自治領国家建設
4.初代 教祖ハサンの執政史
5.シリアへの宣教拡大と自治領国家建設の歴史
6.教祖ハサンのシリア宣教師派遣後の執政史
7.教団の歴代教主の執政
8.ニザリ派自治領国家崩壊の歴史
● 城の内部構造と周辺の特徴
 ● アラムート城
 ● ラミアサール城
 ● マイムンデイズ城
 ● ゲルドクー城


.十二世紀ヨーロッパ人に抱かせたニザリ イスマイリ派教団の艶聞物語


ニザリ イスマイリ派教団の噂話
 最初にシリアで“山の老人”が率いたニザリ イスマイリ派教団をヨーロッパ人はどのように伝えられたのかを紹介しよう。
バーナード ルイス著 「暗殺教団」によるとペルシャのニザリ イスマイリ派教団に関する最初の文献はローマ皇帝フリードリヒ バルバロッサが1175年にシリアとエジプトに派遣した使節団の報告であった。それは次のようなものである。
『ダマスカスとアンテオキア、アレッポの国境の山中で(地図1参照)、彼ら自身の言葉で”山の老人”と呼ばれるアラブ系の一族が住んでいることに注目しなければならない。この人々は無法の中で生活し、彼らの教祖山の老人の掟に逆らって豚の肉を食べる。また彼らは自分の母親や姉妹も含めすべての女性と区別なく交わる。彼らは山中に住み、十分に強固に構築された城砦に潜伏しているので、ほとんど難攻不落である。彼らの土地はあまり肥沃ではないので、家畜によって生計を立てている。また彼らは一人の君主を戴き、その君主は隣のキリスト教国の君主だけでなく、遠方近隣のアラブ系の国の王様たちにも最も恐ろしい恐怖の念を与えている。
 なぜならば彼は驚異的な手段によって彼らを殺害する常習を持っているからである。この手段とは次のようなことである。この君主は多くの山岳に美しい宮殿を持っているが、それらは高い城壁に囲まれて、何人も一つの小さなしかし充分防護された扉以外に中に入ることは出来ない。これらの宮殿で彼は支配下にある領地の農民の息子達を集めて、幼少の頃から養育し、彼らにラテン語、ギリシャ語、ローマ語、アラブ語その他多くの言葉を教えた。これらの若者たちは幼少の頃から成人になるまで彼らの先生たちによって次のように教えられた。“君たちの国の君主のすべての言葉と命令には服従すべきこと、そしてそれが守られるならばすべての生ける神々に影響を及ぼす力のある君主はお前たちに必ず楽園の喜びをもたらすであろうと。”
また何事においても、もし君主の意思に従わないならば救済は望み得ないとも教えられた。ここで次の事柄に注目する必要がある。この若者達は幼少の頃から宮殿に連れて来られて以来先生と君主以外には誰とも対話していないし、他人の教えも受けていないという環境で過ごして来た。そして誰かを殺すために宮殿から君主の面前に呼び出されて君主から楽園を授かるために自分の命令に快く従うか否か尋ねられる。この段階に至って彼らは教えられてきたように何の疑問も異存も抱かずに君主の足元に身を投げ出して君主のあらゆる命令に情熱を込めて従うことを申し述べる。そこで直ちに君主は彼ら各々に一振りの黄金の短剣を授け、彼が目星をつけた君主を殺すために彼らを送り出すのである。』
 この話の数年後にテイル(地図1サイダー市)の大司教ウイリアムが『十字軍諸国史』の中で次のように述べている。
『フエニキアとも呼ばれるテイル地区およびトルトサ(タルトース市)の司教区には十の堅牢な城砦とそれぞれの城に付属する村々を持つ一団の人々が住んでいる。
私が聞いたところによると彼らの数は約6万人かそれ以上である。首長を任命し、君主を選ぶのに、世襲によってではなく、ただ美徳によってのみ行うのが彼らの習慣である。
彼らは自分たち以外のいかなる権威の称号も軽蔑して、自分たちの君主を”長老”と呼んだ。そしてこの長老に対して、この人々を結びつける服従や奉仕の絆は非常に強くて、長老が命ずるいかなる困難で危険な仕事でも異常な情熱を持って遂行しようとする。例えばこの人々によって憎まれたり疑われたりした君主がいれば長老は自分の部下にひとふりの短剣を与えて命令を下す。
命令を受けた者はその殺害の結果や自分の生死に一切考慮することなく直ちに命令を実行に移す。仮に実行に時間を要しても命令実現への執念は衰えず、絶好の機会が訪れるのを執念深く待って確実に遂行した。
我々もアラブ人たちも彼らを”アシシニ”と呼んでいるが、その名の起源は知らない。』
 その後ドイツの年代記記者アーノルドは次のように述べている。
『さて この長老についてのいろいろな事実を述べよう。それらは一見馬鹿げているようであるが、信頼できる証人たちの言葉によって確かめられている。
この老人は自分の国の人々をその魔力によって幻惑するので、人々は彼以外のいかなる神も崇拝したり信仰したりしない。また同様に不思議な方法で彼は永遠の歓喜を伴う快楽への期待と約束を持って人々を誘惑するので人々は生きるよりも死ぬことの方を選ぶに至る。この老人が人々を最も祝福された者とみなすのは敵の血を流し、その殺害の結果自分も報復の犠牲になって死に至る人々である。
そこである者が永遠の歓喜と悦楽を享受したいと死を望む時、長老はこの務めに捧げられる短剣を手渡して、その後彼らを法悦と忘我の境地に没しめるために一服の薬で酔わせてその魔力によって快楽と歓喜に満ちた境地、いや実際は見せかけに過ぎない幻想的な夢を見せるのである。
そして彼らにはその行為の代償としてこれらの永遠の享受を約束するのである。』
 ”一服の薬で酔わせて”の一服の薬とは先に述べた”ハシッシ”即ちインド大麻を意味している。
 12世紀後半の十字軍及びヨーロッパ人はアサシンがシリア地区のイスラム教宗派の一つだと認識していたが、この宗派がイスラム教の他の宗派との関連性や誕生の歴史は全く知らなかった。
 しかし当時既にアサシンの起源がペルシャであるという事実を突き止めた旅行者がいた。
 その人はスペインのユダヤ人ツデラのベンジャミンである。1167年彼はシリアを経由してペルシャへ旅をした著述書の中で『ペルシャのムルヘトの地域で、そこの人々が山の頂上に住む異教徒集団であり、シリアの”山の老人”またはアサシンの長老との結びつきがある。』と記している。ムルヘトとは土地の名前ではなくて、そこに住む人々の別称である。
ムルヘトはムラヒーダの間違いで、ムラヒーダとはペルシャ語で道に迷える者という意味である。
 従ってシリアの山の老人はペルシャのダイラム地方に住むニザリ イスマイリ派教団の長老との結び付きがあると述べている。
 その他にも、アッカ(黒海沿岸のヘファ市)の司教ヴィトリーのジェイムスはシリアのアサシンの宗派の発生の地は彼らがシリアに来る前の住んでいた土地、それは遥か東方でバグダートやペルシャ諸州の東方に位置すると記している。しかしこれらの情報は当時ヨーロッパには伝わっていなかった。
 山の老人の本拠地がペルシャにあるという事実をヨーロッパ人が認識したのは13世紀に入ってからであった。
 これを裏付ける史実は1238年にシリアの山の老人が派遣した使節団がヨーロッパに到着して、東方から新たに迫ってくるモンゴル族の脅威に対して英国、フランスに援軍要請をしてきたという記録がフランス国立図書館に残されている。
 また1253年から55年にかけてフランス王の使節団としてフランドルの司教ルブルクのウイリアム一行がモンゴル帝国の首都カラコルムの大ハーンの宮廷に派遣された。
 彼はペルシャを通過した際に『アサシンの城砦がカスピ海の南側の山々に隣接している』と記している。
 また彼は『カラコルムに到着した際に、モンゴル帝国の入城に際してあまりにも厳重で厳しい警備体制に驚かされた。それは大ハーンがさまざまな変装をした少なくとも40名のアサシンが彼を狙って送り込まれたと聞き及んだためだ。そして大ハーン モンケは近く彼の弟に命じて、アサシンの土地に向かわせ、彼らを皆殺しにするように命じたのである。』と記している。
 このアサシンとはシリアではなくて、ペルシャのアラムート城を本拠地としたニザリ イスマイリ派教団を指している。
 モンゴル帝国の西方遠征隊は皇帝モンケが弟フラグに命じて、1253年カラコルムを出発した。目的は三つあって、第一がペルシャで蔓延る危険なニザリ イスマイリ教団を壊滅すること,第二はバグダートのアッバース朝を倒してイラクを支配下に置くこと、第三がエジプト、エルサレム、パレスチナ、シリアを支配下に置くこと。
 先述したシリアの山の老人がヨーロッパへ派遣した使節団の目的はモンゴル帝国の西方遠征隊に対抗する援軍要請であった。この山の老人の予知能力は1238年に15年後の1253年のモンゴル帝国の西方遠征団の派遣を察知しており驚異的なレベルである。
さて最後に紹介するのが日本でも有名なマルコ ポーロの東方見聞録に描かれているこの教団の風景である。ポーロは1270年頃陸路シルクロードを通って元王朝の中国に向かって旅していたが、その時にペルシャで入手した”山の老人”の話を次のように伝えている。
 『ムラヒーダ地方には、昔山の老人が住んでいた。ムラヒーダとは異端の棲家という意味である。私は土地の人からその話を聞いたから、詳しく話をしておこう。山の老人はアロアデインといったが、彼は山の谷間を囲い込んで、今までになかったほど大きく美しい庭園とし、いろいろな果樹を植えた。中には想像も出来ない様な綺麗な楼閣と宮殿を建てた。
すべて金箔を張り、鮮やかな色を塗った。幾つかの川には葡萄酒、牛乳、蜂蜜、水がそれぞれ溢れるように流れていた。妙齢な美女が楽器をかきならし、上手に歌い、見事に踊った。マホメットは楽園について、そこには葡萄酒、牛乳、蜂蜜、水の流れる暗渠が走っており、入園者を喜ばせるために多くの美女が居ると述べているが、山の老人はこれを基にして庭園を造ったのだが、この地方のイスラム教徒はこれこそが楽園だと信じていた。
彼は刺客に仕立てる人を除いては誰も庭園には入れなかった。入口には世界を相手に出来るほど強固な要塞があり、他に入口はなかった。彼の宮廷には、この辺の12歳から20歳までの武術の好きな少年を多くおいてあった。彼らは老人からマホメットの言う楽園のことを聞かされる。その後一回に4人、6人、10人ずつ庭園に入れられるのだが、まず一服をもって深い眠りに落とした上で運び込む。目が覚めると庭園にいたことになる。彼らは周囲の素晴らしい光景を見て、これこそ楽園だと信じ込む。美女たちは満足のいくまで接待し青春の喜びを満喫し彼らはここから出たいなどとは一切考えなくなる。
 山の老人と呼ばれている君主は宮廷を出来る限り豪華にして素朴な住民に彼こそ偉大な預言者だと信じ込ませている。彼が何かの目的で刺客を送ろうとする時は前と同じように庭園内に居る少年の一人に一服盛って眠らせて宮廷に運び込む。目を覚ました青年は自分が城に居るのに気づき面白くないと思う。
老人は彼を呼び出し何処から来たかと聞く。彼が楽園から来ました、そこはマホメットが述べている楽園とそっくりですと答えるのは当然である。そこで老人は“これこれの人物を殺して来い、帰ってきたら天使がお前を楽園に連れて行く”という。青年は楽園に帰りたいという希望から死の危険をも犯して、この命令を遂行することになる。こうして山の老人は意のままに誰でも殺すことが出来た。またこれによってすべての君主たちの恐怖心をかきたてたので、老人に平和な態度をとってもらいたいばかりに、彼らはその臣下となった。山の老人は何人かの部下を持ち、かれらはこのやり方をまねて、全く同じ事をやっていた。その一人はダマスクス領内に、もう一人はクルデスタンに派遣されていた。』
 この話は1270年にポーロがペルシャを旅した時に村人から聞いた話として紹介されている。従って話の内容からペルシャのニザリ イスマイリ教団のことである。しかし話の構成があまりにも先述したローマ皇帝フリードリヒ バルバロッサが派遣した使節団の報告に似ている。しかも1256年にはニザリ イスマイリ教団はゲルドクー城を除いて、すべての城はモンゴル軍によって滅ぼされて壊滅されていた。
マルコが旅した時は教団消滅後14年も経過して現代のイラン人でもこの教団の話はあまり知られていないが、地方の田舎のイラン人ではとっくに忘れ去られていたはずだ。
ところが歴史のいたずらか、丁度同じ1270年に14年間の篭城していた教団最後の城ゲルドクーがモンゴル軍に投降した。一方ゲルドクー城はダムガーン市というカスピ海へ向かう道とパキスタン,インド,中国へ向かうシルクロードの交差する要衝地で,この街から西方18kmに位置している。(地図2参照)
 従ってマルコは中国に向かう途中で立ち寄ったダムガーンの街で人々から聞いた情報を種にヨーロッパに伝わった話と融合してドラマテックな物語に仕立てたのではないかと推察される。ムラヒーダ地方とはニザリ イスマイリ派の人々をムラヒーダ(異端者,道に迷った人々)と呼ばれていたので、異端者の住む地方と解釈できるが、現地にはそのような名称土地はない。
 アロアデインという名前は歴代のニザリ イスマイリ教団の教主には見当たらない。
“山の老人”という言葉はシリアのアサシンの教主に付けられた名前で、ペルシャにはない言葉である。そしてゲルドクー城には城主はいたが教主はいなかった。
更に“その一人はダマスクス領内に、一人はクルデスタンに派遣されていた。”の文章は1095年頃に教祖ハサンがシリアやトルコの国境の接するクルド族の住む地域(クルデスタン州)へ宣教師を派遣したとモンゴル帝国の西方遠征団に参加したペルシャ人歴史家ジュヴァイニは語っているので、マルコの話はニザリ イスマイリ派教団のハサンの布教活動と一致する。

ペルシャのザリ イスマイリ教団の楽園物語の歴史
 さて1170年代ヨーロッパに喧伝されたシリアのニザリ イスマイリ教団の話は刺客養成機関で山の老人は天国のような楽園に屈強な若者を集めて、インド大麻を吸わせて、美女の奏でる妖しい音楽、舞踊で極楽の極みを堪能させた。そして彼等はここで過ごした楽園の生活はマホメットの述べた天国の再現であり、君たちが私の命令する任務を無事遂行して帰還しても、或いは殉教の死を遂げたとしても、必ずこの楽園に導かれるという教団の教義を熱心に彼等に説教して、彼らも実体験した天国の楽園への帰還を盲信させることに成功した。
 その結果山の老人は意のままに宿敵の要人暗殺を命じて、それに成功したという筋書である。
ところがこの教団の本家本元のペルシャでは1256年にモンゴル帝国の西方遠征隊の隊長フラグに同伴して、アラムート城を陥落させて城内の文物調査を任されたペルシャ人歴史家アタ マリク ジュヴァイニ著『世界の征服者の歴史』のアラムート城関連で教祖ハサンの残した日誌や教義の中に、このような天国の楽園話は一切語られていない。
 この中で際立った話として教祖はペルシャの天文学者や哲学者、医者を城に招いて研究させて、膨大な研究資料や文献、ハサンの日記などが城内の図書館から検収されたという。アラムート城は絶壁に囲まれた独立峰の山で敷地は小さく、しかも宮殿は全て地下の洞窟であるから楽園とは程遠い環境である。
 従って後述するハサンの人物像、教団の教義などからは全くこの様な楽園話は伝えられていない。
ところが楽園物語の起源となった1164年のペルシャ第四代教主ハサン二世が断行した宗教改革で現在のシーア派イラン人でも腰を抜かすような破廉恥な話(ローマ皇帝フリードリヒ バルバロッサの派遣使節団の報告)が生み出される要因になった“イマームの復活宣言”を少し詳しく説明しよう。

ハサン二世の宗教改革(別名キヤーマの宣言:イマームの復活)
 ニザリ イスマイリ教団第三代目教主ムハンマド一世の息子ハサン ズイクリヒル サラームは青年に成長した時に、教祖ハサンや第二代目教主で彼の祖父ブズルグ ウンミードのイスマイリ派、ニザリ派教義やイマームの経緯について詳しく研究した。
 彼には生来持って生まれた宗教家としての特異な才能が備わっていたらしい。ニザリ派の教義に関して彼の雄弁で卓越した語り口は多くの人々を心底から魅了させた。父ムハンマド一世にはこのような才能が全く欠けていたために、息子は大学者の様にみられて、一般の人々も教主ムハンマドよりも息子の指導に従うことを望んだ。
 文献によると教祖ハサンが教義の中でイマーム不在(ニザームは既に死亡)関する二つの仮説の中の最初の説でイマームはいつか人々を救済するために降誕するとした事が、もしかすると現実に起こって、この息子がイマームではないのかと人々は思い始めたとある。息子には人を惹きつける話術とか、振舞い、霊感的で超能力的な素質が備わっていたのではないか。現代でも似たような現象は新興宗教の教主にもみられる。例えば野田市にある霊波の光の波瀬善雄氏とか高山市にある崇教真光の岡田光玉氏、オーム真理教 麻原彰晃氏などである。
 それに対してムハンマド一世は息子の行為はニザリ派の原則とはすべて矛盾していると考えた。
そして彼は息子を激しく糾弾して、人々に次のように告げた。
『彼は私の息子である。私は今までイマームではなく、イマームの意思の伝達者にすぎない。息子の言葉に耳を傾け、それを信じる者はすべて無神論者である。』そして彼をイマームだと信じている人々を拷問にかけて処罰させた。ある時は250人をアラムート城内で処刑した、また同数の人々を城から追放した。
しかし1162年にムハンマド1世が死亡すると35歳の息子が何の抵抗もなく後を継いで第4代目教主ハサン二世(1162年-1166年)で即位した。
 ハサン二世は即位して2年半後のラマダーン月(イスラム教徒は断食をする)の1164年8月8日、彼の命令で集められたニザリ イスマイリ教徒に向かって、次のようなことを宣言した。「自分はお隠れになったイマーム(ニザーム)の孫である。私は宗教で課せられた義務を今後解除すること。みなさんは新しい世紀即ち復活の日を迎えたのであって、アラーの神を直感的に瞑想することに専念すればよいこと。そしてこれが本当のお祈りであること。みなさんはもはや一日5回の礼拝をする必要はなく、宗教によって規定されているその他の外面的な儀礼を守ることは必要ではないこと.」続いて食卓が並べられ断食を破るために民衆が招かれた。そして竪琴や三弦を弾いて娯楽に興じて大いに酒を飲み、この月を過ごした。これより以降ラマダーンの月はニザリ イスマイリ派教徒にとって復活祭として祝われた。
 しかしこのシャリーヤ(宗教規範)は1979年のイラン革命以前の宗教規範の緩んだパーラビ朝時代でも通用しないほど脱線しているとしか思えない。
このようなゆるみが信仰を内面的な深さに向かわせるような働きになったのか否か歴史家は述べていない。
 このハサン二世の行動はイスラム教ではキヤーマの宣言をしたということで、キヤーマとはイマームが救世主として再臨した、即ちハサン二世が教祖ハサンの約束した隠れイマームが現世に降誕したのが自分であると宣言した。救世主が現世に現れたということはそれ以降宗教規範を破棄してもよいことを意味する。イラン、シリアのニザリ イスマイリ派教徒はハサン二世をイマームと認めて、完全に彼の主張を受け入れた。
再臨したイマームの下でのニザリ イスマイリ派教徒の現実の生活は限りなく神に近いイマームの発する指導、教義の実践は絶対的なものとして受け止められていたであろう。それはニザリ イスマイリ教徒にとって、次のようなご利益があったし、安心感にもつながったそうである。教徒はイマームによって選ばれた僕である。復活のイマームは彼らを罪から守ることができた。同じく復活したイマームは神に近いから、教徒を死からも救うことが出来た。復活したイマームの国は神の意向に基づいた国だから、法による支配は必要がなくなり、教徒自ら神の実在を観照できるようになり、また生きながら彼らは真理を認識することが可能になった。このように復活したイマームはニザリ イスマイリ教徒を精神的な楽園に導くことができた。またニザリ イスマイリ教徒は天国への切符を手にすることができた。
 当然シーア、スンニー派イスラム教徒はこれを恥知らずな行為として非難した。この時期からニザリ イスマイリ派教徒を”ムラヒーダ”(道に迷える者)と呼ばれるようになった。
 このような宗教規範を大幅に緩めると道徳の低下と頽廃的な乱脈に陥るおそれがあるとされている。
参考文献バーナード ルイス著『The Assassins』ホジソン著『The Secret Order of Assassins』

シリアに於けるニザリ イスマイリ派教団の宗教改革と楽園物語
 シリアの教団全体の歴史は章を改めて詳述するが、ここでは楽園に関して概観すると、シリアはスンニー派セルジューク朝の支配下になった11世紀後半以前はイスマイリ派ファーテイマ朝(本拠地エジプト カイロ)の支配下にあった。従ってイスマイリ派教徒が多く住んでいた。1095年に教祖ハサンが派遣したペルシャ人首席伝道師がアレッポやホムスの山岳地帯でペルシャと同じ方式の布教活動で現地のイスマイリ派(後にムスタアリー派)住民をニザリ派に改宗させて味方につけて教団の拠点造りを進めていた。ところが相手はアラブ人(ペルシャ人はアーリア人である)で言葉の違いやシリアの統治者はシリア セルジューク朝だったために、彼らのセルジューク朝に対する敵愾心はペルシャ人ほど強くはなかった。またシリア セルジューク朝から布教活動、土地建物所有権で恣意的な厳しい条件が課せられて宣教活動や自治領国家建設が思うように進まなかった。ところが1162年にペルシャの教主ハサン二世によってシリアへ主席宣教師として派遣されたラシード ウデイーン スィナーンが紆余曲折はあったものの優れた政治力と指導力、統率力によってシリアのニザリ イスマイリ派の最盛期を現出させた。当然スィナーンはキヤーマ宣言を受け入れて、ニザリ イスマイリ教徒はシャリーヤ(コーランやムハンマドの言行による宗教規範)を破棄した新しい生活を実践した。
 ところがこの時代のシリアはペルシャと違って、国際化が進んでイスラエルのキリスト教国家、十字軍団、ユダヤ教、ギリシャ正教のビザンチン帝国、イスラム教スンニー派、シーア派、などの民衆に囲まれていた。
 そして西欧の伝記記者、キリスト教巡礼者、十字軍兵士、旅行者がこの新しいニザリ イスマイリ派教徒の生活習慣の変貌に驚愕して軽蔑の艶聞話を付け加えた物語は“ヨーロッパ人の抱いたニザリ イスマイリ教団の風景”で述べた状況の下敷きであった。
 更に追加情報として次のように話が伝えられていた。
『スィナーンは法の終末を迎えて、教徒達に自分の母や姉妹や娘たちを汚すことを許し、ラマザーンに断食を免除したということを耳にした』とか『ジャバル アル スンマークの人々は自らを”純粋なる人々”と自称して、男女とも酒宴に加わり、男は自分の姉妹、娘と交わり、女は男装して、彼らの中にはスィナーンは神であると断言した』
この男女の乱交はアラムートのハサン二世のキヤーマの規範にも見当たらないので、スィナーンもこの話を否定していた。
 しかしイスラム教の規律を大きく逸脱したニザリ イスマイリ教徒の生活ぶりがヨーロッパへ伝えられて教団の楽園物語の土台になったことは容易に推察できる。
 さすがにこれほどの変革にはとても追従できない信徒が出てきても不思議ではなかった。
そんな中にギーラン州のダイラム地方(地図2参照)に住むダイラム族の貴族の子孫でイマーム ハサン二世の妻の弟がいた。
かれの信心深さと敬神の心は人並み以上であったから、ハサン二世の変革は明らかに間違いで恥ずべき行為だとして、その行為に耐えることはできなかった。
 そして1166年1月9日ハサン二世がラミアサール城に滞在していた時、この義弟によって刺し殺された。
 スィナーンはハサン二世の死後ペルシャ本部との関係を絶って,元の宗教規範に戻してシリアのニザリ イスマイリ教団の運営を継続した。従ってペルシャからの伝令や指示を無視した為にスイナーンが実質的なシリアの教主として振る舞った。当然本部から度々スィナーンに刺客が送られたが、悉く事前に察知されて失敗に終わったと言われている。
スィナーンの人物像はあとで触れるが、人格者で霊的な感性に恵まれて、透視力のある人であった。ヨーロッパに伝えられた秘話はロマンチックな千一夜物語よりおどろおどろしくて、サスペンスのある妖艶な物語として伝えられた為に今でもペルシャの教団城郭遺跡は多くのヨーロッパ人の隠れた観光スポットで人気ナンバーワンである。
 この”山の老人” と呼ばれた教主スィナーンが刺客に殉教の死をもって天国の楽園で復活を説いた自己犠牲を伴う余りにも気高い忠誠心を聞き及んだヨーロッパの若者は恋人への永遠の愛の告白にアサシンの忠誠心を比喩として恋文に使うことが大流行した。

アサシンの忠誠心と恋文の秘話
 いくつかの詩を紹介しよう。
『我は御身の掌中にあり。山の老人の意の如く、彼の不倶戴天の敵の殺害に向かうアサシンより完璧に』
もう一人はこんな風に
『アサシンが山の老人に忠誠を誓って仕える如く、私は変わらぬ忠誠をもってあなたに仕えるだろう』
あるいは『我は御身のアサシン。御身の命を果たして、楽園を得んと欲する者』
 このような流行は日本にも例があり、例えば9世紀の富士山の貞観大噴火や11世紀の長元、永保(1707年南海トラフ)の噴火の時に流行った恋文を詠じた歌が古今集や新古今集に収められている。
『ふじの嶺の煙もいとど立ちのぼる 上なきものは思いなりけり』
『富士の峯をよそにぞ聞きし今は我が 思いにもゆる煙なりけり』
『人知れぬ思いをつねに駿河なる 富士の山こそ我が身なりけれ』

イランの大麻とアヘンの話
 さてハサンが多用したとされえる大麻ハッシシは現在カナダ、米国や欧州では容認されているが、アヘンは特に精製されたヘロインなど厳禁であることはよく知られている。
ところが筆者が送電線建設工事でイランの田舎の村落に工事事務所を構えて生活した1978年ごろは生アヘンや大麻は身近な存在だった。当時のパーレビ王朝は65歳以上の老人が身分証明書を提示すれば薬局で生アヘンを安く買うことが出来た。それはお金のない人が歯痛みや頭痛、老人の憂鬱症から解放される媚薬と見なされていた。
 生アヘンは葉巻タバコぐらいの大きさ一本が数十円で買えるので、カスピ海沿岸の夏の海水浴場の高級別荘に招待された時には主人を中心に顧客は目の眩む様なペルシャ絨毯の上で小ぢんまりとした火鉢の周りで車座になり、主人はおもむろに添付写真と同じ様な木のパイプの先に鶏卵ほどの大きさの丸い磁器に直径2ミリほどのL字型の穴が貫通して、長穴とパイプが連結されたキセルを取り出して、火鉢の炭火の上に数秒かざす、そして米粒3個ぐらいの大きさに生アヘンをナイフで切り落とし、素早くキセルの磁器の穴の外側直ぐ横に置くと熱でアヘンは直ぐ付着する。このキセルを客人に手渡されると客人は炭火から手頃な赤い炭をハサミで取り上げ、おもむろにアヘンへ近づけるとアヘンが燃えて煙を発生するが、それを素早く2ミリの穴から吸引して喫煙が完成する。
喫煙が進むと喉が乾くので、典型的な儀式としてペルシャ式のサモワールで抽出した濃厚な紅茶を酒のぐい呑ほどのガラス椀に少し注ぎサモワールから熱い湯を注いでかき混ぜた紅茶で、ケルマン州特産の世界最高とされる大きくて甘いナツメヤシを頂くのが最高のおもてなしである。
アラムート城から南側の小さい尾根を越えたタレガン川沿いの工事現場の山間にはケシの花畑が眺望された。1979年ホメイニ師が政権に復帰してからアヘンは厳禁となった。
しかし1997年ごろにはバザールで懇親なペルシャ絨毯商人と陰で喫煙会(写真参照)を開いてもてなしてくれた。また政権が代わってもハッシシの規制は全くなかったので、工事の下請け会社社長がテヘランの自宅に家内と夕食の招待を受けた時ハッシシの喫煙を誘われた事があった。雇用したアメリカ、イギリスに留学したイラン技術者も時にはハッシシを吸っていたが、彼らはまず大麻の種を植えることから始めて、成長すると丸い実のなる雌木だけを選んで、伐採し木の根元を紐で縛って、日陰で逆さに吊るして乾燥する。後は葉だけを収穫して、紙の上で手もみして細かくする。一方紙巻タバコから葉を取り出して代わりにハッシシを詰め込む。後はタバコと全く同じように火をつけて喫煙する。イラン人にとってはアヘンも大麻もそれ程危険なものとは受け止めていないようだ。その理由は子供の頃からご両親と一緒にイスラム教寺院でコーランを詠唱し1日3度の礼拝を厳格に遵守するという習慣から強い信仰心が芽生えている人々が多い。
 また享楽的な社会環境がイランには皆無で堕落した誘惑に晒されないことだろう。
 
.ペルシャのニザリ イスマイリ派教団の生い立ち

教祖 ハサン サバーフとは何者か
 さて本題に戻って,ペルシャの山の老人こと教団教祖の名前はハサン イ サバーフ(Hassan I Sabah)である。ハサニ サバーフとかイランではハサン サバーフと呼んでいる。(本稿ではハサンと略称する)
ハサンの父はイエメンの前イスラム時代のヒムヤル王の子孫であったと伝えられているが真偽の程は判らない。父の名はアリーというアラブ人であった。イラクのクファ出身であるがペルシャにおける最初のアラブ人の居住地でペルシャの十二イマーム派(イマームの血統が絶えた874年以降,初代から十二代イマームまでの継承された教義を尊崇する十二イマーム派に名前を変えた。本稿ではシーア派とみなす)の聖地コムに移り住んで彼を生んだ。
ハサンの出生年代は不詳だが、11世紀中頃と思われる。彼が子供の頃にテヘランに近いレイに移り住んだのでレイで父と同じシーア派の宗教的な教育を受けた。
ハサンはレイ時代の自分の事を次のように言っている。『私は少年時代から、さまざまな分野の学問を好み、宗教学者になりたいと思った。17歳まで私は知識の追求者であり探求者であったが、私の祖父の十二イマーム派の信仰に深く帰依した。』
親父の故郷イエメンは現在スンニー派の宗主国サウジアラビアとシーア派イランが支援するフーシ派と対立しているが,10世紀エジプトに誕生したファーテイマ朝が派遣した宣教師の影響で昔からイエメンにはシーア派やイスマイリ派の住民が多く住んでいた。

ハサンがシーア派からイスマイリ派へ改宗した経緯
 イスマイリ派の誕生履歴を簡単に触れるとシーア派6代目イマーム ジャファル サーデイクが765年に没した時、彼の長男イスマイール イブン ジャファルが後継者として指名されていたが、酒癖がわるいなど倫理問題が多かった。しかも755年に既に死亡していたので、サーデイクは改めて次男ムーサー カーズイムを七代目イマームに指名した。
 ところがシーア派の教義ではイマームは神の霊感によって行動し、絶対に誤りを犯さないものであり、言い直し、訂正などできないものであるとされている。したがって最初のイマームの指名は撤回できないものとして、ムーサーを拒否したグループが長男イスマイールの息子ムハンマド・イブン・イスマイールをイマームに担いで結成したのがイスマイリ派である。この派はムハンマドの死後後継者イマームがいなくなり教勢が衰えたが、9世紀後半になってムハンマドは現世から姿を隠している隠れイマームであり、やがて降誕して救世主(マフディー)となるという隠された真実を顕現するとする教理を主張するようになり、盛んに教宣活動を行った。
 シーア派の異端派と見なされたイスマイリ派がなぜハサンを改宗させるほど魅力的な宗派に成長したのか。
 その要因の一つがドーソン著『モンゴル帝国史』の中で、概略次のように指摘している。
 9世紀初期アッバース朝のカリフの命令で、ギリシャ哲学の著作がアラビア語に翻訳された。その結果精神探究やその評論の多面的な思考体系がイスラム界で認識された。更にアリストテレスの著作はイスラムの異端者(イスマイリ派など)がその抽象的観念、その討論方法、定義の方法を汲み取る豊かな源となった。彼らは単に空しい神学論争にしがみついたのではなく、武力にも訴えた。その狂信性は多くの血を流させた。そして伝統的なスンニー派に対して不満を抱く啓蒙された民衆が増加していた。イスマイリ派はこのギリシャ思想を習合した教義を取り入れて、極めて洗練された宗派に進化した。この派が過激派とか異端派と呼ばれるのは武闘派という意味ではなく、自由に他の宗教を習合するので、保守的なスンニー派にとっては過激で、急進的な宗教と見なされた。
 二つ目の要因はイスマイリ派の繁栄である。西アジア史 イラン トルコ 永田雄三編によると969年頃からイスマイリ派の秘密の本部がシリアのホムスとハマーの間の小さな町サラミーヤ(地図1参照)にあった。その中の秘密運動員の一人アル ハサン ブン ザカリアーという人物がアルジェリアのカヴィール山地に住むベルベル族と接触する使命を受けた。この人物の活動が源になり、サラミーヤの秘密のイスマイリ派本部指導者のムハンマド イブン イスマイールの子孫だと称するウバイド アッラーフ ザイードがサラミーヤから建国の地ラッカーダ市に910年1月に到着して、彼はイスマイリ派国家の指導権を握り、自らを救世主(マフディー)でありカリフ(イマーム)であると宣言して、自分の名前を金曜日礼拝の際に読み上げるフトバを命じたのは同年1月15日であった。それから915−916年にアルジェリアの隣のチュニジアにイスラム王朝を興した。そしてマホメットの娘ファーテイマの名前を貰って、ファーテイマ朝とした。その後イスマイリ派のファーテイマ朝第4代ムイッズは内紛で衰弱していたイフシード朝の支配地エジプトに侵攻して、それを倒しカイロに都を建設して移転した。
 ムイッズはエジプトに住むスンニー派の住民との融和をはかる一方自分の建てたアズハル モスク内にイスマイリ派の最高教育機関となるアズハル学院を開校して、ここでイスマイリ派の教理を学んだ宣教師をファーテイマ朝の版図に留まらず、イスラム世界の各地に散らばって布教した。現在シリア、イラン、イエメン,パキスタン、インド西部で信仰されるイスマイリ派は、こうしたファーテイマ朝の積極的な布教によるものである。
 この広がりはイランの首都テヘランから南へ7.8kmのレイ市にも及んで、10世紀ごろから宣教師の活動が活発になった。
 丁度この様な布教が活発な折にハサンはレイの街でイスマイリ派宣教師との邂逅を次のように語っている。参考文献 ナード ルイス著 The Assassins
『ある日、私はアミーラ ザラーブというファーテイマ王朝のカリフの教義を説く宣教師に出会った。
ザラーブは度々イスマイリ派の奥義を懇切丁寧に説明したが、私はシーア派の信仰理念に一切の疑問も抱くことなく生きてきたので、このザラーブが語る“真理はイスラムの外に求められるべきである”という考え方は思いもよらないことだった。
私はイスマイリ派の教義は哲学(敬虔な信徒の間では嘲弄の語)であり、エジプトの支配者は哲学ぶっている者だと考えた。しかしザラーブは立派な人格の持ち主だった。二人が言葉を交わし出すと『イスマイリ派の教義はこれこれしかじかである』と言うので、私は彼に『友よ 彼ら(イスマイリ派)の言葉を口走らないでください。彼らは異端者であり、彼らが言うことは宗教に反するものだから』と言った。
 彼と私の間に宗教の議論と論争が起こり、そして彼は私を論破し信念を打ち壊した。
私は彼に対してこのことを認めなかったが、これらの言葉は私の心の中に大きな影響を及ぼした。
最後の別れ際に彼はわたしに『今まで議論したイスマイリ派の教義について、貴方がベッドの中で考えている時、貴方はきっと私の言葉に納得することになる』と言われた。
 ハサンはザラーブの話にも納得できるものと出来ないものがあったので、多くのイスマイリ派の文献を読み漁った。そしてその中にイスマイリ派のイマームの教義に多くの納得させられるものと不満を抱かされるものを見出したが,それからまもなく彼の心に奇妙なことが起こった。その模様を次のように語っている『私の心に隠れイマームが現れたので、私は驚いた、そしてうろたえていたら、告げられた“このイマームの権威というのは後継者の神の力で導かれた啓示と教えに依存するのだ”しかし私にはこの言葉が何を意味するのか判らなかった。
 このような状況の中で、私は厳しい危険な病に陥った。その病の中で神は私の肉体や皮膚に何か異なったものになるように望んだ、それは神が自分の肉体や血液をもっと良いものに変えること意味した。そして神はそれをハサンに施した。その瞬間から私はこのイスマイリ派が確かに真実であると確信して,今までシーア派に抱いていた信仰に対して、根本的な変更を迫るということに極端な恐怖を抱いていた私はイスマイリ派を認めようとしなかったのだと悟った。今や立ち上がる時が来たが、この病で自分は真実を成就することなく、死ぬのだろうかと。』
 しかし運よくハサンは病気から回復した。この病は恐らく“宗教的な覚醒”に伴う精神かく乱状態を意味していたのだろう。それはハサンが神秘体験をしたこと意味し、彼の宗教心を推し進める自信に繋がったと筆者は推察する。
 再びバナード ルイス著 The Assassinsより、彼はイスマイリ派宣教師を探して出会ったのがアブ ナジム サラジであった。
彼の指導によってハサンは知りたいと思っていたイスマイリ派の秘義の難解なポイントや最終的な信仰の目標などを説明と分析を交えた解釈で教えられた。
 ハサンの次の段階はイスマイリ派の宗主国ファーテイマ朝イマームに対して、忠誠を誓うことであった。その宣誓はペルシャ西部およびイラクのイスマイリ派の布教組織の管区長アブドウル マリク イブン アターシュから認可を受けた宣教師によって行われた。
 宣誓が終わるとすぐに管区長 アターシュはレイに現れて、新会員のハサンに会い彼を承認してハサンを布教組織の管区長の代理人に任命した。そしてカイロの宮廷に出頭しなさいと告げられた。

ハサン エジプトへの旅とイスマイリ派の秘密教義(バーナード ルイス著 The Assassins)より
 『この命令を受けてハサンのカイロへの旅の往路は1076年初めにイスファハーン市を発ってレイ市に向かい、そこから北上してアゼルバイジャン経由してトルコの国境を越えてアナトリア地方に入った。
マイヤーファーリキーン現在のシルヴァン市に来た時、彼はシーア派とスンニー派でお互いに最も先鋭的な宗教原理の違いである論点、即ちシーア派の立場から彼は宗教規範(コーランなど)の解釈における唯一つの権利を有するのはイマームであって、スンニー派のように神学者が行うべきではないという論争を公の場でやってしまった。
当時アナトリア地方はスンニー派のルーム セルジューク朝が東ローマ帝国から占領していたので、法官につかまって町を追放された。それからトルコ、シリアの国境からシリア西北部の(今はイスラム国ISで騒がしい)ラッカ,アレッポ経由して南下しハマー,ホムスを通ってダマスカスに到着した。そこでトルコ人の軍隊の騒乱でエジプトへの陸路が閉ざされたことを知って、地中海へ向いベイルートから海路で首都カイロに到着したのは1078年8月末であった。』
 ウイキペデイアで1077、78年のシリアの政治情勢を拾っていくと、シリアはファーテイマ朝の領土であったが、ペルシャを本拠地とするスンニー派大セルジューク朝の尖兵として、セルジューク家の宗主権を認められたトルクマン系部族長アトスズがシリアに侵攻していた。
 だがファーティマ朝との戦闘が膠着状態でらちがあかず、やむなく大セルジューク朝第3代スルタンのマリク シャーは弟トゥトゥシュをシリアに派遣して、1078年に北シリアに入り、翌1079年トゥトゥシュはアトスズを廃して、ダマスカスを自らの支配下に納めた。
 従ってハサンはシリアを旅した時がアトスズとファーテイマ朝との戦闘の真っただ中だった。またトゥトゥシュが1078年にシリアに入って、翌年にはダマスカスが陥落している。
ハサンにとって自分の宗主国ファーテイマ朝が宿敵セルジューク朝に傍若無人に蹂躙されている情景に強い敵愾心を抱かされただろう。
 ハサンはエジプトに1年半、最初はカイロ、それからアレキサンドリアに滞在した。
 そして帰路は意外な事件に巻き込まれて,次のような苦難な旅を強いられた。
 エジプトに滞在した時の政治状況はファーテイマ朝八代目カリフ ムスタンシル(統治1036年-1094年)がカリフであった。ここでファーテイマ朝の君主を何故カリフと呼んだか(イマームが正当な名前)というとイラクのスンニー派アッパース朝カリフに対抗するために政治的な理由であった。宗教的な祭事では君主をイスマイリ派と同じイマームを採用していた。
 ここで1070年代後半のエジプトの社会経済状況をFarhad Daftary著“The Esmaillis”では次の様に述べている。『当時のファーテイマ朝カリフ ムスタンシール(1036−1094)の統治は既に40年が経過して、この王様はもっとも長期に及んだが、そろそろ伝統的なファーテイマ朝政治の衰退の兆候が見られる様になった。それは数々の政治体制の変遷やファーティマ朝カリフ制の全体的な運命が今や明確に不可逆的な衰退を見せ始めていた。
 その最も大きな要因はナイル河の水位低下で猛烈な農作物の不作が続き食料不足がカイロのファーテイマ朝を襲って、人々は猫や犬まで食べる環境に至った。この影響で1073年にはファーティマ朝が国防を委託していたトルコ軍同士の反乱が起きて、宰相ナシル アル ダウラが同じトルコ軍のライバルの司令官によって暗殺された。
 この7年間の飢饉状況はこの同じ年の天候回復で大豊作を迎えて大きく改善された。ここでカリフ ムスタンシールは国家の統治、国防組織が混乱して無政府状態の現状を効果的に回復する施策を決断した。そして密かにアルメニア國のシリアの司令官でアッカの統治者バドル アル ジャマリに救済を申し出た。
 バドルは最初シリア人の司令官ジャマル アル ダウラの奴隷だったが、戦略的な能力に長けて急速な出世を果たし、1063年と1066年の二度もダマスカスの統治者になった。
 バドル アル ジャマリはカリフ ムスタンシールの申し出を自分のアルメニア軍を同伴するという条件(国防軍に採用する)で受け入れた。彼は1074年1月にカイロに現れて直ちに陰謀を使って、ファーテイマ朝国防を担っていたが、混乱で反抗的なトルコ軍の指導者を全て殺害することに成功した。また彼は急速にエジプトの様々な箇所で秩序の回復にも成功した。
 この様な彼の政策執行のお陰でファーテイマ朝の衰退を何とか阻止してカリフ ムスタンシールに貢献した。その代償としてジャマリはファーテイマ朝での最も高い位の職責を要求して、新たに設けられた職位即ちペンと剣の支配者で完全な委任権を持った宰相になった最初の人物であった。彼は軍の司令官だけではなく、市民、司法と宗教の行政に関わる職責を担った。
本当に彼の類いまれな努力によって、カリフ ムスタンシールの残り20年間は平和と繁栄をもたらしたのである。』一方ハサンのカイロに滞在した1078年ごろには、カリフ ムスタンシール統治が32年も続いており、そろそろ次の後継者問題が取りざたされていたらしい。
 宰相ジャマリは政治的な行動が執りやすいカリフとして長男ニザールの弟ムスタアリーを目論んでいたが、ハサンはシーア派の教義通り長男ニザールを支持したので、宰相との間に確執が生じて投獄されて、エジプトから北アフリカへ追放された。エジプトから帰路で乗っていたフランク人(ヨーロッパからの移民が中東に定住した欧州人)の船が難破したが、運よく救われてシリアに連れてこられて、アレッポからバグダードを通って、1081年6月イスファハーンにたどり着いた。
 この時のシリアの旅情報が1095年に始まるシリアへの宣教拡大の重要な戦略の糧になったと推察される。

イスマイリ派の秘密教義
 ハサンのカイロ滞在中にイスマイリ派の神聖な秘義の最高の権威の保持者である宣教長によって伝授されたと思われる。
 宣教長によって伝授された秘義とは次のようなものと思われる。ただしこの教義がハサンになされたか否かは歴史上の記録はない。
 従って一般的なイスマイリ派教義である。
 ドーソン著『モンゴル帝国史』の中で、主要な部分を抜き出して、翻訳が不明瞭な所を補足したものが次のような内容である。
『入信には九つの段階があり、入信者が各段階で秘義を十分に理解されなければ次の段階には進むことを拒否された。しかも第一段階に進む前に、宣教長は入信者に伝授されるあらゆる秘義は厳重に外部に漏らさないこと、イスマイリ派の同胞を裏切って、他の宗派に寝返る事のないこと、イスマイリ派の信徒を辞めて、イスマイリ派の敵の側に就かないことを自ら誓わせて、もしこの誓いが破られた場合この世における最大の災禍と来世における最も重い懲罰を受け入れることを誓約しなければならなかった。
第一から第四段階までは、次のように説かれた。神はこの宗教を設立して保持する任務を選ばれた者、即ちイマームに委任したのであり、イマームは信者の唯一つの案内人でなければならない。神は天地創造で7つのものを造ったように、イマームも7人と定めた。それがシーア派始祖アリー、長男二代目ハサン、弟三代目フセイン、第四代目アービデイーン、第五代目バーギル、六代目サーデイク、七代目イスマイールは就任前死亡していたので、実際の七代目は息子ムハンマドの計七人である。前の六人はシーア派のイマームであったが、七代目ムハンマドはシーア派から分派したイスマイリ派の初代のイマームになった。そのために次のように賞賛して権威付けしている。秘義では7代目ムハンマドを神秘的な事象の学問、可視的な事象の神秘的な意味に関する知識の点でも、先輩の七人イマームよりすべて凌駕していた。このムハンマドは入信者からの質問に対して、自分が神から直接受けた入信の神聖な秘儀を説明し、また宣教師やイスマイリ派の学者にもそれを伝授した。
 既成の古い宗教を新しい宗教に替えるために現れた預言者たち、即ち言葉を授けられた崇高なる立法者の数もイマームと同じ七人であった。各々の預言者は在世中にその補佐をして、預言者の死後はその宗教を広めた代理人を伴っていた。代理人は預言者とは反対に言葉を授けられていないので沈黙した者と呼ばれた。なぜなら彼らは伝授された通りの道をたどることしか出来ないからである。この七人の代理人がこの世を去った時に新しい時代が始まる。この新しい時代とは第七代目預言者の出現が既存の一切の宗教を廃止した。
彼が最後の時代の君主である。さて第一の預言者はアダムであり、その子セスが代理人であった。第二の預言者はノアであり、彼の子セムが代理人で、これを助けた。第三がアブラハムであって、その子イスマイルが代理人であった。第四代の預言者がモーゼであり、協力者、代理人として、兄アロンを持ち、アロンの死後ヌンの子ヨシュアであった。
 モーゼの最後の後継者はザガリアの子ヨハネであった。
 第五代預言者はマリアの子イエスには協力者としてシメオンがいた。第六代預言者マホメットであって、その協力者はアブー ターリブの子アリーであった。
 さてアリーの後マホメットの宗教の六人の沈黙の代理人が相次いだが、これが先に挙げたハサン、フセイン、アービデイーンからイスマイールまで列挙したイマームである。イスマイールの子ムハンマドは第七代の最後の預言者であり、(ムハンマドはイマームであったがなぜ預言者になったのか?イスマイリ派を神格化したい為に預言者に祭り上げた)彼の出現とともに在来のすべての宗教は廃止された。神聖な秘義の説明を求める為に頼らなければならないのは普遍的な知識に恵まれているムハンマドだけである。すべての人間は彼に服従する義務がある。すべての人間が救済の道程をたどることが出来るのは彼を案内人として承認することのみである。
第五番目の段階において、最高聖職を執行するイマームは世界を周歴する伝道師を持たなければならない。伝道師の数は神の知恵によって、一年が12ヶ月の如く、イスラエルの十二部族、マホメットの十二使徒の如く、十二という数字に定められた。
第六番目の段階では秘伝伝授者はまず、祈祷、喜捨、巡礼、清浄その他に関係のあるイスラム戒律の神秘的な意味の説明から始めた。彼はこれらの励行が人々を悪から遠ざける目的を持っていることを教えた。かれは入信者にピタゴラス、プラトン、アリストテレス及び彼らの門人たちの著述を研究することを勧めたが、盲目的に伝承を信じないこと単純な引証を信じないこと、それとは反対に合理的な論証のみを承認するように入信者に忠告した。
第七,八番目の段階では秘伝伝達者は宗教の創始者の戒律を理論的に伝達する手段として、論理的な概念が必要であるということを教えた。戒律には常になんだかの根源になるものがあり、戒律を守ることによって派生したことが理解される。それはまさに原因が先にあって、結果が後についてくる関係を説く。
この秘義の中の復活、報償、刑罰について述べられているが、それは人間の生まれながらにして持っている霊魂の宇宙的な循環現象として捉える新しい宗教観の始まりである。
 最後の第九番目の段階では宣教長が教えたことをすべて再び繰り返して入信者の心に十分教え込み、彼らが秘儀を十分知ったと確信した時、自然科学や形而上学を扱う哲学者の著作や理論神学と、その他の哲学の諸部門に関する著作に関心を向けさせた。』
 このようなイスマイリ派の秘義を通して、見えてくるものはドーソンが指摘しているように世界の終末と復活、宇宙的な空間での神と霊魂の存在、報償と刑罰、自然哲学、形而上学などは、彼らがギリシャ哲学、ユダヤ教、ゾロアスター教などから、その教義を汲み取っていたことがわかる。

ニザリ イスマイリ派の誕生と変遷
 ギリシャ哲学やゾロアスター教、キリスト教などの宗教原理を習合した啓蒙的なイスマイリ派の教義はコーランと伝承を規範とする伝統的なスンニー派よりも新鮮で若者や知識人に入信者が多かったことは先述した。ここでもう一度ハサンの宗教の教義を明らかにするために、その変遷過程を辿ることにする。先述したファーテイマ朝第八代カリフが1094年没すると宰相ジャマリは長男ニザールを排して次男ムスタアリーをカリフに決めた。
 これに反発したニザールはアレキサンドリアで反乱を起こしたが鎮圧されて逮捕されカイロの牢獄で獄死した。この時ハサンはニザールを宗教的に正統なイマームとしてカイロのムスタアリー派のファーテイマ朝と袂を絶って同年ニザリ イスマイリ派を興して教祖におさまった。従ってニザリ イスマイリ派にはイマームがいなかった。教祖ハサンにとってイマーム不在の神学論と教義の確立が最も重要な問題だったと思われる。
 このイマーム不在についてハサンが信徒にどのように説いたのかは知られていない。しかし初期の頃は二つの説が伝えられており、一つは密かにニザールの孫がカイロから教団の本拠地アラムート城へ連れてこられて、育てられた。もう一つはニザールの子を妊娠した妾婦が連れてこられ、彼女がイマームを生んだというものである。しかしこれらのことは当時、厳重な秘密として何年も後まで知らされていなかった。ハサンは熟慮して練り上げられた神学論や教義とは次のようなものであった。『ニザールは死んだのではなくて、一時お隠れになったのだという隠れイマームである。ある時イマームは突然現れて、我々信徒を苦難から救うのだ。』という所謂メシア思想(救世主)である。これと同じような神学論は既に九世紀後半にシーア派の第十二代イマームが突然姿を消した事件が起こり、それは死亡したのではなくて、一時お隠れになったのだという教義を立てて、十二イマーム派が誕生した。 
 苦難の際に信徒を救う為にある時降誕するというメシア思想で、別に目新しい思想ではないが後世の信徒から、その教祖としてハサンは崇拝されたという。前述したニザリ イスマイリ教団第四代目教主ハサン二世が復活(キヤーマ)のイマーム宣言した神学論に通じる。
 一方ファーテイマ朝はムスタアリーをカリフとしたのでムスタアリー派と呼ばれて,当時の支配地域だったエジプト,シリア,イラク,レバノンにはムスタアリー派の住民が多く定住していた。従って教祖ハサンの脳裏にはシリア進出の際にムスタアリー派の住民をニザリ イスマイリ派に改宗させる目論見が描かれていた可能性が高い。
 1094年以前はイスマイリ派教団の長老であったが同年以降ハサンの宗派はニザリ イスマイリ派と呼ばれて、彼が教祖となった。

3.ニザリ イスマイリ派教団の自治領国家建設

教団誕生時の社会的な背景
 ハサンがペルシャでイスマイリ派教団を設立する時代(エジプトから帰国して以降)の政治情勢の変遷を見ていくと1063年まではペルシャの全体を支配していたのはシーア派ブワイフ王朝(932-1063)であった。この王朝はカスピ海南岸の山岳地帯ダイラム出身の豪族でシーア派を信奉するブワイフ家の三兄弟が10世紀前半にダイラム歩兵部隊を率いる軍人として、ペルシャ北西部現在のカスピ海沿岸のタバリスタン州(現在のマーザーンダラン州)やギーラン州を支配していたズイヤール朝に仕えて台頭した。そして932年ペルシャ南部のファルス地方(現在の中心都市シラーズ)に進出して、ここにブワイフ朝を建国した。(地図2参照)
 その後二人の弟を東西に派遣して、ペルシャ北西部ハマダーンは次男が、東部ケルマンは三男が政権を立てて支配した。945年三男のケルマン政権はイラク地方に転じてバグダードに入城し、アッバース朝のカリフからイラク地方の世俗支配権を持つ大アミール(大総監)に任命された。これ以降イラク政権の君主が大アミールを世襲して、アッバース朝カリフはイラクの執政権を全く持たなかったがイスラム教スンニー派宗主国としての神権を維持して威厳を保った。
 しかし1050年ごろから現在の中央アジアで、トルコ系の遊牧集団を集めて勢力を伸ばしたセルジューク家が建国したセルジューク朝(1062-1157)はスンニー派であった。この王朝君主はスンニー派宗主国アッバース王朝カリフからスルタンの称号を授与されて、シーア派ブワイフ朝の庇護下にあったペルシャ、イラクをスンニー派の王朝に取り戻す大義名分が与えられた。
 そして1062年イラン高原に侵攻して来たセルジューク王朝にブワイフ王朝は破れてペルシャ全土を支配するセルジューク王朝が誕生した。
 その結果イスマイリ派教団が自治領国家を建設しようとした1090年には既にペルシャはスンニー派の執政に取って代わられていた。
 セルジューク朝はシーア派住民や部族集団に恣意的な不平等課税や差別的な政策を執行したので、この王朝には根深い怨恨を抱く多くの農民、領主、豪族がいる地方が存在した。

長老ハサンの布教活動と本拠地探索の歴史
 ハサンは先述したようにファーテイマ朝カイロから1081年にイスファハーンに帰還すると9年間布教活動に専念して,広くペルシャを旅した。彼の自伝の中で当時の模様を次のように語っている。『イスファハーンから私はケルマン、ヤズドへ向い、そこでしばらくの間宣教活動の指揮をした。』(バーナード ルイス著 The Assassins)より
 その後三ヶ月ほどペルシャ南東部のザグロス山脈の東側山裾に広がる油田地帯で有名なフーゼスターン州(アフワーズ市など)で活動したと述べている。
 この9年間の宣教の旅を通して、彼の基本戦略はセルジューク朝に不満を抱く住環境の良くない孤立した地方へ密かに宣教師を派遣して闘争的なイスマイリ派の布教を通してセルジュークに反感を持つシーア派の領主や農民を改宗させることだった。
 彼は単に民衆のイスマイリ派への改宗の運動だけではなく自分達の活動拠点探しにも専念した。
 彼が拠点選びに一番配慮したのは次の三点であった。
1. 住民にシーア派、イスマイリ派が浸透していること。
2. 都市から遠く離れて古い伝統的な生活習慣が残り、セルジューク朝に不満を抱く地域。
都会人は宗教的に啓蒙されているので、殉教的な自己犠牲を強いる刺客の養成や武闘的で過激な教義にはなじまないとみなしたのかも知れない。
3. 容易に接近できない急峻な山岳地帯で天然の堅牢な要塞の存在。
 彼は一通りペルシャ全土を旅した後、バグダードから中央アジアへの幹線道路シルクロード沿いでホーラサン州のダムガーン市(地図2参照)に三年間滞在した。イランはカスピ海とイラン高原を南北に分断するのがエルブールス山脈であるが、三つの条件に適うところとして徐々に彼はイランのエルブールス山脈の北西部寄りから分脈したハウデガーン山脈アラムートの裾野に広がるダイラム地方に狙いを定めた。ダイラム地方の特徴は主要な三本の川が長く連なって砂漠地帯を流れている。川の源は冬季にエルブールス山脈で標高差3000mの古河電工工事現場だったカンダヴァン トンネル周辺は10月初めから降雪があり翌年の5月頃までは雪で工事が出来なかったほど降雪量が多い。そしてこれらの降雪が夏季には融雪して伏流水となって岩帯の窪地に蓄えられる。
気温の上昇と共に時間をかけて岩の隙間から漏れ出して小川になり、それが集まって東から西へ流れるタレガン川とこの川の北側に連なる低い山脈を超えるとアラムート城の脇を東から西へ流れるアラムート川がある。この二つの川が合流してシャー川になって,ダイラム地方を貫流している。ところがこの地域はエルブールス山脈の南側に広がる砂漠地帯であり,年中灼熱の太陽が降り注ぐ。これらの川から潅漑水を引き込むのだから農業が盛んな土地柄で農民や領主は経済的に恵まれた人々であった。この川の両岸の平坦な土地は二つの川の合流地点から約40km西方のラズミアン村まで続き、その後急峻な山岳地を挟んで、その先のシャー川を堰き止め人造湖マンジリ湖に至る広大な盆地はエルブールス山脈南側の土砂漠中で唯一つ穀倉地帯である。(写真L1)それはこれらの川から引き込む灌漑水で潤うからである。この穀倉地帯がダイラム地方と呼ばれている。
 もう一つハサンが人的な資源として期待したのが先述したブアイフ朝の故郷でギーラン州のダイラム(現在はデイーラマン)として知られる山岳地帯であった。
 カスピ海沿岸の西方の町ラヒジャーンからエルブールス山脈に向かって南へ国道に沿って約63km走ると山中に広がるデイラマーン渓谷に至る,ここがダイラムである。
 しかし10世紀ごろはダイラムと呼ばれた地域はギーラン州だけではなくマーザンダラン州、そしてアラムート城のあるガズヴィン州もダイラムと呼ばれていた。(地図2参照)
 ウイキペデイアによるとハサンが1090年頃に建国を成し遂げる約300年前にこの地方を支配した「ダイラムの王たち」と呼ばれた先住民のダイラム人のジャスタニーズ(Justanids)政権(791−1004)が登場していた。ダイラム人はギーラン州とマーザンダラン州間でエルブールス山脈山裾のダイラム地方の山岳地帯に定住していた。(地図2参照)
 彼らの宗教は初代王ジャスタン一世(791−805)まではペルシャ人の伝統のゾロアスター教だったが、805年以降はイスラム教シーア派に改宗した。王朝のメンバーの一人のワスーダン・マルズバンが860年ごろにアラムートの城郭を建設したと報告されている。
 この王朝がアラムート城を本拠地にダイラム地方を統治していたので、その歴史をウイキペディアより詳述すると六代目ジャスタン三世は919年に親族内部の後継者争いで、王の兄弟アリとホスロー フィルーズは共謀してジャスタン三世を暗殺した。アリはその後、王朝の新しい支配者として自分自身を戴冠したが、直ぐにジャスタン三世の義理の息子であったサラリード(Sallarid)王朝(919−1062)の創設者ムハマド・ビン・ムサフィールによって殺された。そしてホスロー フィルーズが王位を継承したが、同年再びムハマド・ビン・ムサフィールによって殺される。結局同年ホスロー フィルーズの息子シアチャスム(黒目の王)(919−928)が引き継いで決着した。この王様の時にシーア派からイスマイリ派に改宗した。一方同じ919年にムハマド・ビン・ムサフィールが創建したサラリード朝の支配地域はダイラム地方の西隣りのタロム地方である。しかもダイラムを東から西に貫流しているシャー川(王の川)がタロム地方に流れ込んでセフィード川(白い川)と名前が変わって貫流し州都ラシッド市を経由してカスピ海へ流れ込んでいる。ムハマド・ビン・ムサフィールはタロム地方のセフィード川周辺の急峻な山岳地帯に堅牢なシャミラン城を築いて、ここをヘッドコーターにタロム周辺地域の支配を確立した。王位継承のトラブルの最中の919年に建国されたサラリード王朝と隣のジャスタニーズ王朝の政治的な関係は厳しいと予想されたが両王朝の出自はダイラム族で宗教もシーア派系、お互いに婚姻関係があり919年以降は良好な関係を維持した。また先述したダイラム族でシーア派のブアイフ王朝との関係も良好で、ジャスタニーズ朝ホスロー・シャー(972−1004)の統治時代はブアイフ朝との関係で栄えた。
 彼はブアイフ朝王アズド・ウツダウラ(978―983)を支援し、ダイラム人軍隊を援軍として戦場に派遣した。またホスロー・シャーが病気で苦しんでいた時はアズド・ウツダウラが医師を派遣して彼の治療に当たらせた。 アズド・ウツダウラはまたホスロー・シャーの妹と結婚してタジ・ウツダウラとデイヤ・ウツダウラという二人の息子を産んだ。
8世紀から11世紀に、これほど活発に新しい政権が誕生したダイラム地方とはどんな所か。再びウイキペデイアによるとダイラム地方の誕生の歴史は紀元前3世紀ごろまで遡り、ダイラム人は現在のギーラン州とマーザンダラン州間でエルブールス山脈山裾の山岳地帯に定住していた。
 この一帯をダイラム地方と呼ばれた。現在はギーラン州のエルブールス山脈山裾がデイラマン地方と呼ばれていてマーザンダラン州は含まれていない。最も初期のゾロアスター教とキリスト教の資料によると、彼らの先祖はクルド族を含むイラン民族言語学に属するグループで現在彼らが生活しているティグリス川の近くのトルコ領アナトリアから来たと言われている。彼らの話していたデイラーミ語は今や絶滅したイラン北西部(アゼルバイジャン州)のイラン語で、ギーラン州の住民のものと似ている。6世紀東ローマ帝国の史家プロコピウスによると『ペルシャの真ん中に住んでいるが、決してペルシア人の王に服従していない野蛮人。彼らの住居は完全に接近を拒む急峻な山岳地帯にあるので、古代から自治領国家を維持し続けた。彼らは戦争に敏感な民族であり、接近戦に長けていた。敵と戦うときは常にペルシャ人の傭兵として行進し、すべて歩兵であった。一人一人が剣と盾と三本の投げ槍で武装して戦った。』と述べている。今でもイラン、トルコ、イラク、シリアの国境地帯に多くのクルド人が住んでいるが国を持たないので、先天的な戦闘才能が認められて2018年にはシリアのIS集団との戦いにトランプ大統領は米軍にクルド人戦闘部隊を訓練して対IS排除に共同戦線を張り成功したことで注目された。イランでもトルコ、イラク国境周辺の町には多くのクルド族が住んでいる。クルド人は赤褐色の肌色で真っ黒な頭髪、細身の精悍な表情は男女とも同じである。
 しかし外観は勇敢で粗暴な風貌だが、西アゼルバイジャーン州のサナンダッジという町のクルド人は優れたペルシャ絨毯を製作することで知られている。
 筆者も絨毯の縦糸にファフトランジ(7色)のものを使った100ラッジ(7cm幅に100個の結び目を織る細かさ)絹絨毯を買った。このように意外に繊細で粘り強い性格を持っている貴重な民族である。
彼等の初期戦歴はイラン人の祖先アーリア人のパルテイア朝(BC248−AD226)の王アルタバナス五世(BC208-AD224)が新しく台頭してきた同じアーリア人ササン朝(AD226−642)と戦うためにレイ市、ダマーバンド地方、ダイラム地方から4000人のダイラム人傭兵を採用した。その後パルテイア朝を破ったササン朝皇帝アルダシールI世(226-242)はパルテイア朝の生存したダイラム人傭兵を自軍の兵力に採用した。このように傭兵の立場とは雇ってくれる親方に忠誠を尽くして任務を全うするという危険だが優柔不断に対応できる便利な仕事師集団であった。その後イスラム教徒の情報によるとササン朝は636年のスンニー派イスラム教正統派カリフ主導のアラブ軍とイラクのカーディシーヤの戦で敗北した。
 そしてササン朝の強力なダイラム傭兵はゾロアスター教教徒であったが、イスラム教に改宗してアラブ系スンニー派のアッバース朝の護衛部隊や主要都市の警察署長などで活躍した。
また他の資料でもダイラム地方は地形的にも他の地方とは著しく異なっている。
その住民も一般のペルシャ人にも馴染まない危険な人々とみなされていた。痩せ型の体型、柔らかい頭髪、異常に好戦的で独立心の強い人々だった。
このダイラム人(クルド人含む)は剣、長楯、投槍(ゾピーン)を使った歩兵戦に長け、ササン朝時代から精悍な傭兵として知られた。
 派手な色の盾を掲げて突撃をかける姿は城壁に例えられ、投げやり(ゾピーン)の先端に石油を入れた筒を付けて、そこを点火して敵に投げつける戦法を得意としていた。それを証明したのが8,9世紀頃シーア派の初代イマーム アリーやその息子ハッサン,フセインを暗殺したスンニー派ウマイア朝やアッバース朝の執拗な攻撃にも屈せず、独立を保った地域であった。そのような理由から、この地方は歴代シーア派やゾロアスター教の王侯貴族の末裔が生き延びる隠遁地帯になった。 
 先述したゾロアスター教のササン朝ペルシャ(226−642)の最後の王ヤズドギルドの末裔も、このダイラムへ逃げ込んで生き延びた後13世紀その末裔の一人がアルダビール市に呼び戻されて、スーフィー教団の長老として活躍した。スーフィー教団とはイスラム神秘主義宗教スーフィズムの活動集団のことで,世俗から遠く離れて,神からの啓示を受けた長老の指導の下に信徒は修道一筋に共同生活しながら、ひたすら禁欲と厳しい修行を重ねて、最後に神の啓示を受けるとか、神との一体化即ち霊的な覚醒を獲得する目的の集団であり,シーア派,スンニー派が存在する。そして長老の孫が16世紀にサファヴィー王朝を建国した。
 まさにハサンはこの勇猛果敢なダイラム人をシーア派からニザリ イスマイリ派に改宗させて刺客、兵士に養成することを狙ったと思われる。現在のダイラム地域の中心都市デイラマーンからハサンが三番目に獲得した城ラミアサール、ラズミアン村 (写真L1)までの距離は現在の道路で約136km離れている。一方ラミアサール城と本拠地アラムート城間は田舎道で68kmほど離れている。
 ハサンは1090年代に先に述べたシャー川を堰き止め人造湖マンジリ湖に立つシエミラン城も獲得していた。
実は歴史書ではニザリ イスマイリ教団の本拠地をルードバール(川の両岸)地方と書かれているが実際にイラン人がこの様に呼んでいるのを聞いた事がない。イラン地図にも見当たらない。シェミラン城のあるシャー川のダム堰き止め湖マンジルからカスピ海岸のラシッド市に向かう国道筋にはルードバールという町がある。従って紛らわしいので本書ではラミアサールからアラムート周辺までシャー川の両岸の盆地を10世紀に使われていた地方名ダイラムを採用してダイラム地方とした。
 さてここで気分転換のために、このダイラム地方に関わった我が国にとって文化的に興味の尽きない話を紹介しよう。

奈良の東大寺 正倉院蔵 白瑠璃切子碗
 当時のダイラム地方は現在のギーラン州、マーザンダラン州を含む広大な領域で、しかもこの両州はエルブールス山脈の北側でカスピ海に面している。
 その結果カスピ海の湿った雨雲がエルブールス山脈に当たって雨になるので降水量が多く、農耕が盛んで、その主なものはタバコ、お茶、米、桑などであった。
 経済的には恵まれていたために、ラシット市の北側で現在デーラマン地方と呼ばれている地域には豪族の墳墓が多く発見されている。その墳墓にまつわる面白い話として、松本清張氏の“ペルセポリスから飛鳥へ”という著書の中に次のようなことが述べられている、『東京大学のイラク、イラン遺跡調査隊員が1964年ごろにテヘランの骨董屋に立ち寄ったところ偶然に村民の盗掘者による白瑠璃碗の持込があった。そしてこの種のガラス容器はギーラン州の州都ラシットから少し東よりのルードバール地方にあるデーラマン渓谷に散在するお墓から出土していることが知られるようになった。』
更に著書は続けて『東京大学イラク、イラン遺跡調査隊が1956年から1965年までの10年間、このデーラマン周辺の考古学的発掘を行った。』

 この白瑠璃碗が正倉院の聖武天皇御物として知られる有名な白瑠璃碗である。
 ペルシャ人の祖先はBC1500年頃バルカン半島からイランに移住してきたアーリア人である。その最初の移住先はアゼルバイジャン州やカスピ海周辺のギーラン州だったとされている。
 ギーラン州デーラマン地方の資産家の墓から出土したとされる白瑠璃碗は奈良正倉院の国宝“白瑠璃碗”と外観や技術的な類似点が多くて、これは6世紀のササン朝の王侯貴族がシルクロードを経由して中国唐王朝の首都長安へ朝見した際に運ばれて、その一部が遣唐使の手に渡って日本へ齎された。
 最近話題になっているのはこの切り子碗が果たしてペルシャで制作されたものなのかそれとも後世のアーリア人がバルカン半島から齎したのかという点である。

本拠地アラムート城の獲得
 さて話を元に戻してハサンが自治領国家建設の本拠地(地図2地図4参照)をダイラム地方のアラムート城を選んだ理由が次のような歴史から読み取れる。アラムート城の歴史が山の老人物語を最も豊富にしかも実態に最も近い形で記録された歴史書がアタ マリク ジュヴァイニが書いた”世界の征服者の歴史”である。何故ならこの著者は1256年モンゴル西方遠征隊によってアラムート城が陥落した際に遠征隊のフラグ隊長にペルシャ人参謀として参画していた。フラグはジュヴァイニにこの城の調査を命じた。そして彼はアラムート城の図書館に残された歴史書を調べていたらギーラン州とダイラム地方のダイラム(ブアイフ)朝ファフル ウッダウラ王に関する記述を発見した。
 その中でアラムート城に関しては次のように書かれていた。
『ダイラムの王の一人アリ アイ ジュスタンが860年ごろ、この山に城を築いた。
それはその王様の誇りでもあり、イスマイリ派のセクトにとっても勇気を鼓舞する源であった。
歴史家サラミの歴史書の中で、ダイラム朝がイラクを支配していた頃その場所(アラムート地方)の統治者で黒目の者(目の横に黒いホクロがあったのでアダ名 黒目:シーアチャシム)と呼ばれた前王マリク(ホスロー フィルズ)の息子がシーア派からエジプト(ファーテイマ朝)のイスマイリ派に改宗した。』と述べられていた。
 ウイキペデイアで述べられた『この城はダイラム人のジャスタニーズ(Justanids)政権(791−1004)のメンバーのワスーダン・マルズバンによって860年ごろに城郭が建設された。更に919年に就任したシーアチャシム王がこの政権で初めてエジプトのファーテイマ朝イスマイリ派に改宗した。』と述べられている。
 従ってこの王朝がアラムート城を本拠地にダイラム地方を統治していた可能性がある。ハサンは明らかにイスマイリ派に改宗したジャスタニーズという地方の豪族政権の歴史を承知していたので、その統治領域をそっくり継承することを目論んでいた可能性が高い。

ハサンのアラムート城略奪
 ハサンが1090年アラムート城を獲得すべく活動を開始した時、セルジューク朝のお膝元イスファハーン市やハマダーン市及びシーア派の宗教都市コム、レイでもイスマイリ派の宣教師が活動していた。 
 従って敵対関係のスンニー派社会で活動する以上予測できない行き違いや誤解からの衝突がいつ起きてもおかしくなかった。最初に起きた事件はレイやコムからそう遠くないサーヴェと呼ばれる小さな町で起こった。18人のイスマイリ派信徒がグループになって,別々の祈りに集まったとして警察署長に逮捕された。これはどうもイスマイリ派の礼拝日ではないのにスンニー派の礼拝を邪魔するために故意に集会を開いたらしい。
 この事件は彼らの最初の集会だったので、尋問の後釈放された。その後イスファハーンに住んでいたサーヴェ出身でスンニー派の礼拝召集係をイスマイリ派に改宗させようと試みたが,彼に拒否された。彼がセルジュークに密告するのではないかと恐れて殺害してしまった。これがアラブの歴史家イブヌル アスイールによるとイスマイリ派による殺害の最初の犠牲者だった。但しハサンの命令による殺害か否か判らなかった。
 この殺人の知らせがセルジュークの宰相ニザーム アル ムルク(ペルシャ人で最初の教団による犠牲者)に伝わり、彼はその張本人の処刑を命じた。このような状況下、ハサンはセルジューク朝に対抗するには先に挙げた三つの条件に叶う場所としてダイラム地方と確信していたので、そこをイスマイリ派教団の活動拠点とすべく、事前に彼の定住地ダムガーン市(ゲルドクー城に近い)から宣教師をダイラム地方へ派遣していた。そしてこの地方の裕福な農民や領主、好戦的でセルジュークに不満を抱いた住民に闘争的な宗教心情を強力に訴え続けた。
 このようなハサンの活動はセルジューク朝の宰相ニザーム アル ムルクの注目の的となり、レイ市(テヘランから南方数キロ の宗教都市)の当局に彼の逮捕が命ぜられた。
 ハサンは派遣した宣教師による住民の改宗の成果や根拠地周辺の住民の経済的,宗教的な環境,戦略的に優れた堅牢な城郭などの情報をもとに行き着いたのがアラムート城であった。いよいよ本拠地アラムート城を獲得すべく、ハサンは自ら直接指揮を取るべく逮捕状の出ているレイ市や都市を避けて、山道を通って指揮,監督に都合良く,ダイラムに近いガズヴィン市に移動した。
 アラムート城は次のような地理的な特徴がある。
ある歴史書はアラムートの命名の理由を次のように述べている『ある日狩りに出掛けたダイラム王は一羽の慣らした鷲を放った、するとこの鷲はその山塊の上にとまった。彼はその場所の戦略的な価値を悟り、直ちにその岩の上に城を建てた。そして彼はその城を鷲の教えという意味のダイラム語で”アールフ アームート”と呼んだという。別な史料によるとアラムートの語源は“鷲の巣”とも書かれている。』
 ハサンがこの城に現れた時はセルジューク朝のスルタンから所有権を認められたアリー家のミフデイーという人物のものだった。
 ハサンがこの城を略奪した経緯について、”世界の征服者の歴史”は次のように述べている。『私はガズヴィン市から、再び一人の宣教師をアラムート城へ派遣した。中略 アラムート内の一部の者がシーア派からイスマイリ派へ改宗させられたので、ミフデイーも改宗するように求めた。ミフデイーは一旦改宗されたかのように見せかけて、その後改宗した人をすべて城から追い出して、城はセルジュークのスルタンのものであると言って城門を閉鎖した。 
 そして大議論の末に再び入城を許されて、改宗者は城に戻ったが、それ以降ミフデイーの命令には従わず城から降りることを拒否した。今や城内に自分の信徒を居座らせたハサンはガズヴィンを出発して、アラムートの近辺にしばらく潜伏していた。そして1090年9月4日水曜日に、彼は密かに城内に導かれた。
しばらくの間彼は変装して城内に居たが、やがて彼の正体が知られるに至って,ミフデイーは何が起こったかを悟ったが、それを止めることも変えることも出来なかった。
 ハサンはミフデイーに城を去ることを許した。この結果ハサンは信徒とそのまま城を占拠して略奪に成功した。』ジュヴァイニによると彼は城の代金として三千デイナール金貨をミフデイーに支払ったという。

自治領国家の成立
 1090年に長老ハサンはアラムート城に着任してから約2年間でようやくダイラム地方の宣教活動でセルジューク朝執政に不満を抱く多くのシーア派農民,地主、豪族をイスマイリ派へ改宗させるに至った。そして1092年彼らの主権と財産を守るために彼らの収益の10%の年貢の徴収に同意した人々を領民とする自治領国家の設立に成功した。この国家のヘッドコーターに当たるアラムート城とは一体どんなところなのかを説明したい。

アラムート城


城へのアクセス
 イラン プロジェクトの任務も終盤を迎えた1983年10月日産ピックアップ四輪駆動車( A)でテヘランを早朝7時ごろ出発して、イラン領西北のトルコ国境に近いアゼルバイジャン州都タブリーツ市と首都テヘランを結ぶ高速道路で153km(高速道路)西寄りのガズヴィン市に向かい、一時間半後に市内に入る手前0.5km(地図4の米印)に立っているアラムート矢印道標看板(写真A)を右折して、対向二車線のアスファルト道路を道なりに進むと1時間ほどで、シャー川横断橋(写真R1ラージェ ダシュト村)に着く。更にマイムンデイズ城を通過して、村道の単線悪路約30分でアラムート城のあるガザルハーン村に着いた。この村の西隣りがエルブールス山脈から派生したハウデガーン山の狭くて細い尾根筋で結ばれてアラムート川に突き出た山塊に出逢う。


尾根以外は断崖絶壁で囲まれている。
この山塊の頂上にアラムート城が築かれた。
この城は先述した様に教団と欧州が聖地奪還のために派遣した十字軍との深い因縁でヨーロッパ人には非常に人気のスポットである。
 20世紀初期からイギリス人の探検家や大規模な調査隊が長期に亘りアラムートやその他多くの城(ゲルドクー城は除く)を発掘調査してきた。
 過去にこの城を訪れた日本人グループは次の通りである。
1. 1966年(昭和41年)朝日新聞社と深田久弥氏の探検隊がジープ2台で来たが、ラージェ ダシュト村の横断橋が壊れて、横断できず引き返した。(写真R1参照)
2. 1972年に北海道大学の研究班が数週間滞在して発掘調査を行った。
3. 1979年のイラン革命後にNHKシルクロード取材班が訪れている。
 筆者が2011年11月に再訪した時イラン文化省のアラムート文化遺産調査班が調査、修復作業を実施していた。従ってアラムート川沿いの村道も整備されて普通乗用車でもアクセスが可能になった。
 しかしもっと驚いた事は2016年10月の再訪の際アラムート山の麓に小屋が立ち外国観光客は入場料20万リアル(当時約600円)を請求された。城の地下室には喫茶室が設けられ入り口には若いハンサムな茶ボーイが微笑をして迎えてくれる。ヨーロッパ人や若い中国女性の観光客が散見された。

アラムート城の地理的な特徴
 地図4で示されたダイラム地方の重要な街ラージェ ダシュト村に掛かる橋とシャー川および主要な城の概略位置が写真R1で確認できる。


城の特徴

 この城の姿(A2)を探検家によって、いろいろな比喩で語られているがジュヴァイニの時代には『アラムートはひざまずくラクダがその首を地面に載せさせている姿に似ている。』これが最も適格な描写で一瘤ラクダが首を左に向けて地面に頭を休めて跪く姿に見える。
イギリスの探検家フレア スターク氏は『軍艦の片舷』と表現したが、これも西側から見た姿(写真A1)から納得できるであろう。


城の敷地と遺構
 この城は海抜2100mであり、横長な不規則な長方形でユニークな岩崖の上に建てられた。
1090年にハサンがアラムートにおける村の長老になり、1092年に自治領国家の君主になった。
彼は水の貯蔵設備や水源の整備そして防塁の強化と修復および城の規模拡張を進めた。


アラムート谷に潅漑ダムを建設して、その谷に多くの樹木を植えた。
 城の敷地面積は約2万平方メートルあり、必要とされた建造物は断崖斜面の異なった水平地盤に傾斜をうまく利用して用途に適した建物を建てた。その城壁の痕跡が写真A3(現在は城門に繋がるパイプ組み通路)である。ここから英国人ピーター ウイリー著 The Castle of the Assassinsから抜粋した敷地図によって説明すると、まず探検家の城へのアクセスはガザルハーン村の北東端の駐車場からアラムート山西端の点線の歩道に沿って、城の裏側(山側)に回り込むように進む。(写真A1参照)そしてハウデガーン山の尾根至る。この尾根はアラムート山とハウデガーン山間約150メートルを歩道幅70cmの尾根で繋がっている。この尾根から急斜面を現在はイラン文化遺産調査局が敷設したジグザグ状の階段を登って行くと正面にトンネルが現れる。ここで右折して歩道に沿って3メートル先を右折すると調査局の仮設階段があり宮殿正門に至る。(写真A3)この門を通過した北西部のラクダの瘤は高さ180メートルのアラムート山の頂上にあり、この岩塊は概略北東(宮殿)から南西に向かって伸びている。敷地は長さ135メートル、幅は9から38メートルで変化している。(敷地図参照)イラン文化遺産調査局の看板解説によると宮殿は幾つかの異なった区域に分かれる。ハサンや司令官、官史、学者の居住室、モスク、貯蔵庫、貯水池などが地下に造られて、地上には広場(庭)、果実園、四つのテラスとその主要な入口の門、監視塔などが互いに階段や通路で繫がっている。宮殿のモスクと庭はニザリ イスマイリ派時代の建物で、164年間彼らの居住地は南側にあるメッカへの方位と北側にある壮麗な入り口門の中にある祈祷用ホールやその空間である。 
 庭は100平方メートルで、その地下に二つの部屋がある。このホールには東と西側にも各々入り口があり、レンガやタイルを積み上げることによって、いろいろな幾何学文様を描いて建てられている。遺構の壁の高さは5mあったが、原型は11mに達したであろう。



北西部の長くて狭い土地(敷地図)にはイスマイリ時代の貯水槽(写真A6)の開口が二箇所あり、いつも水で満たされていた。貯水槽は現在調査足場が組まれて、よく見えない。(写真6)この貯水槽の大きさは長さ13m、幅3m、深さ4mである。アラムート城における特徴的なことは地下の観視所や居住地の近いところに水や食糧の貯蔵庫が設けられていたことだ。敵の包囲攻撃に籠城で対抗する為、限られた空間で食糧や水の十分な貯蔵確保は居住者の生死に関わる必須の条件であった。
最も大きな貯水槽は144立方メートルである。これらの貯水槽には屋根(現在は無い)があり、雨水や土管(A9)によって水源地から運ばれていた。
またこの敷地には防御室、観視室などが互いに岩に刻まれた階段によって繫がっている。しかしこれらの状況は次の理由で訪問者には確認できなかった。1995年頃は土石に埋もれて、現在は調査中で中に入れないので見ることは出来ない。特に監視室は同じ斜面の更に低い所にワニの目のような180度のパノラマの視界があり、アラムート川、タレガーン川方面の谷やガザルハーン村周辺丘陵を監視することが可能なルツボのような形の監視室があり、それを“2人の歩哨の家”と命名されていた。
英国調査隊の報告ではこの土地にはブドウ畑があり、また岬先端の南西斜面には井戸室があったとある。これは貯水槽(A6)を指している。1995年に訪れた時の頂上の風景は写真A4’である。先述したイスマイリ時代のトンネルはイラン文化遺産調査局の解説によると長さ12.5m幅4m高さ3.1mである。
このトンネル南側観視室(A4)から城の南側ガザルハーン村やアラムート渓谷一帯、更にタラガン領域とそれに結びつく交通路を監視する。一方トンネル北側監視室は城の北側の城門、城壁,更にハウデガーン山を観視するものであった。

トンネル南口(A7)に立つと足元に斜度60度強の岩帯で囲まれたアラムート渓谷が広がり遠くにアラムート川、タレガーン川が望まれ、右手前にガザルハーン村が横たわり、素晴らしい展望が開ける。

訪問者がこの足も竦むような絶壁の頂上に立った時、暗殺教団の教祖ハサンが34年間の自治領国家運営の中で興味深い逸話が次の様に伝えられている。
その1: セルジューク朝のスルタンに宛てたメッセージで『もし私がスルタンに対して好意を抱いていなかったとすれば、床の上に立てられたこの短剣は貴下の胸に突き刺されていたでしょう。この岸壁の頂上から私は貴下の周辺の人の手を遠隔操縦していることを承知あれ』と語らせた風景である。
その2: ハサンは生きて帰らぬ刺客をこの山頂から送り出した。
その3: エジプトのファーテイマ朝の要人がアラムートを訪れた際、信徒の信心深さを証明する為に信者をこの絶壁から飛び降りるよう命じた場所でもある。
 イラン文化遺産調査局の解説によると写真A3でトンネル北口へ向かって左側の城郭は南東へ伸びる狭くて細長い敷地でラクダの瘤(宮殿)より4メートル低い位置にあり、主に看守、守衛の詰め所や監視塔、倉庫、馬小屋、石の中に刻まれた幾つかの寝室(小部屋)などがある。これらは下界に通ずる曲がりくねった階段の通路があり入口門には二つの保護石壁で囲まれて部外者は入場できない仕掛けになっている。この出入り口は恐らく裏口で下位の人々や緊急時の脱出に使われたと思われる。現場は未整備で1984年から2016年でもアクセス路は明示されておらず不明だが、山の外観から言えることは全て地下に狭いトンネルが掘られているのだろう。未だ来訪客に解放されていないので、興味尽きない逃避行の裏口を見ることが出来なかった。
 この城攻めの拠点は三つあり、一つ目が南側アラムート川から絶壁を登って、もう二つ目が北側の城門、三つ目が裏口の各ルートである。傾斜角60度の絶壁を軍装備の人間が集団で登るのは敵の落石攻撃を受けて無理だろう。裏口も人一人、馬一頭しか通れないトンネルを多くの装備兵が通過するのは困難だ。
 従って正攻法は城門から攻めるルートである。しかし城内広場(A3)の前に広がる溶岩丘尾根の間に高さ16メートルの城壁が聳えていたと伝えられているので、この城壁を敵前で破壊するのは至難の技であろう。

水資源を如何に獲得したか
 イラン人のガイドによると雨水や雪解け水を集めて貯水槽へ流し込んでいると話していた。
 後述するラミアサール城の敷地は全て北から南へ傾斜している。この傾斜面に雨水を集める細いU字型水路が貯水槽に向かって掘削されている。しかしこれでは乾燥地帯の現場では心もとない話である。英国隊は具体的な飲料水の獲得手段については何も語られていなかったが、次の様な添付写真の粘土焼結導管(写真A9)を発見したと報告されていた。筆者はこれまで他の城も合わせて現地を3度訪れて、この水源確保に思い当たることがあったので、それを簡単に説明したい。
 まず古河電工の工事現場はタレガン川の上流にあり、この川の源は何処だとイラン人技術者や村民に問い合わせたところ、それは冬季に降り積もった大雪が春の雪解け水で伏流水になり岩の隙間、山稜の洞窟にたまり、温度の上昇であふれ出した小川が沢に集まったものだと説明された。それを根拠に水の確保どうしたのかという疑問に次の様な仮説が成り立つのではないかと考えた。まず水源はハウデガーン山の麓で貯水槽(写真A6)より高いか同じレベルの伏流池を探して、そこから岩場や土質地をU字溝に掘削して水道管を埋設し溶岩丘を経由して城門側のレンガ積壁(写真A8)へ繋いだ。この結果サイホンの原理を利用して山の伏流水池から低位置の貯水槽に常時一定の水量を確保したのだろうと推察した。当然城内の地下構造でレンガ積壁から管路で貯水槽に導かれている。この城外を通る水路は敵に見つからない様に地中に深く埋め込まなければならない。溶岩丘にはU字溝らしいものが認められた。しかし長い間吹き曝しで、土石の堆積が著しくU字溝は浅くなっていた。
 この件はラミアサール城でも確認されたので参照願いたい。

4.初代 教祖ハサンの執政史

(ハサン イ サバーフ)
統治期間:1090-1124 統治年数:34 居住城:アラムート 聖職位:イマームの代理人

ハサンの教主としての人物像
 ハサンの人物像はニザリ教団の教祖であり、イマームの代理人でもあった。自治領国家の君主として振舞った姿を文献から拾ってみると。ハサンの人物像もヨーロッパで噂された暗殺を金銭で請負う長老”山の老人”ことシリアのスィナーンのような人物を想像するかもしれない。確かに彼の生存34年間に多くの王朝君主や宰相、法官、知事、市長が彼の送った刺客によって殺害された。
 しかし歴史に残されたハサン像は意外性に満ちている。
 まず同時代の歴史家ラシード ウッディーンは次のように述べている。
『彼は死に至る(1124年5月に病没)までの残りの時間を殆どアラムート城内で過ごした。書物を読み、布教活動についての言葉を書きとめ、彼の支配下の諸々の業務を管理することに専念した。そして禁欲的で節制ある敬虔な生活を送った。』
 当時のアラブの伝記作家は彼に対して好意的ではなかったが、次のように評している。『彼は非凡な才能を持ち、明敏で有能で幾何学、天文学、魔術などに精通していた、また彼は思想家であり、著述家でもあった。』
 先述した彼のイスマイリ派へ改宗した際に陥った宗教的な神秘体験がいろいろな才能の開眼へ導いたらしい。更にジュヴァイニによると、ハサンは『アラムートに居を構えてから、死ぬまでの34年間一度も山を降りることはなかった。ただ2度だけ部屋の外に出たが、それは屋根に上がっただけだった。
 その他の時間は家の中で、断食と祈り、読書、国家の事務を行い、あるいは管理することに専念した。この間彼は誰一人とも公然と酒を飲んだり、それを注いだりしなかった。彼の禁欲主義で節制を重んじる態度は自分に対抗する敵対者だけではなく、自分の身内に対しても向けられた。そのいい例が彼の二人の息子の内、一人はワインを飲んだという理由で処刑された。
 もう一人はある伝道師を殺害しようと企んだグループの一員との嫌疑をかけられて、死に追いやられた。このような行動は自分の身内の者を贔屓にするという心は微塵にも抱いていない、自分は常に公明正大であることを周囲の人々に証明する結果となった。
 他にも彼の厳格さは城の中で、笛を吹いた者がいたが、彼を城から追い出して、二度と戻すことはなかった。』と語っている。
 1107年頃大セルジューク朝スルタン ムハマッド タパルがハサンの権力の増大を座視できないと判断して宰相を司令官とした軍隊を編成してダイラム地方へ派遣した。司令官はアラムート城を包囲して,しばらく戦闘を続けたが、どうしてもハサンを倒すことが出来ないので,その間ダイラム地方の農作畑を徹底的に破壊して引き揚げた。農作物の破壊で、城の中ではひどい飢饉が発生して人々は草を食べてしのいだ。この時宣教活動や教団の維持に貢献する為、服地の機織に従事させて、それに見合った賃金を与えてくださいという手紙を添えてハサンは妻と二人の娘をゲルドクー城(教祖ハサンとゲルドクー城関わりの歴史参照)へ送った。
 そしてそれ以降彼は再び彼女らを呼びもどさなかった。
このようにして彼は禁欲主義と節制、正義の賛美、不正義には不寛容という自分の主義主張を法律とした。
このような人物像からヨーロッパで流布した大麻や享楽的な楽園生活を刺客養成に取り入れたというイメージは全く浮かばないし,アラムートの敷地や洞窟の宮殿を見てもそのような豪華な構造物は見当たらなかった。イラン内ではこのような話は全く聞かない。
 シリアのスィナーンの人物像もシリアの章で詳述するが,基本的にはハサンと似た人物であった。
村民もハサンの無私公正で厳粛な宗教者の姿に賛同するものが多く現れて、城に住む職員や官僚も彼に従順であった。
やはりヨーロッパに流布した刺客養成の楽園物語の源は1164年のハサン2世の宗教改革であったと思われる。

宿敵セルジューク朝に対する武闘組織

 先述した様に本来ペルシャはイスラム教シーア派国家で、1095年にはシーア派の前ブアイフ王朝を滅ぼして支配者に登場したスンニー派セルジューク朝の政治体制とはニザリ派教団とも全く馴染まない敵対関係で人々が多く住む中心都市イスファハーンやシラーズ、コム、レイでは対立が常態化していた。しかし多数の住民を安全に生活させるためには安易な戦いは起こせられない。一方ハサンの自治領国家はダイラムという小集団の国家で領民の安全を維持してセルジューク朝の不当な恣意的増税から逃れるためにハサンは抵抗した。そして圧倒的な戦力を持つセルジュークやアッバース朝に対して、教団の戦闘能力には限界があり、効果的な戦い方は歴史が教える暗殺という戦略だとハサンは看破してそれを実行した。それらが悉く成功したためにセルジューク朝は本拠地アラムートを殲滅するために度々軍隊を派遣した。この一例が先述した1107年頃大セルジューク朝スルタン ムハマッド タパルの軍隊派遣である。

暗殺が有効な国家、集団
 ハサンが暗殺の有効性を最も切実に歴史から学んだ事例としてイスラム教シーア派のイマーム継承に関わることであった。イマームの絶対的な条件は“預言者マホメットの血統を受け継ぐ者”とされていたので、敵対するスンニー派からは常に血筋の継承者が暗殺の標的になり、イマームの不在が度々生じる原因になった。
だからハサンはセルジューク朝のような個人的で一時的な忠誠に基づく集権的、独裁的君主政体下に置かれた状況には共通した弱点があると捉えていた。
 歴史家はこの点を行政的、軍事的才能に非凡なものであったとハサンを評価した。
 一方テロイズムが通用しなかった例として、シリアに於ける十字軍との苦い戦いで敗れニザリ派教団首席宣教師はテンプル騎士団とホスピタル騎士団に貢物の支払を余儀なくされた。それは彼らがアサシンを全く恐れなかったからだ。むしろ教団の方が無駄な摩擦を避けたい為に貢をしたと思われる。何故ならば騎士団の司令官が殺されても、速やかに別の適当な人物かそれにとってかわるのが常であったからだ。この二つの騎士団は制度化された構造と階層と忠誠によって統合された団体であり、暗殺という攻撃を無力化する組織であった。

ハサンの暗殺正当化思想
 ハサンが暗殺という手段をどのように正当化したのか文献から紹介しよう。
バーナード ルイス著“暗殺教団”の中で暗殺という社会現象を次のように述べている『暗殺という殺人は人類誕生と同じぐらい古い現象である。だからニザリ派が暗殺という手段を編み出したわけではなく、彼らはアサシンという命名に利用されただけであった。
 世の東西を問わず政治的な殺人は政治権力の出現に従って、権力が一個人に帰属していれば、その個人の除去が政治的な変化を敏速に且つ簡単にもたらす方法として歴史的に認知されていた。特に独裁的な王朝や帝国で頻繁に起こされてきた。だからイスラム政治史でも草創期から多くの暗殺という血なまぐさい事件で覆われている。』
 今でも骨肉の争いの象徴であるスンニーとシーアの怨恨の歴史を省みると次のようになる。
マホメットの後継者としてイスラム共同体から選ばれた4人のカリフの内、三人が暗殺されている。
第二代ウマルは個人的な怨恨によって、奴隷のキリスト教徒によって刺された。三代目ウスマーンはウマイア家を偏重したために内部からの恨みを受けて暗殺された。ウマイア家の一族だったシリア総監ムアーウイヤがカリフ ウスマーン殺害の犯人処罰を後継者カリフ アリー(マホメットの娘婿で後にシーア派初代イマーム)に要求した。
 しかしアリーは既にマホメットの血筋のない者はカリフの資格はないというシーア派の宗教規範を抱いていたので、何のアクションも取らなかった。
 この件でアリーの支持者(将来のシーア派)はウスマーンが圧制者であったから、彼の死は処刑であり、暗殺ではないと主張した。
 その後アリーは一人の狂信者によって倒されたのであるが、これと同じ論法で殺害されたことをスンニー派の支持者は正当化したのである。
シーア派の二代目イマームで教祖アリーの長男ハサンはイラクのクーファでスンニー派ムアーウイヤ(シリア総監)とのカリフ継承で対立し結局ムアーウイヤの陰謀で毒殺された。三代目フセインもムアーウイヤの建国したウマイヤ朝によって暗殺された。
 これらのことから結論として、バーナード ルイス著“暗殺教団”の中で、概略次のように述べている。『権力を掌握した者はそれを脅かす者を事前に摘み取るために、あるいは権力闘争中の相手を暗殺で排除することは常套手段だった。そして暗殺の正当性は常に勝者の権力者側によって、国民に容易に認知させることが可能であった。
 イスラム教の中でもコーランの次に重要な伝承(伝承とはマホメットの言行であるが、それが宗教、倫理、法慣行の基準となった)では反逆の原理をある程度認めている。これは君主に対して独裁的な権力は認める一方、一旦その命令が正義に反して罪深い時は配下の者は服従する義務が消滅するという。これはイスマイリ派の誕生時にイマームは神の霊感によって行動し、絶対に誤りを犯さないものであり、言い直し、訂正などできないものであると主張した教徒が後継者の変更を宣言して言い直したイマームに反対してシーア派から分かれた史実にも現れている。また神に敵対するような人物には服従してはならないとも規定している。だが命令の正当性を判断したり、罪深い人物への不服従の権利行使の具体的な手続きが規定されていないから、良心的な配下が頼りにする唯一つの手段は君主に反対して、彼らの集団の政治力で圧倒して廃するか、彼を暗殺して排除することであった。この古いイスラムの伝統によって、不当な人々やその手先を殺す為に刺客を送って暗殺するというニザリ派の行為を正当化出来た。』

暗殺を武闘組織化
 ハサンの戦略は攻撃としての刺客養成の狂信的な情熱だけではなく、防衛として難攻不落の城による安全基地獲得、情報戦として教団内部情報の秘密厳守規則を死で持って守り抜くという安全と団結という冷徹な計画が敷かれていた。
そしてテロリストの仕事は宗教的活動と政治的活動によって支えられていた。
難攻不落な城に立てこもり、失敗を許されない必殺度の高くピンポイントで相手の中枢の人物を暗殺するという恐怖、威嚇によって政治交渉する恐怖政治であった。
その為にハサンは必殺度の高い暗殺実行に必要な刺客の養成と隠密に敵の情報収集するスパイ組織の構築に邁進した。

刺客養成機関
 まず刺客の養成機関としてハサンが暗殺を実行する為の組織と思想をどのように考えていたのか。
ルイス著“暗殺教団”から拾っていくと、『暗殺という“テロ”を持続させるには次の二つの条件が必須だった。
それは組織とイデオロギーである。そこには攻撃を浴びせることと逃れられない反撃を切り抜けることが可能な組織であり、また刺客は死の間際まで自分を鼓舞し続ける信条の確立である。
 それはギリシャ哲学を習合した洗練されたイスマイリ派の教義を徐々に捨てていき、友愛諸団体の間に普及した信仰により近い形態の宗教を採用した。』一方イラン人歴史家ジョヴァイニは“世界征服者の歴史”の中で次のように述べている。『ニザリ派の宗教は神と人間との果たすべき契約の下で、それに伴う受難や殉教を正当化して、それに奉ずる人々に尊厳と勇気を与え、決して生きて帰れない自己犠牲を吹き込むことに成功したものであった。』この思想をベースに1095年以降のハサンの創り出したニザリ派の新教説(“暗殺教団”)による刺客養成に使われた教義では『殺害は単に神への敬いの行為だけではなく、神秘的な儀式の伴った聖餐の性格を持っていた。それはペルシャでもシリアでもすべての殺人に、常に一本の短剣を使い、毒薬や飛び道具の方が簡単で安全な場合でも決してそれを使うことはなかった。
刺客はほとんどその場で捕らえられ、また逃げることもほとんど試されていなかった。使命の終わった後まで生き残ることは恥ずべき行為であったとされたのである。』
 このような教主のために自分の死を賭けて、いや死を求めてさえいた刺客のこの忠誠心というか誓いの心というのは12世紀のシリアに於ける十字軍とニザリ派教団との接触でヨーロッパに伝えられ、アサシンという語源とともに絶対的な忠誠心、信義、自己犠牲を表す代名詞に使われたことは先述した。
 政治的な武器としてテロを計画的、組織的、且つ長期にわたって使用したのはニザリ イスマイリ教団が歴史的には最初であった。

スパイ組織
 一方暗殺を成功するためには敵の正確な状況把握が不可欠だ。そのためにいろいろな人種のニザリ教徒をタキーヤの原理(自分の信仰を隠蔽して、都合の良い宗派に成りすますこと。)を使って相手側の教徒に成りすまして、敵の懐に深く入りスパイ活動を行い、その君主、司令官、宰相の動静の詳細な情報をアラムートに集めさせて、乾坤一擲のチャンスを狙って、命を捧げた決死覚悟の刺客を送り込んで、スパイは陰からその執行をサポートするという戦術であった。このように何時、誰の指令で誰が実行したのか被災者側は全く把握出来ない中で事件が勃発するのだから、為政者たちに戦々恐々として底知れぬ恐怖を与え恐れられた。

ハサンの暗殺履歴
 この話を始める前に暗殺教団が1256年にモンゴル帝国のペルシャ遠征軍によって滅ぼされたが、そのキッカケを作った話題から始めよう。
ドーソン著モンゴル帝国史によると1253年にモンゴル帝国の皇帝モンケはペルシャ遠征に弟のフラグを司令官に任命した。その時モンケは何よりもまずニザリ派教徒を根絶するように命令した。話は溯るが、モンケは1236年バトウの西方遠征でトランスオクシアナ出征中のある日、ペルシャのガズヴィン市の大法官が鎖帷子(鎖カタビラ:鎖の陣羽織のようなもの)身に着けて自分の前に現れたのに驚いたことがあった。モンケはこの法官にその理由を尋ねた。彼はニザリ教徒の短刀から身を守る為に常に衣服の下にこのような鎧を着けているのであると答え、さらにこの機会をとらえて彼はこの大胆不敵な教団の陰謀についても詳しく述べたので、この話がモンケの心に生々しい印象を刻み付けていたのであった。実際にこの法官のガズヴィン市はニザリ教国とは僅か一つの山脈で隔てられていて、この山脈の北の裏が彼らの本拠地(アラムート)であった。この都市の住民は彼らの攻撃にさらされて常に警戒して生活していた。
 この話から推察するとハサンが使った暗殺執行の仕組みはアラムート城におけるイスラム教のコーラン、伝承を厳格に守った彼自身の厳粛な信仰生活者からはかなりかけ離れた冷酷で狡猾なものであった。
 ハサンにとって最初の最も輝かしい戦果は再びバナード ルイス著“暗殺教団”から引用すると『1092年に大セルジューク朝の宰相ニザーム アル ムルク(ペルシャ人で有能な政治家1090年ハサンを指名手配した。)がネハーバンド地方のサフネという町に設けた謁見所から婦人たちの居るハーレムへ御輿で運ばれていた時スーフィー僧に変装して近づいた刺客によってナイフで刺されて殉死した』事件だった。
 ハサンの狡猾で典型的な話がドーソン著モンゴル帝国史に語られている『防備を施された岸壁の頂上(アラムート城)からハサンはその敵の生死を自由にし、彼の友人が殺そうと欲していた人々を殺した。というのは、彼は大セルジューク朝宮廷の有力な人物たちと密かに共謀して、刺客たちに恐るべき短刀を自由に使わせて、ハサンは共謀した相手の功に報償を与えたからである。この一連の共謀はセルジュークの遠征軍によってアラムート城が攻撃された時にも、アラムートからセルジューク宮廷に使者を送って敵の共謀相手を説得して攻撃を中止させることに成功している。
ハサンの戦い方はタキーヤの原理を使って敵の懐深くに秘密の縁故者、ニザリ派教徒を潜伏させていた。これらの者は敵には当然危険な存在であったが、一方潜伏者の正体がわからないので、その友人と考えられている人々にとっても危険な存在であった。友人と考えていた者も常に疑惑を持たれ捜査されて場合によっては拷問にかけられ殺された。
 これはハサンが敷いた最も巧妙な戦略でスパイという敵にも味方にもなる人間を自由自在に操って自分に都合の良い振舞い方で潜伏先に致命的な事件を起こさせた。
 その結果潜伏先の社会ではお互いが疑心暗鬼に陥り自分に不都合な出来事を企てる者は誰でも、それはニザリ派の一味であると言って非難すればよかった。
 そして密告が増えて、あらゆる人々が嫌疑をかけられた。大セルジューク朝マリク シャー一世(1072-1092)は最も親密な臣下さえ疑っていた。そして悪意ある者は彼のところに容疑者を届けようと努めていた。ニザリ派の教義に賛同したことを非難されて、その臣下に虐殺されたケルマーン セルジューク朝スルタンが死の直前に取った施策とは彼自身がニザリ派とグルになっていると疑われるのを避けるためニザリ派を攻撃することだった。この話には国家システム運営に携わる人々の疑心暗鬼に覆われた究極の姿、地獄絵巻を見る様だ。マリク シャー一世の子バルキヤールク(1094-1105)はその即位のはじめに、一人のニザリ教徒に刺されたが、その傷は治した。当時彼の幕営には多数の潜伏ニザリ教徒がいた。彼の将軍たちはすべて日中、鎖帷子を身に着けて、夜は天幕の中でも安全な状態だとは思っていなかった。
 スルタン バルキヤールクがハサンの宗派に対して好意を抱いていることを非難する風評があった。
 この噂に驚いたバルキヤールクはその軍の中で厳しい捜索を行うよう命令したが、はたして多くのニザリ教徒が発見され、彼らは処刑された。また諸州で発見されたニザリ教徒はすべて処刑にするよう命令が下された。バルキヤールクの弟でその後継者ムハンマド タパル(1105-1117)の治世にスルタンの命令によりアラムート城とラミアサール城への食糧を断ち切るためにダイラム地方の農作物を七年間引き続いて破壊させたが、ついに1117年に城を包囲することに成功した。アラムートは長く持ちこたえられないだろうとみられていた。ところがムハンマドは偶然にもその年に死に、その子のアフマド サンジャル(1117-1157)の治世の下で、その宮廷の要人たちは密かにハサンと内通して、敵対行為を中止させた。
しばらくしてホーラサン州にも君臨していたスルタン サンジャルはニザリ派によって占領されていたクーヒスターン州の諸城塁を奪い返す為に軍隊を派遣したので、ハサンは彼に使節を送って和睦を求めた。
 しかしこの企ては失敗したので、ハサンはスルタンの廷臣たちを買収して、自分のために弁護させた。しかし以前サンジャルがホーラサン地方の小セルジューク朝(1097−1119)のスルタンだった時代の1103年にニザリ討伐に遠征軍を派遣して以来、ハサンに対する反対行動は一切とらなかった。
 その理由はハサンがスルタン サンジャルの臣下を買収して、短剣を送り、酒に酔って眠っているスルタンのベッドの床に、その短剣を突き刺した。
 サンジャルは目を覚まして、この刃物に気がついたが、誰にこの疑いをかけたらよいのか判らなかったので、この事実を誰にも漏らさないことに決心した。やがてサンジャルはハサンから短い書付を受け取ったが、それにはこう書いてあった。「もし私がスルタンに対して好意を抱いていなかったとすれば、床の上に立てられたこの短剣は貴下の胸に突き刺されていたでしょう。この岸壁の頂上(アラムート城)から私は貴下の周辺の人の手を遠隔操縦していることを承知あれ」と。
この行為はサンジャルの心に非常な衝撃を与えたので、彼はニザリ派と和睦しようと心が傾いた。そして彼はその長い治世の間、もはやニザリ派の討伐のことに心を煩わさなかったので、彼の治世こそニザリ派の勢力が最大化した時期だった。
 そして恐怖に慄いたサンジャルは彼らとの講和を結んで、おまけにハサンの領地に課せられた地租税の内から、三千デナールを年金として彼等に与え、しかもゲルドクー城の真下を通過する旅人には少額の通行税を課することを許した。』と語られている。
 この通行税の話はジュヴァイニがアラムート城の図書館に保管されていたサンジャルの勅令からわかったことである。
そしてサンジャルは1119年に大セルジューク朝スルタンに就任してからは、もっぱら外征に専念して、インドのガズナ朝やアフガニスタンのゴール朝などと戦って、それらを支配下に置くなど東方への領土の拡大に向けられた。

教祖ハサンとゲルドクー城関わりの歴史
 先述したようにハサンはカイロから1081年ペルシャに帰還して,その後ペルシャ全土を布教活動した後に三年間ダムガーン市に滞在した。この滞在期間に彼はダムガーン市からガズヴィン市、ダイラム地方へ宣教師を派遣して指揮を執っていた。
 そしてこの城は背面にエルブールス山脈、南側はカビール砂漠の平原に単独のドーム型山塊だから現在でもダムガーン市や国道(シルクロード)から容易に眺望できるので,ハサンはこの要塞の情報を事前に十分知っていたと思われる。アラムート城を本拠地とするニザリ教団自治領国家確立後の1096年彼は要塞を味方に付けるために本拠地アラムート城からダムガーン市に密使を派遣した。この時のホーラサン地方の知事はムザファール ヌスタウフィという人物だった。
 ここから城を獲得する経緯は著者マーシャル ホジソンの“暗殺者の秘密指令”の中に概略次のように書かれている。
 ムザファール ヌスタウフィはセルジューク朝の将校という立場でもあったが、実はファーテイマ朝カイロのイマームの次席にあたる首席宣教師アブドウル マリク イブン アターシュ(1077年当時イラク、ペルシャの宣教区の区官長でハサンにカイロへの出頭を命じた。)の導きによって、イスマイリ派への秘密の改宗者になっていた。しかし1094年以降は教祖ハサンが興したニザリ イスマイリ派イスラム教に改宗したことを付け加えなければならない。
 けれども彼は自分の宗派を隠匿して、秘密裏にセルジューク朝の将校という地位にとどまった。
だから当然ハサンの密使たちは彼から大いに歓迎された。そして密使がこの要塞を手に入れたいことを知ったムザファールはただちに行動を開始した。
まずセルジュークのスルタンに未だ自分は忠実な将校であるという姿勢を見せながら、スルタンにゲルドクー(セルジュークの所有)を要求して、自分をそこの司令官に任ずるようにセルジュークの将軍を説得した。
将軍とスルタンは彼の要望を聞き入れたので、ムザファールは正式にゲルドクーの司令官になった。彼はその将軍の権威の下で、セルジュークの費用負担により要塞に思い通りの堅牢な胸壁、監視塔、兵舎などを建設した。特に包囲された場合の用水には注意を払い、非常に深い井戸を掘り、また兵器、食糧は数年分に備えて備蓄した。
さらに、そこに備えるべき備品や財貨を蓄えた。かくして準備万端整ったところで、ムザファールは自分がニザリ イスマイリ派の信徒であり、ハサンの信奉者であると宣言した。彼はその後この城を40年間にわたって統治した。』と述べられている。
そうは言っても、完全にセルジュークと袂を割って敵対関係になったのでは40年はもたない。
 歴史家ラシード ウデイーン(ジョヴァイニとほぼ同時代“集史”の著者)が言うには『ムザファールは今までセルジューク朝の上層部の人間と非常に巧妙に接触していた。それは将軍の愛顧を勝ち取ることが出来たこと、そして彼がこの城を獲得した後も自分に関わりのセルジューク事務を最優先しながら、許容範囲内でニザリ イスマイリ派へ協力したことに現れている。
 またムザファールはアラムートに対して自分の忠誠を維持しながらも、一方ではセルジュークのスルタン サンジャルに対しては自分の軍事力を提供して服従するという約束をしている。
 ムザファールとサンジャルは幼少時代の友人関係を通してサンジャルが最初にホーラサン地方の小セルジューク朝スルタンになった時代、そして最後に大セルジューク朝スルタンになった時代と長い人間関係の中でサンジャルの信頼を獲得していたという。この両者の友好と信頼関係を証明した手紙が1256年にフラグ汗によってアラムート城が崩壊した際にフラグ汗の幹部だった歴史家ジュヴァイニが“サンジャルが小セルジュークでホーラサン州のスルタンだった時にニザリ イスマイリ派の城塁を誰も破壊しようとは思っていないというハサン宛に送られた親切なサンジャルからの手紙がアラムート城の図書館で発見されたと記録している。
 それは教祖ハサンが1090年にアラムート城の略奪に成功したときセルジューク朝のスルタンの所有を許されたアラムート城の城主ミフデイーに対して3,000デナールの金貨を支払ったことが歴史家ジョヴァイニの著書で語られているが、ハサンは当時ダムガーン市のホーラサン州知事をしていたムザファール ヌスタウフィに依頼して支払わせた。
 同じような金銭的な援助を要請している事件が起こっている。これも先述した1107年頃、セルジューク朝スルタン ムハマッドがハサンの権力増大を阻止するために宰相を司令官として、軍隊をダイラム地方に派遣した。ところが敵はなかなか降伏しないので業を煮やした彼らは敵の農作畑を徹底的に破壊して撤退した。その結果城の中ではひどい飢饉が発生して人々は草を食べてしのいだ。
この時ハサンは費用捻出する為、服地の機織に従事させて、それに見合った賃金を与えてくださいという手紙を添えて、自分の妻と二人の娘をゲルドクー城へ送った。
この時ゲルドクー城(写真G1)のセルジューク朝の司令官だったムザファールは快く承諾して彼女たちを受け入れた。このようにハサンとムザファール ヌスタウフィとの間には並々ならぬ信頼関係を醸成する機会があった。
先述したようにサンジャルは最初ホーラサン地方の小セルジューク朝スルタンだった。そしてサンジャルとムザファールは幼少時代からの長い人間付き合いでサンジャルの信頼を獲得していた。また歴史家ジュヴァイニがアラムート城の図書室で小セルジュークスルタン サンジャルがハサン宛の書状『ニザリ イスマイリ派の城塁を誰も破壊しようとは思っていない。』はサンジャルが地方の小セルジューク朝スルタンという弱い政治力で統治能力の高く信頼できるムザファールの協力が必要だったので妥協した証であろう。
一方ハサンは自治領国家の初期運営に必要な経済的支援の必要性を痛感していたに違いない。
この観点からムザファール司令官の存在はハサンの命綱であった。

5.シリアへの宣教拡大と自治領国家建設の歴史

シリア進出の背景

 教祖ハサンがなぜシリアへ宣教拡大目指したのか?その理由は次の三つが大きな要因だったと考えられる。
1. イスマイリ派の揺籃期の本拠地がシリアであった。
2. シリアはイスマイリ派ファーテイマ朝の支配下(978−1078)にあった為にイスマイリ派住民が多かった。
3. ハサンが1077年にイスマイリ派の教義伝授のためにファーテイマ朝首都カイロへ旅した際 シリア住民の宗教,社会,政治,地理などの豊富な情報を集めていた。(地図3参照)
 1、2の歴史は『ハサンがシーア派からイスマイリ派へ改宗した経緯』の章でイスマイリ派ファーテイマ朝の誕生の歴史を簡単に触れたが,ここで西アジア史( イラン トルコ 永田雄三編)から補足すると,『イスラム教シーア派6代目イマーム ジャファル サーデイクが765年死亡すると後継者問題でシーア派は分裂して、長男イスマイールをイマームと仰いだイスマイリ派は9世紀末宗教的な活動拠点としてシリアのホムスとハマーの間にあるサラミーヤ(地図6参照)という小さな町に秘密の本部が生まれた。当時のシリアはスンニー派アッバース朝の支配下にあったために、イスマイリ派は常に迫害の憂き目に遭っていた。この迫害を逃れて、当時マグリブ(日の沈む国)と呼んでいた現在の西アフリカのアルジェリア,チュニジア、モロッコに拠点を移そうとしていた。そして本部はアッバース朝のイラクやペルシャ、イエメンへ宣教師を派遣して秘密裏にイスマイリの宣教拡大をはかる一方で、マグリブ方面には有能で戦略的な才能に恵まれた宣教師アブー アブド アッラーフをアルジェリアへ派遣して、そこに住むベルベルのクターマ族と接触して宣教しながら、901年ごろイスマイリ派への改宗させることに成功した。更にクターマ族は彼の指導権を認めた。彼はクターマ族の戦士を集めて十分な戦力を整えたのが903年ごろであった。909年頃にはこの戦力によって彼はチュニジアの諸都市を征服して首都カイラワーンを占領した。
一方クターマ族の支持が得られたことを聞きつけたシリアの秘密本部の指導者ウバイド アッラーフ サイードは902年サラミーヤからチュニジアへ移動したが途中で宗教的なトラブルに巻き込まれるが910年にカイラワーンに到着した。そしてサイードはそれまでマグリブの征服事業の担い手だったアブー アブド アッラーフ等の不満分子を廃して、自分はイマーム イスマイールの子孫でありマフデイー(救世主)でありカリフであると宣言して911年イスマイリ派国家の建設を成し遂げた。
 更にサイードは予言者マホメットの娘ファーテイマの子孫であるから、建設された国家をファーテイマ朝と命名して自らをイマームとした。バグダートのスンニー派アッバース朝に対抗するためにカリフの称号も採用したが、宗教的にはシーア派のイマームとしての立場を執った。913年サイードはアブー アルカースイムを将軍とした軍隊をエジプトへ送ってアレキサンドリアも一時占領したが、アッバース朝の軍隊に敗れて915年カイラワーンに戻った。919年にも同じような挑戦が試みられたが失敗して同じ結果を招いた。結局ファーテイマ朝がエジプトへの進出は953年に即位した第4代カリフ ムイッズの出現まで待たなければならなかった。当時エジプトはアッバース朝の宗主権を名目的に認められたイフシード朝が支配していたが、946年に建国者イフシードが死去するとイフシード末期の政治的混乱が起こり、その隙を狙ってムイッズは969年スラブ系解放奴隷ジャウハルを将軍にしてファーテイマ朝軍隊を指揮させたところ,エジプト征服が容易に成功した。ジャウハルはエジプトを征服後,ただちに新都建設にとりかかり、エジプトの首府フスタートの隣のカイロに新都を建設した。973年ムイッズは新都に入城した。そして彼はアッバース朝バグダードやシリアへ軍隊を派遣したが、978年シリアのダマスカスを占領した。
ファーテイマ朝(909-1169)の領域はエジプト、エルサレムを含む南シリア、メッカを含むアラビア半島西部にまで及んだ。』
 ハサンのエジプト カイロへの旅(地図3参照)をもう一度辿ると1077年にペルシャのレイ市を出発して西北部のタブリーツ市から国境を越えてトルコのシルヴァンを経由してシリア西北部のアレッポ,ホムス,ダマスカス,ベイルートで地中海を海路でカイロに1078年8月到着。帰路は北アフリカからフランク人の船でシリアへ向かったが難破しても救われてシリアに到着。アレッポ、バグダードを経由して1081年6月末イスファハーン帰還した。
 この旅がシリア宣教拡大戦略に如何に貢献したかをかい摘んで指摘すると
1. 往路で1077年はじめから1078年8月末までの時間をかけて,イスマイリ派の本部があったサラミーヤとその周辺の中心都市アレッポ,ハマー,ホムスを通過している。
2. 往路と復路と二度アレッポを通過している。この街は最初の宣教師が本部を構えたところであった。
3. シリア北西部のオロンテス河に沿って並ぶハマー,ホムスの西側に横たわる山脈にはペルシャのアラムート城やラミアサール城のような急峻な山岳地帯が点在していた。
この界隈をジャバル バーラ、ジャバル スンマークと呼ばれ、そこに住む人々はイスマイリ派教徒が多かった。

初代宣教師が派遣されたシリアの政治情勢
 ハサンが宣教師を派遣した1096年のシリアは1079年にシリア セルジューク朝始祖トゥトゥシュがファーテイマ朝に戦勝してダマスカスを支配下に収めた後、1086年には東ローマ帝国(現在のトルコ)のアナトリアを征服していたルーム セルジューク朝が北シリアの主要都市アレッポに侵攻してきたが,これを迎え撃って敗走させて、アレッポまで勢力を広げた。しかしペルシャの大セルジューク朝スルタン マリクシャーの横槍で、一時アレッポを手放したが、1092年に兄マリクシャーが没するとトゥトゥシュはアレッポを支配していた大セルジューク朝の委託統治をしていた将軍を殺害して1094年アレッポの領有権を回復することに成功した。ところが兄マリクシャーの死後、後継者問題で同年大セルジュークの新スルタンになった甥バルキヤールクを廃位させるべく戦ったが、翌年ペルシャのレイ市で戦死してしまう。彼の死後息子リドヴァーンとドウカークはシリアの領有権を引き継いだ。そしてリドヴァーンは北西部アレッポ領域を継承し、ドウカークは南東部ダマスカス領域を継承して総督として支配した。
 ところが年若い二人はお互いに不仲で、アレッポとダマスカスの政権の間には反目が続いた。
 その結果父の築いたシリア セルジュークは二つに分断された。
このようにセルジューク朝の歴史を俯瞰すると王朝の後継者問題で、その都度兄弟、親族間の内戦が繰り返されて、この現象はこの王朝の伝統的な祭ごととまで言われた。従ってハサンは宿敵セルジュークに対する戦略を立てる上で極めて判りやすい敵失を得ていたことになる。この様な敵失には暗殺という武器が嵌まり役だとハサンは即断したであろう。
 シリアへの宣教師派遣以降の教団の歴史記述はペルシャ教主とシリア宣教師の関連性を伴うので時系列に並べて交互に記載する。

シリア初代首席宣教師(1096-1103)ハーキム・ムナッジムの歴史
 ハサンが最初に派遣した宣教師はペルシャ人でアル・ハーキム・アル・ムナッジム、つまり医者にして占い師として知られた人物であった。ペルシャ人の彼が異国シリアで最初に定住するにふさわしい条件、先述した三つの条件に叶う都市としてハサンはアレッポを選んだのであろう。アレッポにはシーア派の人口が過半を占めていた。アレッポから国道M5で約150km南下したハマー市の北西部山岳地帯“ジャバル バフラー“にはニザリ派の小規模な集団が点在して定住していた。
 更に改宗の可能性の高い宗派の人々についての話になるが,シリアの地政学的な位置が北は現在のトルコのアナトリア地方,昔はビザンチン帝国のギリシャ正教会住民、西はパレスチナ,エルサレムでローマカトリック教徒やユダヤ教徒、南はヨルダン、エジプトでアラブ系住民(ファーテイマ朝イスマイリ派)、東はイラクのモスルやバクダットでアラブ系住民(スンニー派アッバース朝)や中央アジアのトルクマン族(スンニー派セルジューク朝)、更にシーア派、ゾロアスター教のペルシャ人(アーリア系)などに囲まれた特殊な環境であった。その結果シリアには極めて多くの宗教が混在して、お互いに影響し合って新しい宗教が誕生した。
 その中で教義やコーランの解釈でイスマイリ派に近いアラヴィー派、ドウルーズ派が生まれた。
ドウルーズ派とはイスマイリ派のファーテイマ朝第六代カリフ ハーキムを神格化し、受肉した神とみなすという極端な宗派になってイスマイリ派から分派した。1021年頃ハーキムが失踪(実際は死亡)するとエジプトのイスマイリ派の弾圧をうけてシリアの山岳部に逃げ込み、そこで布教の場を見出したとされる。最大の特徴はハーキムの初代イマームで宣教師ハムザ・イブン・アリーが「復活の日」に救世主(マフデイー)として再臨して苦悩する民衆を救済すると説いた。アラヴィー派はイスマイリ派やキリスト教にシリア地方の土着宗教が混合したと考えられる独特の教義を持つという。女性には魂はないとされるため、教義は男性のみのサークル内の秘伝とされ、イスラム教神秘主義宗派の色彩が強いという。現在シリアのアラウィー派は人口の1割強にすぎないが、シリア大統領ハーフィズ・アル・アサド、父バッシャール・アル・アサド父子をはじめとしてバース党や軍部の有力者を数多く輩出している。
 現在でもイランがシリアを援護してイスラムISやスンニー派反政府軍と戦っているのはこの宗教的な背景がある。
 そしてハサンはこれらの人々を熱心に宣教すれば改宗させる可能性が高いので,これらの地域は有望な信徒の補給源と見なしていたのだろう。特にハマー市からホムス市に至る西側山岳地帯のジャバル バーラやアレッポから約50km南下したサルミーン(現在Saraqib)とシャイザル(現在シャイフーン)の中間の西側山岳地帯ジャバル スンマーク(地図6参照)に定住するドウルーズ教徒、過激な思想に共鳴して分派したアラヴィー派(ヌサイル派とも呼ぶ)教徒などが対象とされた。
 このような現地の詳しい情報は先述したようにハサンのエジプト巡礼の旅で入手した情報が決め手になったと思われる。このようなハサンの周到な戦略に基づいて初代首席宣教師アル・ムナッジムはアレッポに赴任を決めたのだろう。この作戦が図星だったことは次の歴史展開が証明している。
 この1096年頃のアレッポの政治社会情勢はシリア セルジューク朝君主のトゥトゥシュの死亡後即位した息子リドワーンが若くて政治経験がなかったので,父の時代の執行代理人(アタベク)のジャナード ウッダウラが一時期執政を行っていた。先にも触れたようにアレッポとダマスカスがお互いに反目して、執政の基本的な政治理念が統一されていなかった。更に初期のリドワーン政権は十字軍の出現でアンティオキアとエデッサの西洋人からの慢性的な侵略,東ローマ帝国から現在のトルコのアナトリア地方を奪って建国したルーム セルジューク朝からの侵略などを抱えて,域内の豪族や領主たちはこのような動乱の鎮圧にてこずるリドワーン政権に慢性的な不満を抱いていた為に彼らに対する覇権が効かなくなっていた。その結果アレッポ領内の力のある領主や豪族の自分勝手な行動が横行して地域分裂と群雄割拠に陥った。この典型的な例が政権のアタベクだったジャナード ウッダウラは政治力の安定しない総督リドワーンの足元をみて,離反しアレッポの南方の地方都市ホムスを奪って領主に収まった。またハラフ・イブン・ムラーイブと言う窃盗団の親方はジャバル スンマーク地区にあるアファーミヤ城をリドワーンから奪っている。またスンニー派のリドワーンは独立色を強めた地方の領主への覇権を維持するために,金曜礼拝の説教で最初に神の名と主権者の名前をとなえる(フトバ)時に、本来ならリドワーンのスンニー派アッバース朝カリフの名前をとなえるべきところを多くの領主や市民が属する旧宗主国ファーテイマ朝カリフの名前を使うことを許可した。この決断は総督のスンニー派教徒としての信仰心に大きな疑問を投げかけることになった。当然アレッポに住むスンニー派教徒の反発を招く結果となった。 また当時スルタン後継争いで衰退していたペルシャの大セルジューク朝の政治的な命令は全く無視されていた。また近隣の大セルジューク朝下のモスル国(イラク領)やアナトリアのルーム セルジューク朝,兄弟が互いに反目するダマスカスのシリア セルジューク朝など各王朝の執政の基本的な政治理念が統一されていなかった。王朝同士が互いに反目して孤立していたので,政権運営に必要な人材,財力,戦力不足が甚だしかったので,リドワーンは領内で役に立つものは相手の素性を十分検証しないで,政権内に取り込む事を余儀なくされた。 
このようなリドワーンの政治姿勢が宗教的にはスンニー派に敵対的なニザリ派教団も政権内に受け入れた。その理由は教団の持つ手練手管な軍事力即ち敵の権力者をピンポイントで暗殺するという戦術は十字軍,ビザンチン帝国軍など巨大の軍事力国家に対する破壊力として,戦力不足のリドワーン政権には窮余の一策として貴重な存在だった。その結果宣教師アル・ムナッジムはリドワーンの側近の処遇を受けていた。
 そして彼らに宣教活動を容認し,土地,建物を提供して保護した。
 このように初代ニザリ教団の首席伝道師の滑り出しは予想外の幸運に恵まれていた。
シリア人の年代記者によるとシリアで最初の教団の仕事は彼らがアレッポに移住してから7年目の1103年5月に起こったある暗殺事件である。それはホムスの領主で昔リドワーンのアタベクだったジャナード ウッダウラがホムスの大モスクの金曜礼拝に出席していたが、神秘主義イスラム教スーフィー教団の僧を装った数人のペルシャ人たちが彼らの中の長老の合図によって、突然一斉にウッダウラに短剣で襲い掛かり殺害した。この乱闘でウッダウラの他に数人の将校が巻き添えになり殺害された。襲撃したペルシャ人はすぐその場で捕えられて殺された。これはシリアにおけるペルシャのニザリ教団の最初の暗殺事件で,しかも神聖な寺院での祈りの場面で起こった凄惨な事件だったので、このニュースは十字軍,ビザンチン帝国,エルサレム巡礼者などを経由してヨーロッパにセンセーショナルな話題して伝わった。
 ウッダウラはリドワーンの裏切り者だったので、この暗殺はリドワーンが側近の伝道師ムナッジムに命令したと年代記者は認識していた。
この医者にして占い師アル・ハーキム・アル・ムナッジムはこの事件の2,3週間後に死亡した。
そして次の首席伝道師を引き継いだのがペルシャ人の金細工師アブ・ターヒル・アル・サーイグであった。

シリア二代目首席伝道師(1103-1113)アブ・ターヒル・サーイグの歴史
 アブ・ターヒルも引き続きリドワーンからムナッジムと同様にアレッポでの活動の自由と支援を受けていた。この様なリドワーン政権との良好な同盟関係で教団の運営も軌道に乗ってきた。
アブ・ターヒルは徐々にハサンから命じられていたニザリ派教団の自治領国家建設の第一歩として地方住民のニザリ教への改宗活動をする基地として要塞の獲得に向けて積極的な活動を開始した。
アブ・ターヒルの要塞獲得の進め方はペルシャでハサンが採用していたペルシャ方式を踏襲した。
それは次の三つである。
1. 住民の宗派がシーア派かその関連した分派即ちイスマイリ派,ニザリ派,ムスタアリー派などである事。
2. 都市から遠く離れて古い伝統的な生活習慣が残り、セルジューク朝に不満を抱く人々の地域。
3. 容易に近づけない急峻な要塞の存在。
 この三条件を満たす最適な地域としてアレッポの選定に役立てた教祖ハサンの現地情報を手がかりにジャバル スンマーク及びジャバル バーラ(地図6参照)と呼ばれるアンサリーヤ山脈、レバノン山脈の山岳地帯に狙いを定めていた。山脈の平均幅は32km平均の高さは1200m少し超える程度。最高の山がラタキアの東寄りのナビ ユニス岳1562mである。
 この山脈には昔からイスマイリ派から分派したドウルーズ派教徒やアラヴィー派(ヌサイルとも呼ぶ)教徒が多数定住していたので,全ての項目の条件を満たすところであった。
 ここからの歴史的な経緯をバーナード ルイス著“暗殺教団”から要点を取捨選択して筆者が補足して記載する『アブ・ターヒルが最初に狙ったのはアファーミヤ城(地図6参照)だった。この城はジャバル スンマークの地域にあって,城主ハラフ・イブン・ムラーイブというムスタアリー派教徒がリドワーンから1096年ごろに奪い取った城だった。そして彼はこの城を拠点にして周辺の領域で強盗、略奪を働いていた。
 従ってアブ・ターヒルがリドワーンにこの城の奪還を相談したら当然快諾を得たことは容易に推察される。この計画を進めるに当ってアブ・ターヒルに若干追い風が吹いたのは城主ムラーイブのムスタアリー派とターヒルのニザリ派は宗教的にイスマイリ派を起源とする兄弟宗派で,お互いに気脈の通じ合う関係だった。それは1095年ファーテイマ朝のイマーム継承問題でイスマイリ派がニザリ派とムスタアリー派に分派したからである。
 そして1106年にアブ・ターヒルは城主ムラーイブを殺害して城を奪う計画で,最初にアファーミヤ周辺に住んでいるニザリ派コミニテイ出身の判事であり地域の指導者でもあったアブル・ファトフという人物に計画を密かに内通して了承を取り、計画追行の協力を確約した。そしてアブ・ターヒルは6人の刺客をアレッポから計画実行のためにアファーミヤへ派遣した。彼等はその道中でフランク人(中東地域で定住している西洋人)から馬、馬装備品、槍と甲鎧などを手に入れてアファーミアに現れた。
 そしてムラーイブに次のように伝えた。
 「我々はあなたに仕えるためにやってきた。フランク人騎士から馬と馬具装備品、並びに槍、甲冑などを入手して持参した。」ムラーイブは彼らを手厚くもてなして、アファーミア城の城壁に接する一軒の家に住まわせた。さっそく彼らはその城壁に穴を開けて城で仕えていたニザリ派教徒がその穴から入ってきて、刺客と密談を始めた。そして彼らは1106年2月3日にムラーイブを殺害してアファーミア城を奪ったのである。しかもその直後に親方アブー・ターヒルが自ら城や街を管理するためにアレッポからやって来た。
 しかしこの状況を初め静観していたアンテオキア公国の摂政タンクレデイは従来ニザリから貢物を徴収するだけで町、城の領有には不干渉であったが、今回は同年9月に突然軍隊を派遣して、ニザリの城や町を閉鎖するという異例な対応に出た。これまでもニザリは十字軍のホスピタル騎士団やテンプル騎士団には煮え湯を飲まされてきたので、年貢を支払って戦闘を避けてきた。その理由は刺客を送って騎士団の将軍、司令官を暗殺しても、直ちに別の適切な人物がそれにとってかわるので、一向に効果がないことを知らされた。刺客を無駄に失いたくないので騎士団には逆らわないとニザリは決めていた。それで今回もニザリは黙って引き下がるしかなかった。おまけに先の地元判事で協力者だったアブル・ファトフとニザリの密約をタンクレデイは察知していたらしい、ニザリを抑え込むために判事の兄弟の一人を捕虜にして、親方アブー・ターヒルの前に現れた。
 判事もアブー・ターヒルとその仲間たちも捕虜になったが、判事だけは拷問を受けて殺害され、アブー・ターヒルとその仲間は身代金を払ってアレッポに戻ることが許された。』
 ニザリ派教団の最終的な政治目的が奪える強固な要塞を見つけては、それを奪い取って,そこに住む民衆を改宗させて領民とする自治領国家の建設である。従って要塞獲得の際に遭遇する十字軍のような強力な軍隊とは事を荒立たせず優柔不断で臨機応変な政治姿勢が必要不可欠なことであった。
 タンクレデイがなぜこの城をニザリに占拠されることを拒否したのか,それはリドワーンが1096年に総督に就任して4年後の1100年にタンクレデイはリドワーン政権に挑戦してアレッポ領の西側を占領した。1104年に今度はリドワーンが勢力を回復したので,タンクレデイに挑戦して奪われた領土を取り戻した。このようにリドワーンのアレッポ領域とタンクレデイのアンテオキア公国との国境周辺は戦略的にナーバスな地帯であった。
 1102年にイスラム領トリポリが攻撃を受ける。相手はトールーズ伯レーモンド4世でシリアに到着した時は数百騎だったが、これに対してトリポリのイスラム領主がシリア セルジューク朝ダマスカス君主ドウカークに援軍を要請して参戦した彼の援軍とトリポリ軍の数でははるかに優っていたが十字軍を見ただけで退却してしまった。こうして十字軍の強力な拠点となったトリポリ郊外のモンペルラン城が十字軍の将軍レイモン ド サン ジェルによって奪われた。1103年以降イスラム領主は食料の経路を遮断して対抗して1105年にレイモンと休戦の条約を結ぶがすぐ破棄された。
 そして同年イスラム領主は十字軍の攻撃を受けて援軍要請を受けたリドワーンは軍隊を送って協力したが、最終的には1109年サン ジェルの息子ベルトラン サン ジェルがトリポリを再度奪取してトリポリ伯国の君主になった。
 この事件の前後に起こされたアレッポ政権と十字軍の係争歴は、1104年にリドワーンがタンクレデイから奪い返したオロンテス川以東の領土を再び1105年タンクレデイに奪われ,さらにアルタの戦いでリドワーンの軍隊を破り、アレッポ市にも危機が迫ってきた。また1108年地方領主ムンキズ家が支配するシリア中部のシャイザル城がアンティオキア公国とトリポリ領域の中間に位置しタンクレデイは度々城を包囲したので,シャイザル城(地図6参照)城主ムンキズは1111年に救援をバグダッド大セルジューク朝に要請した。 
 一方同年タンクレデイが再びアレッポ領に侵攻して致命的な領土割譲を余儀なくされて,リドワーンは戦意を失っていた。
 この時リドワーンのアレッポ政権の閣僚イブン・アル・カシャシャブがリドワーンの了解を取らずにアッバース朝カリフに援軍要請のためにバグダッドに向かった。 アッバース朝カリフは閣僚の要請を受けて,十字軍との戦闘を支援するという目的で1111年大セルジューク朝のモスル市に駐屯していた将軍マウドウードの軍隊をアレッポへ差し向けた。ところが将軍マウドウードの軍隊がアレッポに到着した時リドワーンは町の門を閉じて、反抗の意思を表明した。この援軍の派遣は表向きシリアのイスラム教徒を応援するという名目で、実はシリア領を大セルジュークの支配下に置こうとする策略が隠されているとリドワーンは勘ぐった。しかしちょうどこの時シャイザル城の城主の援軍要請を知った将軍マウドウードは急遽アレッポからシャイザルに向かった。この将軍の率いる軍団のスケールを察知したタンクレデイはエルサレム王国やトリポリ伯国、エデッサ伯国に支援を要請し、両者はシャイザルで戦った。戦いは両者引き分けに終わり、補給を断たれた十字軍国家側は撤退し、セルジューク朝側も一つも町を取り戻さないままモスルへ退却した。その後もタンクレデイはシャイザルの近くに城を建て、監視を行わせた。ここでもタンクレデイがシャイザル城の占拠に固執する理由はアファーミア城と同じで,シャイザル城もアレッポ領域とアンテオキア公国との国境に横たわる国境防衛の要に当たるからだろう。1112年タンクレデイは腸チフスの流行で没した。
 リドワーンは彼の死を聞いて将軍マウドウードの戦力は不要になったと思ったのか,それともこの将軍が率いる軍団がよほどアレッポ政権維持の脅威に映ったのだろう。自分の戦力はタンクレデイとの戦いで疲労困憊,この将軍と戦う余裕がないと判断しリドワーンは戦力不要のニザリ教団の必殺の術に頼ることを決断した。そして1113年に将軍マウドウードの暗殺という二度目の命令が出されて,ニザリ教団は首尾よく将軍をダマスカスで暗殺することに成功した。そしてこの年の12月10日リドワーンも死亡した。
 この事件の成功はニザリをシリア セルジュークの力強い同盟者として認めさせたが、リドワーンの死亡から状況が徐々に暗転に向かった。
 1103年のホムスの金曜礼拝でのウッダウラ暗殺事件、1111年にペルシャからやって来た反ニザリ派を公言した資産家の暗殺未遂事件、今回の将軍暗殺事件とアレッポの民衆にとってニザリの行動は陰険で不安を煽る危険な集団であると見なされていた。
 リドワーンの後を継いだ10代の息子、アルプ・アルスランに引き継がれた。しかしアルプ アルスランは政治経験がなく,閣僚イブン・アル・カシャシャブと二頭立てで摂政が継承された。ところがこの新君主は情緒不安定で、気性が激しく理性的な判断が出来ない人物だった。最初は父の政策を踏襲して、ニザリの要望に応えてバグダード街道沿いの城を譲り渡すなどリドヴァーンと同様にニザリの言いなりになっていた。ところがペルシャの大セルジュークのスルタン ムハンマド タパルからの一通の書簡が状況を一変させた。
 その内容はニザリ派が極めて狡猾な手段を駆使する極悪非道な集団であると警告し、ただちに撲滅するように勧告状だった。それを受けてアルプ アルスランは法治官アル ハシャーブや将軍ルウルウに命じてニザリ派教徒が十字軍と密通しているという理由で粛清を命じた。その結果ニザリのダーイー アブー・ターヒル及び前ダーイー医者にして占い師の兄弟、およびアレッポのニザリ派の指導者たちを殺害した。その他にも投獄したり、財産を没収されて200人ほどが逮捕されたり釈放されて、国中に四散した。
 アルスランは更にニザリ派に好意的だったリドワーン時代の官僚までも粛清が始まり、最後には自分の気にいらない者をすべて処刑し始めた。ルウルウは翌年この狂人を就眠中に暗殺して廃位し、弟のスルタンシャーが即位するが幼少で、1117年ルウルウが暗殺されるとアレッポは大混乱に陥った。法治者ハシャーブは急遽後継者を探してエルサレム総監アルトウクの息子で現在のトルコ領の町マルデインの総督をしていたイル ガーズイーを選んでアレッポに招きリドワーンの娘と結ばれてアルトウク朝がアレッポの政権を引き継いだ。この時点でシリア セルジューク朝アレッポ政権は消滅した。アルトウク朝君主イル ガーズイーはアレッポとトルコ領マルデインを統治していたが、1122年に没すると引き継いだのはイル・ガーズィーの甥ヌールッダウラ・バラクであった。ところが1124年にはオデッサ国王伯ジョスランと戦って負傷した後亡くなった。同年その後を引継いだイル ガーズイーの息子ティムルタシュは十字軍と同盟してアレッポに迫る旧シリア・セルジューク朝アレッポの君主スルターン・シャーを避けてアレッポを見捨ててマルデインに引き上げてしまった。法治官アル・ハシャーブは再び後継者探しに没頭して、今度は現在のイラク北部モスルの総督アル・ブルスキを連れて来てアレッポをモスルに併合して統治させた。

シリア三代目 首席伝道師(1113-1128)バフラームの歴史
 アブー・ターヒルの後継者に座ったのがバフラームである。
バフラームの経歴は前任者と同じくペルシャ人であった。1101年にバグダードで処刑されたアル・アサダバーデイーの甥である。アル・アサダバーデイーという人物は1092年に就任したペルシャの大セルジューク朝スルタン バルキヤールクに仕えていた優れたニザリ派信徒で官僚であったが、公務のためにバグダードへ派遣されていた。このスルタンの時代は前スルタン マリクシャーの異母兄弟で後にスルタンになるムハンマド タパルとの内紛で混乱していたために、教祖ハサン サバーフが指導するニザリ派教徒はタキーヤの原理によって(即ち自分の信仰を隠匿して相手の信徒を装って)敵対陣営に深く侵入して、公務、事務、兵役などに仕えて、敵の情報や戦略を盗み取り、暗殺決行には刺客の手助けをするというスパイ集団が大手を振って大セルジューク内を闊歩していた。従ってアル・アサダバーデイーもそのようなスパイの一人であった。1100年にバルキヤールクはムハンマド タパルに勝って一年後の1101年ようやく陣内のスパイのニザリ派教徒を追放した。
 バルキヤールクはニザリ派教徒の逮捕殺害の命令をイラクの陣営にも発令したので、バグダードに派遣されていたアル・アサダバーデイーは拘留された後殺された。看守たちがこの男を殺しに来たとき、彼らに向かって言い放った『いいだろう 今僕を殺すことは。だがお城(アラムート)にいる人々も殺せると思っているのかい?』と。
 このような叔父の血統を引継いだのがバフラームである。
1111年頃のペルシャ、イラクでのニザリ派の環境はニザリ派に少し甘かったバルキヤールク(1094-1105)から敵対姿勢を鮮明にしたムハンマド タパル(1105-1118)の時代を迎えていた。
 バフラームはペルシャからシリアへの旅に当たり、日頃の暮らしぶりも気が滅入るほど控えめな生活に徹した。そのために誰からもその正体を気づかれることなく、町から町へ、城から城へと旅することが出来た。
 シリアのアレッポに入ったバフラームは1113年に殺害された首席伝道師ターヒルの後継者となった。
 バフラームが引き継いだニザリの状況はどうであったのか?先述したアレッポでニザリの受けた粛清は致命的な痛手を被った。君主アルプ・アルスランの悪政と暗殺、1117年幼少の後継者で将軍ルウルウの暗殺でシリア セルジューク朝アレッポ政権消滅後、バフラームは招聘されたアルトウク朝政権君主イル・ガーズイーと何だかの同盟を結んで彼と友好関係を築いた経緯があったらしい。ニザリ派の活動拠点をアレッポから南部に移す過程で最後にダマスカスに拠点を構えて、新たな活動に関与する役割を担うようになった。
 が、実は意外にもアブー・ターヒルが派遣したニザリ派伝道師の布教活動が地方で効果を現して、特にジャバル アル スンマーク山岳とジャイザル町のウライム族の土地即ちジャイザルとサルミーン(地図6参照)の中間に位置する戦略上重要な地域のドウルーズ教徒やアラヴィー派教徒からのニザリ派への改宗者を多数獲得することに成功していた。
 それを証明する事件が起こった。それは1114年春にはアファーミヤ、サルミーンの地域から集まった約100名のニザリ派教徒からなる一部隊が前出の城主ムンキズのシャイザル城をキリスト教の復活祭見物で留守になっている隙に奪った。しかし部隊の戦力不足で,彼らの反撃で城は簡単に明け渡して追い出されしまった。
 1124年にはアレッポのイル ガーズイーの後継者ブルスキと法治官ハシャーブはアレッポに在住していたニザリの首席伝道師バフラーム(ダマスカス在住)の代理人を逮捕して、ニザリ派信徒たちを町から追放したので、彼等は自分の財産を売り払って立ち去るという事件が起こった。
 一方1113年バフラームが就任したダマスカスはどうであったか。シリア セルジューク朝君主ドウカークが1104年に既に死亡していたので、1歳の息子やドウガークの弟を立てて、ドウカーク時代から執務に携わっていたアタベク(後見人)のトゥグテギンが執政を担っていた。しかし息子は幼児だし、弟はトゥグテギンの権勢を恐れてバグダッドへ逃亡したので、この時点でシリア セルジューク朝ダマスカス政権は消滅した。そしてトゥグテギンはブーリー朝を建国して、ダマスカス政権を確立した。
 バフラームとトゥグテギンとの関係の資料は見当たらないが1119年7月28日イル・ガーズイーとトゥグテギンは同盟を結んで、アンティオキア公国十字軍とサルマダの平野で会戦して大勝利を収めた。この会戦にニザリが参戦したという記録はないのだが、1120年頃からバフラームはイル・ガーズイーと対十字軍との関係で同盟を結んでいた形跡がある。
 この様な状況の中で、最初にニザリ教団がダマスカスで関与した事件がつぎのようなものであった。
 バフラームとトゥグテギンの間で1126年1月最初の軍事同盟を結んだという報告が現れた。その内容は勇気と武勇で名高いホムスとその周辺に定住していたニザリ派教徒たちがトゥグテギンの部隊と合流して十字軍に攻撃をしかけたが不成功に終わった。
 バフラームの最初の暗殺事件は1126年11月にイラク北部のモスルの大モスクで起こしたモスルとアレッポ政権の君主アル・ブルスキ暗殺であった。この事件の後に法治官ハシャーブもニザリによって暗殺された。先述したようにイル・ガーズイーがアレッポを去った1120年以降アル・ブルスキが引き継いでハジャーブと共にアレッポとモスルの政権を担っていた。この暗殺事件の背景は1113年にシリア セルジューク朝アレッポ政権がニザリ派に対して行われた大規模な粛清と1124年のアル・ブルスキとハジャーブの行ったニザリ派のアレッポ代理人の逮捕、そしてその教徒の追放事件に対する報復であると年代記者はみなしていた。しかしダマスカスのブーリー朝君主トゥグテギンがアレッポやモスルを支配下に治めたいという下心があったとしたら、彼の暗殺要請が考えられる。
 今回の事件はバーナード ルイス著“暗殺教団”から『八人の刺客が苦行僧に変装してモスルの大モスクで礼拝中のブルスキに襲い掛かり短刀で刺し殺した。刺客の数人はシリア人であった。
 この事件に関して次のような話が歴史家によって伝えられている。この刺客8人の中で、たった一人だけ傷もつかずに逃れたアレッポの北方、アザース地方出身の青年がいた。彼には年老いた母がいたが、彼女はブルスキ殺害に成功して、彼を襲った人々はすべて殺されたことを聞いたとき、息子が彼等の一員であったことに誇りを感じて、自分の瞼にコール墨を塗って歓喜に浸っていた。ところが2,3日後に息子が無事戻って来たことを知って、彼女は悲嘆にくれて、髪をかきむしり表情がすっかりやつれて生気を失った。』
 この老婆の殉教に対する受け止め方は1980年代のイランでも同じ現象が見られた。イラン送電線建設プロジェクトで雇用されていた技術者が1979年のイラン-イラク戦争に志願して出兵した時に、この戦いはイラン国民にとってジハード(聖戦)と捉えていた。従って聖戦で命を落とすことは名誉なことで、落命を一切恐れるものではないと語っていたことを鮮明に思い出される。また新聞紙上に毎日のように戦死した兵士の告示と葬儀の内容は殉教の死を偉大な英雄の死として崇められ深い尊崇の念で葬られた。
 また無事に帰還しても時代背景が違うので、この老婆ほど極端な心情にはないらないようだった。
 当時のイラン国民は日本の映画”おしん”と”特攻隊”の話に強い関心を抱いていた。
 イスラム教国の中でも特に田舎のイラン人はジハードという旗を掲げて戦う時は教徒の信心深さ、気性が真面目で一本気、単刀直入な行動に突っ走る傾向があり、その気になると非常に怖い。
 1126年という年はニザリにとって非常に忙しかった。1月のトゥグテギンとの軍事同盟で、十字軍との戦い、11月のモスルのブルスキ、ハジャーブ暗殺事件、そして最後にトゥグテギンとの十字軍との参戦による報償交渉であった。この時バフラームは1118年頃アレッポの君主になったイル・ガーズイーの推薦状(1122年にガーズイーは没しているので、後継者イル・ガーズィーの甥ヌールッダウラ・バラクの推薦状だろう)を持ってトゥグテギンの宮廷に現れた。そこで彼はトゥグテギンから申し分のない待遇で迎えられて、公的な保護のもとに権力ある地位を与えられた。そしてニザリ派のいつもの戦術通り、一つの城を要求した。それに対してトゥグテギンはエルサレムのラテン王国の近くにあるバニヤース城(地図6参照)を譲り渡した。これだけではなく、ダマスカス市内にも宮殿とか伝道館などと言われた建物を与えられ、そこを彼らの本部として役立てた。トゥグテギンがニザリと同盟を結んで不成功に終わった十字軍との戦いの報償に対して,これほどのものを与えたことにシリアの年代記者は違和感を感じていた。それには何か裏があると感じたのだろう。トゥグテギンはもともとニザリ派には否定的な態度であったからなおさらだ。
 しかし1117年以降でバフラームがアレッポの君主イル ガーズイーと何だかの結託の経緯があったのではないか、更に今回彼にとって敵対関係にあったモスルとアレッポのブルスキを暗殺してくれたニザリを悪からず思っていた可能性があり、この推薦状を書かせた事をトゥグテギンは重視したのだろう。
 望外な報償への圧力になった可能性がある。先述したイル・ガーズィーとトゥグテギンは1119年に軍事同盟して、アンティオキア公国十字軍とサルマダの平野で会戦、大勝利を収めたことは前にも述べたが,トゥグテギンにとってその時の戦友の推薦状は内容がどうあれ、重視せざるを得なかったのだろう。トゥグテギンの宰相アル マズダガーニーはニザリ派教徒ではないにもかかわらず、彼らの要望に積極的に応じて、いささか過分な報償をニザリ派に譲り渡した。これは明らかに宰相がトゥグテギンの指示に従ったのか、それともニザリ派と共謀した結果なのか、年代記者は後者とみなして、宰相は君主の背後で裏切り行為をする人物だと伝えている。
 バニヤース城は地中海に突き出た港湾に囲まれた山稜にあり、海岸からの攻撃は不可能に近いが、内陸側からの攻撃に対処するための防御強化をはかったのだろう。本拠地マスヤーフ城、カドムース城、ホムス市など重要なニザリの戦略拠点が港町バニヤースまで街道によって結ばれていた。バフラームはバニヤース城を防衛強化のために増改築して、周辺地域への伝道活動、軍事活動に乗り出した。そしてこの城から彼は四方八方に宣教師を派遣して、その地域の住民を改宗させて味方につけた。ニザリ派が勢力を拡張するのに好都合な地盤と見なしていたハスバイヤ地方のワデイ ウダイムにはニザリ派に好都合なドウルーズ派、アラヴィー派、その他ベドウイン族の住民が住んでいた。1128年その地域の首長であったバラク イブン ジャングルという男が何か裏切り行為で逮捕されて殺された。その後首長が不在の隙にバフラームとその軍隊がこの地域を占拠してしまった。ところが殺された首長の兄弟は兄の殺害はバフラームだったと疑われて、彼らは復讐を誓って、その領地を占拠したニザリに攻撃を仕掛けた。この相手が意外に強くて、ついにニザリは敗北してバフラームは戦死した。
 このようにシリアにおける1095年から1128年までの三代にわたる首席伝道師のニザリ教団活動は続いたが、この間ペルシャ ニザリ教団本部との主従関係に特別な変化があったとか言う記録はないが、バフラーム死亡の4年前の1124年に教祖ハサンは病没したことはシリアにも即刻連絡された。またハサンと宣教師との詳細な政治戦略や宗教上の伝令交信の記録は残されていない。
 何れにしてもシリアの自治領国家への足がかりも見出せない状態が続いた。
ここからハサンの死期が近づいたのでペルシャに戻ることにする。

6.教祖ハサンのシリア宣教師派遣後の執政史

領有地拡張と防衛体制の確立

 教祖ハサンはシリアへ宣教師を派遣した1095年以降、セルジューク朝に対する防衛体制を強固にするためにはダイラム地方の勢力拡大が必須条件と睨んだ。この辺のハサンの心情を歴史家ジョヴァイニは次のように述べている。
『ハサンはアラムートに隣接する地域あるいは近傍を奪う為にあらゆる努力をした。可能なところでは巧みな宣伝によって人々を味方に引き入れ、一方では甘言にも動じないような土地には虐殺、強奪、略奪、流血、戦争という手段を使って手に入れた。彼は取り得るだけの城を取り、適した岩を見つけてはその上に城を建てた。
 ハサンは最初ラミアサール城に隣接した村(現在はラズミアン地図5)に住むラミアサールの領主に度々譲ることを交渉したが、ことごとく拒否されたと伝えている。
やむなく彼は教団の次の後継者と目されたブズルグ ウミードの下で結成された小さな軍隊をこの村に送ることを命じた。
 この軍隊は1102年9月10日の夜にひそかに岩に登った。そして住民を皆殺しにした。
 そしてブズルグ ウミードはハサンが病気になって1124年に没する時に後継者に指名されるまでの約22年間をこの城で居住した。』
 ブズルグ ウミードは城を略奪した後、その内部を整備拡張して要塞をさらに強固にした。その中の大きな事業が水源の確保であった。この件は城の紹介で詳述する。
 ガズヴィン市内のホテル“イラン”のマネージャー Mr.ノールジーがダイラムのすべてのニザリ教団の城を案内できるという情報があり、2010年10月初めてこの城を案内して貰った。彼の出身地がラズミアンで、そのために町には多くの親戚が住んでいる。だから現地で伝えられているラミアサール城の歴史について、現地に向う車の中で、次のような話を聞かせてくれた。
 『ラミアサール城の土地所有者は隣の州のデーラマンに住んでいた。
デーラマンとは人の名前で、古くはバルカン半島から移住したアーリア人がこの州に住み着き、その中でも最も資産家だったのがデーラマン家であった。
当時教祖ハサンはデーラマンと交渉して、この土地を譲り受けた。』
 一方アラムート城とラミアサール城の陥落と明け渡しに立ち会ったジョヴァイニの話はアラムート城の図書文献に基づいている。さてどちらが正しいのだろうか。


自治領国家の防衛システム
 ハサンが生前実施した自治領国家防衛体制の全体像がどのようなものかは判らないが、現在イラン文化遺産局がアラムート城の調査修復をしている現場に掲示されていた13世紀のダイラム地方の教団地図にホテルマネージャー MR.ノールジーがラミアサール城に行く途中で説明してくれた狼煙塔を記入したのが地図5に示す12世紀防衛用狼煙ネットワーク地図である。
 ダイラム地方の穀倉地帯は北側背後に3000m級エルブールス山脈が東西に横たわり、敵がこれを越えて進入する事は不可能である。(写真L1
一方向の南側にも約700m強の山脈が東西に伸びているために穀倉地帯はこの両山脈に挟まれた幅も狭い谷間で東西に伸びた平坦な盆地である。従って敵が侵攻するルートは三通りあり、一つがガズヴィン市側から700mの山脈を越えて穀倉地帯に降りてくる。ところがこのルートはエルブールス山脈北側裾野に立つ教団の城にとって穀倉地帯が眼下に広がり、向かい側の砂漠地帯で樹木が全くない700m山脈での敵の動静は手に取るように把握できる。その為にハサンは東から西へ流れるアラムート川、タラガン川が合流してシャー川になるこれらの川の北側即ちエルブールス山脈背後の急峻な山岳に多くの城を築いた。
残り二つのルート即ち東西方向からシャー川に沿って侵入する通路を如何に遮断するかであった。
 東側防衛にはこの図にはないが序文でも述べたとおり、タラガン川上流の古河電工の工事現場事務所を設営したジョエスタン村の近くのパラチャン村にアフマド ラーシェ城、更にもっと東のタラガン川の源でカンダヴァントンネルの下の同じく工事現場事務所のあったギャタデイ村には最東端ドホタール城があった。西側防衛にはこの穀倉地帯の西端にラミアサール城があり、更にこの城の西側は先述したように919年にムハマド・ビン・ムサフィールが創建したサラリード朝の支配地域でタロム地方である。ムサフィールはタロム地方のセフィード川(源流はシャー川)周辺の急峻な山岳地帯に堅牢なシャミラン城(地図2参照)を築いて、ここを政権のヘッドコーターにした。しかしサラリード朝は1062年に崩壊したので、ハサンが1090年にシャミラン城を獲得した時はほとんど無抵抗だった。西方のラミアサール城とシャミラン間の通路はシャー川両岸だが急峻な山稜に挟まれて川を移動するしか道はない。結局一番敵の侵入を警戒しなければならないのは東側であった。それで侵攻する敵を素早く察知する為に要所要所に狼煙伝達の小城や監視塔を建てた。これが地図5で示した狼煙防衛ネットワークである。尚シャミラン城は1962年にセフィード川(源流はシャー川)を堰き止めたダムが建設されてマンジル湖の湖畔にこの城は立っている。その他にも有名な城としてイスファハーン近郊にあるシャーデイズ城、クーヒスターン州のカイン城があった。
最盛期にはシリア、ペルシャ、トルクメニスタンなどに約300以上のニザリ教団の城があったといわれている。

教祖ハサンの死去と権力移譲
 教祖ハサンは1124年始め病気で死期の予感したのか教主の権限移譲へ進んだ。
 教祖から後継者として指名を受けた二代目教主ブズルグ ウミードへの権力移譲について、ジョヴァイニは次のように述べている。『1124年5月にハサンは病に侵された。かれはラミアサール城へ人を送って、後継者として、その城主ブズルグ ウミードを指名したことを告げた。彼の右にアルヂスタンのデイーダール アブ アリーを特に宣伝活動のために座らせた、またハサン アダム ハスラニを左に座らせて、正面には軍の司令官キーヤ アブ ジャファールを座らせて、各々戦闘担当とアドバイザーに指名した。ハサンはこの四人にイマームがニザリ教団の王朝として権力を保持する時が来るまで、(この時代はイマーム不在)協調して執政を行うように義務付けた。1124年5月23日 彼は神の火と獄へと急ぎ去っていった。』
 二代目教主ブズルグ ウミードは国家管理運営をラミアサール城から執行した。

7.教団の歴代教主の執政

ペルシャ二代目教主ブズルグ ウミード(1124-1138)の執政史

(キヤー ブズルグ ウミード)
統治期間:1124-1138 統治年数:14 居住城:ラミアサール城 聖職位:教主(イマームの伝達者)
 ブズルグ ウミードと三人の閣僚の執政はどのようなものであったか。
ジョヴァイニによるとブズルグ ウミードは1102年にラミアサールの城主になった頃からハサンが死亡する1124年の約20年間、ハサンの施策の実践と習慣を経験してきたので、四人の後継者は同じ施策を継承した。
内部的には教主を頂点とする合議制政治はうまく機能していた。しかし徐々にブズルグ ウミードは他の3人を圧倒して、最後には単独の支配権を確立していった。
 一方外部情勢は相変わらずニザリ教団の存亡を危機に曝した宿敵大セルジューク朝の動静に左右された。
 この時代の大スルタンはアフマド サンジャル(1119-1157)であった。サンジャルの就任前のセルジューク家長を宗主とする大セルジューク朝は1094年ごろから大スルタン位継承問題で内部闘争の混乱が続き、一時は二人のスルタンが並存した。その威厳はすっかり失墜して、分割統治していた地方政権のアナトリア、イラク、シリア、ケルマーンの各小セルジューク朝への支配力がなくなっていた。しかしサンジャルが就任すると内部混乱にようやく終止符が打たれて、小セルジューク朝への支配権も取り戻して、本来の大セルジューク朝の権威は回復してきた。
 しかしサンジャルがホーラサン州の小セルジューク朝スルタン時代に教団の暗殺や凶悪な陰謀の実例として紹介した『ハサンがスルタン サンジャルの臣下を買収して、短剣を送り、酒に酔って眠っているスルタンのベッドの床に、その短剣を突き刺した。
 スルタンが目を覚まして短剣を発見すると驚いて調べたが、誰の仕業かつかめず、秘密にするように命じた。
 しばらくしてハサンは次のような伝言を使者に持たせて届けた。“もし私が貴方のために良かれと望まなかったら、床に打ち込まれた短剣は貴方の柔らかな胸に突き刺されていたであろう。この岩壁の頂上(アラムート城)から私は貴方の周辺の人の手を遠隔操作していることを承知あれ”と。』この恐怖に慄いたサンジャルは彼らとの講和を結んだ。
 しかしハサンが死亡して後継者ブズルグ ウミードが就任すると、サンジャルはハサンのカリスマ的で独裁的な権力の終焉とその権力の移行期には政治的不安定と混乱が伴うことを予想して、この際自分達の領土の辺境やスパイの如く自分達の内部に居住する危険なニザリ勢力を、これ以上黙認できないと決意した。
 バーナード ルイス著“暗殺教団”で次の様に伝えている。
 ブズルグ ウミード就任2年後の1126年にサンジャルはこの予想を試すべく、宰相アブー ナースルに攻撃を命じた。最初の攻撃は彼らの自治領だった東部のホーラサン地方のニザリ派の村落に加えられた。その時の宰相の指示は『ニザリ派の居るところに戦争を仕掛け、征服されたところでは彼らを殺し、財産を強奪して、彼らの女は奴隷にする。
 アラビア語の年代記には二つの戦果が報告されている。
一つはニシャプールの近くのバイハク市の近くのタークというニザリ村を征服した。そこでは人々はみんな剣で殺傷されて、リーダーはモスクのミナレットから飛び降り自殺をした。もう一つがトライシス市の襲撃で、多くのニザリを殺傷して、沢山の戦利品を獲得して帰還した。
しかしこれらの戦果はニザリ派の本拠地ダイラム地方ではなかったので、決定的なものではなかった。
ホーラサン地方の攻撃に対するニザリの復讐には時間を要さなかった。
ブズルグ ウミードは翌年いつもの常套手段である秘策、即ち二人の純心無垢で容姿端麗な若者を信心深く忠誠心の溢れた成年と装った二人の刺客を宰相の周辺に送って宰相に接近して信頼を勝ち取った後に雇われた。
宰相がスルタンにペルシャの新年祝いの贈り物として二頭のアラブ馬を選別するよう呼び出された時が彼らのチャンス到来で、1127年3月16日に宰相は暗殺された。
これに対して大スルタン サンジャルは遠征軍をアラムートに送り、一万人以上のニザリの犠牲を出す懲罰的な報復戦となった。
ブズルグ ウミードの暗殺名簿には1131年アリー朝のザイド派イマームを捕らえて処刑した。1135年にはアッバース朝カリフ アル ムスタンシルドの暗殺に関与した、その他にイスファハーンの知事、マラーガの長官、タブリーズの知事、ガズヴィンの知事、同じく治安判事などである。』このようにハサンと比較すると平凡で大物は少ない理由として、ビル ルイス著“暗殺教団”では次のように指摘している。『ブズルグ ウミードはハサンと違って、ダイラム土着の人であり、よそ者ではなかった。ハサンの秘密の煽動者としての経験にあずかっておらず、その活動的な生涯のほとんどを統治者として、管理者として過ごした。彼が地方的な君主としての役割を採用したこと、また彼の摂った執政がそのようなものであると他からも容認されたことは、彼の義理堅い次の逸話によって表れている。それはかってニザリ派の恐るべき敵であったエミール ヤラクシュが、新興勢力のホラズムシャーの権力によって、その地位を追われて、幾人かのニザリ派教徒と共にアラムートに逃亡した事件があった。ホラズムシャーは自分がニザリ派の盟友であったこと、ヤランクシュは貴方たちの敵であったことを主張して、ヤランクシュ一味を引き渡すよう要求した。しかしブズルグ ウミードはそれを拒否して次のように言った。“私は自分の保護下に自らの身を置く者はいかなる者でも敵と見做すことは出来ない”と。このように彼の時代はハサンのような革命的な指導者というより、自分達本来の特徴だった異端性を逆に抑えるような寛大で常識的な治世者だったことがうかがわれる。』
再びジョヴァイニは彼の死に際して、次のような強烈な感想を述べている。
『ブズルグ ウミードは1138年2月9日に至るまで、間違った統治を続けつつ無知な王座に座り続けた。
だがこの日、自分の破滅の踵に踏み潰され、地獄は自分の死体を燃料にして燃え盛った。』
この時代のシリアの動静はバフラームの後を引き継いだ人もまたイラン人であった。
次に二代目ブズルグ ウミードが常駐したラミアサール城を紹介しよう。

ラミアサール城

ラミアサール城の位置とアクセス
 シャー川はアラムート川とタラガン川が合流した地点から西方向(左へ)へ流れている。従ってラミアサールは川下になる。アクセス道路はガズヴィン市から北に向かってラズミアン道とアラムート道が並行して伸びている。(地図5
2011年時点でラズミアン道は一車線の簡易道、アラムート道は対向一車線でアスファルト道である。
ガズヴィン市とダイラム地方の間には東西に走る低い山脈があって、この山脈の峠からシャー川の穀倉地帯が一望できる場所がある。これが2011年秋、シャー川の両岸の水田では収穫が終わって野焚きの煙があがっていた風景が写真L1である。
エルブールス山脈の支脈ハウデガーン山脈の山頂一帯は雪で覆われていた。
 ここからラミアサール城の位置を確認してカメラに収めるまでに、最初の訪問(2009年)で撮ったビデオとGoogleマップで当りをつけて、3度目(2011年)にようやく成功した。シャー川に沿って右へ進むと地図4に示すシャフラック、アラムート城に至る。
 ラミアサール城の脇を通過してハウデガーン山脈に向う道路はデーラマン経由してラシット市から更にカスピ海方面へ繫がる。
1937年にこの穀倉地帯を旅した英国探検家フレア スターク女史は蚊が多くてマラリアの危険があった。綿、米、菜種油、タバコ、大量の果物が栽培されていると語っていた。
 また昔はアラムート城よりラミアサール城の方がガズヴィン市に近いので、村人の生活や文化のレベルは高かった。10世紀初めに好戦的で屈強なダイラム人の歩兵部隊を編成したブアイフ家が建国したブワイフ朝(932-1062)はこのダイラム地方を軍隊の基地としていた。現在のシャフラックを首都にした時代もあったが現在はアラムート川から農業用水を使った小さな村落である。このシャフラックという街は1256年モンゴル帝国が派遣した西方遠征軍団の最初に攻撃したマイムンデイズ城の近くにあり、この城の陥落後、将軍フラグは三日三晩の戦勝祝いの宴会を張ったと伝えられている。(シャフラック村を参照)

城の外観と地形的な特徴
 この城は東西両側を深い渓谷で挟まれた岩塊の上に立っている。東側の渓谷はナイナ川が流れている、西側はラーメ(Lameh)渓谷である。このラーメ渓谷の谷底には川が流れていた形跡がある。
 写真L3は城の西側から見た景観である。手前の深い谷がラーメ渓谷である。光線の影で黒い壁は天然の絶壁で低いところでも最低5m(南門付近)以上あり、そこから谷に向う傾斜は45度以上で谷底に落ちていく。この写真から見ただけで、西からの攻撃は全く不可能だと認識されよう。
ピーター ウイリー著“暗殺教団の城”からの抜粋した敷地図が示すように東側はナイナ川で隣の山と深い谷で分断されて、西側と同じように攻め上がる足場が全く見当たらない。(写真L3参照)このようにこの城の特徴は東西両サイドが深い渓谷で隣の峰から深く切り裂かれていることである。そして地形上接近が許されるのは南と北の極めて狭い隘路だけである。敷地の広さは城の南北長さ457m東西幅183mあり、アラムートよりかなり広いので、城内で収穫された穀物で自給自足出来たと書かれている資料もあるが、現地を見ると員数にもよるが、岩盤で覆われている土地が多くて、畑の広さは限定的だった。
 高低差から計算すると敷地の平均斜度は17度である。しかし城の北端から宮殿あたりは傾斜がかなり緩いが、それ以降貯水槽の手前あたりまでが20度ぐらいである。貯水槽から倉庫群の辺りが急に傾斜が強くなって25度ぐらいある。何故か多分貯水槽が満杯になると次の貯水槽に自動的に流れるように水路で結ばれていること、またナイナ川から城へ導いた水道の標高差から都合の良い位置が城のこの当たりだったからだろう。そこから南門の塔#4までが少し緩くなっている。この塔から南門、そしてナイナ川へ向う斜面は一様に35度強ある。

北門への登坂
 この城もアラムート城と同様にハウデガーン山脈の細い尾根が城と繫がっていて、写真Aに示すように凹凸の多い急斜面の岩塊が横たわっていることは城の高い防衛能力を表している。現在はイラン遺産局が敷設した北門までに全部で4箇所の形鋼製の階段がある。写真Aには三箇所で写真Bの北門に隣接してもう一箇所あり、これを登ると平坦な道が宮殿の脇に導かれる。
 北門周辺の現場には壁や濠、門を警備する塔などの痕跡は全く残っていないので、どの位置にどのような防御が施されていた門なのか判らなかった。
 この北門は城の高いところにあるので、もし敵の侵攻を許してしまうと写真3にあるように平坦で下り斜面の城内は攻撃軍のなすがままになってしまう。
従って城門の構造が注目されるが、イラン遺産局の調査が待たれる。
写真“北門への道”とAの右斜面はいずれもラーメ渓谷に繫がる。

東側の城壁と北門
 写真Bに示すように城と東隣の尾根との間に深い谷があり、そこをナイナ川が流れている。
写真Aの三番目の階段を登って回り込むと写真Bの4番目の階段に突き当たる。この階段の周辺に北門があっただろうと推定している。
ナイナ川の上流領域には村が散在しているが、その中にヴィアールという村がある。東城壁は小石のモルタル固めと天然の断崖であるが、そこからナイナ川に向かって約40度の勾配で落ちていく。

南門
 この門の周辺は創建当時(1100年頃)の遺構が最も多く見られるところである。立っているのがやっとという急傾斜の南門は塔#4と#5に入口があり、そこから数十メートル下をナイナ川が流れている。


南門への進入経路はラズミアン村の外れのナイナ川の谷間を進み、川を横断して城郭に向ってよじ登らなければならない。南門に入るには写真Iの進入路に示すように左に迂回して門の正面に達する。写真Jは門の正面の景観である。門幅は非常に狭くて馬一頭が通れるほどである。
門を潜ると左に曲がって、塔#4に向って登って、城の平坦部に足を踏み入れることが出来る。
ドイツの観光客が足を滑らして滑落し死亡した事故があったが、その箇所は塔#4から門へ降りるところであったとガイドは話していた。ここは翌年友人を案内したが、ガイドが居ないと危険なので降りることを止めた。
 写真Jの塔#4と#5の位置関係、及び地盤の傾斜を見るとこの傾斜の大きさが認識されよう。
塔#4、#5共に直径は約2m強あって、周壁は石をモルタルで固めたものである。
ウイリー調査隊によるとこれらの塔は狼煙による情報活動に使われたとしている。
しかしその他の機能として監視塔や塔頂に敵を迎え撃つ為の機能もあったことはアラムート城の城門の掲示板にあったモンゴル軍を迎え撃つニザリの細密絵の右写真からも推測される。
 1937年この城を訪れた“暗殺教団の谷”の著者フレア スターク女史はこの南門に挑戦する際に次のように述べている。『この城に至る容易な道筋は西側の山腹を通って北側に出て、その背後の山の間の隘路から城に到達するものである(北門)。しかし私たちは道を間違えて、ラズミアンの水田に迷い込んだ。この水田はナイナ川の川口から北方に長く伸びている。その後私たちは城に向って険しい谷を這い登ると、険しくて滑りやすい岩棚にでた。そこはたいした荷物も載せていないラバでも通れないようなので、ラバをそこに残した。私たちの頭上にのしかかるように胸壁が連なっている。私たちは黒い岩の斜面をよじ登った。そしてやっと南門に到着した。南門はラバも登れないし、人も手足を使わないと登れない。』と言っている。
ただし北門へのアクセスも現在の政府が敷設した鉄パイプ階段は1937年にはなかったと想定するとかなり困難な箇所である。ラズミアン側の南門は木材を引き上げて梯子を構築するのは可能であろう。

水路の遺構


 日本の城郭でも同じであるが、城で最も大切なものは水の確保である。そしてこの城の水に関する話はウイリー氏の報告と案内人から聞かされた。
それはラミアサール城を獲得した城主ブズルグ ウミッドは、城の水の確保にナイナ川の水を城内まで水路を掘らせるという当時の技術では相当過酷な工事を多くの村民に強制してやらせたと言われている。
 この水路は一旦北門の尾根に向かって進んだ後、東側城壁に沿って、城壁の内側に敷設(写真E)して、貯水槽へと導水した形跡がある。
 そしてフレア スターク女史はその水をナイナ川の上流のヴィアール村から引いたと言っていた。案内人の指し示す方角を東側城壁から撮った写真がDである。この村と城の海抜は略近いのでパスカルの原理で村の水位は城の貯水池水位と同じで、この間をU字管路、焼き粘土菅で結べば水は確保できるわけである。
 水路の全長はウイリー氏の報告書によると(当時の伝記)約10マイル(約16km)だそうである。
何故城壁に沿って二重の壁(写真E)で水路を敷設したかというと城内の岩盤に一定の傾斜を設けて、かなりの深さに水路を掘削するのは容易ではなかったと考えられる。
写真Dの谷間の緑の部落はナイナ川の川縁である。写真Eが東側城壁である。

貯水槽と貯蔵庫
 貯水施設は多数の掘削された水槽で構成されている。そしてお互いの水槽の間を水路で繋いでおり、一つの水槽が水で満たされると自動的に次の低位置の水槽に流れるようになっている。従って水槽は次第に低位置に向って敷設されている。現在は観光客がその水路の上を歩いている。水路の幅は30cm、深さは土で埋まっていてわからない。水槽の深さは約5m、長さ10から15mほどに達する。
(写真Gを参照)

貯蔵庫も貯水槽の下方に集中して敷設されている。(敷地図参照)

監視塔のアラカルト
 敷地図にある通り、塔#1から#4までは西壁にあり、塔#5,6は南壁、塔#7は東壁沿って建っている。
 イランでは石灰岩がいたるところで露出しており、豊富である。そのために遺構はすべて小石をモルタルで固めている。
右の写真は塔#4の基礎に近いところは細かい石を丁寧に並べているが、上に向うに従って石のサイズが荒く、大きくなっていることが読み取れる。





この中で注目されるのが小閣#3で塔と言うより館のようである。
ロシアの歴史学者イヴァノフ教授はこの絶壁の上に聳える遺構(小閣#3)は重要な要塞で要の建物ではなかったのかと推測している。
ウイリー氏はこれを離宮で小さな天守閣とみなしていた。
いずれの塔の建て位置は誠に険しい断崖絶壁にあることが認識されよう。

宮殿
 敷地図にあるように宮殿は北側の端近くに位置している。ウイリー氏の調査によると、この宮殿の遺構が主要

な本丸だそうである。保存状態が他に比べると少しましである。
一階は石で作られているが、壁は岩石などの破片を石灰で塗り固めた壁で覆われている、土で埋もれた入り口は円形のアーチになっている。内部には二つの部屋がある。左側の部屋は綺麗なアーチ型の天井であり3mの高さ、1.8mの幅、3.6mの長さである。壁厚は1.2m、床はレンガで覆われて、容器の破片が散らばっている。
 写真Hで判るように現在イラン遺産局の小さな隊が発掘している。写真H左上に一人は壁の前で立っている、もう一人は遺跡の上でしゃがんでいる二人は作業者である。彼らは北門の鋼管製階段を敷設、土で埋没した宮殿の敷地の土を排土していた。
 写真Gは宮殿の裏側で写真Hの座っている作業者のあたりから宮殿正面門のある東側沿って長く延びている地下室か倉庫で宮殿の基礎の延長した遺構の一部かもしれない。従ってこの上に更に天守閣のような建物が建っていたのかも知れない。いずれにしても写真Fよりこの裏側の構築物は幅も奥行きも長い、しかも宮殿の背後の一段高い地盤に掘られて、もしここに天守閣が建てられたら、眺望は遥かに素晴らしいので、こちら側が本丸だったのではないかと著者は思っている。 これらの部屋敷地内で拾った陶片が右の写真である。
緑の釉薬を使っているし、ペルシャの伝統陶器ラスター彩のようなものも含まれている。
厚さは3mmから6mmである。断面を見ると土質はキメが細かくて、硬質であり焼き締めが十分行われている。

ペルシャ三代目教主 ムハンマド 一世の執政史
(ヌールデイーン ムハンマド イブン ブズルク ウミード) 
統治期間:1138-1162 統治年数:24 居住城:ラミアサール城 聖職位:教主(イマームの代理人)
 二代目以降の自治領国家の教主はブズルグ ウミードの子孫が代々継承することになった。この頃のニザリ教団暗殺目録には14人の犠牲者が記録されている。最初の犠牲者はアッバース朝のカリフ アル ラシードであった。彼は1138年6月同盟者と合流するためにイラクを離れてペルシャへ向かっていたが、イスファハーンで病に倒れ病院に入院中に殺害された。暗殺者はホーラサン州出身で、カリフに仕えていたニザリの人たちだった。これも教団の典型的な手法、キヤーマの原理でスンニー派教徒に扮して敵の公務に従事し、一旦事を構えるときにはベールを脱いで刺客に変身するという。アル ラシードの父で先代アッバース朝カリフ アル ムスタンシルドもニザリ派二代目教主ブズルグ ウミードによって1135年に暗殺されていた。
 従って二代に渡って、アッバース王朝のカリフはニザリ派の親子によって倒された。
14人の暗殺歴の中には先述した1132年のイラク セルジューク朝スルタン ダーウード(1131−1132)を暗殺も含まれている。
その他セルジュークの最後のスルタン サンジャルの将軍とその同僚各1名、およびホラズムシャー朝(セルジュークと同じスンニー派で現在のトルクメニスタンの支配者)の一王子とマーザンダラン州の知事、ニザリ教徒の殺害を正当化したり煽動したりしたクーヒスターン州とテイフリス州とハマダーン州の法官たちであった。
 この時代の教団戦歴は教祖ハサン時代とは比べ物にならないぐらい大物が少なくなり、地方の地域的な問題関与が多くなってきた。それは大セルジューク朝スルタン サンジャルとニザリがお互いの立場を容認して、事に対して是々非々の外交を行ったことが影響していた。ニザリ派年代記などには隣接する君主などと地域的な抗争で奪い取った牛、ヒツジ、ロバなどの戦利品目録で飾られていた。ダイラム地方とガズヴィン市との間の地域の領主がニザリ自治領領域に侵攻したこともあったが追い返して領土を守った。1143年にはイラク セルジューク朝スルタン マスウードによるアラムート城への攻撃を退けた。その他にカスピ海地方にも新しい要塞を獲得した。その他に新たな国で大関栃ノ心の故郷ジョージアであり、もう一つがアフガニスタンであった。そのころニザリには二人の重要な敵がいた。一人はマーザンダラン州(イランのカスピ海沿岸地帯)の知事とセルジューク朝レイ州(テヘランに近い現在のレイ市周辺)の知事アッバースであった。後者はニザリ派教徒虐殺を組織化してダイラム地方を攻撃した。両者ともニザリ教徒の頭蓋骨で塔を建てたといわれている。
 ところがどういうわけか1146年ごろ知事アッバースがバグダードを訪問中に大セルジューク朝スルタン サンジャルの合図で、イラク 小セルジューク朝 スルタン マスウードによって殺されたとニザリ派年代記作家は伝えている。
 これは同士討ちの話で、事情を詳しく調べると面白い事実が発見されるかもしれない。
彼の首はホーラサンに送られた。このようにサンジャルとニザリ教団とはお互いに都合のよい事には結託して対処する処方箋がサンジャルのホーラサン州の小セルジューク朝スルタン時代から度々取られていた。一方でこの時期にサンジャルはクーヒスタン州(ホーラサンの東南方面)のゲルドクー城、カイン城などがあるニザリ派の中心地域でスンニー派の布教を容認してニザリ派と衝突する政策を執った。アラムート城以外のニザリ教団の支配地域や領地の支配権は父から子へと引き継がれたので、彼らが関わった紛争はしばしば世襲的なものであったことは注目される。

シリア四代目 首席伝道師(1128-1130)アル・アジャミの歴史
 バフラームの死後新たなニザリ派ペルシャ人アル・アジャミが現れて、バニヤーズ城の指揮権を継承してバフラームの政策、活動を継続した。ブーリー朝のトゥグテギンの死後後継者として彼の息子タジ・アル・ムルク・ブーリーによって宰相に留まったアル・マズダガーニーは相変わらずニザリ派への援助を継続していた。
 しかしブーリーはこの宰相とニザリ派教団をダマスカスから排除する好機をうかがっていた。それは丁度1113年にアレッポで起こったニザリ派粛清の事件と全く似たようなニザリ派排斥運動がダマスカスでも巻き起こった。
 それは1129年ニザリ派教団がエルサレム王ボードワイン二世と共謀して、ダマスカス占拠作戦に加わったことがブーリーに察知されて、この占拠作戦は事前に阻止された。しかし同年、ブーリーは再度ダマスカスを攻略しようとするエルサレム王をはじめとする十字軍諸国連合とテンプル騎士団の連合軍と戦ってこれを撃退し、ニザリ派と西洋人による最大の危機を乗り切った。この事件をきっかけにダマスカスのニザリ派の大規模な粛清が行われた。
 ニザリへの粛清の様子をバーナード ルイス著“暗殺者“によると『ここでもそのイニシアチブを発揮したのはニザリ派を日頃から敵視していたアル マズダガーニー宰相の敵の一人で、ダマスカスの長官ハサン・イブヌル スーフイーであった。
この長官と軍事司令官ユーセフ・イブン・フィールーズにハッパを掛けられたブーリーはニザリ派を攻撃する準備をさせた。
そして1129年9月4日に彼らは決行して、まずニザリ派に不自然に好意的で援助をしてきたアル マズダガーニー宰相を接見すると言って呼び出して君主ブーリーの命令で殺され、切り落とされた首は公衆の面前に晒された。この知らせが広まると市民軍や群衆がニザリ派教徒を襲って殺傷して強奪が始まった。翌朝までダマスカスの町や街路からニザリ派教徒は一掃された。ある年代記者はこの暴動で殺されたニザリ派教徒は6,000人とか1万、2万人といった諸説が伝わっている。この後ニザリ派の首席伝道師はバニヤーズ城をこれ以上維持できないと判断して、フランク人(中東に定住する西洋人)に明け渡して、彼はフランク人の領地に逃げ込んだ。
そしてこの主席伝道師アル アジャミは1130年にそこで没した。
この暴動を仕掛けた君主ブーリーとその補佐たちはニザリ教団からの報復を恐れて、甲冑を身につけて周囲を重装備の護衛たちによって取り囲んで、入念な警戒体制を敷いたが、その甲斐もなかった。
 このシリア ニザリ派教団の大混乱ニュースを受け取ったペルシャ ニザリ派自治領国家君主ブズルク ウンミードは報復のために直ちに伝令を携えた幹部をダマスカスに送り込んだ。
 そしてその報復は1131年5月7日トルコ人兵士に変装してブーリーに仕えていた二人のペルシャ人(スパイで潜伏していた)が彼を襲った。彼らの名前はニザリ派教団本拠地アラムート城の図書館に秘蔵されていた暗殺名簿録の中に記録されている。この刺客たちはその場で直ちに護衛によって殺されたが、ブーリーはその傷がもとで翌年死亡した。
この暗殺計画は成功裏に終わったが、これ以降ニザリ派教団はダマスカスでの地位の回復は出来なかった。』

シリア五代目 首席伝道師(1130ー1168)アブ・ムハンマドの歴史
 バーナード ルイス著“暗殺者“によると『この1129年のダマスカスでの大ニザリ粛清後、シリア ニザリ派教団は首席伝道師アル アジャミの後継者アブ・ムハンマドのリーダーシップで、ただちに再組織化された。そしてニザリ派のシリアにおける第三期に当たる次の20年間の活動は都市から離れて、もっぱら要塞基地を獲得することに専念して首尾よく目的は達成された。その舞台は最初の展開されたジャバル スンマークから南西に位置する山岳地帯のジャバル バーラ(現在のジャバル アンサリーヤ)であった。(地図6参照)
ここはアラヴィー派教徒が定住している地域で、彼等はニザリにとって小さいが戦略的に有利な要塞を多く所有していた。十字軍がジャバル バーラに自分たちの足場を構築することに失敗したタイミングに、アブ・ムハンマドはこの地に潜行した。
 そして1132年から33年にかけて、領地アル カーフのモスレム君主は1131年フランク人から取り戻したカドムースの山塞を1132年ニザリに売り渡した。このカドムース城(地図6)はニザリにとって重要な拠点となり、アブ・ムハンマドの居住地で、ここから周辺地域への支配領域を拡大した。それから2年後の1134年頃には領地アル カーフの君主継承を巡る親族間の抗争で、彼の息子は領地が従兄に渡るのを嫌って、領地アル カーフをニザリに売り渡した。また1136年には隣接するカーリバ城のフランク人守備隊を地方のニザリ隊が追い出してしまった。ニザリにとって最も重要な要塞マスヤーフ城(地図6)は1128年にムンギヅ族によって一旦買い取られていたが、この人々によって任命されていた知事からニザリは1140年に再び奪い返していた。
 この城はハマー市の西方40㎞に位置して、ニザリにとって、その規模と戦略的な築城構造から屈指の要塞だった。従ってシリア ニザリ教団の本拠地となって、首席伝道師が常駐するようになった。
 その他のカワビー城、ルサーファ城、マニカ城、ウライカ城という諸城も同じ頃に獲得したようだが、その手段、時期は詳しくは知られていない。』ニザリがマスヤーフ城を獲得して2年後の1142年トリポリ伯国の伯爵がジャバル バーラの南の端にあるカラクの砦(地図6参照)を十字軍のホスピタル騎士団に譲るとしていた。
 ところがニザリは以前から本拠地として占領したいと思っていたので、十字軍の手中に入る前に関与しなければならないという場面で軍の命令が下された。そして1142年から45年頃まで十字軍とニザリはその砦を巡って戦っていた。
 更に両者は1151年にマニカ城を巡っても戦っている。
 1152年にはニザリ教団による十字軍国家トリポリ伯国君主レーモン二世の暗殺事件が起った。この人物がニザリによる最初の西欧人犠牲者であった。事件の経緯はレーモン二世の妻がエルサレム王の娘オデイエルヌであったが,彼女は非常に独立心が強く,一方夫レーモン二世は嫉妬深い性格で,しばしば喧嘩になった。
 それでレーモン二世は彼女を僻地に置いて別居生活を送っていた。
 当時エルサレム王フルク五世に嫁いだオデイエルヌの姉メリサンドが1152年に二人を和解しようと努力した結果レーモン二世と妻オデイエルヌは縁を戻した。しかしメリサンドは妹オデイエルヌをしばらくの間自分と一緒にエルサレムに戻って生活を送るのが妹には一番いいと思ってレーモン二世の同意の上で,姉妹はエルサレムに向かって旅に出た。
そしてレイモンは街のはずれまで,二人の騎士と一緒に姉妹を見送って、トリポリへ戻る途中その城門近くでニザリの刺客によって殺された。
 この暗殺の原因は1142年以降トリポリ伯国領域がザンギー朝のダマスカスやアレッポの軍隊に度々侵されていたので、自国防衛とエルサレムへの巡礼街道の巡礼者保護のためにレーモン二世はホスピタル騎士団の勢力を利用しようと、ホムスから地中海に点在する多くの要塞を彼らに寄付したこと,更にニザリはこれまで十字軍のホスピタル騎士団やテンプル騎士団には煮え湯を飲まされてきたので戦闘を避けるために余儀なくされた長期間の年貢支払い負担に対する報復だと年代記者は指摘している。
 1157年に至ってもニザリと十字軍は平和的な関係ではなかった。シャィザルの町はニザリの領地ではなかったが、この領域には多くのアラヴィー派、ドウルーズ派から改宗したニザリ教徒が定住していたので十字軍の攻撃から守ろうと援軍を送って領主を応援したと言われている。
 この時代のニザリの活動はレーモン2世暗殺以外十字軍との小規模な戦いだけで、地固めに徹していた。外部の世界にはほとんど影響を与えていないので、年代記者の記録には際立った事件は何も残されていない。ただニザリ教団暗殺歴の中で特筆すべき事件は1132年アブ・ムハンマドの命令によって、ペルシャのタブリーツ市で四人の刺客がイラク セルジューク朝スルタン ダーウード(1131−1132)を暗殺した。その暗殺依頼者は何と大セルジューク朝イラク北部モスルを1128年から統治を任された太守ザンギーであった。その理由はダーウードが領土をシリアへ広げていたので、ザンギーはダーウードに交代させられることを恐れたからだ。北西ペルシャのタブリーツでの暗殺がニザリ教団本部に依頼しないでシリアのニザリに依頼したことは奇異に映るが、この事件はセルジューク内部の抗争であり、大セルジュークのお膝もとペルシャのアラムートから出てくるよりも、依頼主の地元シリアのニザリに依頼した方が親密な連絡が取れただろうと判断したからだろうか。
 アブ・ムハンマドがニザリの宣教師として有名になった話は1132年カドムースの山要塞をモスレム君主から買い取ったこと。シリアのニザリで最も大きな功績をもたらした首席宣教師 スィナーンが着任する前のダーイーだったということぐらいだ。その他には1148年にザンギー朝(スンニー派)の君主サラデイン(ヌール・アッディーン)がアレッポにおけるシーア派のモスクの金曜礼拝の中で、これまで使われていたフトバ(教徒に呼びかける説教の初めに神の名と主権者の名前をとなえる)の使用を禁止した。これは明らかにスンニー派以外の異教徒への嫌がらせであり、これは異教徒に対する公然とした宣戦布告と受け止められた。そして1149年ニザリ教団のクルド族指導者アリー.・イブン・ワフラーはアレッポの君主サラデインに一矢報いるためにアンテイオキア公国のラテン王 レーモン・ド・ポワティエと同盟して、西欧人の軍隊に参加しイナブ戦場で戦功を挙げたと伝えられている。しかしポワティエはこの戦いで敗れて戦死している。
 そしてサラデインはオロンテス川以東の領土を奪還した。
 この時期のニザリ教団の暗殺記録は次の二つであった。
一つ目は1128年ワーデイ ウダイム領地の所有権で、この領地の前首長バラク・イブン・ ジャングルが逮捕処刑されたことに対してニザリがやったと誤解されて激怒した彼の弟ダッハーク・イブン・ジャンダルがニザリ派に戦いを仕掛けて善戦し、ニザリ派が敗れて、第三代目首席伝道師バフラームがこの時の傷で没した。
 この報復としてアブ・ムハンマドは1149年ワーデイ ウダイムの首長ダッハーク・イブン・ジャンダルを暗殺した。
二つ目はトリポリ伯国の伯爵レーモン二世の暗殺であった。この時期(1146-1168)のザンギー朝(アレッポ)、ブーリー朝(ダマスカス)とニザリの関係は先に述べたフトバの件でアレッポの君主サラデインと戦った以外、あまり大きな摩擦は起きなかった。
シリアのニザリ教団はアブ・ムハンマドの活躍で1168年までカドムース城、アル カーフ城、カーリバ城、マスヤーフ城、カワビー城、ルサーファ城、マニカ城、ウライカ城などの要塞を獲得して教団の根拠地を建設することに成功した。
 一方ペルシャではブズルク ウンミードが1138年に没したが彼の死の三日前に後継者として指名しておいた三代目教主に息子のムハンマド イブン ブズルグ ウミードによって引き継がれた。

ペルシャ四代目イマーム ハサン二世(1162-1166)の執政史
(ハサン ジクリヒッサラーム)    
統治期間:1162-1166 統治年数:4 居住城:アラムート城 聖職位:復活のイマーム
 ムハンマド一世は1162年に死亡して、その息子ハサン二世に引き継がれた。
この時代の政治環境は先述したように宿敵大セルジューク朝スルタン サンジャルとの長い政治的な駆け引きでお互いの立場認識が深まり優柔不断な関係から先鋭な対立に至らなかったからだった。
 このような政治環境でハサン二世が教主を引き継いだ時は35歳と若かった。
『ハサン二世の宗教改革』、『復活(キヤーマ)のイマーム』で述したようにハサン二世は自分がイマーム ニザームの孫であり、従って自分がイマームであると宣言してその地位に就いた。
その結果新しい快楽的な宗教規範が実践されて、いかなる苦難にも己を投げ打って暗殺を完遂しようなどという熱情を抱く献身的な人間はほとんどいなくなってしまった。
しかし2年後の1166年に彼は妻の弟に殺された。
 
ハサン二世の最大の功績
 彼の短い執政の中で一番輝いたことはシリア 六代目 首席宣教師ラシード・ウッディーン・スィナーンという宗教家としてまた戦略家としても突出した人材を育ててシリアへ送り込んだことだ。そこでスィナーンのニザリ派への改宗とシリアへの旅立ち、シリアの首席宣教師に任命されるまでの経緯を述べておきたい。

シリア六代目 首席宣教師(1168-1193)
ラシード・ウッディーン・スィナーンの歴史
 ここからヨーロッパで喧伝されたシリアの山の老人物語の主役者ラシード・ウッディーン・スィナーンはバスラの近くでワースイトへ行く途中の街路上にあるアクル アル スダン村で生まれた。
彼の父は錬金術師とか学校教師とか言われたが、彼自身の言によればバスラ市民の指導者の息子だと言われている。当時のシリア人著述家がスィナーンを訪れて直接会話した事柄を記述しているが、その中で彼の前歴、受けた教育、シリアへの使命の詳細を次のように語っている。『私はバスラで育てられた。父はそこの名士の一人であった。

 このニザリ派教義が私の心に入り込んだとき、私と兄弟達との間に生じた何かが、私に彼らと別れることを余儀なくさせた。そして直ちに私は食糧も馬も持たず家を去った。間も無く私はアラムート城に向かって前進して遂にたどり着いた。その時の教主はキヤー・ムハンマド1世で彼にはハサン(後にハサン二世となった)とフセインという息子がいた。彼はスィナーンを息子と同じ学校に入れて、彼らと同じような扶養を施してくれた。教主が没し、息子のハサンがその後を継ぐまで、アラムートに留まっていた。そしてムハンマド 一世の死後の1162年ハサンは私にシリアへ行けと命じた。昔バスラを旅立ったようにアラムートを出発し、できる限り町には近寄らなかった。ハサン二世は私に幾つかの指示書と書状を与えてくれた。私はモスル市に入ると、大工たちのモスクで休息し、その夜はそこに泊まった。それから再び町には近づかないで前進して遂にラッカ市に到着した。私はそこにいる一人の仲間に宛てた書状を持っていたので,それを彼に手渡すと彼は私に食糧をくれて、アレッポまで一頭の馬を借りてくれた。アレッポに着くとそこでもう一人の仲間に会い、彼にもう一通の書状を渡した。すると彼も私のために一頭の馬を借りてくれた。そしてカーフ城まで送らせた。私に対する指示はこの城に留まる事だった。そして私はそこの伝道組織のシリア五代目 首席伝道師シャイフ・アブー・ムハンマドがこの山で死ぬ(1168年)まで、そこに滞在する事だった。』
 従ってスィナーンは権力を得るまでの足掛け7年間をカーフ城で過ごした。しかしその間彼は積極的に街の領民に会って自分自身を個人的な人気者になるように努めた。ムハンマドの死後はアラムートからの指示がないまま、一部の仲間の合意によって、ホージャ・アリ イブン・マスードが権力を引き継いだ。その後シャイフ・アブー・ムハンマドの甥アブー・マンスールとファフドの二人の幹部が共謀して、人を遣って浴室を出ようとしたホージャ・アリ・イブン・マスードを刺し殺させた。指揮権は結局彼らの合議に委ねられることとなり、殺害者と幹部たちは逮捕され投獄された。その時、その殺害者を処刑して幹部のファフドを釈放せよという命令がアラムートから届いた。それとともに一通の託宣で、それを仲間に読み上げるようにという命令が届けられた。その託宣の中身が不明であるが、この時ハサン二世は暗殺されていたので、スィナーンは彼の指示書を頼りにアラムートの新任イマームや幹部のファフドとの協議の末1168年に権力を継承した。

スィナーンはどのような人物だったのか
 ホジソン著”The Secret Order of Assassins“によるとスィナーンは人々に神秘的な印象を抱かせるために、いつも木目の粗いドレスをまとい、決してそれ以外の服装はしなかった、また食べる、飲む、眠る、つばを吐くなどの姿を他人に見せないように努めていた。丁度キリストの山上の垂訓と同じように、スィナーンも岩の頂上に立って、日の出から日暮れまで、領民に説教した。そして次第に自分を人知の超えた人物であるという評価を領民に抱かせることに成功した。
彼は人々から好かれていたし、領民に接触する際にも思いやりについての幾つかの逸話がある。
 ある日スィナーンはある要塞の防御工事に従事していた領民の子供が予期せぬ出来事で怪我をしたので、彼の手助けが必要になった時、その領民をすぐに家に帰した。
 スィナーンに関するより特徴的で神秘的な点は彼の高い精神感応、テレパシーまたは透視の能力に現れることが多い。しかしそれが人の病を治癒したとか何もないところから何かを作るという事柄ではなかった。 
 シリアのニザリ教団の歴代首席伝道師の中で、スィナーンは特に英雄視されていて、非凡な才能があり、領民は度々それを体験していた。その中には次のような話が伝えられている。
 幾人かの仲間が言うにはスィナーンが私的な居住地アル カーフ城から本部のマスヤーフ城に向かっていた時、アル マジダルという村に入った。その村の人々は親切に彼をもてなすこと申し出て、村長は覆いを付けた食べ物を運んできた。スィナーンはその食べ物を少し離れたところに置いてください、そして誰もその覆いを取らない様にと申し出た。スィナーンが馬に乗って出発した時、村長はなぜ我々の食べ物を召し上がらないのか、そして我々の心を慰めないのかと彼に尋ねた。
 スィナーンは村長さんに内緒で次のように伝えた。『貴方の奥様が料理を急いで作ったために鳥の内臓を取り忘れた、それを皆が知ってしまうことを望まなかった、なぜならそれは恥になるからな。』
 村長は鳥をみて、スィナーンが言ったとおりだった。
 この逸話はスィナーンの透視能力があることを現している。
 スィナーンは動物に対してもやさしさを表わしたことは一度や二度ではなかった。
 一人の仲間が私に語ったところによると「スィナーンがマスヤーフ城に居た時 肉屋が一匹の雄の子牛を解体したいと思って屠殺場にロープでつないだ、ところが肉屋の手にあったナイフを小牛は自分の口でもぎ取ってロープを切って逃げだした。その後誰も小牛を捕まえることが出来なかった。スィナーンはこの場所では7回もすでに解体が行われていたから、もうこれ以上牛を解体してはいけないと肉屋に告げた。そしてスィナーンはその肉屋にそれを誓わせた。
スィナーンはやさしさだけではなくて、畏怖を人々に吹き込むこともあった。
史家アブ フィラスはスィナーンという人は非常に神によって祝福されていたので、あらゆる田舎の人々もその偉大さ故に彼らにとって意に沿わない政策でも許してしまうようなところがあったと高揚感を持って語っている。
 一人の信頼できる仲間が我々に語ったところによるとスィナーンがアル カーフ城からマスヤーフ城へ下りて行って、そこで短期滞在した。ある日彼は同行者に言った、『ダマスカスから法律学者のグループ総勢40人ほどが私と論争や議論をするために、我々の方向へ向かってやってくる。彼らの中で最高齢者は幾つだとも言った。更に彼らは今夜ホムスに泊まる、明日遅くにマスヤーフ城に到着するだろう。
彼らが到着したら、アル ジリシクの公園で滞在させよう、そして生きた牛と鳥、新しいスプーンに皿、ポット、お金をそこに届けよう、そしたら彼らが必要なものを買って、料理するだろうから、その理由は彼らが私達をイスラム教徒ではないと信じているために、私達の食事を取らないだろうから。』
 実際に起こったことは彼が述べた通りになった。スィナーンは彼らをアル カーフで迎えた。そこで彼らは前述した通りの待遇を受けたのである。
 スィナーンは十分な教育を受けた人ではなかったが、いつどこでも自身の置かれた立場に応じて、自分の取るべき施策には確固とした信念を持っていたことは疑いない。
 彼の宗教的な資質も明らかに際立っていた。それを暗示するのは歴史家が次のように述べているからだ。もしスィナーンが若い時にアラムート城第四代君主ハサン二世と知り合って、いろいろな思索の交流があったならば、神聖な宗教集団の頂点を掌握するようなイマームや首席伝道師が抱くべき霊感の概念を彼はうまく説明して発展させていたであろうということが報告されている。シリアにおけるスィナーンの人間的な資質がまわりの領民や歴史家にも宗教的な頂点に立つにふさわしいと見られていた。スィナーンもシリアにおいてキヤーマ宣言に従った宗教規範を実践させたが、いろいろな矛盾が生じて教徒も混乱してハサン二世の死亡後スィナーンは独自の規範を打ち立てたとされる。スィナーンの支持者達は彼の宗教規範を正当化するために、アラムート ニザリ派教団本部のイマームの代わりにシリア独自のイマームとしてスィナーンを擁立するよう求めた。しかしスィナーンがイマームと呼ばれたとする史実はない。
 スィナーンはシリアをめぐる情勢で大きな役割を果たしたが、ニザリ派教義への貢献はあまり伝えられていない。ハサン二世の暗殺以降、スィナーンはアラムートからの伝令を取り合わず、彼独自の宗教規範と行政に基づいて教団を運営指導したために、アラムートのニザリ派本部はスィナーン廃位を狙って、何度も刺客を派遣したが、ことごとくスィナーンに阻まれて失敗に帰した。
 後述するアイユーブ朝君主サラデインがマスヤーフ城を攻撃した時に、スィナーンが単独で警戒厳重なサラデインの寝所に侵入して、寝室の床に短刀を突き刺して去った話があったが、この時に起こった不思議な事柄が次のようなものであった。サラデインの兵士が少し離れて静止した状態にさせられてスィナーンに近づくことが出来なかった。
一方スィナーンは監視の目に見えなくて妨害されてないので、容易にテントにいるサラデインに近づくことが出来た。
 同じような超能力的な資質の話としてイランの拝火教教主ゾロアスターも呪術、妖術を無力化するとか、ゾロアスターは自らの教義の優越性を証明するために他の宗教、思想の提唱者と積極的に王や為政者、賢者の面前で論争した。その中でも有名な話として、チャングラガハーチャというバラモン僧との論争が数日に及んだ後に、ゾロアスターはバラモン僧が述べる前に、彼の質問の内容が理解されて、それに答えたと伝えられている。これは恐らく数日の論争でバラモン僧の論拠をゾロアスターの超人的な予知能力で把握出来たのだろう。同じようなことは仏教でも神通力として、見えないものを見る天眼通とか他人の考えていることを知る他心通と云われる超能力であるが、いわゆる読心術にあたる。日本にも宗教家ではない超能力者が大正時代に現れた。名前は中井房五郎。彼は文化的な教育を受けていないが、四国霊場第81番札所白峰寺に幼少のころ入ったが、仏像を壊して、いたずらが多くて寺を追い出された。十二、三歳で、その寺の裏山の洞窟で自活して十七か十八歳で下山してふもとの村に現れた。その時には既に超能力を身に着けていたという。山の中で石を投げて鳥や獣を捕獲して自活した。それは精神の集中力、筋肉の瞬発力、心と体のバランスなど持って生まれた才能が芽生えたのであろう。洞窟の中で村の古老に似た老人が出てきて次のような話をしたという夢を見た『そろそろ山を下りて世の中の悪と戦いなさい。』と言われたという。この夢をキッカケに不思議な能力が出てきたという。お経を考えると、スラスラ出てくる。知らない歌も出てくる。しまいには予知能力が出てきた。後ろを見ないでも石を投げると目標に命中する。そして後で判るのだが、病理透視、病気治療のある種の超能力が出てきた。かれは無神論者である。骨折や関節などのカイロプラテックのような治療を始めたが、金門製作所の社長との縁で援助を受けて東京で治療院を開き成功した。(小林良彰著 空海とヨガ密教より)
 このような超能力を獲得する人物はインドのヨガの苦行僧の中によく現れている。だからスィナーンのような霊的な力を使って、見えないものを見る透視術、他人の考えていることを知る読心術などの能力を生まれながらに備わっていた人物がいても不思議ではない。

スィナーン時代のシリア政治情勢(1168−1193)
 この時代の主要な権力国家は次の三つであった。大都市アレッポ、モスル、及び1154年にダマスカスと三つの大都市を統治したザンギー朝である。大セルジューク朝からこれらの地域の宗主権を委託されたザンギー王朝の二代目君主はシリア人でスンニー派規範を厳格に履行した宗教家ヌール・アッディン・マフムードである。第二が1169年にエジプトのカイロのムスタアリー派ファーティマ朝の宰相に収まったが、その後ファーテイマ朝スルタンが没して、この朝が滅亡した。その支配権をそっくり引き継いでスンニー派のアイユーブ朝を興して、そのスルタンに収まったサラデインである。第三が十字軍によって建国されたエルサレム国王、アンテイオキア公国、トリポリ伯国などの十字軍国家であった。 
 これらの国が渾然一体となって、お互いににらみ合い牽制し合って、是々非々で自己の権勢拡大に有利な相手と見なされると同盟して、昨日の友は今日の敵といった戦国時代であった。当然ピンポイントで敵の為政者を暗殺で亡き者にするという戦略武器を持つニザリ派教団には援軍依頼が多く、商売繁盛だが同時に怨恨や憎悪による反撃のリスクが高まったのはペルシャと同じであった。その中心に鎮座した人物が第六代主席伝道師スィナーンで人呼んで『山の老人』であった。これまでのニザリ教団の歴代主席宣教師にはこのような称号は生まれてこなかった。先のサラデインの話を細述するとアイユーブ朝はザンギー朝ヌール・アッディンとの主従関係の中から誕生した。その発端が1163年にエジプトのファーテイマ朝の宰相シャーワルが身内の権力闘争で追放されたので、政敵デイルガームとの戦いを有利に進めるために、事もあろうにスンニー派のザンギー朝ヌール・アッディンに援軍の要請をした。翌年の4月ヌール・アッディンはサラデインの叔父でクルド人のシールクーフ(昔バグダッドのセルジューク朝司令官)を司令官として、幕僚にサラデインを配した遠征軍を派遣した。遠征軍はデイルガームを首尾よく打ち負かして、シャーワルを再び宰相に復職させた。ところがシャーフルはシールクーフの力を恐れて、エルサレム王国のアモリー一世に援軍を仰いでシールクーフ軍をエジプトから撤退を求めた。8月シールクーフの遠征軍はエジプト軍とエルサレム軍によって包囲されて、11月に和議が成立して、遠征軍はエジプトから撤退した。1167年にも再度シールクーフとサラデインはエジプト攻撃するが不成功に終わっている。1168年にファーテイマ朝カリフ アーデイドは宰相シャーワルの執政に不満を抱いて、失脚させる計画を実行するために再びザンギー朝君主に援軍を依頼して、シールクーフとサラデインは同年12月にアレッポを発ってエジプトに向かった。1169年1月シールクーフ軍はエジプトに入城してアーデイドの命令でシャーワルを処刑して、シールクーフが宰相、軍司令官に就任するが、1169年3月に彼は急死するとサラデインは叔父の地位を継承してファーテイマ朝の宰相となった。1171年カリフ アーデイドが没するとファーテイマ朝は滅びて、サラデインはエジプトにアイユーブ朝を興して、そのスルタンにおさまった。
そしてエジプトからシーア派を追放して、同地域の支配権を確立した。1174年ザンギー朝ヌール・アッディンが没するとサラデインはザンギー朝から自立して、ヌール・アッディンが1154年に獲得したダマスカスを無血開城して、シリア方面のイスラム勢力(ザンギー朝アレッポ、モスル)を取り込んで十字軍と対峙する戦力を確保しようとした。サラデインは十字軍やラテン国家やニザリ派教団は新しい侵入者として、主要な敵と見なしていた。
 シリアは先述したようにザンギー朝、アイユーブ朝、ラテン国、さらには小さなイスラム教諸宗派の領主による社会集団が点在する錯綜した社会状況であった。群小勢力の一つムスタアリー派はシリアの旧支配国家ファーテイマ朝の宗派であり、シリアのイスラム教徒では最も多い人々であった。

スィナーンの執政史
 スィナーンはシリアへ入りアル カーフ城に7年間待機した後の1168年にシリア ニザリ派教団の首席伝道師に就任した。以降約25年にわたって、シリアのニザリ派を率いることになる。
このような中でスィナーンが執った戦略は 平和を成し遂げるための外交と暗殺という武闘の組合せであった。その典型的な例が前半では敵対的なザンギー朝やアイユーブ朝サラデインに対しては十字軍と同盟し、後半はサラデインとの関係が改善されると対十字軍でジハードを宣言して戦っていたサラデインと同盟を結んで協力するというシリア諸勢力の政治状況に応じて優柔不断に合従連衡を組んで立ち向かった。それによってシリアのニザリ派教団の自治領の繁栄と教徒の安全と独立を確実にすることであった。
 最初に取り掛かった仕事はシリア中部ジャバル・バーラ山中の諸城砦をニザリ教団の現有領地を盤石にするためにルサーフ城とカワビー城、アル カーフ城(地図5参照)、1160年に獲得したカワビー城は西南方面からの敵の攻撃に対して他の要塞を防御する上で地理的な戦略上重要な位置にあったためにスィナーンは要塞の出入り口に監視塔を建設した。 
 また城壁を古いものから新たなものに置き換えたことにより、この城もニザリ教団の中心的な存在に改造された。奪い取ったウライカ城などを改築して防御を再強化した。その他の領地にある既存の城も同様に補強した。これらの城は誰の目にも敵の接近を極めて困難にさせるものだったと伝記記者は述べている。
 この徹底的な防衛体制を固めた背景には、このジャバル・バーラ地区の西側には地中海沿岸の十字軍国家が迫っており、常にホスピタル騎士団やテンプル騎士団が城や領土獲得で脅威に晒されるし、また東側はザンギー朝、アィユーブ朝のスンニー派イスラム国が追ってくるという挟み撃ちの位置にあった。
 事実スィナーン就任以前は十字軍に対して平和維持のためにニザリ教団は多額の年貢をホスピタル騎士団やテンプル騎士団に支払っていた。これらの年貢は後述する十字軍とニザリ教団の城をめぐる争奪戦で苦杯をなめた結果であった。
 これらの城の配置はペルシャの防御システムを参考にした可能性がある。それはアラムート城の場合侵入ルートに関して、南北側は急峻な山岳に阻まれるが東西側はシャールード川に沿って容易に侵入できるために、川沿いの山稜に多くの要塞を構築して、敵の動静を監視する機能、軍隊の駐屯、馬舎、狼煙による要塞間の通信機能などの役割を担った防衛ネットワークを構築した。スィナーンはこの防御システムを念頭に、教団本部をカドムース城とマスヤーフ城を政治状況に応じて切り替えていた。カドムース城の場合、この城を取り囲むように多くの要塞を建設して監視の機能を強化したと思われる。
 注目すべき点は要塞間の通信手段である。ペルシャでは狼煙であったが、スィナーンは伝書鳩とコード化された暗号文章という革新的な手段を導入した。
 防衛は上記の通りだが、スィナーンがニザリ派教団の強化策として、最も重視したのが暗殺という武器であり、それはフィダーイーの育成であった。フィダーイーとは「ある理念に忠誠を尽くし自己犠牲をも厭わない人びと」のことであり、判りやすく言えば刺客(アサシン)である。
 スィナーンの育てたフィダーイー精鋭部隊は過去のフィーダーイーとは一味違って、その勇猛果敢さ、大胆不敵さは十字軍に強烈に恐れられて、騎士や従軍記者によってヨーロッパに伝えられ、やがて「暗殺教団」伝説とその指導者スィナーンを「山の老人」の呼び名を生み出し、無限のバリエーションを発生させた。
 この精鋭部隊は単に金銭報酬や、城、施設の設置許認可などの見返り報酬のための暗殺請負のためだけではなく、ニザリ社会に脅威を及ぼす個人、グループの長などを排除するためにも危険な任務が与えられた。
 ニザリ教団の外交上の最も得意とすることは暗殺という武器であり、それには出来るだけ多くのニザリ教徒を彼らの敵の間に散らばらせて潜伏させて敵を露出させることであり、スィナーンはこの作戦にも多くのエネルギーを投入した。
 スィナーンはまた教徒への宗教規範の順守、教徒の伝道、説教活動の組織を再編成して強化した。
 スィナーンの個人的な資質に由来する組織運営の姿として、まずボデイガードのような個人的護衛組織は持たなかった。むしろ彼は自分の持っている独自の資質を前面に出して教団を統治したと言われている。
 十字軍との戦いでニザリ軍はウライカ城を奪い取った時も軍の規律が守られて、いかなる略奪も起こらなかった。また彼がある村や要塞から他の村に旅をする際には順番に各村から同伴者が同行したと歴史家が述べている。
本部には自分の嗜好に合う様な贅沢な施設を持とうとはしなかった、また多くの官僚を抱えて、それに任せて自分は動かないなどという怠惰な人ではなかった。
 一風変わった生活習慣が見られるのはスィナーンが滞留したアル カーフ城は1138年に所有者ムサからニザリ派に売り渡された城であるが、この城がよほど気に入ったのか教団の本拠地はマスヤーフ城やカドムース城だったが、身の安全を顧みずアル カーフ城から付け人を伴って通ったのである。
 その理由は何かコーランの中に、この城の名前に由来する神話があって、それにあやかる思いが働いたのかもしれない。それは若い数人の一神教信者が、その信条のために虐げられた生活を強いられていた。その時神は彼らを保護するために、ある聖人が現れて彼らを一緒に都市から逃げてアル カーフ即ち洞窟に案内して避難させて寝入りさせた。コーランで述べたとおり正確に309年の間眠ることになった。そして309年後に目が覚めると一神教の神の存在を信じる社会に住んでいることに気づいた。
 この奇跡が起こったのはアル カーフという洞窟だった。
 そのご利益が効いたのか、彼はあらゆる難を逃れて生涯を全うして1193年にこの城で病没した、そしてこの城に葬られた。
 スィナーンの外交上の最初の執政は十字軍との幾つかの戦いをやめることであった。
 先述したように1129年のダマスカスでニザリに執られた大粛清後、ニザリ派教団首席宣教師アブ・ムハンマドは都市から離れて、要塞基地の獲得に専念した。その舞台は山岳地帯のジャバル バーラであった。(地図5参照)一方地中海沿岸にラテン国を持つ十字軍はジャバル バーラに自分たちの足場の構築をめざしていたために必然的に十字軍と衝突余儀なくされた。その歴史は繰り返しになるがベンジャミンの報告で1142年トリポリ伯国のレーモン二世がジャバル バーラの南の端にあるカラクの砦(地図6参照)の領有権の問題、1151年にもマニカ城(地図6)の領有権問題、1152年にはトリポリ伯国伯爵レーモン二世の暗殺、1157年シャィザルの町(地図6参照)の領有で十字軍の攻撃に応援軍の派遣などであった。
 このような対立を清算するためにスィナーンは和解金を支払って、戦いを終わらせた。
 一方ザンギー朝君主ヌール・アッディンはニザリを十字軍以上の脅威とみなし、ニザリ派城砦の包囲・攻撃を繰り返していた。
 ザンギー朝の敵対的な攻勢に対抗する爲にスィナーンが採用した戦略は背後から足を引っ張られないために十字軍国家と和睦して不可侵同盟を結んだが、あわよくば共闘同盟に進んでザンギー朝と戦うということだった。そして1173年頃エルサレム国王アーモリー一世に正式な同盟の使者を送って、西洋人との連携を進めた。この時テイルの司祭ウイリアムはスィナーンがキリスト教を奉ずる申し出があったという奇異な話を伝えているが、まさにこれは両者が緊急な親交を求めた証であろう。
 そのような中で、同じ1173年にアレッポのモスクが燃やされる事件が起こったが、それはニザリが放火したのではと疑われた。ヌール・アッディンは明らかにニザリを叩く口実を探していたらしい。そして彼はニザリに向けて遠征軍の派遣を計画していたが翌年没してしまった。
 一方先述したように1169年にザンギー朝の司令官の甥サラデインがファーテイマ朝を滅ぼしてエジプト カイロにアイユーブ朝を興した。一方ヌール・アッディン没後ザンギー朝の後継君主は11歳の幼少アル・マリク・アル・サーリフであった。ヌール・アッディンの死を契機にして、十字軍国家やザンギー朝のモスル君主はシリアの中心都市ダマスカスを占領すべく活発な動きが始まった。
 1174年にザンギー朝君主アル・マリク・アル・サーリフの後見人であるダマスカスの国政を担うアミール(総督、司令官)は安全のために幼少君主をダマスカスからアレッポに移した。しかしザンギー朝モスル君主やエルサレム国アーモリーが軍を動かしてダマスカス周辺の都市に活発な侵略戦争を進めたので、ダマスカスのアミールはサラデインに援軍を要請して、1174年10月サラデインは住民の熱烈な歓迎を受けてダマスカスに無血入城を果たした。
 幼少君主を迎えたザンギー朝アレッポの武将グムシュデキンはザンギー朝ダマスカスの無血開城に同調できずアイユーブ朝に対抗するという戦略を執った。その結果グムシュデキンは周辺の勢力に反サラディンを呼びかけて、まず兄弟君主の関係になる モスルのザンギー朝を初めとし、ニザリ派のスィナーンやラテン国トリポリ伯国にも呼びかけて反サラディン同盟を結成して、1174年末にサラデイン軍と対決した。この時グムシュデキンはスィナーンにサラデインの暗殺を要請している。 それに対してスィナーンはそれまでザンギー朝を目の敵にしていたが、この新しく台頭してきたサラデインの脅威に直面して、この要請は渡りに船と引き受けたが失敗に終わっている。
 アレッポ、モスルの連合軍とトリポリの十字軍は当初優位に戦っていたが、翌年エジプトからアイユーブ朝の援軍が到着すると形勢は逆転、 アッバース朝カリフの仲介もあって和解に至った。
 当時のザンギー朝の執政やニザリ、十字軍とアイユーブ朝との環境を現したサラデインの書簡がバグダードのアッバース朝カリフ宛に送られていた。その書簡は概略次のようなことが書かれていた『モスルの君主(ザンギー朝)は異端派のニザリと同盟を結び、信仰心のない西洋人との和解に利用している。またモスルの君主はニザリに城や領地、アレッポの君主は伝道館までも与える約束をした。さらにスィナーンと十字軍に密使を派遣したことにも述べて、信仰心のない西洋人、異端派のニザリ、そして反逆するザンギー朝という三重の脅威に立ち向かう神聖なるイスラム教の擁護者サラデインの立場を正当化し強調した文面が綴られた。』とある。
 スィナーンはサラデインの命を奪う刺客派遣の最初の試みが、上記の戦闘中に発せられた。それはサラデインがザンギー朝アレッポを攻囲していた1174年12月あるいは1175年1月に起こった。追い詰められた武将グムシュデキンが失地回復の最後の手段としてスィナーンのもとに使者を送ってサラデインの暗殺を要請し、その報酬として領地と金を提供するという申し出であった。これを受けたスィナーンはマスヤーフ城から刺客を12月末か1月の寒い冬にサラデインのキャンプに送り込んだ。ところがそこにはニザリの隣国人で将軍のアブー クバイスに悟られて尋問を受けた。彼らはただちに彼を殺した。続いて起こった騒ぎの中で多くの人々が巻き添えをくって殺されたが、刺客は全員殺されてサラデインは難を逃れた。翌年スィナーンは再度サラデイン暗殺を決意した。1176年5月22日、サラデインがアンテオキア北側のアザーズを包囲していた時に、サラデインの軍隊兵士に変装した刺客は彼のテントに侵入して短刀で彼に襲い掛かったが甲冑のおかげでサラデインは軽傷で済み、刺客は異変に気付いて駆けつけた将軍によって惨殺された。しかしこの事件で数人の将軍が落命している。年代記者によるとこの二回目の試みもグムシュデキンの企てによるとされている。
この事件をきっかけにサラデインは特別に建てられた木造の塔の中に眠り、彼の知らない者は一切彼に近づくことを禁止するという警戒態勢を敷いた。スィナーンのサラデイン暗殺はグムシュデキンの要請に応じて決行されたことは間違いないが、彼からの報酬も頂けるし自分の戦略にも合致したという次第であった。
スィナーンから受けたサラデイン暗殺事情は1174年エジプトのカイロでサラデイン自らアッバース朝カリフに送った書簡の中で次のように述べられている。『その年にエジプトで起こった没落したファーテイマ朝残党の陰謀は不成功に終わったが、その指導者はスィナーンに手紙を送り、彼等(ムスタアリー派)は共通の信仰(ニザリとムスタアリーの母体はイスマイリ派だった)を強調して、サラデインに対する行動を起こすよう促した。』しかし共通の信仰という話には無理がある。それはペルシャの教団始祖ハサン サバーフが1094年にファーテイマ朝と袂を絶ってニザリ派を主導した際に、カイロのファーテイマ朝との主従関係を絶って独立していた。以来ニザリ派とムスタアリー派ファーテイマ朝との間柄は信頼感の欠如で、お互いに同盟したり、共同戦線を張ったりすることは全くなかった。1124年ごろファーテイマ朝カリフ アル アミールが自分の指揮権を受け入れるようシリアのニザリを説得したが、逆にニザリに拒否されてカリフは刺客に倒された。
没落したファーテイマ朝の残党がシリアのニザリに応援を求めたことはありうる話だが、一度失敗している彼らの陰謀に再度加担するほどスィナーンの戦略思考は甘くはなかったのだろう、その史実はない。
 1176年8月サラデインは報復のために、アイユーブ軍を進撃させて、ニザリの本拠地マスヤーフ城砦を包囲するが、にらみ合いも短期間で終わり、すぐに休戦に至りサラデインは撤退した。この戦いの早期撤退にはいろいろな異説がある。サラデインの書記で歴史家イマード ウデイーンによるとマスヤーフの隣の町ハマーの君主がニザリから停戦調停の仲介を依頼された。ハマーの君主とは実はサラデインの叔父であったのでサラデインは拒否できなかったという説。別の伝記記者はフランク人がビガー渓谷を攻撃して来たので、サラデイン自らそちらの地に転戦しなければならず、撤退を余儀なくされたというもっともらしい理由を挙げている。アレッポの史家はこの攻防戦ではスィナーンが単独で警戒厳重なサラデインの寝所に侵入し、その枕元に毒ケーキ・毒塗りの短剣・『どうあがこうとも、勝利は我らにあり』の警告文を置いて去ったエピソードがあり、サラデインはこれに恐れを成して兵を引いたという。この話は1117年頃ペルシャのニザリ教祖ハサン サバーフがセルジュークのスルタン サンジャルを威嚇するために起こした事件に酷似している。それはハサンがサンジャル陣営に潜伏させていたニザリ派侍の一人に命じて、スルタンの睡眠中に、その寝台の前の床に短刀を突き立てさせた。サンジャルは目を覚まして、この刃物に気が付いたが、誰がこの犯人なのか判らなかったので、かれはこの事実を誰にも漏らすまいと決心した。ところがしばらくしてサンジャルはハサン サバーフから短い書付を受け取った。それにはこう書かれていた『もし私がスルタンに好意を抱いていないなら、床に突き立てられた短剣はあなたの胸に突き刺されていたであろう。この岩壁の頂上から(アラムート城)、私はあなたの周辺の人の手を遠隔操作していることを承知あれ』この行為はサンジャルの心に衝撃を与えたので、彼はニザリと和睦しようと心が傾いたとドーソン著 モンゴル帝国史に書かれている。前者はスィナーンが自ら仕掛けている点が異なるが、彼には予知能力、透視能力が備わっていたと言われていた。またニザリ側の説によるとサラデインはスィナーンの神通力に恐れをなして彼の叔父のハマーの君主に停戦調停依頼をして、叔父がスィナーンに無事に撤退して立ち去ることを許すように要請した。スィナーンはそれを認めて彼に安全な通行を保証して、二人は最良の友人となったという。サラデインのマスヤーフ撤退後、ニザリへの公然たる敵対行動は一切聞かれなくなった。この背景にはサラデインがこれから展開しようとしていた十字軍国家エルサレムや地中海沿岸の諸都市の奪回をスムーズに実行するにはジハード(聖戦)を掲げてモスレム同士が結束していかなければならないとことだった。外交上には現れない暗黙の同盟の存在をほのめかす話も伝わっている。事実彼らはお互いに是々非々の対応で直接の衝突を回避している史実があった。次の暗殺は1177年8月31日に行われた。
 アレッポのザンギー朝君主アル・マリク・アル・サーリフの宰相ヌール ウデイーン イブン ザンギーと前宰相ハーブ ウデイーン イブヌル アジャミーの暗殺であった。この暗殺はシリアの歴史家によればグムシュテギンの陰謀によるものとされている。グムシュテギンは刺客の派遣を依頼したスィナーンへの書簡にアル・マリク・アル・サーリフの署名を模造して押していた。この事件の真偽の根拠は刺客がだれの指示かと尋ねられた時、アル・マリク・アル・サーリフ自身の命令で実行しただけだと告白したことであった。伝えるところによると、グムシュテギンにとって、この二人の宰相の死は自分の権勢拡大の好機ととらえたらしい。この陰謀はアル・マリク・アル・サーリフとスィナーンと文通を通じて、主犯はグムシュテギンであることが明らかになった。その後グムシュテギンは新宰相アドルとの激しい権力闘争を展開したが、1178年8月アドルの依頼を受けたニザリによって暗殺された。
 この二人の宰相及び武将グムシュテギンの死は過去の反サラデインの志望者たちだったので、彼にとって大いに歓迎されたにちがいない。この様にお互いに共謀して事を進めていながら、ザンギー朝とスィナーンの対立は続いた。1179-80年に君主サーリフはニザリのアル ハジーラ城を奪っている。スィナーンの抗議は何ら効き目がなかったので、アレッポに運動員を送り込み、彼らの市場に放火して大きな損害を与えたが一人の放火犯人も逮捕されなかったという。この事実はその町においてニザリ派は今なお地方的な支持を集めていることが出来ていたことを示唆している。その後、シリアのニザリを巡る状況は、比較的安定的に推移するが、1187年10月2日サラデインがエルサレム奪還以降、十字軍国家はテイロス、アンテイオキヤア、トリポリなどの都市が残るだけだった。この窮状を救ったのがコンラード・デル・モンテフェラート侯であった。1187年末彼はサラデインにエルサレム国が奪われたことを知らずに海路でアッコンの港に近づいたが、この港は既にイスラム教国によって占領されていることを知り、事態の深刻を認識した。そしてそのまま海岸にそって北上して、まだ十字軍側に留まっていたテイロス城にたどり着いた。彼がテイロスに入城した時はサラデイン軍によって包囲されていた。降伏の瀬戸際に追い込まれていた防衛の責任を任されたコンラードは戦い方が上手で勇猛果敢にサラデイン軍に立ち向かい彼らの攻撃を跳ね除けて、テイロスを守り抜いた。しかしジハードを掲げてイスラム教諸国家の軍隊をまとめて立ち向かうサラデインの攻撃に孤立無援となった十字軍国家を救援するために1189年第3回十字軍の派遣が決まった。サラデインの捕虜から釈放されたエルサレム王ギー・ド・リュジニャンはテイロス市に入ることを拒否されて(王位は消滅)、行き場所を求めてアッコンの再征服に軍を進めて城を包囲していた時に、第三回派遣十字軍のフランス王フイリップ二世が1191年4月に、イングランド王リチャードは1191年6月にそれぞれアッコンに到着して、両王の軍勢が参戦して7月にアッコンは陥落した。一方エルサレム王リュジニャンが失脚したので、テイロス市ではエルサレム王の投票が行われて、王位に選ばれたモンフェラ候コンラードが1192年4月21日エルサレム王に正式に就任した。
 このようなサラデインと十字軍の戦闘状態の中で、スィナーンの戦略はイスラム教の共通の敵・十字軍への対抗のためにサラデインと同盟関係を結んでいた。その背景には先述のマスヤーフ城攻防戦後に暗黙の休戦協定で、お互いの脅威さを認め合って無駄な対立を避けてきた。1192年を迎えて、生涯で最もドラマテックな戦果に繋がる大きな仕事がスィナーンに舞い込んできた。それがコンラードの暗殺であった。しかも彼がエルサレム王として就任した一週間後の28日に二人の刺客によって暗殺された。
 多くの史料には刺客はキリスト教の修道士に変装して巧妙に立ち振る舞って司教や侯爵の信任を得てテイロスに潜伏していたが、テイロスでの身辺警護は緩かったために、暗殺命令が届くと護衛の少ないチャンスが訪れた時すかさずコンラードに体当たりして短剣で刺したのだった。
 この暗殺の様子を次のように伝えている。4月28日の正午に近い頃コンラードの妊娠中の妻イザベラは夫と食事をするためにトルコ式風呂から戻る予定が遅れてしまった。仕方なくコンラードは親類で友人司教ボヴェの家で食事をするために出かけた。
 ところが司教はすでに食べたので、コンラードは仕方なく家路に向かった。
 この途中で二人の刺客に襲われて、わき腹と背中を少なくとも二回刺されてほとんど即死の状態だった。
彼の護衛は刺客の一人を殺害して、もう一人を捕えた。
ある歴史家はコンラードを襲撃の現場から近くの教会に運ばれて、そこで息絶えたと伝えている。
 この事件は相手がエルサレム国王とあって、ニザリにとって史上最大の戦果を成し遂げたことになった。 これに関してザンギー朝の歴史家イブン アル アスイールによると、この暗殺はサラデインがスィナーンに報奨金を提示して要請したとされている。その計画ではリチャードとコンラードの両者をターゲットにしたが、リチャード(別な場所にいた)はすぐに不可能だと判明した。サラデインは成功報酬として、ニザリにカイロ、ダマスカス、ホムス、ハマー、アレッポの都市に伝道館の設立する権利、またその他の特権を認めた。  
 この暗殺はキリスト教側内部の政治的な確執の中で起きた事件だった。そのためにスィナーンに暗殺要請をした主犯は誰かという噂が西欧社会で話題を呼んだ。サラデインの事務方の報告によると捕えられた一人の刺客は質問に答えて、この仕事はイングランド王リチャードの要請によるものであると告白したという。
 当時コンラードはテイロス城の防衛を果たした十字軍の優れた将軍とみなされて、リチャードのエルサレム奪還の戦闘に参加を呼びかけたが、色いい返事がもらえずリチャードは苛立っていた。またリチャードがエルサレム王国の王位継承を速やかに自分の被保護者で甥にあたるシャンパーニュのアンリ伯爵に引き継がせるために画策したという説である。事実コンラードの死後ただちに彼の未亡人イザベラとアンリ伯爵は結婚して王位を継いだのである。この時のエルサレム国はサラデインの支配下にあったので、エルサレム領土を伴わない王である。
 サラデインの秘書イマード ウッデイーンはコンラードがサラデインと内通していたとされ、この暗殺はサラデインにとって決して歓迎されるものではなかったと語っている。確かにリチャートの参戦要請に色いい返事をしなかった背景にはサラデインとの密約があったとされている。
 以降1年以上に渡ってリチャードはサラデインと死闘を繰り返すが、コンラード暗殺の4ヶ月後の1192年9月サラデインと休戦協定に調印していた。その中で十字軍側はテイロスからヤッファまでの海岸地帯を確保し、エルサレムを含む内陸側はサラデインの領土とされた。サラデインの依頼によりニザリの領地も協定に含まれていたという。それほどサラデインは義理堅い人物で、一旦同盟を結んだ相手には旧敵といえども気を配ったことを歴史が物語っている。
 そしてコンラード暗殺の翌年1193年恐るべき山の老人ことスィナーンはアル カーフ城で没して、そこに埋葬された。
 イスラムの英雄サラデインも長年の戦闘に疲れ果たしたのか病気になり、スィナーンと同年3月に世を去った。
 英国の現代イスマイリ派研究者ピーター・ウィリーはスィナーンを次のように評価している。『彼は最終的にシリアや海外において、敵にも承服させることまた不承不承の尊敬さえも勝ち取ることに成功した。また彼の優れたリーダーシップのお蔭で、シリアのニザリ派の信徒は勢力と名声の極限まで手を伸ばすことに成功した。』
 スィナーンがシリアでこの様な目覚ましい活躍を展開していたが政治上の確執で親方ペルシャとは没交渉が続いた。

ペルシャ五代目 ムハンマド 二世の執政史
(ヌール アデイーン ムハンマンド)
統治期間:1166-1210 統治年数:44 居住城:アラムート城 聖職位:復活のイマーム
 スィナーンの同時代のペルシャではムハマド二世の世の中であった。彼はイマーム復活の教義を説いた父ハサン二世以上に熱心に取り組んだので、父と同じく復活のイマームと呼ばれた。
イマームの権限を更に強くするためにハサン二世の教義を洗練させて自分が紛れもないニザリの子孫であると論じた。そしてイマームとして振舞った。
 一方ニザリ派の宿敵大セルジューク朝のスルタン サンジャルが1141年に耶律大石が率いるスキタイ人の西遼軍が現在のトルクメニスタンへ侵攻したために、これを撃退しようと出撃してカトワーンの戦いで敗れてしまった。
 この西遼軍の中央アジアへの進出で、玉突きのようにそこに住んでいたトルクマン族が中央アジアから逃れてサンジャルの地盤であったペルシャのホーラサン州に逃れて、そこで反乱を起こした。
サンジャルはこの州を守るべく彼らの反乱を鎮圧しようとしたが逆に捕虜となって、3年間を虜囚として過ごした後に釈放されたが、1157年に病没して彼が兼務していたホーラサン セルジューク朝と大セルジューク朝は滅亡した。
 一方1194年にはイラク セルジューク朝スルタン ドグリル三世はペルシャに進出して来たホラズム・シャー朝のテキシュとの戦いで敗死したことによってペルシャ、イラクのセルジューク朝は完全に滅亡した。大セルジューク朝に比べるとホラズム・シャー朝の政治、経済、戦力のスケールが小さくて、その結果ペルシャではその周辺諸勢力との関係は比較的平穏であった。
 この平穏な政治状況でイマームに導かれた安楽なニザリ教規範では勇猛果敢なフィーダーイーは現れなかったのか、次のような穏やかな事件が報告されている。正統派(スンニー)の著名な法学博士が地元レイ市の神学校で教授をしていたが、彼は聴衆に対する講義の中でニザリ派の教義を論駁する機会があれば、ニザリ派を口にする度に『願くは神が彼らを呪い滅ぼしたまわんことを』と付け加えた。
これを聞いたムハンマドは自分の腹心の刺客をレイ市に派遣して学生の服装に変装して、博士の講義を聴講し続けた。そして好機の到来を見計らって、住家を襲おうとした。ついにこの刺客は博士が居室に一人で居るところを襲い、門を閉め短刀を引き出し、これを博士の胸の上に置いた。博士は恐怖の念に陥り、自分は何をしたというのだと問うた。刺客は博士に『なぜ貴方は絶え間なくニザリ派を呪うのか』と言った。博士はもう二度と彼らの事は話さないと誓約をした。刺客は博士が本気でこの誓約書を守る気があるのかと尋ねたら、博士は襟を正して厳粛な態度で約束を守ると言ったので、短刀を引いて、博士にこう言った『私はまだ貴方を殺せとの命令は受けていない。そうでなければ誰も私を妨げるものはいない。私の主君ムハンマドは貴方に挨拶を伝え、そして主君は俗人の演説なら恐れるに足らないが、貴方のような著名な法学者の口から出た言葉は人々の脳裏に長く残るから貴方の言葉を恐れるものであると伝言している。私の主君は貴方が来訪されることを願っており、貴方自らがその高い尊敬を示されることを希望している』と。博士はこの申し出を辞退した。しかし博士は今まで主君を侮辱するようなことは決して言わなかったと弁解した。刺客はそこで1200グラムの金貨の入った袋を彼の前に置いて、毎年これと同額のものを差し上げると言って、刺客は姿を消した。しばらくして門弟の一人が博士に対して、なぜニザリ派をもはや呪わないのかと尋ねた。博士は『どうもしようもない。かれらの議論ははっきりしているのだ』と答えた。冷酷無比な暗殺教団と思っていたが、こんな温情な手心で待遇したこともあった。またこんな話も伝えられている。
 1198年ごろニザリ派はガズヴィン市から少し離れた高山の頂上に建つアスラーン グシャーイ城を占領した。この危険な隣人に苦しめられたこの都市の住民は数人の王侯に救援を嘆願したが、無駄だった。それで彼らの長老達の一人で聖徳の誉れの高いイオニア人のアリーという者がホラズムのスルタン テキシュに申し入れをして、この王侯が救援に来させることが出来た。この城はすぐに包囲されて、城中の人は降伏し、強力な駐屯部隊を受け入れた。しかしホラムズの軍隊が撤退するや否や、ニザリ教徒は敵の知らぬうちに開いておいた地下道を通って、夜間に城中に入り、駐屯部隊をなぎ倒した。長老アリーは再びホラズム・シャーの救助を嘆願しに行った。テキシュはその軍隊とガズヴィン市民の連合軍がアスラーン グシャーイ城を攻撃して包囲した。二ヶ月間の抵抗の後、ニザリ教徒は開城降伏を乞い、退却の許しを得た。彼らは二つの部隊に分かれて撤退するが、第一部隊がつつがなく撤退させてくれれば、第二部隊もこれに続いて撤退するが、もしそうならない場合には防衛を継続すると声明した。その結果、彼らは城を降りて、スルタンに敬意を表して遠ざかった。人々は第二部隊の撤退を待っていたが、影も姿も現さなかった。ようやく人々は全部隊が同時に出城していたことがわかった。スルタンはこの城を徹底的に破壊することを命じた。しかしニザリ教徒は自分達にこの妨害を行った長老アリーに間違いなく復讐を行った。1205年に長老はメッカへ巡礼に赴いたが、その帰途にシリアを訪問した。彼はダマスカスのイスラム寺院において、公衆礼拝の終わった後に、群衆の中で刺殺されたのであった。
 ムハンマド二世は1210年9月1日に没し、彼の息子ジャラール・アッディーン・ハサンすなわちハサン3世があとを継いだ。

ペルシャ六代目 ハサン 三世の執政史
(ジャラール・アッディーン・ハサン)
統治期間:1210-1221 統治年数:11 居住城:アラムート城 聖職位:隠れたイマーム
 彼は隠れたる(サトル)イマームと呼ばれた。その理由は次の通りである。  
この時の政治情勢は不安定な時代であった。何故ならば先代のムハンマド二世の晩年には大セルジューク朝のスルタン サンジャルが1141年に東方から中央アジアに進出してきた中国の唐滅亡後満州、ウイグル、西夏、突厥などを支配下においた遼王朝が金王朝に敗れるとその皇族の耶律大石が部族を引き連れて中央アジアに遠征して西ウイグル国を倒して西遼を建国した。この西遼軍は更に西方の現在のトルクメニスタンへ侵攻したことにより中央アジアのトルクマン族が玉突き現象で1153年サンジャルの地盤であったイランのホーラサン州に逃げ込んで反乱を起こした。彼はそれを鎮圧しようとしたが、逆に敗れて捕虜になり、1157年病没すると大セルジューク朝は滅亡した。その後スンニー派のトルクマン族でセルジュークの属国的な主従関係にあったホラズムシャー朝がセルジュークの滅亡で急速にイラン、イラクへ侵攻して支配権を掌握した。1197年アッバース朝カリフから正式にイラクとイランを支配するスルタンの称号を認められて、大セルジューク朝の後継者として認知された。
 ハサン三世は従来のような優柔不断で柔軟な外交が出来たスルタン サンジャル亡き後強大な軍事力を背景としたホラズムシャー朝の圧力は非常に強く、このような社会政治の急変した中で、自治領国家の存続維持を確実にするにはスラム教スンニー派、シーア派の両派から伝統的なイスラム教規範から著しく逸脱していると白眼視され『ムラーヒダ(道に迷える者)』と軽蔑された『復活のイマーム』の新二ザリ派の継続は宗教を国家統治の基盤とするイスラム世界ではあまりにも不安定だと判断したのだろう。祖父ハサン二世の『復活のイマーム』を廃止し、事もあろうことか敵対していたスンニー派イスラム教の法学者を招聘して講義を行い、スンニー派シャリーヤの実践を教徒に命じた。すなわちニザリ派からスンニー派へ改宗したのだ。
国家存立の基盤が宗教である以上この改宗は宰相、官僚、聖職者、教徒には不可能であったろう。
その宗旨替えを可能にしたのが深謀遠慮で世渡りの天才暗殺教団の奥の手『タキーヤの原理(信仰秘匿)』の登場であった。この一番の難点は相手を長期に亘って欺き通す国家の統治力にあった。従って社会環境が好転した時には速やかにニザリ派へ自然体で戻るのである。
この改宗宣言によりハサン三世は1211年アッバース朝と和平を結び、ニザリ派教団領域の統治権をアッバース朝カリフ ナーシルの名において認められた。
これはとりもなおさずホラズムシャー朝による認知という意味も持った。
 このイマームには先を読む優れた外交の逸話がある。それは1216年にモンゴル帝国のチンギス ハーンがホラズムシャー朝へ派遣した商業使節団一行400人をホラズム・シャー朝のオトラル総督がこの使節の目的は中央アジア侵攻のための密偵であると疑い、一行をすべて殺害してその保持する商品を奪う事件が起こった。
これに激怒したハーンは1219年彼自ら率いたモンゴル軍の大規模な侵攻が始まった。この時モンゴル軍がイランのクーヒスタン州、ホーラサン州、ダイラム地方にも侵攻して来ると察知したイマーム ハサン三世はモンゴル軍がジャイフーン河に到着した時にチンギス ハーンへ書簡を送り、その中で恭順の意思を伝えたという。この征服者に恭順の誓いを申し入れたイスラム国の君主としては彼が最初の人物だった。
1221年11月ハサン三世は没し、息子アラーウッディーン・ムハンマド(ムハンマド三世)が後を継いだ。

ペルシャ七代目 イマーム ムハンマド三世の執政史
(アラー ウデイーン ムハンマド)
統治期間:1221−1255 統治年数:34 居住城:アラムート城 聖職位:イマーム
 このときムハンマド三世は9歳で、父の宰相と官僚たちによって政務が代行され、スンニー派教義は継続された。一方1230年には金曜日の公衆礼拝の中でホラズムシャー朝のスルタンの名を読み上げてから行うように要請された。これはタキーアの原理の下でスンニー派信仰を受容していたニザリ派聖職者、教徒にとって、スンニー派スルタン ジャラール ウデイーンの名前を告げさせられて礼拝を始めることは屈辱的な話だったに違いない。ムハマド三世が政務を執るようになるとスンニー派のシャリーヤの実践が徐々に弱められるようになった。それは同じ1230年に、ホラズムシャー朝 スルタン ジャラール ウデイーンは東部アナトリアでルーム・セルジューク朝とシリアのダマスカスを支配するアイユーブ朝の連合軍に敗れ、その兵力の半数を失った。1231年モンゴル帝国のオゴタイ ハーンはイラン方面に将軍チョルマグンを指揮官に討伐隊を派遣する。当時ホラズムシャー朝の根拠地はアゼルバイジャン州のタブリーツ市あたりだった。モンゴル軍が到来を知ったタブリーツ市の住民とホラズムシャー朝の宰相シャラフ アル ムルクなどの配下はスルタンに反旗を掲げた。討伐隊の攻撃を受けたスルタン ジャラール ウデイーンは東部アナトリアの山中に逃亡するが、アゼルバイジャン州やクルデスタン州に住むクルド族によって捉えられて殺害されてホラズムシャー朝は滅びた。従って1231年以降教団はタキーアを止めて、本来のニザリ派に戻った可能性がある。
 ところが教団内部では異常な現象が発生していた。それはイマームであるムハマンド三世が成人になるにしたがって精神分裂症の疾患が悪化して、イマームとしての威厳を保つために臣下たちは取り扱いに最大の神経と気配りを払わなければならなくなった。宰相や政務官僚はあえて治療を施そうとしなかった。またその持病を公表しなかった。その理由はイマームが狂人だということを許さない信者によって暗殺されることを恐れたからだ。それでもイマームが発する狂言的な言行を信徒は神の霊感によるものだと信じさせられていた。またイマームの怒りに触れて、恐ろしい結果を招くことには極力避けるために腫れ物に触るように世の中の現実の話、不愉快な話は知らせようとはしなかった。
 その結果自治領国家内には治安の乱れから盗賊が跋扈した。他にも狂人イマームの引き起こす奇妙な問題それは後継者いじめであった。後継者予定のルクン ウデイーン フルシャーはイマーム18歳の時の子供であった。ニザリ派の教義によって長男が後継者に決まるので、彼が幼少期を過ぎると人々は将来のイマームとして父以上に敬慕した。それを知った父は嫉妬して彼を虐待し始めた。
 フルシャーは我慢が出来なくなって、イマームの日頃の無茶な言動から絶望的な嫌悪感を抱いた親族のところに訴えに行き父の政治行動がモンゴル帝国の軍隊をこの国へ引き寄せていると嘆いた。
 そして息子を取り巻く親族や貴族の中に同調者があらわれて、彼に服従を誓い、最後の血の一滴まで彼を守ると約束した。このような取り決めをしていたある日、1255年12月1日イマームは酒に酔って、ラージェ ダシュト村の橋(地図2参照)の手前の山(シャールード川を渡らない)の頂上にあるシールクー(白い山という意味で後にシールクー城が出来る)にある羊小屋の隣の竹と藺草で作られた建物の中で眠っていた。彼はあまり趣味のよくない娯楽があり、それは羊飼いと行うある種の娯楽のためにこの建物に住んでいた。彼の周りには下男と駱駝飼曳きが泊まっていた。夜半になって、気が付いたら彼はこの場所で死んでいた。彼の首は胴から離れていた。彼のそばに寝ていた一人のインド人と一人のトルクメニスタン人は少しの傷を負っていた。一週間いろいろな人が嫌疑をかけられ拷問を受けたが、最終的に父の暗殺者はハサンという人物で父の親密な腰巾着で、切り離せない仲間、娯楽の相手であった。送電線工事時代にもシャリーヤ(シーア派宗教規範)で金持ちは5人までの妻帯を許されたが、貧乏人は結婚できないので男色が各地でみられたことを思い出した。今でもイラン人に話すと噴き出して笑う逸話がある。それは暗殺教団のダイラム地方のただ一つの大都会ガズヴィン市に伝わる。『渡り鳥さえもガズヴィン市の上空を飛ぶ時は必ず手を尻に当てて飛んでいる。』というものだ。
 イマームが死亡して、長男ルクン ウディーン フルシャーがあとを継いだ。
 新イマームのフルシャーはハサンを裁判にかけないで殺害させた。
この時代で最も輝かしい話は教団がスンニー派宗教を実践していたのでスンニー派の神権的な権威の中心にいたアッバース朝との関係は非常に良かった。また1231年ホルムズシャー朝も滅びた。
 こんな権力空白に乗じて教団はインドへ宣教師を派遣して、再び宣教活動を活発に展開して成功している。また文化的にも多くの学者例えば天文学者で世界的に有名なナシール ウデイーン トウースイーなどがアラムート城を訪れて、ハサン・サッバーフの遺した図書館を利用し研究を行った。

ペルシャ八代目 フルシャーの執政史
(ルクン ウデイーン フルシャー)
統治期間:1255-1256 統治年数:1 居住城:マイムンデイズ城 聖職位:イマーム
 フルシャーはニザリ派最後のイマームである。居住地はマイムンデイズ城であった。
なぜアラムート城ではなかったのか、父の虐待や日頃の無茶な言動、奇妙な娯楽などを避けるためだったのかもしれない。マイムンデイズ城はアラムート城より更に難攻不落な城だとされているが、未だ城の全容がはっきりしていない。
 イスラム教シーア派の異端派と白眼視されながら、自治領国家を形成して領民から税金を徴収して160年間生き延びたが、このイマーム最後の一年の政務執行史は国家存続のために司令官フラグと丁々発止で熾烈な政治外交を展開したが、1256年11月遂に命運尽きて滅び去ったのである。

8.ニザリ派自治領国家崩壊の歴史

モンゴル帝国の西方遠征団(モンゴル帝国史より)
 先にも触れたが、この自治領国家の崩壊はひとえにモンゴル帝国が派遣した西方遠征団との戦いで敗れたからである。それでモンゴル帝国史よりその流れを追っていくと『モンゴル帝国の大ハーン モンケが西方遠征団派遣を決意した主な理由は1216年チンギス ハーンがホラズムシャー朝へ派遣した商業使節団一行400人を侵略の密偵だとして皆殺し事件に対する報復としてホラズムシャー朝討伐のためにチンギス ハーンが自ら率いたモンゴル軍にモンケが参加してサマルカンド、ブハラに出征した1219年頃のある日ガズヴィン市の大法官シャムス ヴイッデーンが鎖帷子(鎖でできたチョッキ)を身に着けて自分の前に現れたのに驚いた。モンケはこの法官に理由を尋ねたところ、それはニザリ派の短剣から身を守る為に常に衣服の下にこのような鎧をつけているのである。と答えて更にこの機会に、この大胆不敵な教団の陰謀について詳しく述べたので、この話が彼の心に生々しく刻み込まれた。この法官の居住地ガズヴィン市はニザリ派教団とは僅かに一つの山脈で隔てられていて、この山脈とエルブールス山脈の間がダイラム地方で、そこが彼らの本拠地であった。
 この都市の住民は絶えず彼らの攻撃に曝されて常に警戒をして生活していた。(地図4参照)
この教団の恐怖が最近大ハーンにも及んでいたことがフランス王の使節としてフランドルの司祭ルブルクが1253年にモンゴル帝国の首都カラコルムへ派遣された時に判明した。それは使節が宮廷に入廷する前にあまりに入念な警備体制を敷いているのに驚かされた。理由を尋ねると大ハーン モンケを暗殺するために40人のニザリ教徒が様々に変装してカラコルムに最近送り込まれたという事が判明した処置だという。彼らは宮廷内の職務に雇用されてアラムートの指令によってスパイ活動をするのが目的であった。 
 モンケは西方遠征団の司令官に弟のフラグを任命して、何よりもまず自分の命を狙うニザリ派教団を根絶するようフラグに命じた。
 次にイラクのバグダートのイスラム教スンニー派の宗教的権威国家アッバース王朝を滅ぼすことが命ぜられた。
最後がシリアに進出して、可能ならばエジプトもその支配下に置くことであった。
 そしてまず1253年にニザリ派教団のイランのホーラサン州の東方にあるゲルドクー城を倒すために将軍ゲドブカとココ イルゲイと12,000人の軍隊を先遣隊として送り込んだ。
一方西方遠征隊のフラグ司令官は1256年5月にイラン東部のホーラサン州の町サーヴェに到着して幕営を張り本格的に指揮を開始した。
フラグはサーベからホーラサン州に点在するニザリ派教団城と将軍ゲドブカとココ イルゲイの戦況を確認した。
それによるとこの両将軍はこの州のいくつかの要塞は占領して破壊したが、肝心要のゲルドクー城が落とせなかった。』と述べられている。ゲルドクー城のニザリ派と先遣隊との戦いはゲルドクー城の解説で述べる。

無血開城を狙うフラグと延命を乞うフルシャーの駆け引き(モンゴル帝国史より)

 『ニザリ派イマームのフルシャーはモンゴル軍のイラン到着を知ったが、ニザリ派内部には何とか事前の交渉で戦闘を避けながら、譲歩で被害を最小限に事を納めたいと考えた人々と最後まで戦い抜く人々で意見が分かれた。フルシャーは前者で、また彼の相談相手だった天文学者ナシール ウデイーン トウシーはイマームの星回りが不吉であると理由で降伏を選択するように勧告した。それには自分の方から素早く降伏の意思表示をして良い印象を与えようと居城マイムンデイズから一人の使節をハマダーン市にいるモンゴル軍の将軍ノヤンへ派遣して、モンゴル皇帝へ降伏の書状を使節に託した。これに対してノヤンはその使節にホーラサン州のサーヴェにフラグ司令官(写真4酒飲みフラグ)到着したので、その幕営にイマーム自身が赴くように勧告した書状を託した。しかしイマームは1256年5月自分の弟のシャーハンシャー(王の中の王という意味)を派遣するとノヤンに返答した。フラグはサーヴェの幕営でイマームの弟シャーシャンシャーに謁見した数日後の1256年6月イマーム フルシャーに書簡を送って、その中であなたが弟を派遣して降伏の意向を示したことを評価して、あなたがモンゴル人に対して行った過失を忘れてもよいこと、そしてもしあなたが自分の要塞や城を破壊して、自ら私の幕営に来られるならばあなたの領土に対して何ら危害を加えるようなことはしないことを伝えた。これに対してイマームは幾つかの城塁を破壊して、最重要なアラムート、マイムンデイズ、ラミアサール各城の城門を取り除かせて、その防備施設の一部を削り取らせた。イマームはフラグに服従を誓い、モンゴルの徴税官をダイラム地方に受け入れたけれども、自分はフラグの幕営に赴き朝貢することは一年間の猶予を求めた。フラグは1256年9月ビスターム市から使節をマイムンデイズ城に派遣して、その書簡には慈しみと威光の言葉を並べて、速やかにあなたが朝貢に来られるように促すものだった。その使節が城を去る時に教団の宰相シャムス ウデイーン ギーラキーを同行させて、フラグに対する自分の朝貢の遅延させたことについて弁解させる任務を託した。この他にもフルシャーはフラグにアラムート、ラミアサール、マイムンデイズの三城は保有できるように約束してほしいと懇願していた。そしてその条件の下で、その他のすべての城塁はフラグに引き渡すと約束していた。またフルシャーはゲルドクー城およびその他の北ホーラサン州の全ての要塞の守備隊の将官に命令を発してフラグの幕営へ赴き降伏する意思表示をするように指示したことをフラグに知らせた。フルシャーはこの大きな譲歩を考慮して朝貢の猶予を承認してくれるだろうと期待していた。フルシャーにとってはこのマイムデイズ城のような山間地域では軍事活動が妨害される冬の到来まで時間を稼ごうと企んだのが朝貢遅延の目的だった。 
しばらくして再びフラグはダマーバンド市付近に置かれた幕営へ降伏の意思を伝えるためにイマーム自身が来るようにと勧告した。もしあなたが政務の処理で数日要するのであれば、まずあなたの子供を派遣するようにとの指図を受けた。この新たな伝言にフルシャーはびっくり仰天したが、さっそく息子を派遣する旨表明して、さらに300名の徴募兵を提供するから自分の国ダイラム地方を侵略しないという条件で城塁の取り壊しに同意すると伝えた。しかし1256年10月7日実際は自分の息子ではなくて、父とクルド人の女奴隷の間に生まれた7歳の幼児を息子と称して、それに数人の官僚を同行させて派遣した。フラグはこの計略をすぐに察したが、知らないふりをして、この幼児はあまりにも若すぎるといって送り返した。同時にフラグはフルシャーの弟のシャーハンシャーを派遣するよう要請した。同年10月26日要請通り弟シャーハンシャーと徴募兵300名を派遣した。これでフラグは満足して、年内は自分を朝貢にこだわることはないだろうとフルシャーは期待していた。冬が来て雪が積もれば居城から出られなくなるという口実ができるはずだった。その間にまた動きがあってゲルドクー城の守備隊の司令長官のところにフルシャーの命令文を携えて行った教団の宰相はこの司令官をレイ市の近くのフラグの幕営に連れて行った。これはアラムート、ラミアサール、マイムンデイズの三つの城以外の城をフラグに明け渡すと約束した。そしてこれらの城の守備隊の司令官はフラグに会に行って、降伏の意思を表わすことも約束されていた。この宰相が帰還する際に弟のシャーハンシャーも送り返して、フラグは次のようにフルシャーに要請した。すぐにもマイムンデイズ城の防備を撤去して、イマームが自ら朝貢しにくればあなたを丁重にもてなすであろう。さもなければ未来のことは神のみぞしることになると告げさせた。
その返答が前回と同じ弁解と逃げ口実だったので、フラグはダイラム地方を遠巻きに駐留していた軍隊に対して、一斉にダイラムに侵攻するように命令を発した。それは1256年10月31日であった。まず右翼のマーザンダラン州(カスピ海地方)からブカ テイムールとココ イルゲイ両将軍が進軍し、左翼は現在のセムナーン州(ゲルドクー城のある州)からゲトブカとネグテル オルグの将軍が進軍して、ブルガイとトタルはアラムートの側面(ガズヴィン市から現在のアラムート街道)から進んだ。フラグは1万の軍隊を引き連れてビスキルからタールカーン路(タラガーン川沿いの道)を通してダイラムに向かって進軍した。
この軍隊の食糧は付近の各地方から、さらにはクルデスターン州(クルド族の州でトルコ国境、タブリーツ市方面)やアルメニア共和国、グルジア(現在のジョージアで相撲栃ノ心の母国)から運ばれることになっていた。運搬用の駱駝隊は準備万端整っていた。
全軍が1256年11月9日マイムンデイズ城に集合した時にフラグは城の周りを一周して、その様子を調査した後将軍並びに参謀と時を移さずただちに戦闘を開始するべきか、それとも翌年に延期すべきか相談した。時はすでに冬であり、食糧も馬糧も不足していた。
この理由により将軍は戦闘を翌年に延期したい意見だったが、参謀は強気な発言があった。
フラグは後者を採用して、攻撃の舵を切ったが、尚も戦わずして交渉でことを済ませないか試そうとしていた。そして将軍の一人をイマーム フルシャーに派遣して、自分が現地に到着したことを知らせるとともに、かれが戦争を避けたいならば、我々はあなた達にいかなる危害も及ぼさないこと、あなた達が降伏するまでに五日間の猶予を与えること、この期限が過ぎれば攻撃が開始されることなどの約束を彼に伝えさせた。城からはイマームが不在で、その命令なしには城を明け渡すことはできないという返事がきた。
そこでフラグは攻撃を決断して、軍隊は材木を伐採して投石器を作り、これを近くの山間に運んだ。フラグは出来るだけ高いところに司令部(写真M9ではないか)を設けた。フルシャーの守備隊からは終日弓矢や槍での交戦が続いた。翌日戦闘が再開されるとフルシャーは使者を派遣して来て、自分は今までモンゴルの司令官が到着しているとは知らなかった。戦闘行為は中止させること、自分は本日か明日フラグの司令部に出頭するつもりであることを伝えた。そして翌日フルシャーは降伏条件文書を要求した。フラグの宰相アタ マリク ジュワイニーはその希望に沿って文書を作成することを命ぜられた。
この文書はイマームに送られて、彼は翌日降伏すると約束した。しかし翌日かれの弟が城を出ようとしたとき城内で暴動がおこった。人々はかれの出城を阻止したのである。投降の意思のある人々は生命の危機に晒されたのである。イマームは自分の約束を守る行動に対する妨害と出城すれば殺すと唆す部下からの危険についてフラグに通知した。フラグは危険を冒さないように要請した。
こんな談判が行われている間にモンゴル軍による投石機が据え付けられた。翌日周囲が一里ほどしかない城は四方八方から一斉に攻撃された。戦闘はその晩まで続いたが籠城軍の戦闘方法は塁壁からの大きな岩石の塊を転がし落とすことだった。』

イマームの開城降伏(モンゴル帝国史より)
 『予想をはるかに超えたモンゴル軍の投石機による激しい攻撃と例年にはないほど温暖な年でイマームが抱いていた希望的な観測がみな外れてしまった。(写真M2の様に4月でも城の頂上には残雪があった)
1256年11月19日ついにイマームは降伏を決意して、まず自分の子供と重臣をフラグの幕営に送り、翌日イマームはフラグの司令部に出頭して平伏した。その時にイマームと同伴していた人はトウース市出身の有名な天文学者

ナスイール ウデイーンとハマダーン市出身の有名な医師ムワフィーク アッダウラトおよびライース アッダウラトであった。
 これらの人は降伏の際はフラグに完全に服従することが事前に通告されていた。それほど重要な人々であることがモンゴル側でも知れ渡っていた。特に天文学者ナスイール ウデイーンはモンケがカラコルムに連れてくるようにフラグに命令していた。世の人々には全く想像もできないような夥しい財宝をイマームはフラグに献上した。フラグはこの財宝を将軍に分配して、翌日マイムンデイズ城から守備隊が撤退して、住民も持ち物を携えて城の外に出たので、モンゴル軍は城に進駐した。
 イマームはフラグから厚遇されたが、モンゴル軍の将校の監視下で、ダイラム地方、クーミス、ホーラサン各州のニザリ派の要塞の司令官にそれらの要塞をモンゴル軍に手渡すことを命令するように強いられた。そして彼の代理人はフラグの要求した降伏勧告のために派遣した使者に同行させられた。
 40以上の城塁がこのようにモンゴル軍に引き渡されて、彼らによって空にされたのち破壊された。僅かにアラムート城、ラミアサール城、ギルドクー城の司令官は降伏を拒否してフラグが自ら現れるならば直接この城砦を手渡そうと言い逃れをした。』
 司令官フラグはダイラム朝の古都シャフラック村で九日間の宴を開いてアラムート城への侵攻前に計画が運よく成就される様にとまた陥落後は無事計画が成就されたと二度に渡ってこの村で酒池肉林の宴会を張って成功を祝ったと伝えられている。この村はマイムンデイズ城からモアレム ケラエ町(地図8)に戻ってアラムート街道を左折してアラムート城に向かって1kmほどのところにある。
村の中央をアラムート川が貫流して、その両岸には比較的広い農耕地帯が広がる静かな農村である。しかしダイラム朝の揺籃期にはこの王朝の本拠地だったとあるが今ではその面影は全く見当たらない。
 フラグ司令官は更にアラムート街道を東に進み『その後アラムートの山裾に赴き、そこからイマームをこの城塁の城壁の下に派遣して、その部下に降伏を呼びかけさせた。城の守備隊の司令官はそれを拒否した。フラグはこの城郭を包囲するために一部隊を残した。その後二、三日して、守備隊の司令官は考えを変えて、イマームに数回使者を送り自分たちの降伏後の助命と程よいとりなしを乞うてきた。イマームはフラグとの交渉が成立して、彼らの罪状をフラグは許して、彼らの財宝や所有物を運び出すために三日間の猶予が与えられた。四日目にモンゴル軍の軍隊とペルシャ人の民兵が城郭に上り、そこに残っていたものを強奪して、家屋に火を放った。時に1256年12月はじめだった。
 アラムート城には教祖ハサン サバーフが集めた多くの貴重な図書文献と彼が招いた医者や天文学者の研究論文についてアタ マリク ジュワイニーはフラグから調査を依頼された。そして彼はその蔵書の中からコーラン経の諸本とその他貴重な図書および天文観測機器を取り出した。
 その後フラグは1258年にタブリーツ市を首都としてイル汗国を建国した。この時に捕虜になったハマダーン市出身の有名な医師ムワフィーク アッダウラトおよびライース アッダウラトはフラグに仕えたが、天文学者ナスイール ウデイーン トーウシーをタブリーツ市郊外のエル ゴリ公園に天文台を建設して研究をさせた。モンケがこの天文学者をカラコルムの召喚するように命じていたが、この時すでに彼は死亡していた。』

降伏したフルシャーの処遇と使い捨ての末路(モンゴル帝国史より)
 『ラミアサール城へフラグは赴いたが開城降伏しなかったので、フラグは将軍タイル ブカにモンゴル人とペルシャ人の軍隊を与えてこの地を包囲させた。この城も更に一年の間耐え忍んだが、ついに1258年モンゴル軍に降伏した。
 フラグはガズヴィン市の近くにある自分の司令部へ帰り、この地で一週間にわたり宴を催した。その後イマームはフラグに随行してハマダーン市へ来たが、ここからフラグはシリアのニザリ派教団の諸城の城主に対して、これらの城塁をすべてモンゴル軍に引き渡すよう命令するために自分の幹部2,3人をシリアへ派遣することに決めたが、フラグはイマームにニザリ派の幹部を同行するように命令した。
イマームはフラグの幕営で滞在している間に、素性の卑しいモンゴル女性と親しくなった。フラグはイマームに彼女と結婚することを許した。この時まではフラグもイマームたち捕虜を厚遇してきた。それはニザリ派の多くの城塁を武力によって奪取するには多くの時間と労力が伴うので、イマームの権力を使って諸城塁の城主や司令官に降伏を促し勧告することに利用した。この手段によって、モンゴル軍は交渉による降伏を勝ち取ることにある程度成功した。
 ここに至って、フラグはもうこれ以上イマームを必要としなくなった。しかしマイムンデイズ城明け渡しの際に降伏条件文書の中に重臣と王侯の生命は守るとの約束があり、かれを亡き者にしたいが、自ら自分の言葉を破ることはできなかった。幸い以前からイマームは一度モンゴル帝国の皇帝モンケのもとへ朝貢で行きたいという希望をフラグに伝えていた。1259年3月フラグはいい口実が見つかったと思って、数名の将校を護衛にしてイマームとその九人の随行員を派遣した。イマームはモンケの宮廷に到着したが、モンケは彼に会うことを拒否して言った。この旅は何にも必要ではなかった。ただ駅馬を無駄に使って疲労させただけだと。イマームと随行員はこの地から引き返しモンゴル高原のカンガイ山付近に来た時に、護衛の将校たちによって殺された。
 モンケの最初からの命令でニザリ派教徒を皆殺しにすることであったために、イマームの全ての領民はモンゴルの部隊に分配された。イマームがモンケのところに朝貢に出かけている間に部隊が預かっていた全てのニザリ教徒を殺すように命令が発せられた。ゆりかごの中の嬰児まで免れることはなかった。』
イマームの家族はガズヴィン市とアブハル市の中間あたりというから、多分現在のターケスターン市に連れていかれて、そこでみんな殺されて、この家系の子孫は完全に絶えた。

マイムンデイズ城


 最後のイマーム フルシャーの居城だったマイムンデイズ城を紹介しよう。兎に角この城は他の教団城とは著しく城の痕跡が少なく謎が多くて捉えにくい城である。筆者は2014年4月この城を訪れて状況を調べたが城内へ足を踏み入れることが出来ないほど城門へのアクセスが破壊されていた。従って探検家や英国の調査隊の報告などを交えて全体像を報告したい。写真M2は地図4のラージェ ダシュト村(写真R1)からアラムート街道をマイムンデイズ城へ向かって数十キロ進んだ時、城の南西端が遠望出来た風景である。

マイムンデイズ城の地理的な位置
 この城はアラムート、ラミアサールと同じダイラム地方にある。ダイラム地方は地図2のアラムート川、タレガーン川、この二つの川が合流して出来たシャー川の両岸地帯を指している。(写真R1)
この地帯は準砂漠地帯であるがエルブールス山脈からの雪解け水が岩の隙間にプールされて、気温の上昇と共に伏流水となって川に流れ込むので、この川を挟んだ両側に広がる平坦な耕地では農作物栽培が盛んで、イランでも恵まれた農民が住んでいる。
 この城へのアクセスは地図8で示したように現地でもアラムート街道と命名されている唯一つの道である。
 ラージェ ダシュト橋からこの道をアラムート城に向かって進むと30㎞ほどでモアレム ケラエ町(地図8)に至る。
 モアレム ケラェ町に入る手前で左へ直角に曲がる舗装されない道に出会う。ここを左折して登坂すること約3分で、マイムンデイズ城の城下村シャムズ ケレイに到着する。ここで車を駐車して、シャムズとモアレムの村を貫通している小川沿いに山の方向に登っていくと30分ほどで城の絶壁に到着する。
この城は先述したようにイマームの統治したニザリ派教団国家最後の城である。 1959年と1962年に数ケ月わたって.イギリスのマンチェスター大学やイラン政府の協力の下で英国人ピーター・ウィリーを隊長としてカメラマン、地図測量士、医者、考古学者で構成された総勢6名の大規模な調査隊がダイラム地方の主要な教団の城を現場の近くの村でキャンプを張って滞在し、現地人を雇って掘削、運搬、道具造りをして調査した。この調査隊が世界で最初にマイムンデイズ城を調査してピーター・ウィリー著『The castles of Assassins』(略称:PW書)報告された。記載された調査箇所は主に馬の厩舎とそこに通じる幾つかの洞窟内の予備部屋と三か所の泉、西門を調査した様子が書かれているだけだった。アラムート、ラミアサール城に比べると物足りない調査結果であった。
2010年にラミアサール城を案内してもらったガズヴィン市のホテル”イラン”の経営者はニザリ派教団の城に詳しくて、欧米観光客にも自ら有料で案内してくれたが、今回は体調不良で不在、部下の若いマネージャーを雇って現地に向かった。残念ながら英語が良く通じないし、現地は垂直に切り立った断崖絶壁で下を歩き回る時も落石の危険があり、彼の案内に任せることにした。PW書が他の城に比べると物足りない調査だと断じたが、現場を見てその理由が判明した。一つ目は城としての痕跡がほとんど崩壊して残されていない。二つ目は城門が絶壁の上部にあって梯子かロッククライムの技術がないと城内に入れない。それで案内された現場をPW書と現場の写真によって説明したい。

南方から見たマイムンデイズ城
  マイムンデイズ城は写真M3である。これは南から見た景観で左が西側、右が東側である。先述したモンゴル軍の司令部はBの下辺りに設けられ、駐屯地、馬の厩舎はF辺りに設営されたとみられる。またM3の裏側(北)はエルブールス山脈の支脈ハウデガン山脈と繋がっていて、敵はこの険しい山脈を越えて攻めるのは不可能であった。
 したがってニザリ派は北側の防御には重きを置かなかったとジュヴァイニ述べている。
 この城の城郭は南西側の角で写真M3のA、B、Cに建てられた。城郭の左端には小川がモアレム キラエ村に向かって流れ落ちている。
また西側は写真M3、4に示すように切り立った幅の狭い岩塊でアクセスルートが全く見つからないので登頂は不可能である。東はPW書ではE,G地点を経由して山の頂上に登れるが城がない。従ってフラグの攻撃は南側からであった。今回ガイドは最初にAの断崖の下に案内して、その崖下をB,C,Dへとトラバースして村に戻った。
 この日(4月4日)も写真から判るように前日降雪があって、先述したフルシャーが期待したように12月に入れば積雪で攻撃できなくなるので、フラグとの交渉を来年までだらだらと引き伸ばそうと企んだ意図はうなずける。しかし残念ながらフラグの攻撃日1256年11月の気候は温暖だったので、雪はあったであろうが戦闘には支障を来さなかったらしい。

西門
 案内人が真っ直ぐに連れて行ったところがA辺りであった。何が根拠で、ここに案内したのかよく判らなかった。従ってA地点を案内されたときは、ここがPW書の西門の挑戦したときの梯子の場所とは全く気付かなかった。
しかしじっくり自宅でPW書の写真P と今回撮影した写真K1,K2を見比べたところ、ここに案内した理由が判ってきた。
 それは本に記載されている写真Pの壁面H,I と筆者が撮影した写真K1,K2の壁面H,Iを比較するとカメラアングルが若干違うが穴の形状は全く同じだということが判明した。
 PW書によると雇用した村の住民に長さ18mもある梯子の材料を準備させた。そし1962年8月30日にそれらの材料を地点A(筆者を案内してくれた)まで運ばせて(写真P1 )、梯子をこの絶壁に組立させた。従って彼らの梯子を掛けた壁面が案内されたA点の壁面であった。即ちA地点が英国調査隊の梯子を掛けて西門を探した地点であった。
そして案内人がなぜストレートにここへ案内したのか、その理由は彼らが調査隊に雇われて仕事に参加したシャムズ ケラエ村の住民から情報を得て、すでに知っていたということであった。
 現地調達のポプラの生木で18mはとてつもなく重い、一本を5人で運ばせたとある。釘は村で手造り、横木は薄い板で頼りがなかったが梯子は組み立てられた。村の城案内人を先に登らせたが、体重でギシギシ音がして左右に揺れたが無事中間の穴に着いた、次に隊長が登ったが体重が重く、しかもステップが60㎝間隔で脚の持ち上げが大変、しかも横木の取り付け位置が狭くて、足の置く位置が不安定で難儀の末に穴にたどり着いた。実は現場確認後隊長が降りる際に、地上から5mのところから梯子を踏み外して落下して、大けがをしたと述べている。 隊長の目論見ではその穴から、何とか道らしい通路で西門に行けると判断して梯子を使ったが、実際はロッククライミングの技術がないと行けないことが判明して、この西門への挑戦は断念したと書かれていた。
 このA地点を南側からもう少し全体の位置関係を見ると写真M5になる。A地点の左右の壁は南方角へ100度ぐらいで開いている。この絶壁にはかなり大きな洞窟の穴はあるが、どれが西門なのか確定は出来なかった。
  写真M5の右下の別荘の脇を左右に横Vの字に道が折れて登って行く途中で、A 点の眞下の道から何か上の方に洞窟の大きな穴があるので撮ったものが写真M6である。
この右側の穴が調査隊の梯子の壁にあった壁面Hであったことは机上で写真を調べている過程で発見した。
写真M6はA点に案内されていた時に上の方に大きな洞窟があるので、望遠レンズで撮影したので、手前の横岩板が遮っているが、写真P のように実際は高い絶壁の上の方にある穴である。
 PW書はこの穴を西門とは見なしていなかったと思われる。従って隊長はこの穴まで梯子で登ったが、西門は更に15m上で、しかもロッククライミングのような技術が必要だと判断して断念したのだろう。
西門はこの壁面のどこかにあるらしいが、それを確認することはできなかった。
左のV字の切り欠き穴は何か。

城の痕跡 
 このA周辺の絶壁を眺めていると、マイムンデイズ城はアラムートやラミアサールと違って、城の重要な城門、監視塔などの構築物の痕跡がほとんど残っていない。
 PW書にも城門、監視塔などの写真はなくて、洞窟内の馬小屋とそれに通ずる回廊、警備、貯蔵部屋の床や壁の掘削した跡などの写真しかない。PW書によるとマイムンデイズ城の防塁はジブラルタルの岩の内側に造った防塁と同じ概念で造られたと述べている。
モンゴル軍による徹底的な破壊も痕跡消滅に加担したであろう。
 また厳しい自然環境が影響している。それは山の岩質が砂岩で冬季の降雪と春の雪解けで、1256年放棄されて750年も経過すると小石とレンガを石灰で固めた城壁は壁の内側に侵入した水分の氷結、解凍の繰り返しで崩壊したのだろう。

この現象は山全体にも影響している様子(写真M7)が岩の柔らかな所が降水で洗われて丸くなり、流れ落ちる時に壁を溶かして深い溝が出来ている。
 現場で発見できた唯一の城の痕跡はA点から左側の壁に張り付いた小石とセメントの半円柱状のもの(写真M7)である。この構築物は山の肌色と同じ色彩の塗料で塗られている。城をできるだけ目立たないようにカモフラージュしたようだ。

モンゴル軍の戦闘態勢
 フラグが1256年11月9日マイムデイズ城の攻撃を決断して、近隣の村民はモンゴル軍の指導で材木を伐採して多くの投石機を作り、これを近くの山間に運んだ。モンゴル軍は投石機を城郭の周囲に据え付けた。その間籠城軍は矢や槍を投射してきたが、翌日モンゴル軍が一斉に投石機で周囲が一里しかない要塞を四方八方から攻撃した。その結果防戦するフルシャーの籠城軍はもっぱら塁壁の高いところから大きな岩石を転がり落として対抗した。この地域では例年なら雪で道路が使えなくなるが、この年の気温が異常に温暖で、予想以上の猛攻撃にフルシャーは降伏を決意した。
今回撮影した写真をもとに、フラグがマイムンデイズ城を攻略する過程を想像してみたい。

城への侵入ルート 
 これはフラグの参謀で歴史学者イラン人のジュワイニによるとアラムート川から城に迫ったとある。このことは現場の地形から見て、当時の名前は違っただろうが、モアレム ケラエ町、シャムズ ケレイ村の川沿いを通って侵攻したのだろう。
 ここではフルシャーが城に迫って来たモンゴル軍の様子をどのように観察したか それを城の西門の直下からアラムート川方向の眺望が写真M8である。
この写真で判るように城の西門の壁面は約100度の扇状に開いているから扇の西門城壁は奥まっている。それで左右が影を作っている。左遠方にシャムズ ケレイ村が見える。
侵入ルートのエンドポイントが写真M9の別荘のある緩い丘陵である。右の男はガイドさんである。
平成26年4月5日は前日雪が降って地面が白っぽい。この雪はイマーム フルシャーが期待した11月の厳寒の季節入りがモンゴル軍の侵攻、戦闘の回避に繋がるという推測は正しかったが不運にも暖冬だった。

モンゴル軍の司令部
 フラグの歴史家ジュヴァイニはモンゴル司令部の設置に軍旗、城を見渡せるような丘陵を選んだと書かれている。モアレム ケレエ、シャムズ ケレイの川沿いを西門に向かって進むと写真M9の丘陵で行き止まりになる。一方教団の籠城軍の戦闘方法は城壁の開口から敵に向かって大きな岩石を転がし落とすことだった。従って司令部をあまり城壁に近いところは危険で選べなかったはずだ。丘陵の別荘の存在が落石の心配がないことを証明している。また城全体を見上げる位置にある。この周辺が司令部の位置だったろう。
 ここは丁度写真M9の下方に扇状に広がる緩やかな傾斜の丘陵地である。

モンゴル兵のキャンプ地と馬の舎場
 フラグは1万の兵隊を連れて、また他の3部隊がマイムンデイズに向かったというから全部で2万以上の軍隊になっただろう。これらのキャンプ場は平坦部のない城周辺は無理なので、シャムズ ケレイ村の北部で城に近いところ(写真M3)、民家のある辺りではないだろうか。ここは4月でも左側の藪に小川が流れていた。

モンゴル軍の戦闘武器投石機

 ヨーロッパでも12世紀の城攻め定石として投石機が使われていた。ドーソンのモンゴル帝国史によると『近くの材木を伐採して、多くの投石機を作って山間部に運んで据え付けた。それが完了した翌日周囲が一里ほどしかない城は四方八方から一斉に攻撃された。』とある。 城の周囲は確かにA,B,C(写真M3)周辺だけなので、一里(中国約500m)ほどは正しいと思われる。投石機図は古代、中世に地中海、ユーラシア大陸で使われていた簡易な投石機の見本である。このタイプの投石機はマンゴネル(ペルシャ語でマンジャニーク)と呼ばれて弾丸石を低軌道で強い発射力で投石することができた。従って城壁の内側へ打ち込むよりもむしろ城壁を破壊することを目的とした。また写真にもあるように豊富なポプラが木材として利用された。
投石機は弾丸石を飛ばすメカニズムとして強力な鋼弓や太い強力なゴムバンドを取り付けて飛距離をあげる構造だ。これなら現地調達の部材で簡易投石機が造れる。ただし弓、ゴムバンドはこのような田舎にはないので、モンゴル軍は城攻めの必要常備品として常に携帯していただろう。実際の投石機部材は現地のポプラ生丸太をロープや木の皮で結束し、車輪は必要なかっただろう。
 城郭の崖下をガイドに案内して貰ったが山から落ちて来たと思われる直径1mぐらいから10cmまで無数の落石が散乱していた。これらの落石には写真M10のように赤茶色の斑点がついている。周りの石よりも光沢がなくて、エッジがあり、表面が粒状の凝結肌であった。これは恐らくモンゴル軍が投石用に外部から持ち込んだ弾丸石が一度城に激突した後割れたり、欠損した石ではないかと思われる。

謎の多いマイムンデイズ城
 この西門がこれほど高い位置にあるとすれば当然地上から長い歩道がなければならない。それは恐らく絶壁に穴をあけて丸太木材の梁を打ち込んで、あるいは凸壁を削って台を作り、その上に小石とレンガを石灰で壁と接着して梁として、梁と梁の間を板材でつなげば歩道は出来る。この低勾配の歩道をジグザグにして西門まで設置したのかも知れない。
 マイムンデイズとはイラン語で猿という意味であるが、この城は猿城、確かに人間の運動機能では思うような居心地にはならないが、猿のような軽くて敏捷な運動能力には安全で居心地が良い城かもしれない。
しかし洞窟には畑は出来ないし、水、貯蔵設備などスペース的にも技術的にも限界があるだろう。長期の籠城は不可能ではなかったかと推察される。戦闘結果をみても戦闘開始の翌々日には白旗を上げているので、歴史書に書かれているほど難攻な城ではなかったのではないかと思われる。兵糧攻めが最も効果的ではなかったろうか。
 イランが再び世界に開かれた友好国になったら、新たな調査で城の詳細な実態が解明されることを願っている。

ゲルドクー城


この城のニザリ派の将軍の手に渡った経緯は教祖ハサンとゲルドクー城関わりの歴史で述べられているので参照の事。

ゲルドクー城の地理的な特徴
 ゲルドクー城はダムガーン市の西北約18kmに位置していて、当時教団の城主にはこの周辺を通過する旅人やキャラバン隊に対して通行税を請求できる特権が与えられていた。地図2に示すように古河電工1978年の工事プロジェクトのネカ発電所をスタートした電力送電線工事ルートの現場事務所があったサリー市は海抜マイナス30mのカスピ海沿岸に位置して多雨多湿地帯で水耕栽培のできる農業の盛んなマーザンダラン州の中心都市である。一方サリー市からエルブールス山脈を超えてバグダッドと中央アジアを結ぶシルクロード(地図2右下点線)へ通じる交易上重要な要衝地ダムガーン市と街道で結ばれている。またダムガーン市には関所があって、そこを通過するキャラバン隊や旅行者から通行税徴収がセルジューク朝に許可され経済的に恵まれている地域だとハサンは認識していた。
 この城はアラムート城やラミアサール城のような山脈から発生した丘陵で結ばれた山容ではなくて、写真G2で示すように城の北側はエルブールス山脈から数キロ離れてイラン国土の約三分の一を占めるカヴィール砂漠の広大な平坦地に円形ドームの様に全周囲が断崖絶壁で囲まれた単独峰である。従って丘陵がないので攻める基盤が見当たらないという点で前の三つの城より防衛機能が高かったと言える。
 教団本拠地アラムート城からテヘランまでは現在の道路で約240km、一方テヘランからダムガーンまで約340kmあり、ダムガーン市からゲルドクー要塞までは西北へ約18kmほどである。従ってアラムートからゲルドクーまでは車道距離で約597kmである。(地図2
 この距離は本拠地アラムートからの援軍派遣も当時の移動方式では孤立無援である。それをカバーするのが防衛力の高い城郭であると認識されていた。
 現在でもテヘランから東方のアフガニスタン国境に近いマシャッド市に向かう高速道路でバスがダムガーン市近郊に近づくと左側にドーム型の山塊が容易に認められる。

ゲルドクー城の特徴
 この城の特徴を表す中国人の逸話がある。それは西方遠征隊司令官フラグが教団の本拠地ダイラム地方の諸城を陥落した1256年フラグの兄で中国元朝世祖クビライが漢人常徳に命じて、この地域を探査するために派遣された。
 この常徳の土産話が“西使記”の中に書かれている。それによると、『暗殺教団ムラーヒダ(異端者)の山城は360もあったが、みんな降伏した。たがダムガーン市の西方の山城でゲルドクーという名の城があった。孤峯がそそり立ち、矢も石も届きはしない。王師がこの城の下まで来たがその高く険しいことは、仰いでこれを見上げると帽子が落ちるほどである』と記している。
 2011年10月にイランの友人にゲルドクー城の資料はないかと尋ねたところ、ペルシャ語で書かれた資料が提供された。
これを彼に英語に翻訳してもらったものが次のようなものである。
『ゲルドクー城はダムガーン市にあり、別名は”ゴンバタン デジ”という。ゴンバダンとはドームを意味し、デジとは城を意味する。
 この城はあまりにも美しいし、興味が尽きない、ダムガーン市から西方18kmにあり、ホダラート 村から8kmにある、城に向う道路は非常に悪くて、城に到着するのが困難である。
 この城のある山はドームのようである、それでこの名前がついだのである。
山の高さは215mあり、その長さは500mある。歴史的にもイラン人にとって古から緊急事態の避難場所だった。
ゲルドクーの東側には三つの貯水池を有する一つの堅牢な建物があった。
 建物内にある貯水池の大きさは長さ27.8mx幅21.54mx深さ20.4mあるが、現在は時の経過で土に埋もれてしまった。
現在では井戸水を見るようには水を見ることは出来ない。
貯水池の上方には”ピチハール”という小さな泉があり、そこから水路管で導かれる。
周囲を監視する為に幾つかの小さな監視塔が城の回りに建てられた。建物は石材で造られた。
最後に城に入る道路は城の東側からであり、監視用の建物よって注意深く観察される位置だ。』
と書かれている。
このピチハール泉は多分城の北側のエルブールス山脈(G2)にあるのだろう。
この泉から城の貯水槽へ導くシステムはアラムート城と同じようにサイホンの原理を利用してピチハール泉と同じ水位の貯水槽を作り管路で結び常時一定の水量を確保したのだろう。
また“世界の歴史”(イスラムの時代)によると『ゲルドクー城は円筒状の巨岩が約215メートルもの高にそそり立ち、その頂上の近いところをくりぬいて城砦にした。飲料水はやはり岩を掘って空洞を作りそこに雨水をためるようにしてあることはアラムートその他の山城と同じであった。』
と記されている。

城門
 城門はG3の矢印1の落石堆積土を登り矢印2の狭い路肩を渡って城門前庭(G4)に至りここから一人幅の登坂

石段があって城門を通過して頂上で左折すると城郭へ至る。

井戸
 マーシャル ホジソンの“暗殺者の秘密指令”によると『この城の司令官に収まったムザファールはセルジューク朝の費用負担で徹底的に満足される築城をしたが、特に水の確保には力を入れた。困難な地形の上に深い井戸を掘らせたが、うまく水源に到達出来なかった。
しかし幸運にも一年後に地震が起こって、そこから水が湧いて来た』と書かれている。
写真G6、7はムザファールが掘った井戸と思われる。
 この他にも城門の少し高い通路脇の岩陰や山の中腹の傾斜の緩い場所には井戸跡の形跡が幾つも発見できる。でもほとんど土で埋もれて穴の周辺しか確認できない。しかしG6、7はハッキリと認められる。


貯蔵庫
 この城の貯蔵庫は写真G8の様に城郭頂上西側の急斜面に長さ2m幅0.7m深さ1mほど掘削貯蔵庫群が広がっている。また遥か彼方の地上に見える土盛り帯はモンゴル先遣隊が構築した外側と内側と並走した防塁である。この防塁から撮影したのがG9である。G9の煉瓦積み貯蔵庫と上方に点在する土盛りはいずれも掘削貯蔵庫群である。従って城の貯蔵庫群は全て西側斜面に集中していた。これらはラミアサール城貯蔵庫(写真F)に酷似している。ただ他の城写真Fとの違いは粉石と石灰の内壁が施されている点である。尚G9の煉瓦積み貯蔵庫はこの城以外では見当たらなかった。


モンゴル帝国の西方遠征団の先遣隊攻撃
 モンゴル帝国の西方遠征団で述したように、この城が最初に危機に晒されたのは1253年にモンゴル帝国が西方遠征隊の先遣隊として派遣した大将キドブハが率いる12,000人の部隊であった。
この城への攻撃用アクセスは周囲が断崖絶壁(G1G2)で囲まれて見当たらないが、やはり城門(G3)しか無かった。
現在のアクセス路は写真G3で示すように落石堆積土上(矢印1)を登って左折して観光客用の狭い掘削平坦小道(矢印2)を歩いて城門前庭(3)へ、更に門を通過して左に迂回すると頂上の城郭郡に至る。この過程を筆者は登山靴にスパイクを持参し、30歳代イラン女性が登山服装で案内してくれたので決して難しい事ではなかった。
しかし当時落石堆積土(矢印1)はなくて左側の岩帯と同じような絶壁で囲まれていた。また観光客用の狭い掘削平坦小道も左側岩帯と同じ状況であった。従ってこのアクセス路で城門(写真G3G4)へ辿り着くには人や馬が一列で登れる幅の石段はあったが、武装した兵士が敵の攻撃を避けて登坂するのは並大抵なことではなかった事が戦闘結果で示された。
写真G4は西南側の城郭の遺構である。写真G5は城の角城壁の遺構と遥か下方の地上にはモンゴル先遣隊の司令部基地と内外の防塁が鮮明に確認できる。この城郭遺構の周辺には投石弾は見当たらなかった。実は後述するが城攻めに最初投石機を使ったが飛距離を欠き失敗したのである。

先遣隊の城攻め戦術
投石機の弾丸石
 マイムンデイズ城の城攻めで簡略に触れて見たい。マンゴネルの特徴は強い弾性の鋼弓と強力なゴムバンドで結ばれた支持棒の終端に固定した椀状のバケットに弾丸石をセットしてウインチで支持棒を後方に引き込んで一気にウインチロックを外すと弾丸がバケットから飛び出す原理である。従って弾丸を低軌道で且つ瞬発力の高い投擲が可能であった。そのために防壁を超えて打ち込むよりもむしろ、防壁を破壊することを目的とした。実戦ではマンゴネルで弾丸石の他に燃焼物即ちファイアーポット即ち衝撃で炎上する可燃物を充填した容器も使われた。
 一方現場を訪れた時に城門(G3)麓の平坦広場(現在は簡易駐車場)で写真G10の様な直径25−35cmぐらいの弾丸石が広範囲に散乱していた。
 これは1253年先遣隊の猛将キドブハが城攻めにマンゴネルを使用するために準備したのかもしれない。 しかし先述した中国人査察官常徳が矢も石もとどきやしないと述べているし、マンゴネルの飛距離では届かないので投石機を諦めたのだろう。2016年城の頂上の城郭群の周辺を調査したが弾丸石は全く見当たらなかった。

先遣隊の築いた防塁
 投石機を諦めた猛将キドブハが執った戦術をドーソン著“モンゴル帝国史”で次の様に述べている『西方遠征隊の先遣隊として1253年に12,000人の部隊の大将キドブハ(ケドブカ)がクーヒスターン州征服に取り掛かっていくつかの要塞を占領した後この地方で最も重要な要塞ゲルドクーに水も漏らさぬ攻囲陣を張った。城内の守備隊に対抗するために、また外部から敵軍に対抗するためにキドブハはこの要塞の周り全部に大きな濠を備えた城塁を築き上げ彼の陣地の後ろにも城塁を築いた。このような警戒にも関わらず最後のイマーム フルシャーが派遣した110人の援軍はこの城塁を突破してゲルドクー城へ入場することに成功した。』
帝国史が述べた通りキドブハは山城をとり囲むように山裾に写真G11,12に示す様な石と粘土の防塁を築いた。防塁は自らの陣地を城のニザリ教団守備隊と背後の敵援軍からの両面攻撃に備えるために写真G12に示す様に内外二列の防塁を建設して兵糧攻めの長期戦術を執った。
 地上では防塁の劣化が激しくて内外二列ははっきりしないが城の頂上から見渡すとG8,G5の様に城を取り囲んで

いる様子が確認できる。それによって城と外部との一切の文物の交流を遮断して兵糧攻めの長期戦となった。
しかし敵も強者で1256年末フラグの西部遠征本隊のマイムデイズ城攻撃に参戦するためギドブハは諦めた。フラグの軍隊に合流してマイムンデイズ城、アラムート城などを陥落させた後イラク、アナトリア、シリア方面に転戦して行った。 
 
ゲルドクー城の崩壊の歴史
 この城はニザリ教団の崩壊した1256年から14年間も生き延びて、1270年再びイル汗国の攻撃に篭城で対抗したが最後は力尽きて降伏した。降伏した理由に面白い逸話が残っている。それは食べ物や飲み物の欠乏ではなくて、着る物がなくなって裸同然の姿で投降したそうである。
 この戦いの敗北後、この城は一旦イル汗國の所有になったが、1384年にアミール ヴァリという人物によってチムール帝国から再び奪い返した。
 しかしその後アミール ヴァリはアスターバードにおけるチムール帝国との戦いに敗れて、彼の妻や子供たちをゲルドクーに残して、彼は逃亡した。
 1397年には完全に破壊されて姿を消した。

マルコポーロの東方見聞録
 この城がモンゴル族イル汗国によって滅ぼされた1270年頃にイタリアの商人マルコポーロがシルクロードを通ってイランのタブリーツ、ガズヴィン、テヘラン、ダムガーン経由して北京に向かっていた。この時にダムガーン市民から聞かされた教団の噂話をネタにしたと推察した筆者の話を思い出して欲しい。

20世紀の探検隊に忘れられたゲルドクー城
 この城は教団にとって戦略的に如何に重要だったか説明してきたが意外な事に20世紀中頃まで全く欧州の調査隊の未踏の城として残っていた。まず1937年頃イギリスの女性探検家フレア スターク女史がダイラム地方から古河電工送電線工事現場だったエルブールス山頂のカンダワントンネルから東側谷あいを雪解け水が集まってアラムート川と合流するタレガン川流域のドホタール城、更に下流のアフマド ラージェ城、カスピ海沿岸のマーザンダラン州チャルース市近郊のハッサンキーフ変電所至る主な教団の城を踏査して作成した著書“暗殺教団の谷”でも この城は取り上げられていない。
 また英国の探検家ピーター ウイリー氏が率いる調査団が1960年頃ダイラム地方の教団の主な城を調査した報告書“The castles of Assassines”にも、この城は全く触れられていない。しかし前述したように教団に対するこの城の貢献度は高く、防衛能力も教団の中で随一の優れた城であり、しかもシルクロード上にあり、彼らにとって所在が判っていれば容易にアクセスできる。
 その理由は国際考古学会でも20世紀後半までその所在が不明だったと言われている。
 ところが1991年NHKスペシャル “大モンゴル帝国 第一集 幻の王 プレスター・ジョン” (1992年放送)でこの城が取り上げられて、カメラマンがこの城に登って撮影している。
 2020年はコロナウイルスとトランプの米国、イランの関係悪化でイラン経済は不況のどん底に陥り国際交流は全くストップしたがバイデンの米国、コロナの沈静化で2021年後半から国際交流が復活して調査隊による本格的な発掘調査が期待されよう。

ニザリ派教団の末裔の歴史
 このニザリ教徒の運命についてはその後の諸説が浮かび上がってきた。
 フラグの宰相アタ マリク ジュワイニーの著書”世界の征服者の歴史”の中に、「これ以降ムラーヒダ(ニザリ教徒)はユダヤ人と同じように諸国に分散した。これらの刺客の脅威を受けていた国王たちはその不安から解放されて、ルーム セルジューク(アナトリア)、シリアのザンギー朝、パレスチナのフランク(十字軍の国)の王侯たちは彼らに支払っていた貢納を免れるようになった。」
しかし実はこの出来事でムラーヒダは全滅したと当時は考えられていたが、「1500年ごろホーラサン州ではニザリ教徒が相変わらずハサン サバーフの一割献金という習慣を維持して税金を納めて、その収入で彼の墳墓の維持管理、装飾に充てられていた。」とペルシャ人の著書ヘラート史の中に語られている。
またバーアナード ルイス著”The Assassins"によるとフルシャーの小さな息子(ないしは孫)シャムス アッデイーン ムハンマドが生き残り、父の死とともにイマームを引き継ぎ生きながらえて、イマームの血統を伝えた。1275年ごろにはアラムートを一時奪還したとも伝えられている。その後タブリーツ市周辺のアゼルバイジャン地方に身を隠して1310年ごろに没した。
 そしてニザリ派国家の滅亡後、ニザリ派の村の人々は四散したが、一部の人々はタキーヤによってニザリ派信仰を秘匿して、スンニー派や十二イマーム派、そしてイスラム神秘教団スーフィー教を装う者が現れた。
アゼルバイジャンで没したイマームの血統はその後はっきりしないが、新たな宗派が二つ生まれる。
一つは1375年ごろカスピ海近くのラヒジャーン市からエルブールス山系へ国道を数キロ入るとダイラム朝の王家の故郷デイラマーン地域(11世紀頃はこのキーラン州、隣のマーザンダラン州、南隣りのガズビーン州はダイラム地方だった。)で活躍していたムハンマド シャー派、もう一つがカースイム シャー派である。
 前者の血統は18世紀には完全に消滅した。カースイム シャー派のイマームは15世紀半頃から自分たちの本来の宗教活動の他にイスラム教神秘教団スーフィー教のタリーカ(教団)を形成して、教徒が神と一体になるための神秘的な修行を積み重ねることを指導するピール(長老)とかシャイフと呼ばれる師匠を務めていた。この頃のニザリ派はタキーヤで隠匿しながら穏健なイスラム神秘スーフィー教団に化けているので、16世紀にはサファビー朝や十二イマーム派スーフィー教団の援助を受けて勢力を拡大した。サファビー朝の生まれ故郷はアルダビールで、そこで王様の祖父がスーフィー教団のピールとして多くの奇蹟を起こしたために沢山の信者が集まり、それが大きな勢力に成長した。その後多くの歴史的な紆余曲折を経て、この派のイマームが19世紀のニザリ派のアーガー ハーンの誕生に繋がる。現在のアーガー ハーン四世がニザリの血統を継いでいるか否かはDNAで鑑定しないと判らないと思われる。
しかしご存知の通りイギリスの貴族として殿下の称号で呼ばれる彼はアーガー ハーン開発財団を組織して、パキスタン、アフガニスタンなど第三世界各国で社会福祉活動を行っている。またヨーロッパの競馬界では最強の競走馬の馬主としても有名である。
令和5年1月13日