51年前のアルバム写真修復:6か月間ルーマアニア出張
      川村  知一 

51年前のアルバム写真が退色・変色していたので、最近の写真技術で修復を試みた。
修復作業をしていると褪せていた記憶が蘇ってきた。

ルーマニア出張1970年12月25日~1971年7月8日(6か月間);
29才独身、初めての海外出張6か月、出張先は社会主義国ルーマニア、任務はプラント輸出設備立ち上げ、技術指導であった。
※1970年には「よど号」事件があった。

起稿の;動機
ルーマニアはウクライナの隣国、黒海でも隣接、ウクライナ語はルーマニア語に近い。

写真の修復;(一部にピンボケ、変色残りあり)
最近のデジタル一眼レフには優れた編集機能があり、退色したL版カラープリントを複写→カラーカストマイズ(色調整)

羽田国際空港発
1970年12月25日20:00発KLMアンカレッジ経由アムステルダム行きDC8。
当時はソ連上空を飛行できず、DC8は航続距離が短いためアンカレッジで給油、搭乗率は30%程度、ひじ掛けを上げて横になれた。

アンカレッジ
アンカレッジ着陸体勢に入ると、左手にピンクに染まったマッキンリー(現デナリ)の感動的な全貌が目に入った。トランジット待合室には巨大な白熊の剥製があり記念写真。
待合室から滑走路を見ると一面真っ白で、どこが滑走路か分からない、離陸する飛行機は猛烈な雪煙を残して飛び立っていった。
給油後、離陸して旋回すると眼下にアンカレッジの街並み、暫くすると白い屏風のような山々が連なっていた。

”写真はクリックすると大きくなります”

写真1.マッキンリー

写真2.巨大白熊の剥製

写真3.街並み

写真4.北極圏の山

アムステルダム
当時としては近代的大規模なKLMハブ空港スキポールに7:00AM到着、乗り換えは4:00PM発タロム(ルーマニア航空)、→プラハ→ブタペスト→ブカレスト。
冬至を過ぎたばかりのアムス、日の出は10:00AMころ。
タクシーでダム広場へ、クリスマスで商店は全て閉店、中央駅へ、3:00PMに日没。


写真5.ダム広場

写真6.中央駅

ブカレスト・オートペニ空港まで
※共産圏では橋、駅、空港での写真撮影は厳禁。
・プラハ:武装した兵士10人ほどがドヤドヤと機内に入ってきて全員退去命令、積雪20㎝の降雪中を数100m歩いて待合室へ、最後に下りた私を白い長靴を履いた若い女性がにこやかに手招きで誘導してくれて、革靴の私は彼女の足跡を辿り待合室へ、約1時間後機内へ。
・ブタペスト:降雪のためパス、ハンガリー国境アラド※軍空港へ、夜間演習の機関銃の音を聞きながらルーマニア入国手続き(東武下今市駅舎のよう、薄暗い白熱電球の中)→飛行中止、バスでホテル・アストリアへ(無料)、途中の街並みの景色は灰色が印象的。
 ※Aradにはハンガリー人が多く住み、後に革命の発端地になった。
・ブカレスト:翌12:00AMホテルから空港へ、昨日のDC9の翼には20㎝積雪、ソリが付いたDC3のような老朽双発プロペラ機へ、木製梯子で機内へ→離陸すると白い雲の中、プロペラはゴロゴロから唸りをあげて数回のエアポケット、約1時間、高度を下げると地上100m位で地表が見え着陸、有視界飛行であった。

6か月滞在地オルト県(チャウセスク出身県)スラチナ町
位置関係は首都ブカレストから約200㎞、列車で上野から宇都宮でキックバックして日光に行く感じ2時間半(石油の街ピテシティが宇都宮)。
・旧市街の東、小高い地区に新しいアパート群、4階の1室が居住地となった。


写真7.アパート4階から 
 
写真8.唯一のスーパー
 
写真9.旧市街方面

 写真10.オルト川

・現地の生活水準:
食糧事情は日本の戦後昭和23年前後を感じるレベル、精肉は無く、冬場には果物はおろか野菜が無く、旧市街の日曜市ではネギ、ヒマワリの種、ニンニク、生きたニワトリ程度。
日用品等はトイレットペーパー、ティッシュ、洗剤など無し、缶詰、瓶詰はあるが缶切り栓抜きは無くナイフを使用。
水道は夜間節電のため断水、6か月間風呂に入れず、夜間トイレも流せず、床屋は湯が出ないので洗髪できず。
※朝夕の食事はアパートの1室で現地小母さんの手料理、米は日本から船便で送ったが、中東戦争でスエズ運河が使えず喜望峰周り、赤道を2回通過で黄変米に、酸っぱい米で肝臓に悪いので破棄→主食は石ころのように硬いパン。

大晦日夜レベリオンという祝事
大晦日前日、スラチナからマイクロバスで旧首都ブラショフのホテル・カルパチへ、
レストランで民族音楽と舞踊を見ることが出来た。0:00AM 1分間消灯。

 
写真11.民族音楽
 
写真12.民族舞踊1
 
写真13.民族舞踊2
 

 写真14.ブラショフ市内
 
写真15.市内正月の屋台

写真16.移動遊園地  
 

5月1日メーデー
地区の共産党(週1回、会合がある話)が黒海リゾートに招待してくれ(2泊3日)、大型バスで数時間、ドナウ川を渡り、黒海の貿易港コンスタンツア、保養地マンガリアを過ぎて滞在ホテルのある保養地ママイアへ。
ホテルデルタの玄関には日章旗、ルーマニア国旗、共産党旗が。
黒海浜辺に出ると保養地のホテル群があり、外貨目的で西欧からの観光客目当て。
(ネットで現在のママイアを検索すると、近代的な姿になっていた。)
※ルーマニア労働者のメーデーは普段通り出勤、私の「日本では休日」が通じた?

 
写真17.ホテルに日章旗

写真18.ママイア黒海1 
 
写真19.ママイア黒海2 
 

作業者宅訪問
設備ドローブロックで、少し英語を話す作業者に誘われ、日曜日、徒歩で30分、隣り村の家を訪問した。
電氣が通じていない区域、彼の父親は第二次世界大戦中枢軸側(ドイツ)兵士として戦った話。2人の子供を持つ奥さんから手編みのテーブルクロスを貰い、お礼に帰国後、カラー写真を送った(枢軸側は差別されていたのかもしれない)。

 
 写真20.3世代家族
   
 
結婚披露宴に出席
現場の品質管理担当で、これも少し英語を話す男が結婚し、披露宴に招かれて隣村へ徒歩で30分、素朴な披露宴であった。
彼の父親は第二次世界大戦中レジスタンス側で戦った話、戦後優遇されたようでトラクター修理工場を経営していた。
※ルーマニアの人口は2,000万人、国土は日本の本州同等、畑は地平線まで広大、トラクター1日のノルマは日の出から日没まで7往復半、という規模、ウクライナも同様であろう。

 
写真21.記念写真

 写真22.素朴な披露宴

 写真23.列車から平野
 

6月上旬、首都ブカレストでの休日
スラチナでは風呂に入れないので、週末(当時の休日は日曜日単休)、列車で2時間半かけてブカレストへ、ホテルノルド(北ホテル)1泊、6か月ぶりに風呂に浸り、首都散策と近郊にある大きな公園SNACOV(スナコフ)へ。
現地通貨の札束は6か月勤務で山ほどあったが、買いたいものは全く見つからず紙屑同然、唯一のデパートを訪れても同様、手編みのレース製品程度、記念に民族音楽のドーナツ版レコードを買った。
近郊に大きな公園スナコフがありタクシーで行ってみた。大きな湖がありボートで巡り、散策、ちょうどバラが満開で、彼方に独裁者の宮殿がそびえていた。

 
写真24.ホテルから

 写真25.デパート

 写真26.スナコフ1
 

 写真27.スナコフ2
 
写真28.スナコフ3
 
写真29.記念写真
 
*今から半世紀の昔、苦労の多い海外出張6か月であったが、今となっては非凡な経験であった。
※カメラはニコマートFTn+50mm1.4
DLPは全て帰国後、失敗無く写っていてホッとした。

相変わらずの駄句
当時のルーマニアでは異性間の挨拶はキスが一般的であった。
“帰国して唇寂しここ日本” 宇和野曾良
“半世紀いまだ記憶は色褪せず” 松戸馬笑
 
      令和4年6月26日