私とチョットの縁があった芸能人
昭和34年入社 水谷 照 
いささか旧聞に属する話で恐縮ですが、平成28年7月12日にあの「大橋巨泉」も「永さん」の跡を追うかのように「癌」にやられて旅立ってしまいました。軽やかに今でもブラウン管の中を泳いでいた姿が目に浮かびます。
私にとって凡そ芸能界は外から眺め視るだけの無縁の世界です。然しその昔、そんな業界の方の中で「本郷功次郎さんと大橋巨泉さん」のお二人と小さな出会いがありましたのでご紹介させていただきます。

「本郷功次郎」
彼は大学の1年後輩で同じ柔道部で稽古をしていました。昭和32年の秋、当時柔道部のキャップテンになりたての私のところに来て「先輩!姉が勝手に私の写真を東宝に送りましたが先日合格の連絡がありました。近く研修所に入ることになりました」と言ってきました。
彼はそのとき柔道2段でなかなかの猛者でした。右手で相手の奥襟を深くとり、やや変則的な「払い腰」を得意としていました。「お前の柔道スタイルは少し変形なので見た目、格好が良くない。見栄えのよい柔道に変えた方がいい」とスタイルを変えるための特訓を勧めました。
「是非」との要望を受けそれから約一カ月間、午後3時からの柔道部の稽古のあと道場に居残りして6時ころから約1時間弱、特訓を始めました。
柔道の正しい組み方、構え、技の作りから掛けまでの動き、右技だけではなく左技の習得、受け身の再鍛錬、投げた後の寝技への変化等が主な内容で、柔道の正しい姿勢と構えの再構築を目的にほぼ毎日続けました。然しじっと辛抱して「今日はおしまい」というまで音をあげずに約1ヵ月間頑張りました。この特訓は彼の柔道を強くするのが目的ではありませんでしたが、一カ月近く経ったある日の稽古で、私は初めて本郷に「払い腰」で投げられました。正しい姿勢づくりは彼の柔道を根本から変えその質を高めたようです。基本の大切さを今更ながら再認識しました。
やがて彼は東宝の研修所に入りました。
1年くらいたって映画に颯爽とデビューしました。予想通り彼の最初の映画は「柔道もの」でしたが中々映りのよい柔道演技でした。
しばらくしてある日のこと、彼が久しぶりに大学にやって来ました。そして私の前に両手をついて「先輩の恩は一生忘れません」と感謝されました。
懐かしい楽しい思い出のひとコマです。カラオケの上手な人でした。その彼も3年前、不帰の人となりました。

「大橋巨泉」
平成19年10月、東千葉CCのグランドシニア大会(参加資格70歳以上のグロス競技)に参加しました。同組には、かの「大橋巨泉」が一緒でした。
結果は、優勝者はグロス38,38。私は38,40で2位でしたが、同スコア者がもう一人いてその人の年齢が私より上だったので私は3位となりました。巨泉は「癌」との闘病で息も絶え絶えの状態でしたがスコア44,41と頑張り10位以内だったと記憶しています。
競技成績を報告するのが目的ではなく、その競技の際に巨泉から素晴らしいアドバイスを頂いたお話のご紹介が今回の主題です。
当日の私は、木の枝にあたっても次が打ちやすいところにボールが転がり、また林の奥深くに入っても絶好のところに跳ね返って来るようなラッキーが何回かありました。「今日はついている!」と思いました。
競技終了したあと巨泉が親しげに次の話をしてくれました。
今日はあなたがラッキーとつぶやいたケースがいくつかありました。確かにラッキーには違いありませんが、プロはあなたがラッキーと言わなかった18番ホールのケースでしかラッキーとは言いません。
貴方は最終の西コース18番パー5のホールで第1打をチョロしました。平坦なホールだったのであなたは難なく2打目がカバー出來、3打目で3オンしてパーを拾いましたね。然しあのホールが若し谷越えのホールであったら第一打は確実にOBでした。平らなところでのチョロでしたので、プロはそうゆう時に今日はついているというのです。その意味は決定的なミスとならないところでのミスは対応をあやまたなければ1打の損で済みます。場合によってはその1打のミスは取り返すことができるかもしれません。然しOBの2打損失では当日の3位は夢と消えてしまいます。
巨泉はかなり前に仕事を半分に減らしてからゴルフに精を出し、カナダでハンデキャップ5までなりました。いわゆる片手シングルです。このような人は考えが流石に一味も二味も違う と感心しました。
しかし彼は東千葉CCのキャディーさん達にはその言動や振る舞いについて真に評判が悪く、その日は嫌な思いを予想して覚悟していました。しかし当日の巨泉の言動は実に礼儀正しく、これこそ本物の片手シングルさんの振る舞いと感心するばかりでした。
巨泉との思い出はもう一つあります。先の話よりもう少し前ですが、巨泉が私のことを実名入りで「週刊現代」の彼の常連コラムに載せたことがありました。
平成12年7月、私はラッキーにも東千葉CCの予選通過者16名で争う理事長杯の決勝出場を勝ち取ることが出来、練習を繰り返して決戦の日を待っていました。事前に通知のあった1回戦の対戦相手は「大橋克己」氏でした。当時私は巨泉の本名が大橋克己さんとは全く知りませんでした。
ところが残念なことに私は急遽仕事で棄権せざるを得なくなりました。そこで私はかつて経験した大失敗を思い出し、大橋氏に棄権するにあたってのお詫びの手紙を出しました。
それは昭和63年5月に博多の古賀ゴルフ倶楽部のキャプテン杯で運よく予選を通過して16人の決勝のマッチプレーに臨んだ時でした。早朝にコースに入りたっぷり事前練習をして1回戦の準備をしていましたら、急遽相手は棄権で欠席との連絡が入りました。戦わずして1回戦を勝つのです。正直なところよかった!と思いました。2時間くらい待った後、1回戦を勝ち上がってきた2回戦の相手と直ちに試合に入りました。ところが練習をたっぷりして其のあとハウスで2時間冷房の中で休んでいたのでプレーが始まっても冷やされた体は少しも私の言うことを聞いてくれず、結果は「ファイブ&フォー」で無惨に敗退してしまいました。
この経験から「勝手な棄権で申し訳ありません。戦わずして1回戦は不戦勝になりますが、1回戦を戦わないで2回戦に入るのは体の目覚めも十分でなく真に不本意なことと思います。申し訳ありません」とお詫びの内容の手紙を出しました
その日巨泉は、優勝は逃しましたが準優勝を獲得しました。
「東千葉CCにはマナーの素晴らしいメンバーがいらっしゃる」と巨泉が週刊現代に私のことを実名入りでコラムに書いたのを知ったのはそれから間もなくで、友人からの連絡で知りました。其のコラムは実態の私とはかけ離れた評価で埋められていて、照れくさいことおびただしい真に汗顔極みの文面でした。

あの日のグランドシニアのゴルフは癌との闘いの話をお伺いしながらのプレーでした。
亡くなられた時、奥さんのご挨拶に「巨泉アッパレ!」との言葉がありましたが全く同感です。本当に惜しい人をまた一人失った思いです。
合掌
 平成30年9月