第 4 0 7 回 講 演 録

日時: 2013年5月23日(水) 13:00~15:00

演題: ヒトは生物学から何を学ぶか?
講師: 東京工業大学 大学院生命理工学研究科 生体システム専攻 教授 本川 達雄 氏

 
  
「♪おまけの人生音頭」を熱唱
はじめに

本日は「ヒトは生物学から何を学ぶか?」という一見難しそうな演題を主催者に用意していただいた。しかし、ここで話したいのは、前著『長生きは地球を滅ぼす』に書いた内容で、生物は一般に子供を産めなくなればお役御免で、老いる前に自然界から消えて行く、にもかかわらず現代の人間(ヒト)は生物としての本来の役目を果たした後も、老いさらばえてもなお生き続ける、人間は「老い」をどう生きたらよいのか、自分自身にどう「引導」を渡したらよいか一緒に考えてみようということである。

1.生物学をもとに、現代社会とその問題を考える ~『生物学的文明論』

今私達は、地球環境問題・少子高齢化・資源エネルギー問題・311以降の生き方などの解決しなければならない大問題に直面しながら生きている。生物の種(しゅ)がそれぞれ持つ相対的な時間と古典物理学でいう絶対時間との違いを明らかにし、ひいてはヒトの生き方・文明がひき起こしたこれら問題について考えて見たい。

現代社会は「技術」が作りあげた社会である。「技術」の基礎には「物理学」があり、技術屋の思考方法はほとんどが古典物理学に基づいている。社会的な価値観も古典物理学的な思考に支配されている。そこで、技術の価値を生物学的な観点から批判的に見直す必要があるように思う。物理学には価値判断がない。物理学は世の中が「どのように(how)」動いているかを問うても「なんで(why)」は問わない。生物は物理学的に見れば単なる分子の集合体に過ぎないが、生物学的に見れば生物の存在には「意味」と「価値」がある。古典神学でトーマス・アキナスは万有引力という物理現象に物体相互間に働く「愛の力」という意味を認めた。「意味」のない物理学の世界と、「意味」にあふれた人間の世界を、その間をつなぐ生物の世界から眺めてみたのが『生物学的文明論』である。

2.物理学の時間と動物の時間

ニュートンが『プリンキピア』に著わした古典物理学でいう「絶対時間」は万物に共通し、一直線に一方向に同じ速さで流れていく。一方、人間の身体にはその時間を感じる感覚器官はない、ミヒャエル・エンデは童話『モモ』で“時間の番人”に、「人間には時間を感じ取るために“心(心臓)”というものがある」と語らせている。アリストテレスも「心臓がなければ時間はありえない」と言っている。

・心臓の時間は体重の1/4乗に比例する

心臓の拍動が時間のカウンターだとすれば、動物は種によって1回の心拍の速さが違い、ハツカネズミは0.1秒だが、ゾウは3秒もかかるので(表1)、それぞれが異なった固有の「時間」を刻んでいることになる。図1にそれぞれの動物の心臓の時間と体重との関係を両対数のグラフで示した。これによると両者の間には「T(時間:秒)=0.25W(体重:㎏)1/4」の直線で表わされるベキ乗の近似式(アロメトリー式)が成り立つ。つまり、心臓の時間は体重の1/4乗に比例している。

  表1.心拍速度

種別

 秒/

ハツカネズミ

0.1

ネコ

0.3

ヒト

1

ウマ

2

ゾウ

3

クジラ

9



 
図1.心臓の時間と体重

心拍の時間だけではなく、呼吸、蠕動、懐妊期間、成獣に達する時間、寿命などのさまざまな時間現象が同じく種別の体重のほぼ1/4乗に比例していることが分かった。一方、これら「時間現象」を「心臓時間」(心拍回数)で計ると、呼吸:4心拍・・・寿命:15億心拍と一定していて、種の間で共通している(表2)。

               表2.心臓時間

現象

心拍回数

呼吸

       4

腸の蠕動

      11

血液が体内を一巡

      80

懐胎期間

    2.300

寿命

    15

・エネルギー消費量(体重当たり)は体重の-1/4乗に比例する

一方、動物のエネルギー消費量(体重当たり)は体重の-1/4乗に比例し「E(比代謝率:Watt/kg)=4.1W(体重:㎏)-1/4」の関係が成り立つ(図2)。またこの関係式から読み取れることは、小動物ほど体重当たりのエネルギー消費量(仕事量)が多いということである。エネルギー消費量は本来個体の細胞数に比例すると考えるべきなのに、大きい動物ほど体重(=細胞数)当たりの仕事量が少ない。これは企業経営や組織運営にも当てはまる。つまり、大組織になるほど構成員1人当たりの仕事量が減るということである。ここに経済学と生物学の接点が見出されるのではないか。アダムスミスはニュートンの力学にヒントを得て「国富論」を書いた。そこでは人はすべて理性的な経済行動をすることを前提にしている。経済学だけではなく西洋近代の科学は一般にニュートン力学のような端正な理論体系を目指してきた。しかし多くの場合そこにおかれた一定の前提が間違っていることがある。動物のサイズの科学にはそれらを見直すための様々な含意が込められている。

図2.エネルギー消費量と体重

・生物の時間の速度はエネルギー消費量に比例する

エネルギー=仕事量とすると、小さいものは寿命が短いが、一定の時計の時間で比べれば、同じ時間内に仕事をたくさんやっている、つまり生きていくペースが早く、時間(代謝時間)が早いといえる。このことから「時間の速度とエネルギーの消費量が比例する」(見かけ上)ことが成り立つ。つまり、動物はエネルギーを使えば使うほど時間が早く進むことになる。エネルギーを使って時間を生み出しているといってよい。エネルギーの投入を減らせば緩慢な、密度の薄い時間が生まれ、エネルギーを多量に使えば濃密で、速い時間が生まれる。生物が単なる物と異なるのは、この「時間の操作性」にあると考える。

・生物の時間とエネルギー消費量(組織量当たり)は反比例している

時間とエネルギー消費量は反比例関係にある。だから時間とエネルギー消費量を掛ければ一定になる。たとえば「心臓1拍の時間 X エネルギー量 = 2ジュール」、また「寿命という時間 X エネルギー量=30億ジュール」。この30億ジュールを、ネズミは3~4年で使い切り、ゾウは6070年掛かって使う。このことから、同量のエネルギーを使って、短いが濃密な質の高い時間を過ごすのと、長いが希薄な時間をのんびりと過ごすのと、どちらがよいか価値判断が分かれるところであるが、単に物理的な時間を長く生きた方が幸せという考え方を変え、時間の質の見方に幅を持たせる必要があろう。

生物は生きるために必要なエネルギーを食物から得ている。つまり「エネルギー = 仕事量 = 食べる量」の関係にあるから、一生にする仕事量は一定で、食べる量も一定である。これを道元は正法眼蔵で「人人皆食分あり、命分あり、非分の食命を求むるとも得べからず(随聞記第六)」として、貪りを戒めている。

・エネルギーを使うと時間が速く進む

エネルギーを使わないと時は止まる。冬眠するものは長生をしたいから冬眠するのではなく環境に適応するために冬眠をする。つまり生物は時間の進み方の操作をし、エネルギーを使って時間を自らつくり出しているといえる。物理的な絶対時間は万物を共通のベルトの上に乗せていているのに対し、生物は自分で時間のベルトを回しているイメージが当てはまる。人は物理的時間の奴隷として使われているというが、時間は使うもので、使われてはいけない。生物が時間の主役だと考えれば、人も老いの時間を過ごすのに肩の荷が軽く感じられるのではないか。

生物が意味のある存在であるためには植物は種子を落として発芽させ、花を咲かせてまた種子を実らせ、動物は子を産んで子孫に命をつながなければならない。つまり生物はその個体の存在だけに生物としての意味があるのではなく、子孫に命をつないで初めて生物といえる。キリストも「一粒の麦、もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん」と説いている。 

・「時間」について、道元の正法眼蔵の言葉

道元は「正法眼蔵(有時の巻)」で 「わがいま尽力経歴にあらざれば、一法一物も現成することなし」(時間はエネルギーを使って自分でつくるもの)という。また「行持現成するを今といふ(行持上)」(“生きている”とは、今という時間をつくること)とし、 「ねずみも時なり、とらも時なり、松も時なり、竹も時なり(有時)」(“自分印”の時間をつくる = 時間には個性がある)という。 「時は飛去するとのみ解会すべからず(有時)」(時間とはただ時のベルトコンベアに載せられてまっすぐに流されるものではない)とする。

古典物理学では時間は一直線に流れているから、「今」という時はない。「今」と言った瞬間に「今」は既に過ぎ去ってしまっている。そのため現代人は将来のために今を犠牲にするようなことを行なっている。古代神学者アウグスティヌスも「時間とは魂の延長である」とし、「今」の自分の心が過去を思い起こし、未来を想像するから、そこに時間軸ができるという。東西を問わず宗教者は「今」を大事にする。小林秀雄も『無常ということ』で「過去から未来へ向かって飴のように延びた時間という“蒼ざめた思想”」を現代の最大の妄想と表現している。道元は「生より死にうつると心うるは、これあやまりなり。生はひとときのくらゐにて、すでにさきあり、のちあり(生死)」(一直線に流れていく時間ならば、若者のなれの果ては老人で、さらにそのなれの果てが死。だが、生の時間と死の時間は異なる。死は生のなれの果てではない。生の時間をちゃんと生き、死んだら死んだで、死の時間をちゃんと“生き”たらよい)という。

3.なぜエネルギー消費量と時間が関係するのか

・回って永続するようにできているのが生物

物理(時計)の時間は直線で戻ることはないが、生物の時間は、心臓の拍動と呼吸を繰り返し、さらに世代交代しながら回り続ける。中国の「還暦」、インド仏教の「輪廻転生」も回転の思想である。日本では古来から新年を迎えるたびに「お歳魂」として餅を食べ、魂の切り替えをして、新しい歳を迎える風習があった。一方、ユダヤ~キリスト教では創世から終末に向かって「神の時間」が万物共通の時間として真直ぐに進む。これが絶対時間・絶対空間の考え方としてニュートンを介して古典物理学に取り込まれた。この「絶対時間」という概念について、ニュートンは『プリンキピア』の本文ではなく註で「時間とは説明するまでもないが」とのみ述べて時間の定義を避けている。これは彼ら西洋人にとって時間とは「神の時間」しかありえなかったので、それを「絶対時間」と言い換えたのであろう。古典物理学は「世俗化したキリスト教」といってよい。それを無批判に受け入れる必然性は全くないといった方がよい。むろん古典物理学の技術的な有用性をすべて否定するわけではないが。

地球の歴史は46億年、生命の起源から35億年といわれるが、私達はその最初にできた生命の直系の子孫である。地球上の生命はその間、全球凍結とか巨大隕石の衝突などの絶滅の危機を乗り越えて、続いてきた。人間のような複雑な構造物がなぜ壊れないで続いているのか。熱力学の第2法則によれば建築物のような構造物はエンントロピーの増大によりやがて無秩序になり、必ず壊われる。法隆寺は壊れた部分の修理を繰り返しながらも、1300年前の姿を保ち、世界遺産として認定されている。一方、同じく1300年続いている伊勢神宮は20年ごとの式年遷宮で新しく作り替えられるので世界遺産とは認められない。生物は伊勢神宮方式で、時が来れば壊して建て替える、つまり次の世代へ交代する。もちろん、作り替える時にはエネルギーがいる。作り替える頻度(つまり時間の速度)にエネルギー消費量は比例する。また、筋肉もミオシンサイクルでATPを介して収縮エネルギーを発生させている。筋肉の収縮速度(つまり時間の速度)とエネルギー消費量は比例する。筋肉は身体全体のエネルギー消費の2/3を使っている。身体の中で起きている化学反応はほとんどサイクルで回りながら続けられる。地球上の生態系も循環を続けている。西洋人には回りながら続く時間という観念は理解できない。

・今の私は私の連鎖の1つ、今の私だけが私ではない

父母の私、今の私、子供の私、孫の私と「私」を渡していくのが私、そうやって私はずっと生き続ける。むろん私の子供は私そのものではない。生物は環境が変わったら今の自分の完全クローンが生きていける保証はないので、いやいやながら自分とは少し違う遺伝子を入れて、「自分のようなもの」をいくつか作っておけばどれかが生き残ることになる。子供を産めるのに産まないという選択をするのは、「私」の連環をそこで断絶させることになるので、「私」の自殺に等しいといえる。私は価値を取り扱うのが生物学と考えるので、女性に対するハラスメントといわれても、生物学者としてそれを主張し続けたい。

・子供の時間はネズミ的、老人の時間はゾウ的(早さ・睡眠時間)

ヒトの基礎代謝(kcal/日) = エネルギー消費量 は年齢とともに減っていく。つまり、時間が齢とともにゆっくり進む。しかし実感は心理学の「ジャネーの法則」で、逆に齢とともに速く進むように感じる。これは恐らくその時間の中にいる時と、振り返った時とでは時間の速さの感じ方が逆になるためであろう。中身の濃い時間を過ごせば、後から振り返ると長く感じ、老人のように中身が希薄で印象の薄い時間を過ごすと短く感じるのではないかと思う。子供と老人では時間の質が違う。時間が違えば世界が違い、生き方も異なる。子供とは子供の時間を考慮してつきあうことにして、年をとったら異なった価値観で生きなければならない。今の「老人に優しい社会」はそれを「差別」だとして受け容れない。正しい「区別」は必要である。

・社会の時間もエネルギーを使えば速く進む~時間環境問題

現代社会はエネルギーを使って、便利さを求め,機械を使って時間を早めている。ビジネスにおいては、時間を早めれば、それだけ金になる。エネルギー・時間・カネが三つ巴になって動いている。現代人は身体の消費量の30倍のエネルギーを使っている。もしかしたら、縄文人に比べれば社会の時間が30倍速くなっている。しかし身体の時間は昔のままなので、身体の時間が急速化した社会の時間について行けず、様々なストレスを生んでいる。時間は人間が生きていく環境であるが、そのためには環境は人間が適応可能な範囲になければならない。しかし現代はその時間環境が破壊されてしまっている。時間を適切な速度に緩めるためにはエネルギー消費量を減らすしかない。そうすれば私達が今抱えている大問題 = エネルギー、地球温暖化、原発、3.11以降の生き方など、すべて解決することになる。つまり、これらの大問題の根本原因にはすべて時間環境問題があるといってよい。この肝心の問題を見えなくしているのが、西洋の「時間教」的時間観、「科学的」時間観である。

・現代人はエネルギーを使って時間を生みだしている

現代人はエネルギーを使って2つの時間を生みだしている。便利な機械を使って余暇という時間を生み、さらに寿命という時間を生み出している。日本人の寿命(歳)は、縄文:31、室町:32、江戸:45、明治:43、昭和22年:52、平成12年:82、と長寿化が進み、特に戦後60年間で大幅に伸びた。この間の急速な長寿化は日本人の身体が特に丈夫になったからではなく、医療、食料、上下水道、冷暖房などに大量のエネルギーを投入し、寿命という時間を生みだした結果である。

・動物の基本~野生では老いた動物はいない

野生の動物は脚が衰えたり、目がかすんだりすれば野獣や病原菌の餌食になってしまうので、原則として老いた動物はいない。老いて生殖活動ができなくなったものが生き残って子供と餌を奪い合えば、孫の数が減ってしまい、絶滅に向かう。「老いたものは速やかに消え去るべし」~これが動物の基本である。

・ヒトは40歳台で老いの兆候~「老い」の生き方

ヒトは心臓が15億回打てば41歳となる。それが動物としての本来の寿命だが、人間は例外的な存在で、子育てのノウハウを年寄りが子に教えれば孫の生存率が上がるから、おばあさんは必要なのだ、長生きしてもよいのだ、という議論がある。だが、かつてのように、15歳で元服すれば、31歳で孫の顔が見られ、46歳で曾孫の顔まで見られ、ノウハウも完全に伝え切れる。人間50年で決して悪くはない。人間は50歳ぐらいまではかつても生きていたわけで、そこまでは自然選択が働いて、体はちゃんと働くようにできている。つまり50歳までは、いわば保証期間内といえるが、その保証切れ以降は、身体が不調となっても、それは正常な現象であり、病気とはいえない。おかしくならない方がおかしい。この「老い」の人生をどう生きるかは、平均寿命が30歳程度であった時代に書かれた聖書や仏典には何も書かれていないし、誰も教えてくれない。老いの最前線にある私達が自ら考え,身を持って体験しながら探求しなければならない。その荷は重い、ボケている暇はない。

・最後に道元の言葉をもうひとつ

「たき木、はひとなる。さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり」(現成公按) (薪は燃えて灰になる。一直線に流れていく時間ならば、薪のなれの果ては灰。しかし薪というものは薪独自のものであって、その中には薪独自の時間が流れている。灰には灰独自の時間が流れている。薪の時間の中では、時間は直線的に流れるから前・後はあるが、灰になるときには時間が断ち切れて別のものになる)。若者のなれの果てが老いではない、老いのなれの果てが死ではない。老いのときはちゃんと老いていればよい、死ぬ時はちゃんと死ねばよい。そのように「今」を生きればよい。それぞれの時間は質が違う。それをだらだらと際限なく生きよというのは決して老人に優しいこととはいえない。

50歳以降の生は技術が生み出した人工生命体~どう生きたらよいのか?

 50歳以降の生は、昔はなく、技術が生み出したものである。いわば「おまけ」の部分であり、また、この部分にあるわれわれは人工生命体だといっていい。この人工生命体は人間の英知のたまものである。その英知に相応しい意味のある時間をつくり出す生き方をしなければならない。利己主義は否定しない。しかし、その「己=私」は自分だけではいけない。子や孫も「私」とみなして、次世代を育てることに何らかの形で寄与することが、これからの「おまけの人生」の生き方であろう。

 

エピローグにかえて 「♪おまけの人生音頭」 (作詞・作曲・歌唱:本川達雄先生)

むかしゃ 人生五十年         若い時には遺伝子(ジーン)の奴隷
     今じゃ 人生八十年          恋愛 子づくり 家づくり

ついたついたよ おまけがついた    年季明けたら くびきもとれて

   何に使おか 何に使おか        晴れて自由の 晴れて自由の

   このおまけ              時がくる         

老いと若いは 時間も違う       他人(ひと)のことなど 考えぬ

時間違えば 世界も違う        遺伝子利己的 近視眼

キッパリと別だと けじめをつけて   そんなけちな了見 さらりと捨てて

楽しもうじゃないか 二つの人生    遠く未来を 広く社会を

それぞれに              考える

速いばかりが 能じゃない       働きつづけよ 動けるかぎり

便利 移り気 薄っぺら        お役に立ちましょ みんなのために

こくが出るには 時間がかかる     おまけの時間は もらいもの

白髪しみしわ 白髪しみしわ      感謝しながら 使おうじゃないか

だてじゃない             ありがとう!

   天気ばかりじゃ 草木も枯れる

元気ばかりじゃ 能天気

老いも病も 心のこやし

真に知恵ある 真に知恵ある

人つくる

Q&A
Q1:眼からウロコの落ちるお話、ありがとうございました。「今の私が過去を想い出す。今の私が未来を想像する」というのは脳のある生物特有の能力か?過去の経験の記憶から行動を起こすことはないのか?
A1:「時間」という概念は基本的には人間しか持っていない。他の生物には体内時計による時間現象的なものはあるが、「時間」を感じてはいない。サルは未来への恐れを感じる能力はあるようなので、あるいは魂の延長としての時間がある可能性はある。過去の経験から遺伝子発現が変わるという「学習」は脳のないプラナリアですらある。時間の概念を持つのは広く見ても霊長類だけであろう。

Q2:仏教では人は誰でも仏性を持っていて、修行によって仏になれるというが、道元は人の「進化」についてどう言っているか?最終的には個人が修行を積み重ねて仏になるのが理想か、あるいは自分の新しい複製をつくりながら輪廻を繰り返して段々と仏に近づくのか?
A2:「進化」はきわめてキリスト教的な見方だ。そういう見方や、輪廻の輪を断ち切るのが仏教である。禅宗では未来、極楽浄土は妄想以外のなにものでもなく、「今」を生きることを説く。自分がおかれている時間と空間の次元から自由になるのが「心身脱落」つまり悟り・解脱と理解している。

Q3:体重と心拍数の関係式は種によって一定か?種の中の個体差にも適用できるのか?
A3:ここで使用された値は大人・成獣の平均値のログを採っているので、大ざっぱなものである。個体はバラツキが大きいが、体重の個体差は細胞数より脂肪の重さに影響をうけるので、寿命の差とはあまり関係がないのではないか。基礎代謝量が心拍数に影響するという説もあるが。

Q4:動物の体重と細胞の再生の速度に関係はあるか?
A4:体重の小さい動物ほど細胞の分裂の速度も速い。分裂のたびごとにテロメアが短くなり、一定限度に達すると分裂は停止する。ただ生物によってはテロメアを伸ばしてしまうものもあり、生物学は例外の多いものを対象にするので悩ましい学問である。私の専門分野である棘皮動物(ナマコ、ヒトデ、ウニなど)はエネルギー消費量が非常に低いので、寿命が長い。ウニは200年も生きて、子供も作り続ける。身体にガタがくるのは酸素を使って活動すると活性酸素が発生し、それが細胞を傷つけるからである。エネルギーを使わなければ長生きする。「私」の存在を子孫につなぐのに、短期間で子供をたくさん作るか、長期間にわたって少しずつ子供を作るか、どちらであっても、子供の数も含めてトータルでの「私」の数で寿命が決まっていると言ってもよい。

Q5:ウニの個体の年齢をどうやって測定するのか?
A5:ウニの骨に現れる年輪で測定する。ストロンチュームなどの放射性物質に汚染されている場合は、その年輪が形成されたのがいつかが、はっきりと分かる。

以上

(記録: 井上 邦信)