第 4 0 6 回 講 演 録


時: 2013年4月16日(火) 130015:30
演題: 文語文から口語文へ ~明治文豪の名作に見る日本語~

講師: 元NHKアナウンサー、ナレーター 長谷川 勝彦 氏


はじめに

日本語の書き言葉としての文語文から口語文への移行は明治期に始まり、百数十年の時を経て現在の形へと変遷を続けてきた。そして、口語文は非常に流動的で、混乱を極めているとも言われている。私の尊敬する作家、中村真一郎はその著書『文章読本』で、「文章の専門家である文学者に、その混乱の解決の最も重い責任が課せられている」として、近代百年の口語文の歴史を実際の文例によって検証し、「洗い直し」をし、あるべき「文章の道しるべ」にたどりつこうとしている。この講演では、主にこの『文章読本』を読み、紹介しながら文語文と口語文の関係とその変遷について考察すことにしたい。




1.口語文の完成~中村真一郎「文章読本」より

【文章は通常、論理と感情の両面を表現するものである、つまり「書く」ということは、「考える」ことと「感じる」ことを同時に言葉にすることである。そして、明治維新以後、話し言葉の中から文章を作る、つまり「口語文」を作ろうという運動が起って来た時,最も熱心だったのは作家たちであった。

近代の文語文は、論理的、普遍的で「考える」ことを表現するのは適していても、非論理的、主観的な「感じる」ことを表現するには、しばしば不自由である。そこで、「考える」専門家である学者と異なって、「感じる」専門家である文学者が、自分たちの表現に適した文章を、感じたままを口にしている庶民の話し言葉の中に求めるようになり、明治の作家たちは「言文一致」のスローガンを掲げ、文語を口語に近づけ、また口語を文章語にまで高めようとする様々な実験に取り掛かることになった。その最初の文学的成功は二葉亭四迷の翻訳文で、明治21年(1888年)に発表されたツルゲーネフの短編小説の翻訳であったといわれる。】 その翻訳文の冒頭は次のような文章である。

「秋九月中旬といふところ、一日自分がさる樺の林の中に座してゐたことが有ッた。今朝から小雨が降りそそぎ、その晴間にはおりおり生ま煖かな日かげも射して、まことに気まぐれな空ら合ひ。・・・・・・・」 

【これは当時としては全く革命的な実験であった。二葉亭はこの訳文のなかで人間の感情の繊細な揺れ動きを表現している。続いて、翌年には日本近代文学の出発点ともいわれる二葉亭最初の創作小説『浮雲』を発表した。しかしこの作品の文章は次の書き出しの部分ように七五調で、散文というより、江戸の戯作の語り物の文体に近かった。】 

「千早振る神無月も最早跡二日の余波となッた廿八日の午後三時頃に、神田見附の内より、塗渡る蟻、散る蜘蛛の子とうようよぞよぞよ沸出で来るのは、・・・・・・」

【しかし、その文体の裏には、西洋の近代小説に養われた写実主義の眼が光っている。】

【そして、生きている庶民の話し方から新しい文体を作りあげるため注目されたのが、高度の完成度を持っていた江戸末期の市民の言葉で複雑な人間心理を語る三遊亭円朝の人情噺であった。円朝の『塩原多助一代記』は

「彼の岸田右内は忠義のためとは云ひながら、心得違ひに見ず知らずの百姓が五十両懐中致して居りますを知って、・・・・・・」
とあり、実に名人芸である。【しかしその語り口は流麗であるものの「調子」がついていて,文章にするためには、これを抑える必要があった。民衆は長い間、読書より語り物を聴くことに慣らされていたこともあって、近代のはじめの頃の小説は文章が踊りがちであった。尾崎紅葉の有名な「金色夜叉」(後述)がベストセラーになった秘密のひとつは、その地の文が調子のいい文語体であったからだといわれている。その後の口語文の成立の歴史は文章のなかから、踊るような調子を排除して行った歴史だといってもよい。つまり口語文は表現すべき感情自体の踊るような部分を切り捨て、落ち着いた冷静な感情を表現する道具となり、客観描写を主張する自然主義作家たちによって完成に近づけられた。】

【田山花袋の『布団』は日本自然主義の最初の小説といわれ、平易で落ち着いた客観的な書き振りで、主人公の心境を描き出している。】 『布団』の冒頭は、

「あくる日は日曜日の雨、裏の森にざんざん降って、時雄の為には一倍に侘しい。欅の古樹に降りかかる雨の脚、それが実に長く、限りない空から限りなく降って居るとしか思はれない。・・・・・・」

【同じ自然主義の島崎藤村の『春』の文章はそのまま朗読しても意味が判かる、言い換えを必要としない極めて平易な表現で書かれている。】 『春』の冒頭は、

「汽車が白河を通り越した頃には、岸本は最早遠く都を離れたやうな気がした。寂しい降雨の音を聞きながら、何時来るとも知れないやうな空想の世界を夢みつつ、・・・・・」

とあり、花袋の『布団』同様、そのまま朗読されるのを聞いても意味が判る。 

口語文の完成~鷗外と漱石

【自然主義の作家たちが中心となって成立させた文学的口語文では、「考えたことを書く」、と「感じたことを書く」という文章の二つの機能のうち、どうしても後者の方に主力が行き、耳で聴いただけでは判らない漢語の抽象語を避けることで、文体の純粋さを作りあげようとした。一方で、文壇的口語文の成立以来、従来の文語文を口語文のなかに吸収させるという試みが相次いで起こってきた。口語体のなかへ文語体を吸収する仕事の最適任者は文学者であり学者である森鴎外と夏目漱石であった。彼らは日常的に論理的な文章(論文)と情緒的な文章(文学)書き分けて暮らしていたので、それぞれの長所・短所、可能性、文体の接点や融合の勘所をよく心得ていた。】

森鴎外

鷗外は文学者としての経歴を、先ず西洋の小説を文語体に翻訳することから始めた。彼の翻訳したアンデルセンの『即興詩人』の冒頭は、

「羅馬に往きしことある人はピアツツア、ベルベリイニを知りたるべし。こは貝殻持てるトリイトンの神 の像に造り倣したる、美しき噴井ある、大なる広こうぢの名なり。・・・・・」と、

【実に名調子で、朗々と誦すべき文章といえるが、その文脈は江戸時代に開発された和文体、いわゆる擬古文であり、漢語を排除した反漢語体であるという点で、新しい口語体に通ずるものであった。ただ、この文体の不便なところは漢語の単語を和語の単語に変えようとすると、冗長で日常生活では使うことができないような、新しい単語を創らねばならない。鷗外は最初に行なった翻訳文の文体を創作にも適用し、『舞姫』で成功している。】 『舞姫』の一節、

「朝の珈琲果つれば、彼は温習に往き、さらぬ日には家に留まりて、余はキョオニヒ街の間口せまく奥行きのみいと長き休息所に赴き、あらゆる新聞を読み、・・・・・」

とあり、翻訳文体をそのまま使っている。鷗外はやがて小説を書くのを止めていたが、明治の末期に、自然主義作家の口語文の試みに触発されて再び小説を始め、『追儺(ついな)』のように驚くほど新鮮で自由な口語文を書くことになる。】 『追儺』の冒頭、

「悪魔に毛を一本渡すと、霊魂まで持って往かずには置かないと云ふ、西洋の諺がある。あいつは何も書かない奴だといふ善意の折り紙でも、何も書けない奴だといふ悪意の折り紙でも好い、・・・・・」

【この作品では従来の自然主義作家の誰も試みなかった、学者的文体と作家的文体の統一をやり遂げている。ここで鷗外は科学者の頭脳で考え、科学者の観察眼で見たままを表現し、「考える文章」と「感じる文章」の統一を実現させている。】

【鷗外ははじめて日本の小説に知識階級の人物を主人公として登場させ、その主人公に「考え」させることをした作家といってよい。彼は自ら発明した新しい総合的な口語文を、『大発見』で“運命”という抽象語を主語にし、『独身』で話し言葉をそのまま文章に写し、『牛鍋』で喋り言葉そのままの文章を書き、『電車の窓』の一節で、
「ちん~、ちん~。電車が又動き出した。どつどつ、ごう。・・・・・」

と、音語(オノマトベ)を使い、叙述文で現在形を使うなど、一種の文章の規則違反などをしながら、様々な実験を重ねた末、遂に端正であると同時に自由な、正確であると同時にいかような感慨をも托すことのできる文体を完成するに至った。そして、鷗外は西洋の文体に学んだ口語体と、漢文に学んだ文語体とを統一して、新しい気品に満ちた“古典的”口語体を発明したということになる。】 

鷗外は晩年に書いた史伝『澁江抽斎』で、

「わたくしは又かう云うことを思つた。抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして経書や諸子のやうな哲学方面の書をも読み、……」

ここに、その口語体の完成形を見ることができる。

夏目漱石

【口語文の完成者としての鷗外に対比されるのは夏目漱石である。この二人の口語文の完成の方向は正反対であり、それぞれの散文は「肌合い」が非常に異なり、鷗外は堅く、漱石は軟らかい。【その相違は二人の性格の相違というより、その文章の「土台」、「苗床」の相違から来たものと考える。鷗外は彼の生まれた石見地方の方言などの「話し言葉」を、維新後に急造された「標準語」に換える方向を取ったため、本来の話し言葉の「生命」からは切り離された文体となった。  戯曲『仮面』の台詞は「話し言葉」ではなく「書き言葉」から作りあげたものであったため、「堅く」て俳優が「喋れない」と断言すものとなってしまった。

一方、漱石の「軟らかさ」はその文章が「話し言葉」から直接生命を汲んでいるところから来るものと考える。鷗外にとって「標準語」は自分の体を既製服に合わせるようなものであったが、漱石にとっては「標準語」は江戸方言を基礎にするものであったため、自分の体に合わせて直すことができた。漱石の『二百十日』では江戸末期から明治初期の東京市民の話し言葉で会話が延々と続く。漱石はこのようにして慣れきった日常語から文章を作って行った。

漱石は処女作『吾輩は猫である』で、猫の独白という形で自分の思想や感情を自然に表現している。そこには東京方言と標準語の自然な融合が見られる。しかし、漱石はやがてこの自然すぎる文体は文学的には退屈でもあり、下品であると思うようになり、次の『虞美人草』のような華麗な文体に転じることになる。】 

「春はものの句になり易き京の町を、七条から一条迄横に貫ぬいて、烟る柳の間から、温き水打つ白き布を、高野川の磧に数え尽くして、長々と北にうねる路を、・・・・・」

と、その文章は気負い、気どっていて、明らかに泉鏡花の影響を受けている。(これを朗読するには曲芸的朗読術が必要であるー長谷川) 

【ところが、その後、漱石は文学をもっと真面目に考えるようになり、自分の思想と感情とを冷静に見詰め、それを沈着に表現する方向へ進み、その文体から飾りが消えて行く。その代表的な作品が、当時の自然主義の文体の成果をも取り入れた『道草』で、

「往来は静かであった。二人の間にはただ細い雨の糸が絶間なく落ちている丈なので,御互が御互の顔を認めるには何の困難もなかった。健三はすぐ眼をそらして又真正面を向いた儘歩きだした。・・・・・」

 と、【その文体からは東京方言の面影は消え、客観的で情景の描写や、内面的な分析に適したものになっている。漱石は小説だけではなく感想文『硝子の中』でもこの客観的な描写を完成させている。このように自由に客観と主観を往来しうる、平易、正確で癖のない完成した漱石の口語文は、その後日本の各界の人々に大きな影響を与え、教養のある現代の日本人は殆ど誰でもこの文体を綴っているのではなかろうか。しかし、漱石はその後も、文学的精進を続け、最後の作品『明暗』で】、

 「二人の間に何度も繰り返された過去の光景が、ありありと津田の前に浮き上がった。其時分の清子は津田と名のつく一人の男を信じてゐた。だから凡ての知識を彼から仰いだ。・・・・・」

 と【気迫に満ちた、緊張した文体にまで到達する。その緊張は会話文でも維持されている。漱石の会話文は、鷗外と違い、感覚的な暖かみも感じられる。それは漱石の言語感覚が、持って生まれた、生きた日常語の上に根差しているからであろう。】

 

2.「文語文と口語文」~山本夏彦『完本 文語文』より(省略、配布資料参照)

 

3.尾崎紅葉

紅葉の『多情多恨』は口語文で、『金色夜叉』は文語文で書かれている。紅葉は35歳で夭折しているが、若いころは文語文を書いていた。小説、『多情多恨』で日本で最初(明治 29年―1986年)に言文一致体=口語文を完成させたといわれる。その翌年に再び文語文に戻って『金色夜叉』を書き始め、未完のまま明治36年(1903年)に没した。

『多情多恨』~「鷲見柳之介は其妻を亡ってはや二七日になる、日に疎しであるが、・・・・・」~使われる言葉は古めかしいところはあるが、読みやすい口語文で書かれ、朗読にも適している。丸谷才一はこの作品の解説で紅葉を評して「必要に応じて文体を工夫して行く驚嘆すべき才能である」といっている。『金色夜叉』~「未だ宵ながら松立てる門は一様に鎖籠めて,真直に長く東より西に横たはれる大道は・・・」~これを「流麗な文章」というのであろうが、自分には甚だ朗読しにくい。

 

4.永井荷風・島崎藤村・萩原朔太郎

山本夏彦は永井荷風のボードレールの訳詞を称賛し「詩は文語をすてたから朗誦にたえなくなった。私は文語に還れと言っているのではない、そんなことは出来はしない。私達は勇んで古典を捨てたのである。別れたのである。ただ、世界広しといえども、誦すべき詩歌を持たぬ国民があろうかと、私はただ嘆ずるのである」といっている。この山本の言には共感を覚える人も多かろう。

島崎藤村は小説では『破戒』のように自然主義の飾り気のない文章を書いたが、その前に書いていた新体詩では『吾胸の底のここには』~

「吾胸の底のここには言ひがたき秘密住めり 身をあげて活ける性とは君ならで誰かしらまし もしやわれ鳥にありせば君の住む窓に飛びかい・・・・・」

このように味わい深い心ときめく抒情文を詠っている。萩原朔太郎は『櫻』で

「櫻のしたに人あまたつどひ居ぬ なにをして遊ぶならむ、われも櫻の木の下に立ちてみたれども わが心はつめたくして 花びらの散りて落つるにも涙こぼるるのみ・・・・・」

と詠い,続く「あながちに悲しきものをみつめたる我にしもあらぬものを」 について山本は「これを口語文にして見れば分かる。ただ冗漫になるのみである」という。ここにあるのは文語文の妙であろうが、朗読者の立場からすれば、これをなぜ良いというのか、考えても分からない。口語文の方が楽に読めるのは当然だが。

 

以上で講演を終り、質問などあればお受けしたい。

Q&A

Q1:明治の文豪は文語と口語の長所短所をわきまえて作品を書いたのであろう。現代は作家はさすがにそれなりに書いているが、一般の人は大部分が、頭の中ではまともに考えていても,書くとなる半分は省略したカタカナ英語を使ったりして、感情のほとばしるままに文章を書いている。このままの形で話し言葉・書き言葉の変化が進んで行くと、何年後かには、たとえ口語で書かれた明治の文豪の作品であっても、一般人は読めなくなってしまい、貴重な文学資産が失われてしまうのではないか?
A1:自分もそう思うが、如何ともしがたいところである。話している言葉をそのまま文章にしたらよいとうことになると、整わないままの言葉で文章が表現されようになってしまうことを心配されているのであろうが、一部でそのような傾向が生じても已むをえない。しかるべきところで正統な言葉が守られていればよいのでは。せいぜいテレビではそのような言葉遣いを助長しないでほしいというべきであろう。現代日本語の問題点とかその将来について語れという課題はあろうが、自分は思うところはあっても、それを論じる任には能わない。自分の仕事は、よく出来上がった文章を読むことである。私は最近NHKのTV番組『新日本風土記~桜前線の旅』で、桜の場面に合わせて流された古今の和歌、俳句、詩、歌などを読むという面白い仕事をした。そこで読んだ藤原業平の歌「世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」の“五七五七七”の句や、芭蕉の俳句「さまざまの 事おもひ出す 桜哉」の五七五の句の間合いの取り方で詩想の表現を考えるところなど、詩をよむ面白味がある。

Q2:放送業界でも“ナレーション作法”のような言葉の選び方・表現の仕方の規範あるいは心得のようなものはあるか?
A2:この業界に教科書はない。自分としてはあった方がよいと思うが。新聞ジャーナリストはそのようなことを書き残す人が多いが、この業界では少ない。自分は一冊だけ書いているが。プロデューサーも書く人が増えたが、表現者はもっと積極的に書くべきである。私は日頃「自分の仕事はどうあるべきか常に考えていなければ駄目だ」と言っている。

Q3:NHKは正しい日本語の手本を示す立場にあると思うが、最近の若者言葉で例えば「・・・れる」と言ったのを「・・・られる」という風にテロップで訂正して流しているようだが。
A3:自分の想像だが、これはそのまま流すと、視聴者からクレームの電話が頻々とかかるので、それを防止するため、放送局の保身のためにやっているのではないか。NHKだけではないが。

Q4:若者言葉について、最近のNHKのTV放送でアナウンサーが、「赤坂の“クラブ”で事件があった」と言う場合には「ク」にアクセントを置かないでフラットに“クラブー”と若者言葉風に発音していた。NHKは若者言葉をどこまで許容しているのか?
A4:「クラブー」と「倶楽部」は違う概念のものだから使ったのであろう。以前から「ギター」を語頭にアクセントを置かないで「ギタア-」と発音することもある。「映画」の“エイガ”という発音でも同様である。一般に,単語の発音は平板化して行く傾向にある。

 

司会者註:長谷川先生の次のテレビ番組放送は55日のNHK総合テレビの{NHKスペシャル~歌舞伎座}で、全編のナレーションを担当される予定。是非視聴されたい。

 

記録者註:この記録(講演録)で引用した中村真一郎「文章読本」、及び山本夏彦「完本 文語文」の文章は原文の忠実な転記ではなく、原文の語や語順を変更、省略するなどの改変を部分的に行なっている。引用文あるいはその再構成をした部分は【  】で示した。

 
長谷川勝彦(はせがわ・かつひこ)氏 プロフィール

 1941年東京生まれ。1966年早稲田大学政治経済学部を卒業、NHKに入り、 徳島、京都、鳥取、山口、長崎の各局でも勤務。東京アナウンス室では、ニュースやナレーションで活躍。2001年定年退職、その後もフリーとして活動を続ける。現在、NHK文化センター(青山、光が丘、横浜ランドマーク、さいたまアリーナ)で朗読教室を担当するかたわら、 NHKスペシャルをはじめドキュメンタリー番組のナレーションで活躍。2009年、放送文化基金賞受賞。最近の番組では2012年10、10、12月に放送されたNHKスペシャル シリーズ「中国文明の謎」がある。 代表作である「ドキュメント太平洋戦争」「硫黄島玉砕戦」「果てなき消耗戦 レイテ決戦」「幻の大戦果、台湾沖の航空戦の真相」「真珠湾の謎、特殊潜航艇の運命に迫る」「靖国神社 占領下の知られざる攻防」「引き裂かれた歳月 シベリア抑留」「日本国憲法誕生」「ただ一撃にかける」などの番組はすべてDVD化され、販売されている。

                                                          以上

(記録・文責:井上邦信)