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「精銅所」物語・・・(最終回)
大津寄雄祐  
11.その他思い出すままに

11.1 野遊会・旅行会

   野遊会は春は花見会、秋は観楓会と称し、従業員はもちろん家族まで加え盛大に行われた。福引や野外演芸を催し興を添えた。中禅寺、山内公園、霧降方面に出かけた。この行事も日華事変から太平洋戦争さらに戦後の混乱もありながい間中止されていたが、昭和27年先ずは東照宮、二荒山、輪王寺一円において行われ、野外演芸、福引など行って再開された。
   慰安旅行会は日光を離れ他府県に出ることを呼んだ。戦前大正3年、大正博覧会を兼ね東京見物にはじまり、昭和12年伏見桃山御陵参拝を最後として、この間、東京に9回、横浜(横電見学含め)に1回、松島から仙台、銚子から成田、多摩御陵、伊勢から奈良、京都桃山に各1回、などが開催された。戦後は昭和29年従業員を3班に分けて東京見物を行った。

   ここで私が体験した旅行会を記録しておこう。昭和33年と、35年の2回京都旅行を行った。日光発京都行き10両連結列車が特別に仕立てられ行き先表示板は「古河号」と称し夕方6時頃日光を出発、途中東京駅で本社から、横浜駅で横浜工場から差し入れを受けるため停まる以外は、殆どノンストップで一路京都(33年は石山下車、三井寺経由)へ向かい日中遊覧し、夕方京都で日光行きに乗車、3日目の早朝日光に帰るという日程であった。当時従業員が3千名弱といわれていたが、人員を3分割し1回千名が3日に分かれ出発した。
   京都に到着するとバスが待機していて名所を遊覧し、自由時間に旅行気分を満喫し夕方指定時間に集合し京都発の特別仕立ての列車に乗車、帰路の旅に就くのである。泥酔者が出ていたが各グループごとに相互に協力し、無事旅行会は終了したのである。(3年間に2回も同じ方面に旅行した理由は今となっては分からない。)
   事業所挙げての集団旅行会は昭和35年で終わり、その翌年からは労使で年間休日を決める時、旅行会実施日を決めて職場とか、課とか、部の単位で自主的に実施された。昭和50年台位までは従業員の参加率は高かったが、その後参加人員も減り旅行会は中止をふくめ変質したのである。
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11.2 皇族との関係

   精銅所は創立以来、戦前、天皇の行幸1回、皇后、皇太子の行啓各1回,皇族のご来所36回に及んでいる。これは田母沢御用邸に近く、精銅所スケートリンクが当時評判であったこと、和楽踊りが有名であったことが理由であったといわれている。民間企業では異例のことと思う。本稿では戦後のことに触れておく。

   戦後天皇の巡幸は昭和21年2月の川崎市を皮切りに沖縄を除き46都道府県にわたって行われた。これは、天皇が「全国各地をまわり、直接に国民を慰め、復興の努力を励ます」ことであった。栃木県には22年9月4日から8日まで巡幸され、精銅所には6日に来られている。当日の日程などの詳細は不明であるが、歓迎する従業員の中の一人が突然天皇に労組委員長と握手して欲しいと求めた。これはもちろん予定外のことであった。
このアクシデントは記録もなく、約10年後に私たちが入社した頃、そのことはすでに風化し、断片的な噂話として聞いたに過ぎない。
   今、手元に須賀進著「日光縦横談」(昭和35年6月、発行)がある。著者は日光に在住する新聞記者(毎日新聞)で、限定出版、非売品である。「終戦直後来県された天皇に対し握手してくれと迫った労組役員がいた。そのとき、私は取材のため鹿沼の帝国製麻工場から、天皇の2〜3メートルの真近に付いていたが、(自分ではなく)労働者の代表に握手してくれといったように覚えている。
   あのとき天皇が拒絶したとしたら慰問の意味が薄らぐし、しばし答えをためらっていられたが、「日本式で行きましょう」と、実に鮮やかにその場面を転換され先へお進みになった。」と記述されている.(同書157ページ)そのA氏は労組の役員だったが、その後退職し行商等に従事し商品を精銅所にも売りに来ていたが、その後は全く話題にも上らなくなったという。

   昭和53年はインカレ50周年であった。同年2月、皇太子(現天皇)ご夫妻も参列され記念行事が行われた。精銅所は直接関係はないが、会社を代表して出席してほしいとのことで、私は植木所長と出席した。(アイスホッケー戦の皇太子ご夫妻ヘの説明役は古河社員の宮崎宣広氏が担当した。)
   当日は冷え込みの厳しい日であった。ちょうど皇太子ご夫妻が会場にお着きになった直後、精銅所の総務課員S氏が卒倒、救急車を呼ぶというアクシデントが起こった。三〜四時間後両殿下が帰られるとき、美智子妃殿下から病状について懇切なお見舞いの御挨拶をいただいた。(S氏は一週間後亡くなった)
   会が終了し両殿下が帰られる時、各チームの主将に殿下からご下問があり緊張して応答していた。両殿下は宿舎の金谷ホテルにお立ちよりなく、東京へ直行でお帰りになったが、警備の警官は殿下のお車が栃木県から茨城県に入ったと連絡を受けたとき、栃木県警の任務は終了ということになるようだ。

竹田宮のこと
   
   精銅所を訪問された皇族の方々の中でも、スケートの練習を主目的に最も足繁く当所に通われたのが竹田宮恒徳王であった。この宮様は戦後皇族を離脱した後、日本スケート連盟会長に就任したのを初めとして、スポーツ分野で活動の幅をひろげ、JOC会長やIOC理事を歴任して、東京や札幌への五輪誘致にも多大の功績を残した。
   昭和47年の札幌大会でJOC理事として、1〜3位を独占した日本ジャンプ陣に表彰式でメダルを授与したのは有名な話である。
   彼の三男の竹田恆和氏もJOC会長を務め、ソルトレークやアテネの大会で日本選手団の団長を務めた。

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11.3 対外活動

   精銅所長は県の経営者協会の会長にながく就任した。戦後、例えば「トラック運送協会」とか「安全協議会」とかいろいろの会が「県」単位で発足し、その会長に精銅所の部課長が適宜就任した。
   私の関連でいえば「中央労働委員会」の下部機関として地方労働委員会の委員に任命された。地労委の委員は使用者側、労働者側、中立委員と任命されるが私は使用者側委員であった。昭和50年台の栃木県の労働問題はタクシーの運転手とゴルフ場のキャデイーの処遇改善の争いがほとんどであった。
   個々の係争事件はともかく、年一回三者合同の旅行会が実施された。ある年の会は二泊三日で九州旅行が実施されたが、所用があり欠席したところその年度末までに是非どこかに旅行してほしいということであった。私以外もう一人欠席者がありその方と二人で岐阜県の郡上から高山を一泊旅行した。できるだけ金を使って欲しいといわれ、いかに節約するかばかり考えているわれわれは面喰ってしまった。
   その時同道した方が足利の繊維会社社長さんの秋草さん(当時電電公社総裁秋草氏の弟さん、私の会社の友人I君の叔父さん)で、会話は弾みすっかり親しくさせていただいた。計上した予算は使い切るという「官」の体質を体感した。なお、地労委使用者側委員の大企業出身者の指定席は長く精銅所であったが栃木県にも大企業が多数進出してきたので、経営者協会会長もふくめ、いつまでも精銅所でもあるまいと申し出て各社持ち回りになった。
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11.4 シネ同好会

   私が入社し日光に配属された昭和33年は「郷愁の旅その7」でも述べたが映画館入場者人員が史上最高を記録したといわれている。映画に対する関心は高く「シネ同好会」の勧誘に新入社員はこぞって入会した。同好会の運営は自主的に行われ、会費は給与からの天引きで、金額は覚えていないがそんなに高くはなかった。映画の券が配布され家族も見ることができた。
   上映日は皆たのしみで、時には、仕事に優先し、われわれ独身者は映画を見て、また職場に戻り仕事を続けた。工場の現場は交代制をとっており、従業員の便宜を考え、あたかも町の映画館のように一日に二、三回上映された。
   工場の通用門のそばに「和楽所」という多目的利用の会場があった。会社の式典にも、労働組合の大会にも使われ、映画館にもなった。
   この会は大正15年に有志が語らい発足した。戦時中シネマは敵性外来語で「映画同好会」と改称したが昭和18年から22年まで一時中止となった。戦後、映画が娯楽の中心になり昭和30年台を通じ盛況であった。
   昭和40年、工場拡張の必要から隣に立っていた診療所とともに工場に建て替えられ、映画の同好会は消えて行った。
 
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11.5 基本的データ

@ 日光へのアクセス 

   明治23年 国鉄日光線開通
   明治26年 日光駅 細尾間 牛車軌道敷設
   明治43年 日光軌道完成
   大正  8年 荒沢で通勤電車転覆死者4名、重軽傷者39名
   昭和  4年 東武日光線開通
   昭和 7年 中禅寺ケーブルカー開通
   昭和42年 東武日光軌道線廃止(現在東武伊勢崎線東向島駅のとなりにある東武博物館
                   に日光軌道の電車の実物が展示されている)
   昭和53年 日足トンネル開通

A 精銅所からの距離(単位km)

    日光駅 7、東照宮 5.5、霧降滝10、華厳滝 9.6、中禅寺湖 10.8、湯元21.8、
    足尾銅山 23.1

B 従業員数の変化(戦前、戦中)
 
年      別 所     員 工     員 学     徒
明治39年 36 126 0 162
明治45年 89 940 0 1,029
大正 5年 81 799 0 880
大正15年 98 1,189 0 1,287
昭和10年 101 1,725 0 1,826
昭和15年 141 4,982 0 5,123
昭和20年 446 11,840 3,467 15,753

    (戦後)
年    別 精銅所 アルミ工場
昭和25年 3,112 0 3,112
30年 2,908 0 2,908
40年 2,565 717 3,282
45年 2,227 765 2,992
50年 1,576 760 2,336
50年 1,036 629 1,665

C 日光市の状況
 
   平成18年3月 旧 日光市 今市市 藤原町 足尾町 栗山村等二市二町一村が合併、新日光市が誕生した。
   人口92、800人(平成21年4月現在)、面積1450Ku(栃木県の4分の1、全国3番目の広さ) 東西47.1km、南北54.5km
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12.むすび

   精銅所が明治の末期、清滝の里に工場を立地し生産を始めたとき、従業員の宿舎や、健康管理や、日常品を調達する商店などが最低限必要であった。それが社宅や寮になり、病院や生活協同組合、など自前の施設建設に結び付いた。
   その後、さまざまな施策や行事が生まれたが、本稿ではそれらの状況を、あとさきしているが、思いつくまま個別に述べた。
   施策や行事の大部分は戦前に確立し、従業員の会社への帰属意識や、忠誠心を高揚し、生産性の向上につながることにもなった。地元の人達からも支持されたが、昭和30年台に入り、コストの原則が徐々に意識され始め、手近なことから、改善が進み、東京オリンピック後の景気後退が契機になり本格的に変革の歩みを始める。時代の変化を受け、精銅所が主催して、実施する積極的な必要性は徐々に薄らいでいった。

   我が国の経営管理の根幹には、集団主義を基本に家族的な「和」の精神が従業員の協力を呼び起こす。その施策が当初の狙いどおりに成果を収め、役割を終えた時、従業員との合意を得て、縮小、中止、撤収する決断と行動が必要であるが、一度確立した施策や、場合によっては既得権を変革することはそんなに簡単なことではなかった。拙稿は福利厚生の施策が時代の要請の中で如何に生まれ、支持され、栄え、終結したか、現在では、問題点はあらかた整理されたように思うが、過去の物語であるが、事実の報告書でもある。

   経営は今後も様々な事態に遭遇するであろう。年々担い手は若返り、工場は新しく生まれ変わって行く。本稿は雑駁であるが日本の経営のある一面を述べた。歴史の参考となれば望外の幸せである。 

   本稿では参考書は都度述べたが、全編を通じ昭和23年から27年にかけて編集、発行された、星野理一郎編「日光精銅所史」6冊、及びこれを1冊に集約した「精銅所五十年」昭和29年発行を参考にした。  

   「お付き合い頂きありがとうございました。これをもって終了させていただきます。」
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平成23年12月26日