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「精銅所」物語 ・・・(3)
大津寄雄祐  
5.附属病院

   附属病院は大正2年6月に創立された。従業員とその家族の診療は当然として日光に居住する人たちの診察も行った。創立当時は本館、病舎、隔離病棟、附属建物であったが、その後の増築により戦後には9病棟の外、主要な社宅地区三箇所に診療所を有し内容的にも充実した。病院は2名の医者で開設したが、昭和25年には医師13三名、歯科医師3名、薬剤師3名、レントゲン技師、臨床検査士、歯科技工士 薬局助手など8名、看護婦33名、その他事務員、雑役夫などで70余名の大所帯であった。そして24年度患者数は延28万5千人強という驚くべき数に達した。当時如何にその使命を果たしていたかを示している。町の開業医も少なく精銅所病院は圧倒的な力が認められていた。27年からは准看護婦養成所を併設した。
   昭和36年の正月明けの冬の寒い日、私は夕方猛烈な寒気に襲われ、紫明寮(独身寮)で震えていたところ、寮生で付属病院の医師の診断はジフテリヤで、法定伝染病の疑いがあるということで直ちに入院、臀部に今まで見たこともない太い注射をしてもらい、入院する前はぐったりしていたのが不思議なくらい元気を取り戻した。しかし法の定めにより一定期間入院の必要があるということであった。
   完全に隔離され仲間に会うこともなかったが、私は看護婦養成所の「先生」でもあったので生徒の彼女たちが入れ替わり見舞いに来てくれて、雑談するのが楽しみであった。退院し寮へ戻ってみると、隅々まで消毒され、皆からさんざん冷やかされた。おかげで寮が清潔になっただろうと憎まれ口をたたいた。

昭和30年代高度成長を背景に本工場の敷地を活用するため病院の跡地を工場に転換し、安良沢の社宅地区に新病院を建設した。昭和42年である。
しかしこの決定は将来を見据えた場合問題があったと思う。従業員は持ち家政策の促進で社宅を出、寒い日光の町を離れ今市や、宇都宮に移り住み、栃木県にも自治医科大学や独協大学の医学部が進出、その他宇都宮市の中心部にさまざまな総合病院が建設され、他方マイカーの所有が進み日光市の人口は減少し、過疎化が進み、病院の経営に大変な影響を与えることになった。

   私が日光に勤務したとき(昭和52年)すでに病院の赤字は顕在化していた。患者の構成も古河社員の比率は3割で7割は一般市民である。したがって病院は市民病院であると主張し市から病院の援助資金を出してもらうことにしたが、恒久対策にはならなかった。この頃から他の病院への売込みを考え、獨協大学に附属病院とする案を提案した。興味は示してくれたが理事長が動かなかった。

   「日光事業所百年史」を抜粋、引用しよう。「病院は日光市の参画も得て会社の負担軽減を図る構想であったが、過疎で僻地である当病院の医師の確保が極めて難しいという現実に直面し、経常収支の赤字により病院の債務超過はあっというまに拡大した。これ以上の負担を増やさないため病院経営を任せられる経営母体を模索し、関係者の苦難の末、平成12年に地域医療振興協会に移管され「日光市民病院」として、建物も一新されて発足することになり、ここに大正の初期発足し繁栄と衰退を経た附属病院の完全独立が完了した。」
   この病院問題の初期の段階に、いささか関係した私にとって上記情報を聞いたときは関係者に心から感謝した。

   さて、別件であるが、戦後の経済復興を背景に昭和20年代から30年代にかけて、スギ、ヒノキなどの活発な造林が続き、昭和30年代も中ごろ以降従業員の中に、春になると鼻汁が出、目がかゆくなるという症状が表面化してきた。これは杉の花粉症のはしりであった。
   1964年斎藤洋三医師らが「栃木県日光地方におけるスギ花粉症の発見」を学会誌に発表、「花粉症」が世の中で認知されることになった。花粉症の発見、治療に精銅所病院の医師団の活躍があったことが語られている。尚、花粉症で困った患者でも、近年、4%が治癒するということが言われてきた。
5ページで紹介した山田氏は日光時代から毎年花粉症にひどく悩む患者であったがその4%に入ったのか、近年春先、どこ吹く風かとすっきりしている。

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5.1 「附属病院」で思い出すこと

@   昭和30年代に入ると病院の問題が徐々に顕在化してくる。当時病院長は有松院長、会社の人事課長は有本氏(厚生課長兼務)。有松院長が人事課の部屋に来られると、有本課長が会議室兼用の応接室で応対される。
   当初は穏やかであったが徐々に院長の声が大きくなる。有本課長の声は聞こえない。院長は特に医師の給与改善を主張されている。医師不足時代の到来で精銅所病院の給与水準では誰も来てくれない。給与改善をすべしという主張に対し、課長はそれには応じられないという立場。有―有戦争は物別れで終わる。単身赴任の院長は帰り際部屋に残っている私に一緒に帰ろうと呼びかける。上司である高橋係長が院長に付き合えと目配せしてられる。私は院長に紫明寮まで同道、時に寮での夕食まで付き合った。
   帰路、当初は課長との延長戦であったが、入社2,3年目の私が何も分かっていないことが分かると話題は変わる。院長は一高、東大出身の秀才、寮まで漢字の書き取り、熟語の意味を聴かれる。私の正答率は50%ぐらい。今の若者は駄目だなと嘆かれる。戦後漢字制限でそんな漢字の書けるのは誰もいないですよと抗弁する。院長のご機嫌は良くなり「人事課でモノ分かりの良いのは君だけだ」と褒められる。院長の問題は未解決のまま転出された。

A   精銅所病院で花粉症を発見したことは周知のことである。毎年春になると新聞雑誌で取り上げられる。今年(平成23年)は5月20日の毎日新聞ガ取り上げた。同紙夕刊憂楽帳欄に「発症の地」と題し次のようにのべる。「物事が初めて起こった地を発祥の地と呼ぶ。宇都宮に来て日本のスギ花粉症の発祥の地は日光と知り驚いた。

B   1963年秋、古河電工日光電気精銅所付属病院(当時)の斎藤洋三医師が、神戸市で開かれた日本アレルギー学会で「スギ花粉症の発見」と題して発表した。斎藤先生はこの年に同病院に着任。3月になると、くしゃみ、鼻水、目のかゆみを訴える患者が増え4月にピークを迎えた。看護師に尋ねたり、過去のカルテを調べると、毎年同じ時期に患者が増え、スギ並木のそばに住んでいる人もいたという。血液検査や、スギの黄色の花粉を患者にさらし、同じような症状が再現できたことからスギ花粉症と名付けた。78歳の斎藤先生は今も、都内の病院で花粉症の治療に当たる。多く飛ぶ年は新たに花粉症を発症する人が多いと心配しておられた。花粉の飛散が多かったこの春、5月になりようやくシーズンも終わる。私(毎日新聞記者)は今年も症状が出ずにすんだ。宇都宮は私にとって「発症の地」とはならなかったようだ。ほっとしている。」

C   斎藤先生は私たちと同年兵でご存命であるようだ。花粉症発見の経過をお聞きし精銅所の歴史に付加してほしい。
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平成23年10月31日