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「精銅所」物語 ・・・(1)
大津寄雄祐  
 1. はじめに

  1.1 精銅所名称の由来

   昭和33年入社し「日光精銅所」勤務となった。日光にはそれまでに修学旅行等で行ったことはあったが、勤務地になるとは思ってもいなかった。入社教育で当時の後藤人事課長は「昨年本社に転勤したが18年間日光に勤務した」と話されていた。いずれにせよ長期間の日光勤務を覚悟した。
   実際に日光に住み、工場勤務を始めると、私にとってそんなに不愉快でなくむしろやり甲斐を感じ楽しくさえあった。

   「精銅所」は操業が始まった明治39年6月(1906年)「足尾銅山日光電気精銅所」と命名され、大正9年古河鉱業(株)日光電気精銅所と横浜電線(株)が合併し、古河電気工業(株)が設立され、「古河電気工業(株)日光電気精銅所」が正式な名称となった。
 それ以来昭和63年(1988年)「分銅」の操業が停止され、生産品目が多様化し「精銅所」では名が体を表わさなくなり、「日光事業所」と変更した時をもって82年間の歴史を発展的に閉じた。(足尾での銅の採掘は昭和48年で終わった。以後、輸入銅を中心に分銅工場は操業を続けた。)
地元では「精銅所」が通常の呼び名で、古河電工とは別で、二つの会社があると誤解していた人がいたというくらい、「精銅所」は地元の老若男女に浸透し、親しまれていた。平成18年7月(2006年)創業100年を迎え、現在105年の歴史を重ねている。

  1.2 本稿の課題

   戦前は経営家族主義的な経営理念のもとに、さまざまな制度、行事、慣行がつくられ、それが「精銅所」発展のエネルギーでもあった。
   戦後、政治経済のシステムが大きく変わったが、30年代の初期、私が入社したての頃は、戦前の空気が、まだ色濃く、生きていたように思う。しかし30年代の後半にもなると、戦前にできあがった諸制度が、事業所運営上、コスト高の要因となり、如何に創造的に変革していくかがマネージメント上の課題となっていく。
   本稿では精銅所の生産、技術、製品、市場、研究開発などに触れることなく、精銅所が戦前確立し、生活の中に溶け込んだ広義の労務管理上の制度や行事、慣行がどんなことであったか、それらが戦後どのように変化していったかを述べようと思う。
   以下課題は順不同、思いつくままに描いてみようと思い立った。「精銅所」を理解する上で代表的な二人の所長の事跡たどることから始めよう。初代所長山口喜三郎は精銅所を建設し生産活動を軌道に乗せ、三代所長鈴木恒三郎は労務管理上の諸施策を確立した。

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2.精銅所の誕生と、初代所長山口喜三郎

   古河市兵衛は明治8年政府のだしぬけの取立てにあって小野組が潰れたとき私財を投げ出してその整理に当たった。市兵衛の気概に、大蔵省租税頭陸奥宗光はいたく感心し、以来、肝胆相照らす間柄となった。宗光は明治17年、1年余り外遊し、後年米国公使となり外交界で活躍したが、古河銅の販路開拓や精銅事業の育成に少なからず援助をしている。渋沢栄一を通じ、あるいは直接手紙を送り古河銅に対する批評やその改良案を送り、もっと優秀な精銅を作らねばならないことを説いている。
   市兵衛は当初子供に恵まれず、陸奥宗光の次男潤吉を嗣子として養子縁組し、明治36年4月、市兵衛が逝去した後潤吉がその後をついだ。古河潤吉は精銅所が完成する直前の明治38年12月に逝去し市兵衛の実子虎之助がその後をついだ。虎之助は明治27年生まれで18歳、アメリカ留学中であった。

   精銅所のルーツは、明治17年創業の古河鉱業の「本所熔銅所」(東京)にあった。山口は明治23年17歳のとき入社、実に熱心に仕事に取り組み、非常な努力家であり、学問に対し貪る如き勉強家であった。
   明治28年電気事業が将来有望と考え、銅線や、銅板の製造までもやりたいと考えた。それには東京では安価な大電力を得ることは困難であり、将来は電力の点から見て日光方面にその工場を設けるのが得策と考えた。実際に日光で工場が発足するのは約10年後であったが、これは明治29年足尾の鉱毒問題解決に2百万円という大金を要したこともあり、古河は新規事業計画を多く見送らなければならないという事情によったのであろう。

   明治32年山口が26歳の時、市兵衛などの好意でアメリカにわたり、ジョンス・ホブキンス大学に入り電気化学を修め、29歳で卒業し帰国、本所溶銅所長となり、電気分銅、銅線製造の任にあたった。彼はこれら事業を発展させるには豊富な電力が必要なことを痛感した。たまたま日光に発電所建設の計画があることを知って日光に電気分銅所の建設案を作り、時の総長古河潤吉の許可を得たので、明治38年日光臨時工事部長となって精銅所の建設を急ぎ、39年初代の精銅所所長となった。在任4年7ヶ月、明治44年本店に転じ古河鉱業の常務取締役となり、古河の事業につくした。
   大正9年5月古河電気工業(株)が創立されたので、電工の専務取締役となり、日光精銅所と横浜電線製造所を主体とする電工の発展につくした。
   大正10年1月古河を去り東京電気(株)の取締役となり、その後同社社長に就任、また、東京電気が芝浦製作所と合併して東京芝浦電気株式会社(昭和14年7月)となった時、取締役社長となり、ついで会長となった。その後10数社の会社の役員となり、わが国の工業会、一般社会事業につくした功績は大きい。戦後昭和22年、74歳で逝去された。
   山口は何故古河を去ったのか。古河電工が多角的事業網の拡大に貢献した際、古河合名の抵抗を排除しつつ成し遂げられた事情に注目する必要がある。山口が専務を辞任、東京電気へ移ったのもこの摩擦の副産物であった。合名と山口の対立は電工の人員整理をめぐっても生じた。結局合名の方針に近い古河銀行専務中川末吉が後任になった。中川は大正9年古河電工設立時取締役(非常勤)に就任していたが山口退職後10年3月、電工専務に就任し、大正14年中島久万吉初代社長の後任として第二代社長に就任し昭和21年まで在職した。
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3.三代目所長 鈴木恒三郎の略歴と施策

   鈴木は明治6年大分県中津(福沢と同郷)で誕生した。そして明治29年慶応大学理財科を卒業し、30年福沢諭吉の推薦で古河合名に入社した。その後古河虎之助の米国遊学に随行し、ハーバート大学に通って会計学を勉強し、帰朝後足尾銅山の調度課長から本店商務課長に転じた。明治44、5年再度欧米派遣を命ぜられた。このとき、各国要人を歴訪したが、「働く人の働きの効果は、使う人の心の温かさに比例する」という精神によって工場を経営し、大いに功績をあげている体験談を聞き、感銘した。

   明治末年、全国に電気事業が勃興し銅線の需要が激増し明治の終わりにいたってその極に達した。ところが諸事業が一段落を告げるとともに銅線需要が一段落し注文が漸減し当所の仕事も縮小の余儀なきに至った。工場経営の諸経費は好況時代そのままなので経営困難に陥り、ここに一大刷新の必要に迫られてきた。このようなとき、大正元年鈴木は所長に就任した。早々不良の人夫24名の人員整理をはじめた。「首切り所長」の名はその時から起こり、怖がられた。本心は情にもろく、清廉にして正義感が強く、いわゆる温情主義を発揮し労務管理全般、会計、事務組織に大刷新を加え大いに成果を挙げた。
   鈴木は大正4年3月所長を辞して、古河を去ったが、所長在職2年3ヶ月の短期間に、就業時間、賃金制度、福利施設等に改善を断行し、工場運営上に新生面を開き、環境の美化、工場の整備、福利の増進に力を尽くし、優良な製品を産出して模範工場の名を挙げた。大正3年暮れ本社から「従業員2割減」の命令が下った。これは「従業員と苦楽をともにする」といっていた彼は非常に悩んだ末、人員2割減の代わりに賃金の2割減を提案した。近時云われている「ワークシェヤリング」の先駆的な考えといえる。鈴木日光所長は比較的短期間の在任であったにも関わらず、所長退職後地元では大(おお)所長として大変尊敬された。
   古河を退職後武藤山治の懇請で鐘紡の岡山、備前工場長となったが、大正9年欧州大戦後、未曾有の財界変動に遭遇し、古河の事業の再構築の必要から虎之助社長の懇望で再び古河にもどり理事として難事業に当たった。昭和2年には理事長に就任し、昭和5年〜6年にかけて、世界的不況に遭遇、その際、彼一流の英断で古河合名会社の大整理を断行した。その後整理の責任を感じ、後任に職を譲り相談役に就任し、社長及び会社の相談相手となり昭和14年68歳で逝去した。


   以下戦前精銅所で発足した諸施策が戦後どのような変化をたどったかを見たい。
   大正時代に誕生し平成の今も続く「和楽踊」から取り上げよう。
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平成23年10月3日