大正12年、祖父の米国大陸横断鉄道の旅(前編)
川村 知一
はじめに
今から丁度90年前の1923年(大正12年)、私の母方の祖父(41才)が石川島造船所の機械系技術者として、4カ月間にわたり欧米に出張して日記(77ページ)を残した。
その日記を基に、前回は昔の話「明治生まれの機械系技術者――」を投稿したが、今回は航路でサンフランンシスコに上陸後、ニューヨークまで米国大陸を鉄道で横断する、当時の旅事情を紹介したい。
記述には赤ゲット的トピックが幾つかあり、当時の日本人が経験した海外出張の苦労を察する事が出来る。(捨てられる運命の日記を、興味のある方にお読みいただけたらと思います。)

備考
祖父は明治15年に小田原近郊の農家に生まれ、3才の時に父親を亡くしたが、中学から東京に出て、(いずれも出来たばかりの)一中に入学、三高、京都大学では機械工学を学んだ。
明治政府は人材育成のため、一中、一高、東大、三高、京大などを設立し、若い人材に無償で教育の機会を与えた、とある。
ニューヨークでは下宿を拠点に、2カ月間、ワシントン、ボストン、フィラデルフィア、ボルチモア、ピッツバーグなど、米国の先進企業を多数訪問し、港湾、鉄道のインフラなどを見学した。
同時期、部下であった土光敏夫氏(27才)はスイスに滞在、と日記にある。
(土光氏は後に東芝社長になり東芝を立て直し、経団連会長として活躍された。)

前篇:「サンフランシスコ→シカゴ→デトロイト」(送り仮名を多少読み易く直してあります。)

(大正12年)4月5日午前6時に桑港に入港、検疫を終わり移民官の尋問を経て、愈々上陸と相成れど、絹物、絵画、その他personal effortと見做すことを得ざるもの多数所持居たしたる為、税関仲々八釜敷くBroken Englishにて弁明するも一向に意思相通じず、やむを得ず6弗近く取られて開放せられたのは午後1時半頃で、漸く三井の自動車でFairmont Hotelという旅館に投宿しました。

ホテルの様子と英語の電話
宿屋は当地第一等の旅館で小高い山の上で桑港市中を一望の本に眺めることが出来ます。
宿の取り方は至極簡単で、自動車が着くと綺麗な金ピカの洋服を着た人が二、三人入口に立っていて自動車を開けて呉れる、中に入ると其処はlobbyと云って控室のようなもので、此処で沢山の客人が椅子に腰を掛けたり煙草を吹かしています。其処の隅の方にCasherと番頭が居て其人にI want a room with bathと云えばAll rightと云って部屋の番号と鍵と宿帳に匹適する紙を呉れますから其処に自分の名前とTokyo Japanと書けば其れで終わり。

其内に直ちにboy(米国ではBell boy)が付いて来て手荷物を持って来て室の案内をしてくれる。
部屋は寝台、机、押入れ、湯殿と電話がある丈けで、直にchamber maidが来て床(とこ)を作って呉れる、御世辞も云わずに出て行ってしまう、後はたった一人只ポツネンとして暫くあっけに取られて何をして良いやらさっぱりわからず、やむを得ず椅子に腰を掛けて煙草を吸っていると、其内に電話がヂリヂリと掛かって来た。サー困った、三井の人に電話の掛け方を聞いて置くのだったと悔いても時すでに遅し、やむを得ず電話の受話器を取ったがモシモシとは何と云うか知らない、其内に女の金切り声でHallow gentleman!と云うから、ハハー成る程モシモシはHallowと云うなと自ずから合点しつつ、未だこちらは無言で居ると何やら少しも聞きとれない、二三回Beg pardonとやっても聞きとれないから、止むを得ずI am a Japanese, please talk slowlyとやったら漸くの事で、お前のBaggageが届いたが室に持って行くか其れともBaggage roomに置くかとの問い合わせだと云うことがわかって、Please bring up to my roomと云う事が出来た。

全く女の金切り声の電話と来たら到底初心者の会得することを得ざる点がある、その代わり、こちらは日本人だ、もっとゆっくり云え間抜け女、と云ったってわからないから平気なものだ。
其内に又電話が掛かって来るから今度は得意でHallowとやっ付けると、向こうから、あなたは鍵和田さんですかと来る、三井の人からの電話で夕食をしないかとの事、昼は抜きだったから早速下に下りて行って夕食を済ませ、夜12時頃迄かかって汽車の時間割と頸引きで汽車旅行のprogramを決定しました。

汽車旅行のProgram
Date  Place  leave  arrive 
Apr. 5  San Francisco     
 6  〃    
 〃 11:00AM   
 Ogden(Salt lake)   1:05PM 
 Omaha   7:15PM 
10  Chicago    9:00AM 
10  〃  11;45PM   
11  Detroit    8:15AM 
11   〃 11:45PM   
12  Niagara    6:05AM
12  Buffalo  10:35PM   
13  New York
(Grand central station) 
  9:00AM 

上のprogramを見るとChicagoで宿らずに市中を見物して夜中の12時近くに出発するのは危険だとは思ったが、何時迄人に頼って居たって限りがないから、少し乱暴だとは思ったが敢行しました。

汽車の切符と寝台車
汽車の切符は三井の人に依頼して買って貰いましたが、其説明を聞くと汽車賃と寝台車賃とは別の会社が取るのであって、列車には普通車と二等寝台、一等寝台(之れを米国ではPullman carと云います)と連結してあって、Pullman carの内にもdrawing room, compartment,sectionとあって、drawing roomは談話室の附いたもの、compartmentは家族、夫婦等の如きものが一室借り受けるもの、sectionとは日本の二等寝台と同様のものです、私は其内のsectionを取って旅行することにした。

汽車は桑港の対岸にあるOaklandと云う所から出るのですが、桑港からOakland迄は鉄道連絡船があって、其れに乗れば良いのですが此の汽船が亦頗る旧式のものでWattのBeam engineを使って居る、然し汽船の発着は極めて巧妙でgo astern 等は少しもかけないで実に上手にやります、此う云う所にsteam savingの充分なる注意が払ってある様です。
又汽車中は男女の便所は別であるのは勿論ですが、室内で喫煙することが出来ないのが困りました、食堂の料理のmassiveなのには驚いた、米国人は体が大きいだけに沢山食べる様です。

Car Ferry Boat(図1)
 
途中Salt Lakeの手前のPort Costaと云う入江を汽車が横切る時に、列車を三等分にしてFerry boatに乗せて対岸に運ぶのですが、船の大きさは長さ350’、幅が125’位の大きさの船で、中央にEngine及び二三車を連結したtrainが入り、其両側に又三車両位づつ連結した列車が入り、其してbalanceを取る様になって居る。船と陸の線路の連結は仲々巧妙でone sideをhingeしたるpontoonをhydraulicで上下して船と同じ高さにして連結する。

                                                          (中略)

車中
汽車の中は日本と少しも変わった所がなく、只boyが(米国で之をporterと云う)黒人で変な発音の英語を使って居るのが違う位の事だ、汽車中は日本人は私と陸軍の飛行大尉の加藤と云う人と二人きりでした、早速同大尉と話し合って仲良しになって十日朝九時にChicago迄来ました。

[Chicago]
Chicagoの停車場は丁度東京駅に着いて上野から出ると云ったような所ですから、直に自動車でso called Ueno駅に行って手荷物を全部一時預かりにして自分は身一つとなって市中を見物し、博物館、美術館を見て夕食を終わり、間もなく八時頃となったから通りは全部(私の歩いている町)店を閉めて消燈し始めたから驚いて、明るい町の方へ行こうと思って急いでいると、角の暗い中から黒人の大きい奴が出て来て、Gentleman! Will you give me little money? I did not take my dinner なんて云い出したから驚いた、例の辻強盗ではないかと思
ったから英語は分からない風をして、すまして急いで行ってしまった。例の黒人は仕方がないものだから又元の方に帰ってしまった。
危険と思ったから今度は活動(映画)に入って十時半頃迄時間を潰し、自動車で停車場に駆け附け荷物を受け取り、汽車を待って居ると、此待合室には所謂日本の停車場ゴロの如き人相をした奴があちらの隅に二三人、こちらの隅に三四人と云う風にゴロゴロして居て、何やらヒソヒソ話をして居る、其内に一人がGive me money pleaseなんて手を出すから又始まったと思って、英語を分からない風をして私は頻りにinquiry office(案内所)の方を指をさして示すと、先方も仕方がないものだから行ってしまう、其如く実に危険であるから人相の悪る相な奴に注意し、之れをニラメ附けてやった。
其の如くChicagoと云う所は実に人気の悪い所らしい、其内に汽車が切符を切りだしたから急いで汽車に乗ってしまった。

翌日は(十一日)朝Detroitに着いたらFordの自動車を見ようと思ったのですが、当日は何分雪が降って居て、然も亦夜の十一時四十五分迄待たなければならない、昨夜の危険に怖れを抱いたのと、且つ旅慣れない者が余り危険をやるのも、どうかと思ったから急に日程を変えて、其次の列車に乗り替えて、初めの予定より一日早くNew Yorkに着く様にして、三井にも其旨汽車の中から電報を打った。(つづく)

参考:大正12年、パスポート申請要領(図2)
 
 
項目には、“族稱”があり、華族、士族、平民を書き入れた。祖父は農民の出であったから「平民」と書いた。(“族稱”は終戦まで継続された。) 
 平成25年6月13日