第 4 3 8 回 講 演 録

日時: 2016年06月14日(火)13:00~15:00

演題: 平成の天皇 ~平和への祈りの原点にあるもの~
講師: 共同通信社 社友、ジャーナリスト 橋本 明 氏

はじめに

天皇の最近のご発言の中で私の心に深く植えつけられた二つの重要なご発言がある。一つは「満州事変以降の十五年戦争について日本人はもっと学ぶ必要がある」というご指摘である。もう一つは「日本国憲法は先人たちの大変な努力と、アメリカの友人たちの助けによって出来上がったものである」というご判断である。本日は日本国憲法の誕生の経緯を勉強して天皇の見解を解説したい。天皇はなぜそのようなご発言をされたのであろうか?このご発言は、安倍晋三総理が「日本国憲法はGHQがわずか8日程度の短期間でにわか作りしたものを日本に押しつけたものであるから、これを改正する」としきりに言っていたことに対する天皇の反論であると受け止めている。それでは、天皇はどのようにして「平和憲法」を受け止められたのか、日本国憲法の成立の歴史を振返ってみたい。

1.「日本国憲法」と天皇

(1) 対日占領政策

わが国が戦争に負けたのは1945年9月2日である。日本はポツダム宣言の受諾を決定した御前会議の翌日、終戦の詔が発せられた8月15日を「終戦の日」としているが、世界史的には東京湾にあった戦艦ミズーリ号上で、重光葵外務大臣、梅津美治郎陸軍参謀総長が降伏文書に調印をした9月2日が第二次世界大戦・太平洋戦争の終結の日である。連合国最高司令官マッカーサー元帥はそのわずか3日前に厚木に降り立ち、マイケルバーガー中将が推薦した横浜・グランドホテルに居を定めた後、8月30日に東京に無血入城を果たす。日本に君臨する道のりは、開戦間もない1942年、早くもアメリカの国務省内に設けられた“SWNCC”委員会(State-War-Navy Coordinating Committee = 国務・陸軍・海軍統制委員会 = “スウィンク”)が対日戦勝利後の占領政策を研究し始めた当時からの線上にあった。日本の占領政策についは当初はドイツと同じように占領軍による直接統治が考えられていたが、敗戦が決定的になったぎりぎりのタイミングで間接統治方式を採用することに変わった。ハーグ条約に定められた「間接統治」によれば、被占領国の法制を尊重し、司法・行政はその国の長に任せ、占領軍の長がその上に立って指揮・統括することとされている。マッカーサーは東京丸の内の第一生命本館をGHQ本部としその6階に最高司令官執務室を設け、入居した。

(2)昭和天皇とマッカーサー

昭和天皇とマッカーサーの初会談は1945年9月27日、アメリカ大使公邸で行なわれた。マッカーサーは昭和天皇に関する第一印象を「私の目の前にしている人は世界中の紳士中の紳士である」と日記に書いている。天皇はその時マッカーサーに対し「文武百官は自分が任命したものであるから全て無実である。国民は飢餓に瀕している。どうか助けていただきたい」とはっきり述べられた。天皇は8月17日には朝香宮、閑院宮、竹田宮、高松宮の4人の皇族を海外・国内の軍司令部に派遣し、この戦争終結は天皇陛下が自ら望まれたものであり、「願わくば君たちは一糸の乱れもなく武装解除をして日本へ帰還せよ」との御意を伝えられた。その結果、当時海外の戦地にあったおよそ300万人に及ぶ皇軍兵士生存者が粛々と日本へ帰還する。この事実は当時世界の七不思議の一つであるともいわれた。マッカーサーはその事実と重ね合わせ、今、眼前にある天皇の持つ力の偉大さに目を開き、天皇あってこそ日本の政治がまとまると悟り、天皇を温存する意志を強くした。当時アメリカでは嫌日感情が強く、殊に中国派といわれる人たちの中には天皇を抹殺せよという激しい意見を持つものもいた。しかし、マッカーサーは東京裁判(極東軍事裁判)の首席検事を務めたキーナンと言い含め合って天皇温存の意思を固める。

(3)「日本国憲法」はどのように練り上げられたのか

マッカーサーは1945年9月に当時の幣原喜重郎総理に対し「日本国はなるべく早く自分の憲法を作るべきである、それは日本人が日本人の手で作るものでなければならない、そのためには日本帝国憲法の改正を急ぐこと」と伝えた。それを受けて、当時の与党は国務大臣松本烝治を憲法担当大臣・ 憲法問題調査委員会委員長、外務大臣吉田茂をその補佐役として任命し、憲法改正の検討を進めさせた。ところが、そのころマッカーサーにとって非常に危険な国際情勢の変化が起こった。19451227日に米、英、ソ連、中国の4カ国の外相会議で対日政策が話し合われ、翌1946年2月27日にモスクワで、対日戦争に関わったこれら4カ国を含む11カ国の代表から成る「極東委員会」を東京に設置することが決定された。マッカーサーにとってはこの極東委員会は小うるさい存在となる。アメリカが主導する対日占領政策に対してものを言うようになると、これらの国の中には日本とさまざまな異質な形で交わっていた国もあり、新憲法制定にあたって大混乱を来す恐れがあった。日本が憲法草案策定にもたついていると、例えばソ連がソ連邦型の憲法草案を、あるいは中国が自国式の憲法を押しつけてくることが危惧された。東京裁判の裁判長ウエッブ(オーストラリア人)は徹底した天皇嫌いで、天皇を訴追して日本の戦争責任を追及することを仄めかしていた。こうなると役に立つ天皇を生かす根本政策すら危うくなる。

1947年(昭和22年)2月1日、毎日新聞が大スクープを一面に掲げた。松本烝治の手になる憲法改正案「甲案」、「乙案」の2案の全文が明らかになった。マッカーサーはこの記事で初めて日本の憲法草案が作成されたことを知り、2日間でこれを英語に翻訳させ、その内容を読んで絶望する。日本政府案は保守色そのものをふんぷんとさせ、「天皇は統治権を総攬する」など明治憲法の基本精神を踏襲するものであった。

マッカーサーはこれに対し「日本が今なすべきことは、戦争を起こし戦争に負けた日本がこれからどういう国になるのか、世界に向けて早期に発信することである、文句の言えない立派な思想に裏付けられた憲法草案を早期に発表しない限り、天皇制護持もクソもなくなる。どうして日本政府は国際情勢に理解が届かないのか」と、いらだちを隠さなかった。そのあたりの機微が分からない松本委員長から先に公表された日本側の憲法草案について2月13日にGHQに説明したいと申し入れてきた。マッカーサーは2月2日、GHQの民生局長ホイットニー准将を呼び、憲法改正草案をGHQが作る方針を述べ、「9日間で仕上げろ」と明示、「マッカーサー・ノート」(ホイットニーとの共作とする説もある)をホイットニーに手渡し、すべて民政局が極秘裏に作業するよう求めた。「ノート」は次の3点を明らかにしていた。①天皇は国のHeadである。皇位は世襲とする。しかし、天皇は国の基本的な意志すなわち憲法に定められた通りの行動をしなければならない。②戦争は放棄する。自衛のためといえども陸海空の軍隊は持たない。日本の安全は、国際社会に寄り添う形でのみ保障される。③日本の封建的制度を破壊する。

未だ残雪が残り、雨が降っていた2月3日・日曜の朝、新橋第一ホテルに宿泊していた民政局次長ケーディス大佐は上司であるホイットニー局長に呼ばれ、GHQ6階の局長室に急遽駆け付けた。すでに2人の中佐が来ており、局長の話を緊張して聴く。七つの作業委員会を立ち上げ、9日間で日本国の憲法草案を作成する工程表が組まれる。「9日間」の期限は松本委員長が日本側の憲法草案を説明する予定となっていた2月13日に間に合わせるためであった。翌2月4日、ホイットニーは総勢25人を指名し、立法、行政、人権、天皇制などの7部門に分かれて直ちに作業に掛かった。民政局での草案作成作業は秘密厳守を絶対原則とし、極めて秘密裏に作業が進められた。メンバーは実質缶詰状態で、席を立つときは作業中の書類は一切デスクに残さず、持参するよう徹底した。行政委員会の長を務めた若い中尉は直ちに憲法資料を集めるため動き、東京大学教授蝋山政道の協力を求めている。さらに複数の図書館から目立たぬよう数冊ずつに分けて関連図書を集めて回った。こうして豊富にそろえた資料を十二分に使いこなし、前文を担当したハッシー海軍中佐ほか各小委員会のメンバーが昼夜を分かたぬ作業によって極めて理想的な草案を成した。

2月13日、スケジュール通り、ホイットニーはケーディスらを伴い吉田茂が待ち構える外務省公邸に向かった。携えたのはすでに日本語にも翻訳された草案である。吉田、松本両氏はもともと日本側の草案の説明を直ちに行なう構えであった。GHQから彼らが作ったものが出てくるとは夢にも思っていなかった。ホイットニーは、連日の作業で疲れ、風邪気味で熱もあり、よろよろする体をケーディスに支えられながら、吉田が先に説明に入ろうとしたのを押しとどめて、「君たちが作成した憲法草案はあまりにも保守的だ。天皇の政治大権、統帥権をそのまま認めている。マッカーサーは今の国際情勢をよく考えるべきだと言っている。これがわれわれが用意した草案である。これを日本国政府の案として出し直しせよ」と発言した。ホイットニーほか米側の出席者がその草案を置いて公邸の庭に出たあと、吉田、松本はGHQ草案を読み、全く予想していなかった記述内容に驚愕する。その後約1時間40分をかけてケーディスたちの説明を聞き、議論したのち、ようやくこのGHQ草案に従って憲法改正案作成を進めることに同意した。

新憲法制定は現行の明治憲法第73条に依拠して改正されなければならない。そこには、貴族院および衆議院それぞれの2/3以上の賛成を得るほか、さらに高いハードルが規定されている。憲法改正は天皇が発議し、議院の採決の結果について天皇が同意することが要件となっている。こうなれば天皇を説得するしかない。幣原総理は吉田、松本両人に上奏するよう命じた。吉田はこの改正案で天皇に通るか全く心もとなかったが、思い切って上奏に向かった。「この憲法草案では天皇の政治大権、統帥権を無くし、天皇の権限は憲法の定める範囲内に制限される。これからは国民が主権者となり、基本的人権を守り、国民の生存権を保障し、国民の安全は世界の良識に訴えていくことになる」と昭和天皇に語ったのだ。昭和天皇はしっかりした口調で「これから日本は大改革に入らなければならない。これしきの内容はむしろ当然であろう。よし、この草案に沿って新憲法を作ろう」と決断された。私は天皇のこのご判断を戦後に行なわれた初のご聖断とみる。日本政府は直ちに勅語を用意した。天皇の発議は1946年6月20日、第90回帝国議会に提出された。勅語の概要は「わが意を体して十分に議論し、よい憲法としてまとめるように」となっていた。

衆議院・貴族院両院で約4ヵ月、真剣な討議を経て、日本国憲法が生まれた。GHQ案のほか日本の民間から提案された条文骨子が多く取り入れられた。日本国民全体で憲法を作る趣旨から、与党以外に、社会党、共産党からも改正案が出ている。その中に労働運動で有名であった高野岩三郎や弁護士森戸辰男らが作った憲法研究会提案の「生存権」が取り入れられている。「生存権」とは、日本国民が誰ひとりとして落伍することなく等しく生存する権利を国家が保障するというものである。アメリカの憲法にもなかった日本独自の「生存権」によって日本国民は年金、国民皆保険などの社会保障を享受している。

冒頭に述べた今上天皇の「先人たちが懸命に考え、アメリカの友人の助けがあって日本国憲法が生まれた」というお言葉はまさにこのような新憲法成立の経緯を踏まえたうえでのご発言である。今上天皇はこの憲法を守ることこそ父陛下の意に沿い、日本が平和国家として世界に信頼されて生きる道であると考えられていると思う。われわれも、制定後70年日本が国際社会から信頼される基となった現行憲法を、一部の人たちの言うように「GHQがわずか9日間で作って押しつけてきた憲法だから改正すべき」などと軽々しく扱うべきではない。

2.天皇と共に学んで

(1)昭和天皇の手紙~戦争の敗因は?

今上天皇(以下「天皇」)は父親としての昭和天皇の背中を見て天皇としてあるべき姿を学んでこられた。天皇は皇太子であった終戦時には日光の古河電工の近くの「田母沢御用邸」、後に奥日光・湯本の「南間ホテル」に疎開滞在された。その間、古河電工とは非常に近しい関係にあった。皇太子に合流するため私達が日光駅に到着すると、駅前広場で古河電工の吹奏楽団や地元小学生の出迎えを受け、金谷ホテルまで隊列を組んで行進した。私は今も日光や古河電工との深い縁(えにし)を身に沁みて感じている。

終戦直後の9月9日、日光に滞在されていた天皇のもとへ昭和天皇から信書が届いた。信書の主旨は「学校で先生が教えていることと、私が言わんとしていることに大きな違いがあるので躊躇していたが、なぜ戦争を止めたか一言いわせてほしい。これ以上戦争を続ければ三種の神器も守れず、日本国の種も残せなくなるからだ。戦争の敗因は、()英米をあなどったこと、()精神に重きをおき過ぎ科学を忘れたこと、(三)明治時代の山縣、大山、山本のような立派な指導者・人材がいなかったことである」。この昭和天皇の手紙の中で天皇が最も重く見たのは「科学を忘れた日本」という側面であると天皇自身が言っておられた。この昭和天皇の手紙は、実は、私が共同通信時代に発掘し、大スクープとして発表したものである。

(2)ヴァイニング夫人~“掃き溜めの鶴”

1946年3月にアメリカのニューヨークの教育委員会委員長スタッダードを団長とし全米の著名大学の学長・学者で構成された教育使節団が来日する。この使節団が文部省を訪れた際、時の文相・安倍能成が「日本国は戦争に負けたからといって、一方的に勝利国の言い分にひれ伏すつもりはない。日本には日本の良いところがある」という有名な演説をする。使節団は最後の日程で昭和天皇主催のお茶会に招かれた。席上、昭和天皇がスタッダード団長に「皇太子のために先生を選んで欲しい」と要請される。その後改めて宿舎の帝国ホテルへ、天皇を正式に代表する山梨勝之進学習院長・元海軍大将と御用掛寺崎英成が訪れ、スタッダードと詳細を詰めている。寺崎夫人は米国人グエン・テラサキであり、彼女はその著作「太陽にかける橋」で有名であった。自薦他薦多数の候補者が入り乱れる中で、クエーカー教徒・フレンズ派に属するフィラデルフィア出身の児童作家・エリザベス・グレイ・ヴァイニングが有力候補となってスタッダードの目を引いた。彼はさらにチャップリンという若い女性を候補者に挙げ日本に示した。“チャップリン”では生徒が笑ってしまって授業にならないから、多少年上でもヴァイニング夫人がよいと決めたのは日本側である。なぜ米国人を息子の教師にえらんだのか、昭和天皇は「これからの世界は米国が支配する。英国の出番はない」とその理由を語られた由である。

ヴァイニング夫人が授業を始めて気が付いたのは、若い明仁皇太子に何か質問をすると、皇太子は必ず傍にいる侍従の顔を見ることであった。彼女は皇太子が自分で考えて、自分で判断するように指導しなければならないと考えた。

ヴァイニング夫人はまるで“掃き溜めに降りた鶴”のような素晴らしい女性だった。彼女はいつも黒づくめの服に白襟のシャツを着ていた。われわれもこのヴァイニング先生に4年間熱心な教えをうけた。彼女が送別会のとき黒板に書いた文字は“Think for yourselves”(「自分の頭で考えよ」)であった。この言葉は今の天皇の血となり肉となったといってよい。

「三つ子の魂 百まで」という意味で、今の天皇の人となりを知るために、天皇の青年時代のエピソードをいくつか紹介する。ヴァイニング夫人は日本人の名前を覚えきれなかったためか、われわれ生徒ひとりひとりにニックネームを付けて呼ぶことにした。天皇には「あなたは“Jimmy”です」といったところ、天皇は“No! I am crown prince of Japan”と答えた。その後しばらく経っての授業で、ヴァイニング夫人が生徒にそれぞれの将来の進路を尋ねたところ、天皇は“I shall be the emperor of Japan”と答えた。ヴァイニング夫人は天皇がそのようなすばらしい自覚を持っていることにいたく感心した。ところが天皇は社会科の憲法の授業を受けていたとき、近くで机を並べていた私にメモを書いてよこした。読むと、「世襲の職業はいやなものだね」とあり、青年期に入った皇族の心況の複雑さを覗いた思いがした。必ずしもヴァイニング夫人に傾倒していたとは思えないところをうかがわせた。

送別会の時に行なった英語劇「ヴェニスの商人」で天皇はアントニオの役を見事に演じた。そして、私が指揮をしてお別れの歌を何曲か合唱して贈り、ヴァイニング夫人は日本を発った。

その後ヴァイニング夫人がアメリカに帰国後も接触を欠かさず、彼女の許を何度か訪問をする機会があった。その折、ヴァイニング夫人がハヴァフォード大学に「ヴァイニング・コレクション」を持っているのを知り、それを見せてほしいと頼んだ。ヴァイニング夫人は「見てもよいが、私と小泉信三氏との往復書簡だけは除く」といわれた。その理由は小泉氏との往復書簡には皇太子妃選びのことが書かれているからであった。見せてもらった多くの手紙の中には、天皇が書かれたものや私自身が書いたものがあったが、目をひいたのが山本五十六の二男の山本忠夫が記した手紙であった。そこには「ヴァイニングさん、私はあなたを初めて尊敬する気になった。それまではアメリカの差し回しの悪者としか思っていなかった・・・・・」と書かれていた。よく読んでみるとそれは中等科時代のことであった。そのころ、天皇が武蔵小金井の東宮仮寓所に私を呼び、「この夏沼津に行くので、一緒に過ごす級友として君のほかあと二人を選んでほしい」と言われた。私は中等科から同じクラスに入ってきた山本忠夫と、東都リーグ戦で投手として活躍することになる草刈廣を選んだ。三人で沼津に滞在中にヴァイニング夫人から天皇に宛てて手紙が届いた。その手紙には「戦勝国だけで行なわれた東京裁判は不公平であり、正義を表していない。国際司法裁判所においてこそ東京裁判は行なわれるべきであった」と書かれていた。これに対する天皇の返信には「国際司法裁判所で裁判を行なうということに非常に興味を持った」と書かれており、山本忠夫の手紙には、前述のようにヴァイニング夫人の天皇宛の手紙を読み「このような立派な考えを持つヴァイニング夫人、あなたを尊敬する」と書かれていた。私もヴァイニング夫人を今も高く評価している。

(3)馬術「付属戦」~天皇はなぜ怒ったのか?

高等科の頃である。明仁親王(以下「親王」)は馬術部の主将になられ、学習院高等科と東京教育大学(現筑波大学)付属高の馬術の定期団体戦である「付属戦」を控えて張り切っておられた。しかし、試合の前になって親王は酷い風邪を引かれてしまい、出場取り止めを正式に届け出た。ところがその後すぐに親王の風邪は治る。学生主任から私に呼び出しがあり、「殿下にどうしても付属戦に出てもらいたい。殿下もそうしたいと強い気持をもっておられるはずである。しかし殿下は責任感の強い方だから自分から出場したいと申されない。橋本、君が殿下に分からないようにして、殿下が出場できる方法をとるように」とめちゃくちゃな指示を出したものだ。要は自分が消えればよいのだろう。私は祖父が陸軍の騎兵中将で騎兵監にまでなっているので、その血筋からすれば乗馬には強いはずだが、下手くそだ。障害飛越が怖くて仕方がなかった。「橋本、このままであればお前は下級生にやられてしまう、そのようなみっともないまねはするな、これから毎朝7時に必ず馬場に来い、特別練習をさせるから」と親王に言われたのが、学生主任から申し渡しされた日の午後だった。翌朝、鎌倉のわが家を暗いうちに出て、6時半ごろ馬術部当日の部長に面会し、「急に体調が悪くなったので選手をやめたい」と申し出たところ、部長は、予め言い含められていたのか、あっさりと「分かった、十分静養しなさい」と言った。私は7時ごろ馬場を見下ろす斜面に隠れて眺めていたところ親王がやってきた。何か怒っている様子で、機嫌の悪そうな顔をしながら鞭を手に練習を始めた。教室は8時半から1時限が始まる。親王は私を見つけるやいなや、私の胸倉をつかんで「何で練習に来なかったか!」と激しく詰問した。「自分は鎌倉に住んでいるので、朝早く来て練習をするのが嫌になった。体調も悪い」とふてくされて答える。親王は主将として付属戦に出場した。当日、木陰に潜んで祈った、「勝ってくれ」。祈りは通じた。見事に勝利を収めた。心で泣きながら親王にはたてついたまま20年を経たある日、「どうして、もっと早く言ってくれなかったのか」とつぶやく親王がいた。

(4)「戦略家天皇」が“銀ブラ”に

最後に、もう一つ明仁親王と一緒に体験したエピソードを紹介する。昭和27年(1952年)2月、学習院の高等科三学期最後の試験が終わり、親王と並んで清明寮に戻る道すがら「ちょっと相談がある」と言われた。

寮へ着き、荷物を部屋に置いて親王の部屋に行くと、「この部屋では盗聴されているかも知れないから外へ出よう」と廊下の扉を開けて外へ出た。外階段のところで親王が言った、「今夜は外へ出たい」と。私が「どこへ行きたいんだ」と聞くと、「銀座に行きたい」と答える。「分かった、行こう。しかしもう一人ほしい。さっき見かけたから千家崇彦を連れて行こう」。三人で協議に入った。「外出は今夜だ」。護衛を付け、当局の了解を得ると決めた。着るものは学生服としたが、親王の学生服はきれい過ぎて目立つ。上にオーバーコートを着てもらうよう説得したのは千家である。私が侍従室に入ると浜尾さんという新任の若手侍従がいた。彼に「今夜殿下をお連れして外へ出ることをお許し下さい」と正面から申し述べると、浜尾侍従は行き先も聞かず「それはいいことだね、安全に気を付けて早く帰ってきてね」と事もなげにいう。新人は理想に燃えているせいか、ことの恐ろしさを知らず、あっさりと許してくれた。千家は外へ出て「皇宮警察本部側衛官」(護衛官)に親王が外出されるから警護を頼むと言い、同意させた。舎監はたまたま不在であったので話さなかった。親王は5時ごろになって「アレを連れて行こう、直ぐ連絡をしろ」という。以前、正月に鎌倉の私の家でパーティを開いたとき葉山滞在中であった親王と千家を招いた。同席した一人が鎌倉女学院学生・渡辺節子だ。早速彼女に電話をして新橋で落ち合うことにする。

夕食後、7時ごろには寮生が部屋に引き揚げる。3人は内玄関に置いていた靴を履いて、学習院の正門から外へ出る。そこで出勤途上の佐分利東宮侍医に出くわすが、「ちょっと銀座へ行ってきます」と言ったところ、冗談だと思ったのか特にとがめもせず行ってしまった。目白駅へ出て、千家が3人分の切符を買い、1枚を親王に渡した。親王はラッシュアワーで混み合う電車の中でニコニコ顔を崩さない。あのように楽しげな親王を見たことがなかった。目白から同乗していた学生一人だけが不思議そうに、ためつすがめつ親王の顔を見ていたが、幸い何も言わず渋谷で降りて行った。

新橋駅に到着した。渡辺嬢は未だ着いていない。松坂屋の前で合流することにして、親王と千家が先に繰り出して行った。決めた時間に二人で松坂屋に来たとき、まだまだ暗かったけれども、銀座は銀座、華やかさが漂っている。親王と千家は有名だった『花馬車』という喫茶店に入り、二人でコーヒーを注文した。飲むうちに、店の支配人が挨拶に出てきた。「ようこそお出でになりました」。二人はコーヒーを飲み残したまま慌てて店を飛び出した。この男が翌日なんと侍従職に電話を入れ、お礼言上に及んだものだ。このため秘匿しようとしていた東宮職は顔色を失う。

千家によると、松坂屋前で慶應の学生5,6人のとすれ違っている。彼らは紳士的に、「殿下、こんばんは」と声をかけそのまま通り過ぎて行ったという。親王は「ああ、こんばんは」と返された。よい時代であった。誰ひとりとして親王に注目することもなく、ゆったりとした雰囲気で時間が流れていた。

われわれが松坂屋の前で合流後、親王が「宮内庁御用達の菓子屋に『コロンバン』という店がある。多分この近くだ」と言われた。四人揃ってその店に行き、二階の喫茶室で紅茶とアップルパイを頼み、しばらく談笑の時を過ごした。そこでかなりの時間が経ったころ、階段に私服刑事の姿が見え隠れしているではないか。切り上げて帰ることにした。途中で顔見知りの四谷警察署刑事4人が背後に張り付いていると知った。一人が私の脇に寄って来て、「やりましたね!」と声をかけてきた。笑顔であった。帰路は有楽町から目白まで電車で戻った。渡辺嬢とは新宿駅で別れた。

清明寮に戻る。「お帰り!」と大声が響く。親王は怒りの表情をみせて自室に入り中から鍵を掛けてしまう。一方、私と千家は侍従室に拉致され、「お前たちに裏切られた」などと厳しく叱責された。「君たちは社会のことが何も分かっていない。この前“米よこせ”運動で、宮城の大膳にまで群衆が入ってきたではないか。労働争議も盛んに起きている。何が起きるか分からない中で皇族、しかも皇太子が独りで出歩くなど、とんでもなく危険なことだ。情においては分からないではないが、理においては、お前たちは馬鹿だ」と烈火のごとく怒られた。ところが一方で、「君たちはよいことをしてくれた」という声も多かった。後に、大臣をしていた越智通雄氏が天皇に「あの銀ブラ事件はなぜなさったのか?」と聞いたところ、陛下は「いや、電車に乗って見たかったのだよ」と答えられたという。

私が総括して申し上げたいのは、天皇はこのころから情勢判断に長けており、この時も「今日試験が終わり、あと3週間も経つと春休みを経て大学へ入学する。義務教育が今日終わった。今夜なら東宮職の連中はみな油断をしている。だから今日がよいのだ」と。これを聞いて私は天皇はきわめて立派な戦略家であると思った。確かにこの時期は皆が気分的にも弛緩している。天皇は情勢をよく把握し、分析して判断して成功されたのだ。天皇はおおらかなところもありながら、時には茶目っけもある一方、戦略的にものを考え、情勢把握が的確である。その性格は天皇となられた今日まで持ち続けておられる。

天皇は「孫引き」ばかりをする学者や教師を殊に嫌われる、厳しい方である。天皇はある意味では、重箱の隅をつつくような狭量な厳しさで相手を袋小路に追い詰めても、逃がすだけの度量の少ない方であった。しかしその角を矯めてこられたのは美智子妃のおかげである。天皇はかつて「学習院で育った女性は嫁にはできない。彼女らは社会から隔てられ過去の名声や家柄に囲まれて大事に育てられた雛ばかりで、自分でもの事を判断できない。“学習院に人なし”だ」と言われていた。そのため皇太子妃を学習院ではなく聖心から選ばれることになった。今や、学習院はかつて皇族すべてが学んでいたという誇りはなく、数ある教育機関の中の一つに過ぎない。

Q & A

Q1:  明仁皇太子の日光での疎開先は田母沢御用邸ではなかったか?

A1:  皇太子が住んでいたのは田母沢御用邸の中禅寺湖寄りの二階の端の部屋だった。同じ建物内ではあるが大正天皇がおられた御座所とは少し離れた場所にあった。先日も行って見たが、部屋は畳敷で外側は雨戸、内側は障子、狭い廊下があるだけで、部屋の中には電気のコンセントは一つもなかった。殿下は火の気のない部屋で日光の冬も過ごしておられた。われわれ生徒は金谷ホテルにいた。御用邸の北側にあった東大系植物園内の小ぶりな建物を教室にしていた。われわれは毎日、金谷ホテルから行進しながらこの教室に通った。

当時、宇都宮師団が叛旗を翻し皇太子を擁立して、徹底抗戦をするといううわさが広がった。皇太子は昭和20年7月に奥日光南間ホテルに移ったが、皇太子付き儀仗司令の田中義人少佐が東京の軍部と綿密な連絡を取り、およそ1個中隊の兵でいろは坂の防護体勢を固める。さらに事が起きた場合には南間ホテルを逃れて、金精峠を越えて大本営司令部の地下壕があった長野県の松代に移るということも計画していた。

皇太子は最初昭和19年(1944年)5月から沼津に疎開していたが、昭和19年7月にサイパン島陥落の知らせがあり、山梨勝之進海軍大将は駿河湾から敵が上陸し皇太子を拉致する危険があるとして、皇太子を日光へ疎開させる決断をする。日光では最初は前述のように田母沢御用邸内にあったが、20年(1945年)3月10日の東京大空襲、続いて5月25日には皇居がほぼ全焼するという山の手大空襲があり、皇太子の身辺にも危険が迫り、7月に残留学生40人と共に奥日光南間ホテルに移られる。そこで、8月15日、皇太子は父昭和天皇の終戦の詔勅の玉音放送を聞かれることになる。

Q2:  小泉信三先生が皇太子と共に福沢諭吉の「帝室論」を朗読されたと聞いているが?

A2:  天皇はヴァイニング夫人よりむしろ小泉信三先生の影響を受けておられると思う。小泉氏は慶應義塾の塾長であったが、東宮職教育担当の常時参与に迎えられ、安倍能成学習院院長よりはるかに密接な天皇(明仁親王)との人間的触れ合いを保たれた。小泉氏が最初に天皇に進講した本は諭吉の「帝室論」ではなく、英国の「ジョージ五世伝」(「King George V, His Life and Reign Harold Nicolson)である。「帝室論」は英国の「君臨すれども統治せず」という王室のあり方を日本の天皇論に置き換えたものである。天皇は寝るときに枕元に「孟子」を座右の銘として置いていると私に言われたことがある。天皇は「孔子の『論語』には君たちが学ぶべきことが書かれ、孟子は天子になるべきものに対する教えが書かれているからだ」と説明していた。

Q3:  平和主義者としての天皇は、昭和天皇からその遺志を引き継がれたと思うが、昭和天皇は父大正天皇は病弱であったと聞いているので、他にどのような方が昭和天皇に「天皇学」を講じられたのか?

A3:  質問は天皇と皇太子の父子関係のことであろうが、天皇が沼津におられた頃、父昭和天皇との親子の関係としては、「親」は「御真影」であり、天皇・皇后両陛下の御真影に向かって朝夕の挨拶をされる習慣だった。天皇の親子の関係は人情的には極めて希薄であるが、それだけに父陛下は大事な存在であった。その中で、父子が食事を共にされる貴重な週1回の会食を昭和天皇が欠席されたことがある。それは昭和1612月7日のことであった。正にその時、太平洋戦争開戦の御前会議が行なわれていたのである。天皇は昭和天皇に戦争責任があるかどうか自ら調べ尽くした。そのために、木戸孝一日記を初めとする昭和天皇の重臣たちが書き遺した日記をほとんど読み尽くした。そして辿りついたのは西園寺公望の秘書の原田熊雄日記であった。この日記で自分の父親が間違いなく平和主義者であったことを天皇自ら確認することになった。天皇は昭和天皇が戦後、世界各国の大使、公使との会合で、いかに彼らから敬愛の念で迎えられているかを眼のあたりにする。天皇は、先の大戦で数百万人の若い有為な人材が戦場で「天皇陛下万歳」と叫びながら散っていったことを、自分の一生の負(ふ)として背負い、その魂に赦しを願い、鎮魂の祈りを捧げなければならないとの思いから、昭和天皇になり代わって、戦跡地の慰霊の旅を続けられている。

 明治天皇は皇太子嘉仁親王(大正天皇)にはあまり期待をかけられず、大正天皇の長子・裕仁親王 (昭和天皇)を非常に大切に考えられていた。裕仁親王こそ将来日本を背負う天皇になるべき皇孫で あるとして、その教育のため初めて「東宮御学問所」を設置して東郷平八郎元帥をその総裁とし、初等 科教育のためには乃木希典大将を学習院の院長として、二人の日露戦争の功労者を迎えられた。御 学問所の御用掛(教育掛)として杉浦重剛をはじめとする各方面の錚々たる学者が集められた。

C1:  天皇が昭和天皇の平和主義者としての遺徳を継承され、世界、日本の各地で平和への祈りを捧げられる姿に感動し,真の人間天皇であられると深く尊敬している。本日のご講演ありがとうございました。


(記録:井上邦信