第 4 3 3 回 講 演 録

日時: 2015年12月16日(水)13:00~15:00

演題: 長寿は狂言の笑いから・・・
講師: 重要無形文化財総合指定保持、大蔵流狂言師 善竹 十郎 氏

はじめに:

「能」と「狂言」を一体とした「能楽」が、日本の無形遺産の第1号として、2001年にUNESCOの世界無形文化遺産に登録された伝統芸能であることは、実は日本では余り知られていない。UNESCOの「世界無形遺産」の認定基準は、その文化遺産が放置しておくと廃れてしまう惧れのある貴重な遺産であること、つまり生物界の「絶滅危惧種」に相当する遺産であることである。しかしその保護についてはUNESCOとしては特別の支援はせず、それぞれの国で適切に行なうことを前提としている。そのため、世界遺産として登録されるほどの貴重な無形遺産であっても、国民の支持と支援がなければその伝統を護り、継承して行くことは困難であることを理解いただきたい。

「能楽」は一般の方の日常生活からは縁遠い存在であるため、「能」と「狂言」の違いすら理解されていない向きもある。一般に「能はミュージカル、狂言はコント」といわれる。「能」には、笛、小鼓、大鼓、太鼓(演目により)の管楽器と打楽器から成る「囃子方」が必ず付き、さらに「地謡(じうたい)」という男性合唱隊(最近は女性が入ることもある)の斉唱の下に、シテ、ワキ、ツレ、トモなどの演者が役柄に応じて出演し、一つの物語をあたかもミュージカルのように演じる。「狂言」は能の後、あるいは能の前に能と交互に演じられる。能・狂言の公演は通常1日・1回限りで行なわれるが、その費用は能楽堂の会場費、主演のシテ方、ワキ・囃子方・狂言方の三役の出演料などの諸経費を含めて1回当り総額200300万円が掛かる。能楽は五大流派(観世、宝生、金春,金剛、喜多)がそれぞれ、いわば親会社となって同門の三役などの下請衆を結集して催される。定期公演は各流派で年に数回行なわれるが、全体の公講演回数はかなり多く、国立能楽堂では今年11月の公演回数は午後、夜の部を含めて延29回にも及んでいる。能楽は歌舞伎やミュージカルなどと違い、同じ演目を何日も連続して上演することはせず、1公演1日限りである。欧州公演などに行った折、「リハーサルは何十回したのか?」とよく聞かれるが、「結団式は出発当日成田空港で、団員の演技合わせは直前に1日のみ行なう」と答えると、大変驚かれる。能の演者は全て個人として独立していて、公演ごとに集められる。これができるのは伝統の強みで、永年読み続けられてきた同じ台本によって、各演者が鼓や掛け声などを寸分違えず発することができる。演者が失敗することは滅多にないが、一度失敗するとそのうわさが「悪事千里を走る」で広まってしまうので、弛まぬ習練が要る。

本日の講演では配布資料に従って、実演をまじえて能・狂言にまつわる事柄の解説をさせていただく。

1.狂言「福の神」

先ず、有名な演目「福の神」を実演(発声)で紹介する。

シテ(福の神)     ~さて汝等は楽しゅうなりたいか。

アド(参詣人甲)    ~いかにも楽しゅう成りとう御座る。

シテ(福の神)    ~楽しゅうなるには元手が要るいやい。

アド(参詣人甲)   ~是は福天のお言葉とも覚えませぬ。その元手が欲しさになあ。

アド(参詣人乙)   ~中々。

アド両人        ~加様に歩みを運ぶことで御座る。

シテ(福の神)    ~是に福の神、ほうど詰まった。去り乍ら汝等は、元手と言はば金銀米銭のように思うであろうが、一向そうでは、おりないよ。常々心の持ち様のことじゃ。迚とてものことに楽しゅうなる様、語って聞かしよう。よう聞け。

アド(参詣人甲)    ~畏まって御座る。 

シテ(福の神)      ~汝もよう聞け。

アド(参詣人乙)      ~心得ました。

(解説) 狂言の肝は「笑い」である。神様が俗世的に「元手が要る」と要求したところで聴衆から笑いが起ることで決まる。ここで笑いが出ないと狂言師の立つ瀬が無い。しかし、この狂言で最も大事な部分は、福の神(シテ)が「元手」とは金銭ではなく参詣人(アド)の『心の持ち様』だと言っているところである。人間は病気になったり、会社の業績が悪くなった時往々にして気持ちが落ち込みマイナス思考となりがちであるが、むしろそれは身体を癒すためのサインであり、過去の行動の反省のための機会を与えられたのだと、気持ちを切り替え、プラス思考に転ずる「心の持ち様」が大切だと「福の神」が諭しているのである。まさに「笑う門には福来る」である。

続いて地謡(じうたい)が次のように謡う。

いでいで~ この序(ついでに~~~ 楽しゅう成る様 語りて聞かせん 朝起きとうして慈悲あるべし 人の来るをもいとうべからず 夫婦の仲にて腹立つべからず 扨(さて其後に我等が様なる福天に如何にも福を結構して 扨中(ちゅう酒には古酒をいやと云う程盛るならば~~~ ~~~楽しゅうなさでは叶ふまじ 

(解説) ここでは「心の持ち様」を説いている。常日頃慈悲心をもって人に接しなければならないことは分かるが、夫婦の間で諍いが全く起きないようにすることは俗人には難しいことである。しかし、福の神の言う通り、腹を立てないに越したことはない。「福を結構して」の「福(ふく)」は仏事の「仏供(ぶく)」の懸け言葉で、仏様同様に神様にも供え物として「酒」を納め、いやという程呑ませてくれれば楽しくなるとの仰せである。ここで「いやと云う程盛るならば」が「三遍返し」と称して3回繰り返されるが、1、3、5、・・・などの奇数は「陽」の数字で、偶数は「陰」の数字である。1月1日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日(重陽の節句)などの奇数月と重さなった奇数日が祝い日となっている所以である。

後ほど、この「福の神」の舞を披露したい。

2.「狂言」へのご案内

次に、配布資料の『「狂言」へのご案内』について解説する。

この資料では『◇「をかし」の表情』の項を初めとして◇印の付いた12項目が書かれているが、それぞれの項目を詳しく解説すると、項目ごとに最低1時間を要する。本日割り当てられた時間ではとても足りないので、要点のみ簡単に説明させていただきたい。

◇ 「をかし」の表情

・ おおらかな笑い、なごやかな笑い、カラッとした笑い、シニカルな笑い。

・ 人間肯定の精神と、奇想天外な着想に彩られた、健康な明るい笑い。

・ 笑みのうちに楽しみを含む、上級の「をかし」。あと味の良い笑い。

「をかし」という概念は室町時代から「わび」「さび」と同じように文化や芸術に求められたものである。「をかし」の笑いにはこのように色々な種類があり、ただ単に笑えばよいというものではない。「福の神」の笑いは、ここに書かれている「上級で、楽しく、あと味の良い」笑いであろう。我々が狂言で求めている笑いは、げらげら笑う下品な笑いではなく、上品な笑いである。

◇ 「狂言」とは?

・ 「本狂言」

能と能の間に演じられる、狭義の狂言。能に対して独立に行なわれる狂言劇。現在は、狂言尽くしの会、各流・各派の狂言会などが開催されている。能は相当の緊張感をもって演じられるが、狂言はその緊張の後の弛緩ともいうべき役割があり、笑いの要素を織り込んで精神的にもリラックスして楽しめる。

・ 「間(あい)狂言」 

狭義の「能」の中に狂言方が登場して、狂言的演技をするもの。その代表的なものは、「前シテ」と「後シテ」の間隔を埋めるために演じられる、いわゆる「間狂言」で、主として「語り」の形式がとられる。広義の間狂言では、「中入り」でないときに狂言方が登場して、「ワキ」(あるいは「シテ」)などを相手として、能の筋を運ぶ役目を果たすこともある。(「シテ」:主役、「ワキ」:脇役)

・ 狂言の形態による分類

①語り間(居語り、立語り、口開け間、早打ち間) ②「アシライ」(「会釈」)間 ③劇間(複数のアイが出て演ずる寸劇) (「アイ」:劇の前場と後場の場をつなぐ役)

「間(あい)語り」として有名なのは世阿弥の代表作の『井筒』である。『井筒』は『伊勢物語』の23段『筒井筒』を元にしている。この能のシテは紀有常の息女で、その夫・在原業平との夫婦愛の物語である。物語はこの二人が少女・少年時代に井筒(井戸)の傍らでお互いの顔を井戸の水面に映し合うところから始まる。それから月日が経ち、有名な相問歌「筒井筒、井筒にかけしまろが丈、生いにけらしな 妹見ざるまに」(男) 続いて「くらべこし 振分髪も肩すぎぬ 君ならずして 誰かあぐべき」(女)と交わして、二人は結ばれる。その後、業平の死後に建てられ、今は荒れ果てた「在原寺」に紀有常の息女(前シテ)が現れ、そこに居合わせた旅の僧(ワキ)に自分達の跡を弔ってほしいと頼んで、何処ともなく消え去る。そこへ在所の者(狂言方・アイ)が来て僧に向かって「いや是に見馴れ申さぬお僧の御座候が何処より何方へ御通候えて、是に安ろうて御座候ぞ」と問いかけると、僧は「是は諸国一見の僧にて御座候 御身はこの辺の人にわたり候か」と応える。アイは「なかなか、この辺の者にて候」、ワキが「左様に候わば 近う寄りて賜り候え 尋ねたき事の候」と返す。ここで、私の謡の中で気付かれたかと思うが同じ「候(ソウロウ)文でも狂言方とワキで発声の仕方が違い、狂言方の方がよりクリアで、ワキの方は落ち着いた声になる。続いて、アイが「扨 御尋の有り時は如何様なる御用にて候らうぞ」と訊く。寺の縁起についてワキの僧侶が問うたのにアイが応えて、その昔ここで在原業平と紀有常の息女が先の相問歌を詠い結ばれたが、業平が死後祀られた有原寺は今は弔う人もなくこのように廃れてしまったが、御本尊は観世音菩薩で何でも願を叶えてもらえると語って聞かせる。この「間狂言」は、息女の霊として現れた前シテが衣装を着替えて後シテを務めるまでの間の「間」を繋ぐために語られるが、後シテの人物解説をして、この後舞台でどのような場面が展開されるか期待を持たせる仕組みとなっている。後シテとして業平の姿の男装で登場する紀有常の息女(業平の妻)の霊は、かつての想い出の井筒に向い、傍らに生える薄の穂を伴った自分と業平の姿が二重写しになって水面に映るのを見て「懐しや 吾ながら懐しや」と泣き崩れる。その時、掌を内側にして顔の前にかざして泣いている様を表現する。

この『井筒』について有名なエピソードを紹介する。観世流の二代目宗家の「観阿弥」の息子「世阿弥」が作った能として夙に有名であるが、二代将軍秀忠の頃の観世流の九代宗家「観世黒雪」がこの井筒を舞った折に、これを観ていた剣術の柳生但馬守が「能は隙(すき)が無い演技」と聞いていたので、どこかに隙が無いか確かめてやろうと構えていた。そして、後シテ黒雪が序の舞を優雅に舞って、終りに近づき、井筒を覗き込む大事な場面に差し掛かったところで、但馬守が何を思ったか、突然「エーイッ」と声を掛けた。能はそのまま続けられたが、怒ったのは同席していた将軍秀忠。この大事な場面でなぜそのような声を掛けたのか、もっての他だ。場合によっては切腹もありうる、ときつく叱りつけた。但馬守は「畏れながら能は隙無きものと存じ候が、黒雪殿井筒の中を視し時に隙ありと見て、声を掛け候」と申し開きをした。そこで秀忠は、黒雪を呼んで但馬守がそのように言っているが、申し開きをせよと迫った。黒雪は、井筒の中を視ようとした時に、「そこに埃が落ちている」と、ふと思った瞬間に声を掛けられたと釈明した。それ以来、能舞台は塵埃一つなく拭き清められることになったという。この言い伝えは、能はそれほどまでに真剣に、緊張感をもって演じられるということを表すものである。江戸時代には十万石以上の大名は能楽師を抱えることを許され、その庇護の下に能楽が盛んに行なわれた。現代では能楽は文部科学省から重要無形文化財の認定は受けても助成金は一切出ないが、七百年続く、世界にも稀な伝統文化として守り抜いて行かなければならない。かつて私達が学生時代は「謡(うたい)」の素養がある会社の経営者が少なからずいたため、就職活動に有利として謡を習う学生が比較的多かった。しかし現在は謡ができる人は僅かである。皆さんも今からでも是非、謡を習っていただきたい。そして能・狂言を鑑賞する機会を増やしていただきたい。

・ 「風流(ふりゅう)狂言」

特別な狂言で、『翁』の中で演ぜられることが多い。「目出度盡し」の曲目が多い。

◇ 能と狂言の比較

能と狂言は極めてよく似ている反面、全く相反する面もある。「二卵性双生児」の関係、非常に性格の違う兄弟で、協力して「能楽」という一家を支えている。

・ 「能」: 悲劇、歌舞劇、貴族的、歴史劇、仮面劇 ~ 連歌、オペラ

・ 「狂言」: 喜劇、対話劇、庶民的、現代劇、素面劇 ~ 俳諧、コント

能と狂言の交互上演は、あくまで対等の立場で、相互にお互いの特色を最高度に発揮させる方法といえる。滑稽な寸劇で能を観た後の肩ほぐしの役割をするものではない。

但し、上記の説明では能を「悲劇」としているが、必ずしも悲劇だけとは限らない。親子の再会などを扱った心安らぐ人情物もある。また「安宅」のように仮面を着けないものもある。「オペラ」というより「ミュージカル」の方が相応しいであろう。狂言は「喜劇」的でないものもある。また全てが「素面劇」ではなく、面を着けるものもある。能と狂言を「連歌」と「俳諧」で対比しているが、それぞれがそのような句の形式で作られているという意味ではなく、単に劇の長短を以てそのように表現したに過ぎない。悲劇的要素が多く含まれる狂言の一例として『月見座頭』のあらすじを次に紹介する。

名月の夜、盲目の座頭が野に出て虫の音を聴いていた。そこへ名月を観ようと上京の男がやって来て座頭に出会い、座頭に何をしているのかと訊ねる。座頭は眼が見えないので虫の音を聴いて楽しんでいると答える。男は持って来た酒を座頭に振る舞う。酒盛りが進み、謡も始まる。座頭は酒の肴として男に舞を所望する。そこで男は「あわれ一枝を花の袖に手折りて月をもともに眺めばやの 望は残れり 此の春の望残れり」と謡って舞い、「ハッ~~~、不調法致した」と結ぶ。これに座頭が「やんや やんや」と返し、男の求めに応じて、難波の浦の景色と盲目の哀しさを表した能『弱法師(よろぼし)』を謡い、舞う。この能は家から放逐され盲目の乞食となった俊徳丸という男が、盲目であるため往来する人にぶつかり倒れてしまうという惨めさを謡ったもので、「今より更に狂わじ」で終わる。宴も終わり、二人は別々に上京と下京へ向かう。しかし男は途中で「今一度の楽しみを致そう」と元の場所へ引き返す。座頭が良い気分になって「聞こし召せや、聞こし召せ、寿命久しかるべし」と杖をつき謡いながら歩いているところへ、先程の上京の男が戻ってきて、座頭にドンとぶつかり「いやーい、己何故にそれがしに行き当たった」と怒鳴る。座頭は「いやっ 此方は目明の様だが 盲目の人に向かってこのように当たるということがあるもので御座るか」と応ずるが、男は「扨々 何を抜かしおる 退けおれ」と言って座頭を引き倒してしまう。座頭が「扨々 此方慈悲の無い御方じゃ」と言い返すと、男は「何を言うか 己のような往来の妨げになる者は こうして置いたがよい 良いなりの 良いなりの」と言って消え去る。座頭は「あーッ あまり引廻されて方角を失った 杖は何処にあるかしらん おー 是にある 是にある この杖を頼りに戻りましょ」「さりながら 先程の親切な人もいれば 今のように慈悲ない御方もある あー 世の中とは何と あー 色々な事があるものじゃ」と一つ悟りを開いて「くさめ留め」として「はーっ くさめ、 くさめ」とクシャミをしながら帰って行く。この「月見座頭」という演目はなかなか上演できないものであるが、人間の内面にある性格の二面性を表すもので、「笑えない狂言」ではある。

◇ 狂言の流派

・ 大蔵流

京都)茂山千五郎家(千作、千五郎、他)  

東京)大蔵宗家(弥太郎、他)、善竹家(十郎、他)、山本東次郎家(東次郎、則俊、他)

・ 和泉流

東京)野村万蔵家(萬、万蔵、他)、野村万作家(万作、万斎、他)、和泉宗家(現在不在)、三宅右近家(右近、他)

名古屋)野村又三郎家(又三郎、他)、狂言共同社(井上菊次郎、他)

・ 鷺流(さぎりゅう): 明治末期まで存在したが、現在は廃絶した。

以下に「大蔵流・善竹家」の系図の詳細を示す。

大蔵流の始祖は茂山久蔵英正で、善竹家は茂山家分家二代目の忠三郎良豊の長子・彌五郎が善竹家の初代となる。私、善竹十郎は弥五郎の五男・圭五郎の長子である。大蔵流は金春流の座付狂言方である。江戸時代には能の流儀に観世座、宝生座、金春座、金剛座の四つの流儀があり、金剛座から派生した「喜多流」を併せて「四座・一流」と呼んでいたが、明治になって「座」を廃して「五流」と呼ぶようになった。「善竹」は、金春流の中興の祖の「金春善竹」に因んだものである。金春善竹の妻は金春流の宗家世阿弥の娘である。世阿弥には「十郎元雅」という子息がいたが若くして夭折し、観世家の後継がいなくなったので、娘婿の金春善竹に後を託すことになった。善竹は世阿弥の能楽伝書「風姿花伝」「花鏡」の秘註を継いで、理論書「六輪一路」「六義」などを著わし、現代にも残る多くの名作を遺している。この由緒ある「善竹」の名は金春流七十九世宗家・金春信高氏から明治・大正・昭和に亘って能・狂言を盛りたてた功労者・茂山彌五郎に贈られたものである。私の本名は「茂山十郎」である。「善竹彌五郎」の名は「広辞苑」にも載せられている。その孫に当たる私達は祖父が余りにも偉大過ぎるので「まごついて」いる次第である。

和泉流の野村万蔵家の七世野村万蔵・野村萬は日本芸能実演家団体協議会会長、能楽協会理事長などの要職を務め、日本芸術院の会員でもある。二世野村万作はその弟に当たる。野村万斎は万作の長男である。かつての和泉宗家の和泉元彌は和泉宗家の十九世和泉元秀の長男であるが、父の死後宗家継承の手続きを怠ったため、和泉流宗家継承者として認められず、能楽協会からも脱会させられている。代わって野村萬が和泉流の流儀の代表者となっている。三宅右近は元秀の実の弟である。「鷺流」は明治末期に廃絶したため、現存する狂言の流派は大蔵流と和泉流の二派のみである。(この項敬称略)

◇ 演目の種類

「脇」、「大名」、「小名(太郎冠者)」、「聟・女」、「鬼・山伏」、「出家・座頭」の六種の狂言に属さないものを「集(雑)」狂言という。他に「舞狂言」、「新作狂言」がある。新作狂言としては、近く1223日にディケンズの小説「クリスマスキャロル」を「寿来爺(SUKURU-JI)」と題する「音楽狂言」として、私達狂言師親子が弦楽(コントラバス・ヴァイオリン)とアコーディオンの演奏入りで公演する予定である。

◇ 登場人物・上演時間

ほぼ2~4人(1人~10数人の場合もある)。ほぼ15分~40分(平均25分)

◇ 狂言の役名

主役を「シテ」、脇役を「アド」と呼ぶ。(「主アド」、「次アド」、「三のアド」、あるいは「立ち衆」、「立ち頭」、「参詣人」、「花見客」など)

◇ 狂言の面

基本は素顔で演じるが、特別な役は「狂言面」をつける。面は20種ほどで、神仏(夷、大黒、福の神等)、鬼(地獄の鬼、閻魔)、動植物(牛、馬、カニ、蚊の精、キノコ等)、老女、醜女など。狂言面はユーモラスな表情が特徴。乙(おと)は「おかめ」、嘘吹(うそふき)は「火男(ひょっとこ)」の原形といわれる。

◇ 狂言の装束

登場人物の役柄(性格)がわかるような装束。一般庶民の日常を描くものとして、ほとんどの装束は麻の生地である(袴は麻であるが、着付は絹が使われる)。女性は頭に美男鬘をつけ、縫箔姿(白地の麻が使われる)

◇ 狂言舞台の領域

狂言では、舞台上でも主に使う領域と、舞台でない領域があり、能舞台の「シテ柱」、「目付柱」、「ワキ柱」を結ぶ三角形の部分が主に使われる。逆に、ワキ柱、笛柱、シテ柱を結ぶ三角形のエリア(「笛座前」、「大小前」)には、「アイ座」で正面を向いて座っていても、そこには居てはいけないとする約束がある。例えば,台詞を述べた後に、笛座前に移動した演者は、ストーリー上は舞台から退場しているものとされる。

◇ 劇の展開パターン

・ 名乗り: 代表的な名乗りは、「これはこの辺りに住い致す者でござる」、他に「隠れもない大名」、「・・・の国のお百姓」、「大果報の者」、「・・・の昆布売りでござる」など。

道行: この後の道行で、舞台を三角に歩く動作だけで目的地に到達する。「まーず そろりそろりと参ろう

・ 呼立て: 「太郎冠者あるかやい」 「はあ、お前に」 「念のう早かった

・ 言付け: 「○○へ行って聞いてこい

案内: 「ものもう、案内もう」 「案内とは誰そ

語り: 登場人物が相手役に向かい、改まった口調で物語するもの(昔話、伝説、神仏の縁起など)

留め: ①登場人物同士の葛藤の解決、②解決せず破綻、③その他、の3パターンがある。たとえば、①笑い留め「ウッハッハハハ」で目出度し、目出度し、②追込み留め「ご許されませ、ご許されませ」「やるまいぞ、やるまいぞ」、③舞い留め(舞い終わると同時に一曲を終える留め)、④台詞留め(短い述懐で留める結末)など。

◇ 擬音の台詞

酒を注ぐ:「どぶ どぶ どぶ」、雷:「ぴっかり、ぐわらり、ぐわらり」、川に投げた小石が沈む:「どんぶり、ずぶ、ずぶ、ずぶ」、重い扉を開く:「ぐわら、ぐわら、がら、がら、がら」、軽い扉は扇子を拡げて「さら、さら、さら、さら」、閉めるときは「さら、さら、さら、さら、ぱったり

これら擬音はいわゆる「オノマトペ(*)」で、狂言では多くの種類が使われる。

3.『福の神』の舞い(実演)

最後に約束通りに『福の神』を舞ってお目にかけることとしたい。

いで~ この序に~~~ 楽しゅう成る様 語りて聞かせん 朝起きとうして慈悲あるべし 人の来るをもいとうべからず 夫婦の仲にて腹立つべからず 扨(さて)其後に我等が様なる福天に如何にも福を結構して 扨中(ちゅう)酒には古酒をいやと云う程盛るならば~~~ ~~~楽しゅうなさでは叶ふまじ あーあー はっはっはっはっはっ

Q & A

Q1: 能・狂言の公演を聞きに行く前に内容や話しの進み方について予め下調べをしておかないと、よく解らないままに終わってしまう恐れがある。下調べにはどのような方法があるか?

A1: インターネットの検索でかなりのことが分かる。図書館の「能ガイド」で該当する本を検索してもよい。国立能楽堂の地下に図書閲覧室があり、ほとんどの曲目の図書が揃えられており、更に、過去の公演で撮られた映像が流派別、演者別、曲目別に映像ライブラリーとして納められている。

Q2: 能・狂言では、歌舞伎のようなアドリブは一切許されないか?

A2: アドリブは、能では新作も含めて殆ど許されないが、狂言では形でも言葉でもある程度許される。先日「仏師」で印を切る時に「五郎丸ポーズ」をしたら大受けだった。

Q3: 日本語には「オノマトペ(*)」が多いと聞いたが、狂言で使われているオノマトペは室町時代に既に使われていたのか?日本はこれが出やすい素地・風土があるのか?

A3: 室町時代以前から使われていた。万葉集、古今和歌集にも頻出する。外国では擬態語はあるが「デタラメ語」で、日本のオノマトペと違い、言葉としては全く意味をなさないものである。

Q4: 先生の声量は大きく力強いが、健康法は?

A4: 笑うことによって癌細胞を食べるNK細胞(ナチュラル キラー セル)が増えるが、ストレスやフラストレーションは逆にNK細胞の活動レベルを低下させるといわれている。笑いは免疫力を高め予防医学として有効である。笑いだけではなく、人を褒め、人に喜ばれ、感謝されることを自らの喜びとする、「自利より利他」の精神を心がけることが大切である。大きい声は丹田呼吸で下腹に力をいれて発声することで出せる。またそれで免疫力も高められる。先日相撲の三杉里さんに教わった健康法は、シコを踏む時に、片足を上げるが、もう一方の上げない方の片足は曲げないでまっすぐ伸ばしたまま立つようにするとよいとのことである。足腰が鍛えられ転倒予防にもなるそうである。

(注記)

  1.公演中で講師が謡われた(実演された)部分の文字はフォントを斜体、または行書体とした。

  2.(*)オノマトペ: 仏 語; onomatope=擬声語(擬音語+擬態語)

    擬音語の例: 日本語(ドカーン、サラサラ、トントン,など)、英語(boom, murmur, rat-a-tat, etc.)

    擬態語の例: 日本語(グラグラ、ジクジク、トボトボ,など)、英語(wobble, ooze, trudge, etc.

(記録:井上邦信