第 4 1 8 回 講 演 録


日時: 2014年6月16日(月)13:0015:00

演題: 戦後日米関係の実相 ~「自主」と「追従」のはざまで~

講師: 元 外務省 国際情報局長、評論家 孫崎 亨 氏

はじめに

歴史学を初めとする社会科学は、理科系学問と違い再現実験ができないため、歴史を実験室として、歴史から人間の動き方を学ばなければならない。私は過去の歴史の事実の検証に止まらず、その歴史が、今日的にどのような意味を持つのか、今起きている事象の理解にどのように役に立ち、参考になるかという観点から歴史を見ている。本日取り上げた1945年から今日に至るまでの戦後史の中でも、例えば直近の「集団的自衛権」の問題のように、正確な事実に基づかないで議論が進められ、物事が動かされる傾向が強くなっている。集団的自衛権の行使が必要とされる事例として、安首相がパネルで示した「邦人避難民を乗せた米国艦船を日本の艦船が護衛すること」が挙げられた。しかし、米国国務省のホームページの公式見解では「外国での非常事態発生時に米国政府が救助するのは米国旅券を持つ米国人に限定され、外国人を救助することはない」と明確に述べている。つまり、集団的自衛権発動要件の根幹ともいえる「邦人救援のための日本艦船の護衛出動」という論拠自体が、実際には起こりえない架空の事態を想定して作りあげられたものである。

「真珠湾攻撃」決定のための状況判断

日本の社会は、政府当局が間違ったことをあたかも正しいことであるように説き、国民もそれで納得してしまうという歴史が、真珠湾攻撃をその最たる事例として、繰り返されてきた。1945年8月15日、米国トルーマン大統領は「対日空爆効果調査」を命じた。その調査報告書(「合衆国戦略爆撃調査委員会・概要報告書」)の要旨(一部省略)は次の通りである。

『(日本の)開戦及びフィリピン等へ進攻するという最終的決定は、重要な地位にある全陸海軍指揮官及び政府要人の完全なる意見の一致と積極的な承認とによって定められた。実際に日本が194110月中旬迄に行なった決定は次のごとき状況判断に基づいている。A)満州側面に対するロシアの脅威はドイツ軍のヨーロッパに於ける圧倒的勝利によって消滅した。このドイツ軍の勝利はソ連を完全なる崩壊に導くかも知れないこと。B)大英帝国は挽回することができないほど守勢的立場にあること。C)米国及びその連合国が直ちに太平洋に展開しうる兵力、特に空軍兵力は、充分に訓練されかつ動員された日本軍を阻止することが困難である。3~4ヵ月の内に日本軍はビルマ、スマトラ、ジャワ等、それから北に伸びて千島に至る線で囲まれる全地域を占領しうるであろうこと。D)ビルマ公路を切断された支那は孤立し和平を乞うであろうこと。E)大英帝国の援助に躍起となり、更に真珠湾攻撃により軍事力に痛撃を受けた米国は、来るべき18カ月ないし2年の内には攻勢をとるに十分な兵力を動員しえないこと。この期間に円周防衛線を堅固に構築し、かつ必要な前線飛行場並びに基地飛行場を建設することが可能であること。F)これらの占領した防衛線の強固な防衛が戦争を継続する米国の決心を鈍らせた反面、日本はボーキサイト、油等を獲得し、これら物資を日本に輸出して加工し、日本の生産並びに軍事機構を補給強化しうること。G)民主義国家としての米国の弱点は、強烈に抵抗する日本の陸海軍人並びに飛行士によって与えられる大損害並びに連合国の脱落に直面しては全面的攻勢を維持することができないこと。従って米国は妥協して、日本が最初に占領した地域の領有を許すであろうこと』としている。

この報告書から明らかに分かるように、当時の日本が全軍の指揮官及び政府要人の完全な意見の一致と承認の下に行なったという開戦の最終意思決定の根拠となった状況判断A)~G)はすべて間違っていたと言わざるを得ない。翻ってその当時に遡ってみて、そのような判断をすることが果たして自然であったであろうか?ルーズベルトは12月8日に議会に対して行なった対日宣戦の承認を求める演説で「194112月7日は屈辱の下に生きる日となる。この計画的な侵略を打ち負かすことにどれほど長い時間が掛ろうとも米国民は正義の力の下、必ずや勝利を収める。我々はただ自国を守るだけではなく、このような形の危機が二度と我々を脅かすことのないようにしなければならない・・・」と主張した。萩原徹氏はその著書で「当時の日本当局の考え方が如何に虫のよいものであったかは、開戦直後の大本営政府連絡会議の『対米英蘭戦争終末促進に関する腹案』から読み取れる。要するに『ある地域を占領して頑張れば米国は厭になって、戦争は終わる』というものである」と言っている。チャーチルは「第二次世界大戦回顧録」の中で真珠湾攻撃について「17カ月の孤独の戦いと恐るべき緊張の後、真珠湾攻撃によって我々は勝ったのだ。(これによって米国は参戦し)イングランドは生きるであろう、英国は終らないであろう。ヒトラーの運命は決まった。日本人にいたっては微塵に砕かれるであろう。頓馬な人間は米国の力を割引して考えるかも知れなかった。米国民は軟弱で流血に耐えられないであろう、民主主義と繁雑な選挙制度は彼らの戦争努力を阻害するであろうなどと言った者もいる。しかし私は死に物狂いで最後の1日まで戦い抜かれた南北戦争を研究してきたが、米国は巨大なボイラーのようなもので、その下に火が焚かれると作りだす力には限りがない。満身これ感激という状況で私は床に就き、救われて感謝に満ちたものであった」と書き、真珠湾攻撃が米国を参戦に導いてくれたことを「感謝」している。

今、私が恐れていることは、日本人が物事を正確に見るのを止めて、あるシナリオの方向に突き進んでしまうという流れが特に最近顕著になってきたことである。集団的自衛権について賛否両論あっても構わない。しかし、多くの重要な課題が、その判断の基礎になる事柄を正確に押さえないまま、誤魔化せる形でどんどん進んでしまっているのではないかということである。

『戦後史の正体』をなぜ書いたか?

本日の講演「戦後日米関係の実相~自主と追従のはざまで~」は、戦後の日米関係を軸とする政治状況について書いた『戦後史の正体』に基づくものである。この本を書いた動機は今の政治の状況と無関係ではない。私は沖縄県民が強く反対する「普天間基地の辺野古移転」はできないという政策の下で日米関係を構築すべきだと予てから主張していた。そこで、鳩山政権が成立した際、鳩山首相に普天間の移転先は「最低でも県外」とするよう進言し、鳩山首相もそれを認めて自らの政策に取り入れた。しかし、大多数の方は「それはもともと無理な政策で、日米関係を壊しかねない、そのような不用意なことは行なうべきではなかった」という意見をお持ちであろう。しかし、国内に米軍基地を持っている国は日本だけではなく、ドイツ、イタリアもある。ドイツも「日米地位協定」に相当する駐留米軍の扱いに関する地位協定「ドイツ駐留NATO軍地位補足協定」を結んでいる。この「補足協定」では「特定の施設・区域について共同の防衛任務に照らしても、その使用よりもドイツ側の利益が明らかに上回る場合は、ドイツ当局の当該施設・区域の返還請求に対し適切な方法でこれに応ずるものとする。『ドイツ側の利益』という基準はドイツの非軍事部門の基本的な必要性、特に国土整備、都市計画、自然保護及び農業上、経済上の利益に基づく」とされていて、返還した時に得られる経済的利益、環境の利益あるいは都市計画の利益が基地の使用による利益より大きくなれば、米国に対し基地の返還請求をすることができ、それに対し米国は適切に対応すべきことが定められている。これを敷衍すれば、「普天間の移転先は最低でも県外」と同盟国に要求することは決して異常なことではない。しかし、当時の大多数の日本の世論は「これを要求すれば日米関係は壊れる。それを敢えてする鳩山氏はどうしようもない人だ」というものであった。この世論形成には裏でうごめく力学が働いていたように思える。鳩山氏は私の提言に対し、当初は、「しかし抑止力保持のために辺野古は必要である」と言っていたが、その後再度会い、提言を理解・同意してもらった。その後、鳩山氏が理事長として主宰する「東アジア共同体研究所」の所長を無給で務めることになり、現在に至っている。

NYタイムズの東京支局長は「民主党が政権を取り、小沢一郎氏が首相の有力候補と目されていところに「西松建設」の問題が急に浮上した。結局小沢氏は不起訴となったが、検察はなぜこのような時期に、自民党の議員にも同じ疑惑が持たれていたにもかかわらず、小沢氏だけに焦点を当てて捜査を進めたのであろうか。これは民主主義の危機ではないか?」と書いている。しかし、そのような視点から報じた日本の報道機関はなかった。

私は民主党政権時代も含めて、民主党から何ら特別のフェイバーを得てはいない。私は「日本国内の過剰な米軍基地の撤退を要請するのは独立国として当然ありうるべきことである」との信念を抱いている。「米軍駐留が必要である以上、ある程度の対米従属は仕方がない」という意見もあろう。しかし、現在の日本のような形での米軍の駐留形態は世界的に見ても極めて異常な状態である。世界で外国の軍隊が首都圏の上空をコントロールしている国は日本以外にはない。米軍が国内に駐留している独、伊でもベルリンやローマの上空域は米軍の管理下にはない。自分が大使として駐在したウズベキスタンは周囲を中国、ロシア、印度、イランなどの強国に囲まれていながら、ソ連崩壊後独立して最初に行なったことはロシア軍の撤退であった。しかし、日本ではこのように異常に過剰な米軍基地の削減を唱えると「日米関係を壊す、現実を見ていない」と批判される。「元外務官僚・防衛大学教授経験者が、なぜこのような過激な発言をするのか?」とよく言われる。しかし、かつての外務省には自主外交を主張する自由な気風があった。1969年には外務省幹部の勉強会で「米軍が日本から撤退し、その後を自衛隊が補完する」という構想を決定している。1960年代、世界の潮流は中国を承認し、国交を結ぶという方向に向かいつつあったにもかかわらず、日本は米国に追従し、中国を承認せず、台湾を中国を代表する唯一の政府として国交を保っていた。そこへ1972年2月に突然ニクソンが訪中し、台湾を切り、中国と国交を樹立することを約束してしまった。日本政府には事前に何の相談もなく、全く寝耳に水で、「外交上のニクソン・ショック」ともいうべき打撃をうけた。これによって「常に米国と一体で行動することが正しい」とする追従派グループの依拠する土台が脆弱なものとなった。その結果1972年から1980年頃にかけて「自主外交」がもてはやされることになる。そして1970年代の二度にわたる石油危機で、日本の中東依存度が高まり、中東諸国との独自外交が進められた。この時代の外務省は「対米自主」と「独自外交」が両立できていた。

「自主」の最初~重光葵と「三文書」

日本は1945年9月2日に「降伏文書」に署名する。そこで「日本政府はポツダム宣言の誠実な実行のため、連合国最高司令官に要求されたすべての命令を出し、行動をとることを約束する」とされた。そして同年9月6日にトルーマン大統領の承認による「連合国最高司令官の権限に対する通達」において、「我々と日本国との関係は契約的基礎ではなく、無条件降伏を基礎としている。日本の管理は日本政府を通じて行なわれるが、満足な成果を上げる限度内である。必要であれば直接行動する権利を有する」とされた。この降伏文書に署名したその日に米国は「公用語を英語とする」「対米軍違反は米軍事裁判に掛ける」「通貨を米軍の軍票とする」という三文書の公布を通告してきた。しかし、「連合国長官の全ての要求に従うこと」を約束した降伏文書に署名したばかりの重光外務大臣にとっても、これら三文書はあまりに理不尽な要求であったため「折衝のもし成らざれば死するともわれ帰らじと誓いて出でぬ」という歌を残して横浜に向い、必死の覚悟でマッカーサーと直談判で交渉し、三文書をすべて撤回させることに成功した。このこと一つだけでも、重光は戦後の日本にとって英雄的存在であったと評価されるべきである。

しかし、日本の国益を堂々と主張する重光に対する米側の不満が募り、そのわずか2週間後、9月15日に外務大臣を辞任させられる。

石橋湛山~駐留経費削減を要求する

敗戦後の食糧難の時に日本人で餓死する者がほとんどいなかったのは米国の食糧支援のお陰であると一般にいわれている。しかし、当時の日本政府が負担した米軍駐留経費は「戦後処理費」として予算に計上されたが、一般会計予算に占める割合は、1946年に32%、1947年に31%と実に国家予算の3分の1近くにも上っている。石橋湛山はこの多額の駐留経費の削減を要求した結果、蔵相の職を解任され、1947年には公職追放となってしまう。その時石橋は「自分の後の蔵相も同じ態度を取ること、また追放になるかもしれないが、二、三度続けばGHQもいつかは反省するであろう」と言ったという。しかし実際には、当初石橋に同調していた同志3738名のうち、石橋の追放決定を知った後は,側近・石田博英の下に集まったのは石田を含めわずか3名であった。

芦田均~「有事駐留」を提案

1947年5月新憲法の下で最初に誕生した社会党片山内閣が翌1948年3月に総辞職した後、外務大臣だった芦田均が跡を継いで新内閣を組閣した。読売、朝日新聞は芦田内閣の誕生を政権のたらいまわしと批判する野党自由党に同調し、激しく反対する。芦田は外務大臣時代に米軍は常時日本に駐留している必要はなく、緊急の時のみ駐留すればよいとする「有事駐留」を提案している。その芦田は首相就任3カ月後に復興金融公庫資金の融資に絡む「昭和電工事件」により副首相の西尾が逮捕されたため、芦田自身は事件に無関係であったが、組閣7カ月後に辞職する。そして外務大臣時代に、進駐軍関連経費の支払いを遅延させる件で賄賂を受理したとして辞職直後に逮捕されるが、それが立証されず、1952年に無罪となった。『芦田均日記第三巻』によると芦田は「既に逮捕される以前から、自分の政界引退と引き換えに事件捜査を打ち切ることを検察から示唆されていた」という。行政の一機関に過ぎない検察庁が、行政の長である首相に対してこのような取引を提案し、辞任・引退を要求するなどということがあってよいはずはない。そもそも検察の特捜部は日本政府が創った組織ではなく、隠匿物資摘発のためにGHQの指示によって設置されたものである。特捜部は当初から日本政府より米国の意向を受けて動く組織であった。そのため、時の首相に対し「引退をすれば無罪にする」などという言辞を弄することができた。

経済界~経済同友会 対米協力の系譜

財閥解体により戦前の経済人は力を弱め、代わりに米国に協力的な経済人が日本経済界の中心に据えられた1946年4月、在日米軍の全盛期に、米国青年会議所をモデルに「経済同友会」が設立された。同友会の系譜には、桜田武(日清紡)、水野成夫(産経新聞)、永野重雄(富士製鉄)、小林中(開銀)、鹿内信隆(フジテレビ)、藤井丙午(新日鉄)、掘田庄三(住銀)、諸井寛一(秩父セメント)、正田英三郎(日清製粉)、麻生太賀吉(麻生セメント)、中山素平(興銀)、今里広記(日本精工)などが連なる。

学会~米国研究者の育成

1946年6月にマッカーサーの支援の下に「アメリカ学会」が設立された。この学会のキーワードは「協力」であった。設立の経緯からして、この学会はアメリカ合衆国に批判的ないかなる言辞も許されなかった。学会が自らの研究・評価の対象について何の批判も行なわないという制約を設けることは極めて異例のことである。この学会の中心となったのが東京大学の「アメリカ研究セミナー」で、1950年から1956年まで毎年派遣されて来た5名の一流のアメリカ人教授による指導の下、7年間で総勢593名がセミナーに参加した。ロックフェラー財団は東京大学、京都大学、同志社大学に助成金を拠出する。研究者の米国留学費用も支給された。これら研究者は米国からの資金への依存度が高まれば高まるほど、米国批判を控え、米国への協力度を増すことになる。残念ながら当時そのような教育をうけた研究者が今日に至るまで連綿と米国協力だけを考えるグループに属することになる。2007年4月第1次安内閣で「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(『法制懇』)が設置された。北岡伸一氏(副座長)、田中明彦氏などのアメリカ研究者・国際政治学者が中心となり、集団的自衛権行使を容認すべきとの答申を本年5月に行なっている。

「国民安保法制懇」の立ち上げ

内閣の「法制懇」に対抗して、本年5月に「国民安保法制懇」が発足した。この懇談会の主たるメンバーは憲法学者で、愛敬名古屋大教授、青井学習院大教授、小林慶応大教授、長谷部早稲田大教授、樋口東京大教授などの他、元内閣法制局長官の大森、坂田の両氏が加わり、更に伊勢崎学習院大教授、最上早稲田大教授などの国際法学者、伊藤弁護士、私(孫崎氏)も含め総勢12名で構成される。このグループの発足時、5月28日の共同記者会見の冒頭で、大森元内閣法制局長官は「自分は今まで役人は退官したら後輩に全て任せるべきと思い、後輩に対して何も言わなかった。しかし最近の流れはおかしいので、自分も発言しなければならないと思うに至った」とし、次いで坂田元長官は「自分は今まで護憲運動や市民運動に係ったことはない。『憲法九条を護れ』と声高に言ったこともない。法律の面から内閣を支援するのが自分の仕事であった。しかし、今の政府のやり方は何かおかしい。集団的自衛権行使を可能にするのであれば、十分に国民的論議を尽くした上で、『憲法改正』で国民の意見を集約し、国民の覚悟を求める手続きが必要である。『憲法解釈』という極めて安易な手段による日本の進路の変更には異を唱える。憲法九条の解釈は60年に亘って政府自らが言い続け、国会でも議論を積み重ねてきて、国民にもそれなりに定着している。一政府の手で軽々に変更することは立憲主義の否定であり、法治国家の根底を揺るがすものである」と発言した。このような集まりに元内閣法制局長官が一人ならず二人も参加し、今の流れに異を唱えるという状況になっている。

安保条約に臨む米国

1951年1月26日、米国国務長官ダレスは日本との安保条約の交渉に先立つスタッフ会議で「われわれが望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保すること。これが根本問題である」と指摘した。その結果結ばれた行政協定は、表現こそ違うものの、正にダレスの言った通り、行政協定第二条で「日本は合衆国に対し、必要な施設および区域の使用を許すことに同意する」とし、一方で「いずれか一方の要請があるときは、前期の取り決めを再検討しなければならず、(略)施設及び区域を日本国に返還すべきことを合意することができる」としているが、「合意」ができなければ返還されず、そのままになってしまう。

重光の米軍撤退提言

1955年7月、アリソン駐日大使の報告によると、重光外務大臣は「米軍撤退計画」についての私的かつ非公式な提案をしている。この案では「先ず駐留米国軍のうち陸軍を6年以内に撤退させ、その後6年以内に海軍、空軍を撤退させること。また日本国内の米軍基地と米軍隊はNATO諸国と結んでいる諸取り決めと同様な取り決めの下で、相互防衛のためだけに使用されること」としている。この私案がその後どう処理されたか不明であるが、むろん米国側には受け容れがたいものであった。その後重光は1957年1月、湯河原の別荘ですき焼きを食べた直後に不可解な死を遂げる。

検察~「特捜」のルーツは「隠退物資捜査部」

GHQは1947年に、隠・退蔵物資を摘発するため、自らの管理下に「隠匿退蔵物資事件捜査部」を置く。これが後の東京地検特別捜査部(「特捜部」)の前身である。特捜部はその後、芦田均、田中角栄などの逮捕、竹下、橋本、小沢の周辺捜査などを行ない、その政治生命を危うくさせるという強権的存在となる。これらの人物に共通するのは、いずれも米国との利害関係の対立である。すなわち、芦田は「米軍有事駐留を主張」、田中は「米国に先駆けて中国と国交回復」、竹下は「自衛隊の軍事協力について米側と路線対立」、橋本は「金融政策などで独自路線、中国に接近」、小沢は「在日米軍は第7艦隊のみでよいと発言、中国に接近」などである。

60年安保闘争は何だったのか?

1960年の安保闘争を率いた全学連、その中心にいたブント(「共産主義者同盟」)は日本共産党とケンカ別れして1958年に結成されたが、当初資金が乏しく、書記局にあった1台の電話機の電話代さえ払えない状況にあった。しかし安保闘争の時には、デモ隊用の都電の大量動員、多数の逮捕者の保釈金支払いなどの多額の資金をどこからか調達している。その資金源についての有力な説は、岸信介の引きずり降ろしを目論んでいた田中清玄が全学連に資金提供をしたというものである。田中清玄は全学連に電力業界のドン・松永安左衛門をはじめ、製鉄、製紙、新聞などの多くの業界のドンを紹介する。田中清玄は今里広記、中山素平などの財界の「反岸グループ」と共に、岸追い落としのために安保闘争を利用した。1960年6月8日の米国国家安全保障会議で、CIA長官は「日本のために望ましいのは岸が辞任し、できれば吉田茂に代わることだ」と言っている。CIAは、自民党への財政的影響力を利用し、早急に岸を辞任させ、(対米国関係において)より穏健な保守党の政治家に代えようとした。私の長い海外経験からする海外情勢の分析で分かったことは、米国が自国にとって望ましくない政権を倒す時には多くの場合デモを活用するということである。イランのシャー(皇帝)が倒された時デモが使われた。イスラム諸国で起きた「アラブの春」のデモ、東欧のデモなどでも大体米国が関与している。「アラブの春」の起きる数年前に米国国務省などがアラブの若者を米国に集めて、ソーシャルメディアの使い方、それを政治闘争にオーガナイズする手法などを教えている。

外務省の「自立派」

1969年9月、外務省の「外交政策企画委員会」が「わが国の外交政策大綱」をまとめた。その要旨は、①核抑止力及び西大西洋での大規模の機動的海空攻撃及び補給力のみ米国に依存、他はわが自衛力を以てこれに当たる ②在日米軍基地の逐次縮小、自衛隊への引き継ぎ ③国連軍、国連監視団に対する協力、平和維持活動のための自衛隊派遣の漸進的準備 ④軍縮においては日本が米国の走狗との印象を絶対与えないよう配慮、である。

田中角栄~「金脈問題」

中曽根元首相が書いた「メモワール」によると「キッシンジャーは『ロッキード事件は間違いだった』と密かに私に言いました」とのことである。キッシンジャーはかつて「汚い裏切り者の中で、よりによって日本人野郎がケーキ(中国)を横取りした」と言っていたのだが。「田中降ろし」がスタートしたのは1974年文芸春秋11月号に立花隆氏が書いた『田中角栄研究 その金脈と人脈』である。しかしこの月刊誌が発行された直後には、田中派が抑えたためか、あまり大きな波紋は生じることはなく、政治的な影響を及ぼすこともなかった。「角栄金脈問題」が噴出し、政局化したのは、田中が1022日に外国特派員協会で講演した際、本来の講演目的から外れて文春掲載の「金脈問題」に関する質問が相次ぎ、その記事が翌日の朝日、読売の一面で大きく報道された時からである。

おわりに

日米関係を軸に動いてきた戦後史の実態を、検察、マスコミ、官僚、経済界、政治家など種々の分野が複雑に絡み合う中で、自主を唱え、在日米軍基地削減、米国に先んじた中国との積極外交などで米国の意志と異なった政策をとった結果、潰されて行った政治家達の姿を通じて報じたのが『戦後史の正体』である。この本は比較的多くの方に読んでいただいたが、本日新たな視点を加えて改めて紹介させていただいた。恐らく皆さんのお考えと相当違うことを言い、疑問を持たれた点も多々あるかと思われるので、残り時間で一緒にお話合いをしたい。

 

Q&A

Q1: 先生の書かれた「日米同盟の正体」の中で、「春名氏がCIAの高官の言を引いて『戦後の日本を見てくれ。われわれの工作の傑作である』と述べている」と書いてあるが、現在もその延長線上にあるのか?また、私達世代の者がどのようなことをしたら、日本を先生の考えられている正しい方向に戻すことができるか?

A1: 80年代末にCIAに対する協力者のリストが出た。その中には読売新聞や正力氏の他、現在も首相官邸に頻繁に出入りしている某米国人研究者の名前も上がっている。このように一度CIAの工作員として名前の挙がった人物が、その後も官邸に自由に出入りするなどと言うことは普通の国ではありえない。しかし、現在の日本においては米国人に限ってはそれが許され、却ってその人物と接触することが政治家にとってプラスになるという環境にある。コルビー元CIA長官は戦後イタリアで文化人、労働界に対して工作をしていたことが明らかになっているが、CIAは日本においても当然同様の工作をしていたと考えられる。現在でも、情報機関ではないが、キャンベル前国務次官補が公明党代表と会い集団的自衛権について話すなど、政治家に対する公然とした働きかけが何の疑問も持たれることなく行なわれている。私は日本には米国と違う日本独自の価値観があり、それを追求して行くべきと考える。何といっても日本は戦後世界第2位の経済大国となった。この成功した「日本モデル」を今一気に捨て去る理由はない。日本では岸首相の時代の政策のように農民・地方の助成、労働者の住宅供給など底辺の水準を引き上げることによって全体として繁栄した。これが「日本モデル」である。一方「米国モデル」では新自由主義によって底辺を切り捨て,上部層の一層の繁栄を図ることにより全体の繁栄を図る。この両モデルを比較してみれば、経済・社会モデルとしては、1960年代の「ALWAYS三丁目の夕日」の映画の時代のように、郵貯や住宅公団のような公共政策を中心に据えた日本モデルの方が経済的にはより発展できると考える。しかし新聞関係者などが言うように、それにしても、その時代は労働組合や官僚が腐っている部分があったので、その人達がやっていたことが必ずしも正しくはなかったという点は否めない。しかし、経済発展システム自体は世界的にも誇れるモデルであったといってよい。

Q2: 憲法問題は重要ではあるが、東日本大震災後民主党政権下で停滞していた経済を前に進めるためには、解釈改憲であっても早く進めて、諸政策全体のスピードアップを図った方がよいのではないか?また、芦田降ろしで検察が取引を謀ったというが、むしろ司法の政治に対する独立という「三権分立」が機能していたと考えてもよいのではないか?

A2: 憲法の見直しの必要性は否定しないが、坂田氏のいうように、その必要性があれば国民が議論し、国民参加の下で憲法改正を堂々と行なえばよい。集団的自衛権について安首相は詭弁を使っている。安首相は「日本国民の安全を守るために集団的自衛権を認めなければならない」と言う。よく考えなければならないことは、例えばスペインはイラク戦争に参戦することで、国民がより安全になったであろうか?2004年にはスペイン国内で列車爆破テロ事件が10カ所あり191名の死者が出て、イラクの戦場では2千名の死者が出ている。アフガン戦争では英国人が453名、カナダ人158名、フランス人86名、ドイツ人54名の死者が出た。これらの国がこの意味のない戦争に集団的自衛権の名目で参加し得られた利益と失った利益を比べれば、失った生命の損失の方がはるかに大きい。今現在は日本にテログループが来て爆破事件を起こすということはありえない。しかし、集団的自衛権を行使して外国の軍隊を支援することになれば必ずテロリストが日本に来る。安首相は新しい時代に対応し、日本の安全を高めると言うが、そうではない方向に行くのではないかと懸念している。司法の三権分立の問題については、かつて司法の場にいた江田五月氏が言うには「最高裁の判事は政府が任命するため、当然のことながら政府と同じ考え方の裁判官が任命されることになる。その意味で三権分立といっても、司法が全く独立して純粋な法律論のみで判断をする組織であるとは言い難い」と。

Q3: 米国で民主党と共和党の間で政権が変わっても政策の連続性はあるのか?

A3: 民主党と共和党の政策の大きい違いは医療保険制度などの国内政策にある。しかし、安全保障政策などの対外政策は政権交代しても余り変化はない。オバマ大統領も軍関係の発言権は限定的で、国防長官、参謀総長などの軍中枢は共和党時代の人事をそのまま引き継いだ。イラク戦争、アフガン戦争を推進したのは、ロバート・ケーガンを中心とする「ネオコン」(Neoconservatism=新保守主義)のグループであると言われる。ケーガンの妻・ヌーランドは現在国務省のロシア関係を含む次官補の要職にあり、現在のウクライナ、クリミヤ問題を担当している。これらネオコングループの影響下にある米国の安全保障・外交政策に大きな変動はないと思われる。注意すべきことは対中国政策である。米国の国民・指導者層にとって東アジアで最も重要な国は、2010年頃から、日本から中国に変わっている。この変化が今後とも東アジアの外交・安全に大きい影響を与えて行くであろう。

Q4: 安首相は中国、韓国を刺激するような言動をし、米国からも懸念が示されているが、彼の発言は「事実」に基づいているのか?

A4: 欧米諸国では「契約」が重視される。日本が戦後外交上行なった重要な「契約」は、「ポツダム宣言」「降伏文書」「サンフランシスコ講和条約」である。「サ・講和条約」は「極東裁判及び連合国が行なった裁判はすべて認める」としている。極東裁判で厳しく糾弾された「戦争犯罪者」を尊敬することは「サ・講和条約」の基本精神に違背することになると米国民も感じていると思われる。靖国参拝に係る事実関係をみると、中曽根首相が靖国参拝をした時に日中関係が一時緊張したが、その際に日中間で「今後は首相、外務大臣及び官房長官は在任中は靖国を参拝しない」との約束を交わしている。この約束は歴代の官房長官が引き継いで行くことになっていた。この事実からして安首相の靖国参拝は日中間の約束を破ったことになる。

Q5: 正しい手続きによって選ばれた政府を信頼できないということは、日本は戦後70年近くも経っても未だに民主主義が確立していないということか?

A5: 日本は今、民主主義の危機にあると思っている。政権は確かに民主主義の手続きに従って選挙で選ばれた代表により構成される。しかし、2012年の総選挙の際、自民党は重要な問題で、国民にどのような約束をしたか、いくつかの例を挙げると①消費税増税分は全額社会保障に充てる ②原子力に依存しなくてもよい経済社会構造の確立をめざす ③聖域なき関税撤廃を前提とする限りTPP交渉に反対する。現在の自民党はこれらの主要な約束をどれ一つ守っていない。このように選挙民に公約したことと違ったことを実施することこそ、民主主義の危機を招いている。

Q6: ドイツでは毎日の昼のTV番組で、ドイツがナチスの強制収容所を初めとして、過去にどのようなことをやって来たかを放映していると聞いている。日本ではこのような形で国民を教育し近隣諸国にも示すという努力をしていない。学校でも近代史を教えていない。従軍慰安婦のような個別の問題が提起される都度、感情的に対立する。歴史についてきちんとした情報が国民に共有されていない。それと、最近ヨーロッパが米国に距離を置き始めたのではないか?自分の昨年の体験では北欧諸国では米ドルをホテルでは両替できなかった。これは米ドルの信用力が落ちているのか、あるいは国策でドル離れをしようとしているのか。EUができたことによりヨーロッパにおける米国の立場が微妙になってきているように思う。ご感想を聞かせていただきたい。

A6: 違う形でお答えしたい。英国BBCが発表した「この国にもっとも発言力を持ってほしい」という国の評価の中で、2005年頃は1位は日本であった。2013年には1位ドイツ、2位カナダ、日本は4位であった。これから理解できることは、今後の世界を構築して行く上で必要なのは軍事志向ではないことが世界のコンセンサスになっていることである。第二次大戦後に発生した軍事紛争は戦前に比べ圧倒的に減っている。人が人の生命を奪うということは、社会的にも、国家間でも減りつつある。国境問題に係る戦争、民族紛争による内乱、米国が世界を変えようとして起こす戦争の三つの戦争が除かれれば世界から戦争はなくなる。軍事力による支配を避け相互協力による平和の構築を志向するヨーロッパが支持され、米国から離れつつあるというのが世界の潮流である。

                                         (記録:井上邦信