第 4 1 4 回 講 演 録

日時: 2014年2月17日(月) 130015:00
演題: クラシック音楽名曲物語 ~大作曲家の愛した女性たち~

講師: 音楽評論家 女性音楽史研究 萩谷 由喜子 氏

はじめに

本日の講演で取り上げるヴィヴァルディ、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンは、自著「作曲家おもしろ雑学事典」に著わした古典から現代にわたる有名な作曲家50人の伝記の中から選りすぐった偉大な作曲家5人とそれぞれの代表作品である。自分の専門の音楽評論活動は主として女性音楽史で、「音楽」というジャンルの中で活躍した女性たちについて広く研究し、さまざまな著作を上梓している。 偉大な男性作曲家が優れた作品を創作し世に出す過程で、女性の存在が彼らの創作活動に多大のインスピレーションを与えた作品も少なくない。この講演ではその観点からこれら作曲家の人間像と代表作品の神髄に迫ってみたい。

1.アントニオ・ヴィヴァルディ(1678年ヴェネツィア生まれ~1741年ウィーンに没す)

ヴィヴァルディが活躍した舞台ヴェネツィアは、「アドリア海の花嫁」とも呼ばれる華やかな水の都、国際的な港湾都市であった。教会の司祭として孤児の少女たちに奉仕した前半生の記録は多少伝えられているが、晩年は謎に満ちていたため、その音楽の研究史・受容史は比較的浅く、日本でも、あの有名なヴァイオリン協奏曲「四季」でさえよく演奏されるようなったのは近年になってからである。

ヴィヴァルディの本業はカトリックの司祭で、髪が赤かったことから「赤毛の司祭」と呼ばれていた。少年時代からヴァイオリンが大変上手だったため,教会付属の養護施設の音楽教師に任じられた。ヴェネツィアは当時から国内外の観光客が大勢集まり、遊興歓楽都市としての性格も強く帯びていた。教会は、一夜の歓楽の代償として産まれ、いずれ運河に捨てられる運命にあった多くの孤児を養護施設を設けて収容した。ヴィヴァルディは女児養護施設の音楽教師となり、少女たちに演奏させるために500曲ともいわれる器楽協奏曲を作曲した。器楽協奏曲には独奏協奏曲と合奏協奏曲があるが、ヴィヴァルディの合奏協奏曲として最も有名な「四季」の春夏秋冬4曲のうち「春」の第一楽章をYouTubeに掲載された下記の音源からダウンロードして演奏する。

           ♪ヴァイオリン協奏曲集『四季』(「春」第一楽章) ホ長調 RV.269
                ロベルト・ミケルッチ&イ・ムジチ合奏団(3分39秒)
                http://www.youtube.com/watch?v=fyQDU9knERA            

『四季』は1725年に出版された12曲からなる協奏曲集・作品8「和声と創意への試み」のうち最初の4曲。各曲には、それぞれの季節の自然と人間の営みを歌いあげたソネットという14行詩が添えられ、詩の内容が音楽によって巧みに描写されている。

2.ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685年アイゼナッハ生まれ~1750年ライプツィッヒに没す)

バッハは代々続く音楽家一族の一員として、中部ドイツ、チューリンゲンの森の都アイゼナハに生まれた。9歳の時母を亡くし、町楽師であった父もその1年後に亡くなってしまい、10歳で孤児となった。その後兄に引き取られて苦学するが、独立心旺盛なバッハは15歳のとき、北ドイツ・リューネブルクの聖ミカエル学校の給費生となり、聖歌隊員として美声を揮う。変声期を迎えた後の備えとしてヴァイオリン、オルガン、クラヴィーアの演奏も熱心に習得した。余暇にはハンブルク、ツェレなどの周辺都市に出かけて名手の演奏から多くのことを学ぶ。

1703年、18歳のバッハはヴァイマール城主の弟公の宮廷楽師となり、その年のうちに、ヴァイマール南に位置するアルンシュタットの教会オルガニストに転身する。アルンシュタットに住んでいたバッハ一族の娘マリア・バルバラと恋愛をし、後1707年に結婚式を挙げる。研究熱心なバッハはアルンシュタットを離れてリューベックにオルガン研修旅行に出かけ、無断で休暇延長したことを咎められ、アルンシュタットを去らざるをえなくなった。

その後、ミュールハウゼンのオルガニストのポストを得た。1717年にライプツィヒの北に位置する小城下町ケーテンの宮廷楽長として赴任する。主君レオポルト侯は音楽愛好家で、年長のバッハを師と敬い重用した。宮廷楽団は少人数ながら腕達者が揃っていた。バッハはケーテン時代には教会・宗教曲に関わることなく、自由に作曲できたため、「無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ」「無伴奏チェロ組曲」「ブランデンブルグ協奏曲」「平均律クラヴィーア曲集」など数多くの器楽曲の傑作を生む。

                 ♪無伴奏ヴァイオリン・ソナタ(ト短調BWV1001) 第1楽章
                     ヴァイオリン演奏:Isaac Stern (3分53秒)
                    http://www.youtube.com/watch?v=gfbThcQ04aE

ここで「無伴奏」としているのはヴァイオリン以外の伴奏する楽器が無いという意味であって、「伴奏」が全く無いという意味ではない。ヴァイオリン1丁で、旋律、ハーモニー、リズムの三要素が演奏されている。重音によってハーモニー(和声)が奏でられ、それが旋律の主音に対する伴奏となっている。この曲はヴァイオリンという単独の楽器でこのような演奏ができるということを示した画期的な楽曲である。この名曲に迫る楽曲はあっても、これを凌駕する楽曲は今後も現れることはなかろう。

1723年から1750年に亡くなるまでの後半生を大都市ライプツィヒで過ごす。そこでは市の音楽監督兼聖トーマス教会の合唱長として活躍する。この時代に書かれた最大の傑作が、キリストの受難をテーマとする「マタイ受難曲」である。この曲は3時間にも及ぶ大作であるため、本日は演奏しないが、機会があれば全曲聴かれることをお勧めする。

                         ♪マタイ受難曲(BWV244)
              Koelner Philharmonie by Philippe Herreweghe (2時間41分30秒)
                    http://www.youtube.com/watch?v=vaD5e0w2srU

バッハは音楽活動においては謹厳実直な努力家であったが、私生活ではすべて順風満帆とはいえず、最初の妻は彼の出張中に急逝した。しかし、2度目の妻は最良の伴侶となった。2度の結婚で20人の子供をもうけている。愛煙・愛飲家で無類のコーヒー好きであった。

3.ヨハネス・クリストムス・ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

     (1756年ザルツブルグ生まれ~1791年ウィーンに没す)

モーツァルトは、35歳で波乱に満ちた人生を終える。結婚1回で子供6人を設ける。うち成人したのは2人のみだった。冗談大好き人間であった。少年時代は生地ザルツブルグを拠点として旅に明け暮れるが、1781年、25歳のときウィーンに出て、亡くなるまでの10年間、独立独歩の音楽家としての生活を送る。

モーツァルトは短い生涯の中で、色々なジャンルにわたって、数多くの名曲を残した。交響曲41曲、ピアノ協奏曲27曲、オペラの完成作17作の他、室内楽、宗教曲も多く手掛ける。未完の交響曲「レクイエム」が遺作となる。中でも、オペラの作曲者は当時社会的な尊敬を集めたので、モーツァルトもオペラで成功することを目論んでいた。オペラ作品で特筆すべきは喜劇「フィガロの結婚」である。この作品はフランスの作家ボーマルシェの原作をもとに、宮廷詩人ダ・ボンテが台本を書き、モーツァルトが曲を付けて、1786年にウィーンで初演された。この歌劇は同じボーマルシェの原作でロシーニの作曲した「セビリャの理髪師」の後日物語にあたる。ダ・ポンテは優れた台本作家であり、モーツァルトのもう一つの傑作、悲劇「ドン・ジョバンニ」の台本も書いている。「フィガロの結婚」は身分の下の者や、か弱い女性が貴族階級の男性を懲らしめるという筋書きが、当時の新興市民階級の広範な支持を獲得した。これから演奏する「序曲」はこの痛快なストーリーを予告する実に活き活きとした音楽である。

                      ♪フィガロの結婚 序曲(K492
                    ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団 (4分18秒)
                    http://www.youtube.com/watch?v=Z2frwva5vbU

モーツァルトは1791年には、最後の歌劇「魔笛」をドイツ語の台本により書いている。この曲と同時進行で作曲していたのが謎の人物からの依頼による死者の鎮魂のための声楽曲「レクイエム」である。しかし、モーツァルトはこの作品を完成することなく、その年の12月に遂に世を去る。この曲の作成の依頼者はある貴族で、亡妻の一周忌に、“自分の作品”と偽って演奏させるためであったといわれる。未亡人コンスタンツェはこの曲の完成時に支払われる約束となっていた作曲料の残り半額を得るために、モーツァルトの弟子のジュースマイヤーに補筆させ曲を完成させて依頼者に渡す一方で、依頼者の了解なしに写譜を作り出版する。またコンスタンツェは再婚の相手にモーツァルトの伝記を書かせるなど商才を発揮した。結果的には不遇の天才モーツァルトは妻にビジネスチャンスを遺贈することになった。


4.ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770年ボン生まれ~1827年ウィーンに没す)

生涯独身、ワイン党の愛飲家、コーヒー好き、健脚家で引っ越し魔であった。

ベートーヴェンは1770年にライン河畔の城下町ボンに生まれ、フランス革命の3年後の1792年、21歳の秋にウィーンに出て、ピアニスト、作曲家として活動することになる。しかし1809年にはナポレオン軍がウィーンに攻め込んできて、ベートーヴェンの支援者であった貴族階級がウィーンを逃れてしまい、ウィーンは空漠とした街になってしまった。砲弾が飛び交い,硝煙の漂う中ベートーヴェンはなおウィーンに留まり、難聴の苦痛と闘いながら作曲を続ける。

本日はベートーヴェンの書いた32曲のピアノ・ソナタの中から最も有名な『月光』を演奏する。“月光”という愛称はベートーヴェンの死後、1832年に詩人のレルシュターブがこの曲は「月光に照らされたルツェルン湖の夜の湖面を想わせる」と言ったことに由来する。

                  ♪ピアノ・ソナタ 第14番『月光』第一楽章  (嬰ハ短調 op.27-2)
                            ピアノ演奏:Wilhelm Kempff (5分40秒)
                          http://www.youtube.com/watch?v=O6txOvK-mAk

続いて、ベートーヴェンといえば、日本では年末に盛んに演奏される『第九』を聴かずにはおられないという人が多いと思われるので、下記の音源から、さわりの第4楽章の「合唱」の部分を演奏することにする。

                            ♪交響曲第9番 合唱 (ニ短調 合唱付き op.125
             The Berlin Celebration Concert - Bernstein 1989 (1時間27分)
                  http://www.youtube.com/watch?v=IInG5nY_wrU

この曲は1824年に初演された。これを指揮したベートーヴェンには嵐のような喝采が全く聴こえず、聴衆に背を向けたまま立ちつくしていたが、女性歌手に促されて初めて聴衆の熱狂を知ったといわれる。ベートーヴェンは若いころからシラーの詩に心を惹かれ楽曲化したいと考えていたが、当時は交響曲は本来オーケストラのみで演奏される純器楽曲でなければならず、歌を交えるなどという破天荒なことは誰も考えなかった。しかし、ベートーヴェンは長年抱き続けたその構想を、シラーの原詩に少し手を加えて第4楽章に合唱として入れることによって、この壮大な交響曲『第九番』を完成させた。

ベートーヴェンは彼の人生を象徴するような“苦を突き抜ける歓喜”をテーマとした『第九』の完成後3年、1827年に56歳の生涯を閉じる。

最近の“佐村河内某”の「偽ベートーヴェン」報道について、東京新聞から取材をうけた際、「ベートーヴェンも本当は耳が聴こえていたということはないのか?」との質問があったので、それを否定する明確な根拠があることを説明し、記事として掲載してもらった。

ベートーヴェンは1802年、31歳の時に、後に「ハイリンゲンシュタットの遺書」と呼ばれる手紙を二人の弟宛てに書いている。この「遺書」は死を覚悟して認めたものではなく、むしろ「手記」に近い。その中でベートーヴェンは絶望的な状況下の自らの心境を赤裸々に綴り、耳が聴こえないということを周囲に気どられまいとすることの苦痛を切々と吐露している。当時は作曲家と演奏家は職能的に分離しておらず、作曲家は演奏もできなければいけなかった。ベートーヴェンは幼少のころから音楽教育をうけ、苛酷なレッスンに耐えてピアノの腕を磨き、21歳の時ボンからウィーンに出て、そこでピアニストとしての名声を確立した。そして先輩モーツァルトやハイドンに倣って自らも交響曲を書き、ウィーンで活躍を始めた20代の後半になって、聴覚を失うという音楽家として致命的な病魔に襲われた。ベートーヴェンはそのことがウィーンの楽団に知られるとその名声も職もすべて失うことになることを大変恐れていた。「遺書」の中で彼は「『私は耳がよく聴こえないので、もう少し大きい声で話して下さい』というひと言が言えなくて私はどれほど苦しんだことか」と書いている。そのような人間が、耳が聴こえないことを偽装するなどということは到底ありえない。当時から楽曲は古典の細かい手法に則った「対位法」という作曲技法に基づいて作曲したものでなければ受け容れられなかったので、ベートーヴェンはそれを熱心に習得した。「絶対音感」は作曲の補助手段になりえても、「絶対音感さえあれば作曲ができる」というのは全くのナンセンスである。ベートーヴェンが聴力を失っても、作曲活動ができたのは古典の作曲技法を完全に習得していたからである。

5.フレデリック・フランソワ・ショパン(1810年ワルシャワ近郊に生まれ~1849年パリに没す)

ショパンの生まれた1810年前後には、同年にシューマン、その前年1809年にはメンデルスゾーン、1811年にはリストなど多くのロマン派の作曲家が生まれている。

ショパンは1830年20歳でロシアの圧政下にあった辺境の地ポーランドを出国、ウィーン経由でパリに亡命し、二度と故郷に戻ることができなかった。1836年に6歳年上の恋多き男装の女流作家ジョルジュ・サンドと知り合う。ショパンはその後9年間サンドの庇護の下に安堵して創作に打ち込み、多くの実りを得た。しかし1845年頃から二人の間には亀裂が生じ始め、程なく破局を迎える。その原因は二人の気質の違い=精力的で庶民派のサンドと繊細で貴族趣味のショパン=による互いの気持ちの断層が徐々に表面化したためといえる。もともと病弱であったショパンはこの破局で大きいダメージを受け、経済的にも行き詰まる。その打開のため1848年にイギリスへ演奏旅行に出かけたことが、彼の乏しい体力を奪い尽くす。その翌年1849年10月パリで39歳の生涯を閉じる。

ショパンがピアノ音楽史に遺した特筆すべき功績は、ポーランドの民族舞曲に過ぎなかったマズルカ、ポロネーズを芸術の香り高いピアノ音楽に高めたたこと、また叙事詩、舞踏歌であったバラードをピアノ音楽の一曲詩として高い地位を与えたこと、そしてベートーヴェンが交響曲の第3楽章に用いたスケルツォを独立したピアノ曲に仕上げたことなどである。

それでは本日の講演の終りに当たってショパンの『別れの曲』を演奏することにする。この曲はショパンが出した練習曲(エチュード)集・2巻(各12曲)の最初の巻の12曲のうちの作品10の第3曲である。この曲は、ショパン自身がこの曲を聴きながら「今までこのような美しい曲を書いたことがなかった」と自賛したほどの旋律美を湛えた曲である。『別れの曲』という愛称は1935年に作られた同名(邦題)のドイツ映画の主題曲に使われたことから定着した。

                ♪『別れの曲』 エチュード 作品10-3(ホ短調)
                 ピアノ演奏アルトゥール・モレイラ­=リマ (4分25秒)
                  http://www.youtube.com/watch?v=0gM4dWVc0fM


Q & A

Q1: 本日取り上げられた大作曲家の最後・5人目のショパンの没後160年経つが、それ以来、「大作曲家」が現れないのは何故か?名曲が人口に膾炙するためには長い「熟成期間」が必要なのか?

A1: 「クラッシック音楽」と定義されるためには、その曲が作られて少なくとも100年経っても廃れていないことが一つの尺度とされている。むろん、大作曲家はショパンで終ったわけではない。本日は講演時間90分という時間の制約があるため5人の作曲家を選んだが、前述の著書に取り上げたように、クラッシクの名曲を遺した作曲家は50人以上を挙げることができる。良い作品とは必ずしも歳月の経過を要しない、その要件とは、先ず初演されること、そしてそれが初演だけで終わらず、好評を得て再演されること、そして楽譜が出版され、それが売れて再販され、再々演を繰り返すことである。現代では録音され、CDが出版され多く売れることが要件といえる。現代でも「クラッシック」に匹敵する優れた楽曲を書いている作曲家は少なくない。そのような作品の初演があれば是非演奏会に出かけて最初の評価者になっていただきたい。

Q2: オーケストラの楽団員の素晴らしい演奏テクニックはどのような手順で生まれるのか?作曲者が最初にそのような表現テクニックを要求して譜面に書きこむのか、あるいは作曲者が演奏者の高度のテクニックを駆使した演奏を聴き、それに触発されて譜面に書きこむのか?

A2: 「テクニック」には、日々の訓練で磨き、維持する基本的な演奏技術としての「広義のテクニック」と超絶技巧のような特殊技術としての「狭義のテクニック」がある。優れた演奏テクニックには両方が必須であるが、質問された「テクニック」は広義のものと了解する。演奏テクニックの発達は作品から発するというより、むしろ楽器自体の発達に負うところが大きい。ピアノで言えば時代と共に鍵数が増え、ハンマーアクションが速くなったことなどである。ベートーヴェンの32曲のピアノ・ソナタでもそれぞれの作曲年代でピアノがどこまで進化していたかが分かる。作品には楽器の発達が映し出されており、演奏者はその譜面で要求されている技術を最大限駆使しなければならない。狭義の演奏テクニックは楽器、作曲家、演奏家の3者が相まって向上して行く。ヴァイオリンの場合は楽器よりむしろ奏法の発達に依るところが大きいといえるが。

Q3: 資料に記載された曲名の後にある“http//・・・・・・”は何を意味するのか?

A3: インターネット上の、プロトコールという一種のアドレスのようなもので、これをクリックするとそこにある画像、音声、テキストなどのデータが入手できる。ここに記載した“http//・・・”はYouTubeというサイトのもので、多くの音楽・映像がワンクリックで無料で視聴できる。本日のような会場で一時的にダウンロードして聴くことは、パソコンなどで複製保存しない限り、著作権法上も問題が無いことを文化庁が確認している。

Q4: ショパンの『別れの曲』の演奏者「アルトゥール・モレイラ・リマ」とはどういう人物か?

A4: 1940年生まれのブラジル人男性ピアニストで、1965年のショパン・コンクールでマルタ・アルゲリッチに次いで第2位に入賞している。

Q5: バッハ、ベートーヴェンなどの古典楽曲を現代の楽器で演奏する場合、本来それぞれの時代の楽器に合わせて作曲した作曲者の意図と違う演奏になっているのではないか?作曲された時代の楽器を使って演奏すべきではないか?

A5: 重要な指摘と思う。現在でも作曲年代と同じ性能の楽器を使って演奏すべきとして、実際にそのような楽器で演奏を実践している演奏家もいる。聴き手側にもそのような楽器による演奏の方が耳になじむとしていう人もいる。楽器の性能とピッチの関係もある。今後、楽器の性能の進化に合わせた新しい演奏法が更に進展するのか、作曲同時代の原点復帰の方向へ向かうのか予測は難しい。人はその生育歴で聴いた音を生理的に心地よいものとして刷り込まれているので、少なくとも現世代の人が急に復古調を好むようになるとは思えない。私としては新旧の演奏法の調和がもう少し図られたらよいのでではないかと思うが。

Q6: (質問ではないが)かつてのローマ法王パウロⅡ世が1981年に来日された時の対話集会での着座用の椅子の背面に自分の作成した七宝作品が使われた。その後罹った脳腫瘍の手術から奇跡的に生還した後、8年ほど前、ポーランドのヴァドビツェに行き、今は美術館となっているパウロⅡ世の生家にこの七宝作品のレプリカを献納した。その折、先ほど写真で示されたジェラゾヴァヴォーラにあるショパンの生家を訪れたところ、中からピアノの演奏が聴こえてきた。驚いたことに、その時、その年に行なわれたショパン・コンクールの優勝者がそこで記念コンサートをしていた。図らずも最高の演奏を無料で聴くという幸運に恵まれた。これもパウロⅡ世のお導きかもしれない。今年の4月27日にはパウロⅡ世が「聖人」に列せられる「列聖式」がヴァチカンで行なわれる際、パウロⅡ世による「お導き」を得た私の体験を知ったローマ法王庁が私の映画を撮りたいとの意向が示されている。

A6: その年は、第15回ショパン・コンクールが行なわれた2005年で、優勝者はポーランド出身のラファウ・ブレハッチだった。彼の風貌は同じポーランド出身のショパンに似ている。自分も現地にいてブレハッチがコンクールの予選から、優勝するまでをつぶさに見ていた。ヨハネ・パウロⅡ世はポーランド人でもあり、ポーランド人からも大変尊敬されている。とてもよい話を聞かせていただいた。

Q7: クラシックに関する限り、現在は「作曲家の時代」というより「演奏家の時代」と言った方がよいと思う。ところが、現在の日本の交響楽団の演奏家はその演奏のレベルの高さに応しい経済的な報酬を得ていないといわれているが、どうか?

A7: 音楽大学を卒業した多くの演奏者が楽団に入団するが、楽団からの報酬で自立した生活ができる人は少ない。大部分がアルバイトや親からの経済的支援で生活している。また楽団によって収入の差が大きく、中小の楽団とN響辺りをトップとする有力楽団とでは、平均年俸が1:3(400万円:1200万円)程度の較差があるといわれている。

Q8: 映画「アマデウス」でもそうだったが、モーツァルトの妻となったコンスタンツェは本来立派な声楽家で優れたメゾソプラノのソリストであったはずなのに、なぜこのように悪者扱いをされるようになったのか?

A8: コンスタンツェのソリストとしての力量を裏付ける記録はあまりなく、モーツァルトと結婚し6人の子供をもうける生活のなかで、歌手としての実績を積むことはできなかったはず。むしろ姉のアロイジアの方が優れた歌手であったことはよく知られている。モーツァルトは当初アロイジアの才能を認め、彼女をプリマドンナとして仕立て、結婚したいと思っていたが、アロイジアに振られてしまい、仕方なく妹のコンスタンツェと結婚することになった。コンスタンツェが「悪妻」といわれるようになった最大の理由は、コンスタンツェがモーツァルトの父レオポルトと姉アンナマリアに大変嫌われていたことである。レオポルトはコンスタンツェの母ウエーバー夫人が策略家で、コンスタンツェをモーツァルトに無理に添わせようとしていると考え、結婚に大反対をした。その反対を押し切って結婚した後も父との不仲が続いた。次の理由はモーツァルとの結婚生活では窮乏生活が続いたのに、夫モーツァルトの病死後、楽譜の二重出版などの芳しからざる方法も使って、金もうけに走り、経済的には豊かな生活をしたことである。6人の子供のうち生き残った四男のフランツ・クサーヴァーの実の父親は弟子のジュースマイヤーだと言われている。

(記録:井上邦信