第 4 1 2 回 講 演 録

日時: 2013年11月18日(木)13:00~15:06

演題: 出会いに感謝  Jリーガーからパラリンピック4大会出場まで~
講師: ㈱インテリジェンス 障がい者リクルーティングアドバイザー 京谷 和幸 氏

はじめに

今まで数々の講演会を経験してきて場慣れしているつもりでしたが、今日は古河電工・サッカー部のOB諸先輩の前での講演という機会を与えていただき、今までで一番緊張しているかもしれません。

90分という長時間ですが、これも人生にプラスとなる経験の一つと考えて、昔を振り返りながら、私がこれまで辿ってきたサッカーや車いすバスケットボールのこと、これからのことなどをお話したいと思います。

1.サッカーとの出会い

ご紹介いただいたように、私は小学校低学年からサッカーをやりはじめ、中学・高校を通じて殆どサッカー漬けの生活を続けていて、高校2年次にはアンダー18の日本ユース代表にも選ばれ、3年次にはバルセロナオリンピック代表候補にもなるなど順調な選手生活が送れていたので、将来にわたってサッカーをやり続けるつもりでいました。

2.古河電工との出会い

実は、高校卒業後には東京ガスへの入社がほとんど決まりかけていました。後にFC東京の母体となる東京ガスですが、ブラジルのサンパウロFCと提携していて、入社すれば2年間留学させて貰えることになっていたのです。当時のサッカー選手にとってブラジル行くことは夢でしたからね。

一方で、ユース代表の監督をしていた永井良和さんから古河に来ないかと誘われてもいました。ところが、当時の室蘭大谷高校サッカー部のコーチに「本当に東京ガスでいいのか?もっとレベルの高いチームでやらないと代表に選ばれないぞ!」と言われたのです。

自分でも考えてみて、「やっぱり留学より『日の丸』だよなあ~」と思いました。また、子供っぽい動機ですが、サッカー誌で当時の古河電工サッカー部が世代交代の時期にあるという記事を読んで、それなら1年目から公式戦への出場機会が得られるかもしれないとも考えたのです。

結局、東京ガスには挨拶に行く5日前にお断りの連絡を入れて、1990年4月に古河電工に入社しました。翌年の5月に東日本JR古河サッカークラブ(現ジェフユナイテッド市原・千葉)とプロ契約が結べたときには、それまで8年以上にわたって持ち続けてきた夢が実現して、本当に言葉にならないほど嬉しかったことを覚えています。

3.妻との出会い

古河電工入社時には横研の分析に配属され事務のデスクワークをさせられる予定でしたが、またサッカー中心の毎日で、仕事の内容はよく覚えていません。(笑)

体力を見込まれて分析業務に必要な液体窒素ボンベの取扱いを任されましたが、ある日のこと、手洗いに行っている間に注入ホースが外れて室内に液体窒素を溢れさせてしまい、すごく怒られたことは覚えています。

印象に残っているのは、入社1年目の社内運動会が千葉の舞浜グラウンドで行われることになり、新人は手伝いのために、社宅の人達を横浜から浦安までバスに乗せて連れて行ったり、子供達の面倒をみたりする役目を仰せつかりました。私は兎の着ぐるみを着て子供達の相手をしましたが、中には小突いてくる子供もいて、こちらも応戦して小突きあい状態になっていたところへ女性が二人やってきて、一人が「中に居るのは誰なの?」と聞いてきました。その口調から先輩かと思い、「新人の京谷と申します」と答えたところ、「なに~京谷君なの~!同級生なのに~」とゲラゲラ笑われました。笑ったのは、私が着ぐるみの背中のチャックを締め忘れて、古河の練習着の背中が見えていたためのようです。それが現在の妻です。当時は、「背が高くて可愛い女の子がいるな~」という程度の印象でしたが。

4.リトバルスキーとの出会い

1982年のワールドカップ・スペイン大会の準決勝で、西ドイツ代表のピエール・リトバルスキーが小柄でO脚ながらフランスの屈強なディフェンダーの間をドリブルですり抜けるのをTVで見て、自分もああいうプレーヤーになりたいと憧れていました。

1993年、Jリ-グの開幕と共に、そのリトバルスキーとJリーガーとして一緒に試合に出場し、間近かで実際に彼のプレーを見られたのですから、これも正に夢の実現でした。JEFのロッカールームで彼と直接話しをし、「自分はあなたのプレーを見てプロを志した」と伝えたら非常に喜んでくれました。

古河電工は私に、いくつもの大きな出会いを与えてくれたと感謝しています。

5.事故との出会い

トップチームに上がり、ナビスコ杯でデビュー、天皇杯準決勝にも出場と、順風満帆に見えた選手生活でしたが、実はJリーグ開幕時には怪我からのスタートだったのです。

ユース代表のマレーシア合宿の時には、暴飲暴食で体重オーバーし、池田誠剛コーチから食事制限を実行させられました。特に肉類の制限は厳しく、豆と野菜だけで“肉離れ”させられた程です。そのせいか(これはジョーク)、実際に“肉離れ”で帰国する羽目になりました。

かつて、サテライトの岡田武史監督から、「今はユース代表やFCバルセロナなどの目標があって励んでいられるが、それはいつまでも続くものじゃない。更に将来を見据えて目標を立てることが大切」と説かれていましたが、当時の私はわがままで傲慢で自分中心の考え方しかできませんでした。「プロサッカー選手になる」という夢が実現したことでうわついてしまい、将来の目標をたてて努力することがおろそかになっていたのです。

怪我が治っても、チームがそこそこに良い成績を保っていために出場機会が与えられないと、「永井さんも清雲監督も、俺のプレーが気にいったと言って呼んでくれたのに、何で俺を使わない!」と他人のせいにして、自分を省みることはしません。ある日、多分、岡田さんの推薦のお蔭かと思いますが、私とポジションが被っていると言われていたリトバルスキーと、同時にピッチに立ったことがあります。その試合のあとでも、「俺、今日良かったじゃないか!リティと一緒でもいけるじゃないか!」とだけ考えて、他人の意見を聞こうとしませんでした。そして、その後も試合に出られない日々が続くと、「出られないんだったら、こんなチーム辞めてしまおうか」などと考えてふて腐れていました。

そんな状況で苛々していた上に、2ヶ月後に結婚式を控えて将来に不安を感じていたせいかもしれません。19921128日、翌日が衣装合わせの日に当たっていたので、それに備えるために自宅に帰ろうとして深夜に車を飛ばしていた時に、脇から出てきた車を避けようとして衝突事故を起こしてしまったのです。事故の状況は覚えていません。気がつくとベッドに寝かされていました。看護師さんから実家への連絡方法を聞かれましたが、室蘭の親元へ連絡しても意味がないと考え、そう伝えると近くに親族はいないかと言われました。とっさのことなので婚約者の実家への連絡方法を告げて婚約者への連絡を依頼しました。

彼女は驚いたでしょうが、数時間後には駆けつけてきてくれて、その後も毎日のように面会にきては何くれとなく世話をやいてくれました。この時には私は未だ脊髄損傷の事実を知らされていなかったため、事態をあまり重く受け止めてはいなかったので、恥ずかしさもあって彼女の世話を受けるのを煩わしくも感じ、それを態度にも示してしまったのですが、彼女は嫌な顔もせず、さらりと身の回りの世話を続けてくれました。

そんなある日、面会に来た彼女が突然枕元で「入籍しよう」と切り出したのです。私自身は退院・リハビリ・復帰してからで良いと思っていましたので、何故そんなに急ぐ必要があるのか理解できませんでした。そう言うと、彼女は今まで見せたことがない必死の形相で、「今じゃなきゃダメなの!」と言い、12月9日が大安だからと、入籍の日まで指定しました。自分の不注意でこんなことになってしまったという責任も感じていましたので、彼女には彼女の事情があるのだろうから望むようにしようと、あまり深く考えもせずにベッドで仰向けのまま婚姻届にサインしました。こうして私は事故から11日目の12月9日に婚約者と入籍をしたのでした。彼女は1216日には会社を退職して私の世話に専念するつもりだったようですが、私はこの時点では彼女の覚悟の深さに気付かなかったのです。

6.事実との出会い

事故のあと、暫く経ってからも私の足は動くことがなく、殴りつけても痛みを感じないので次第に異常に気付きはじめましたが、サッカーが出来なくなるなどとは全く思いもしませんでした。

ある日のこと、面会時間が終わって妻が病室を出て行った後に、妻が面会者などの記録をつけていた日記を置き忘れていったのに気付きました。何気なくその日記をめくってみているうちに、「脊髄神経がダメになっている・・・・」という文字が目に付き、ハッとして頁を繰ると、「2週間経っても感覚が戻らないと、車いすの生活になると先生に言われた・・・・」などと絶望的なことばかり書いてありました。私はこの日記で初めて自分の足の状況を知ったのです。一時、この事実を黙っていた妻に怒りは湧きましたが、それをぶつけることはせず、日記を見たことは自分の胸の中にしまっておこうという自制心は残しておりました。事実を受け入れた訳ではありません。実際、足裏を刺激すると反射神経が働いて脚がぴくつくので、医者が99%ダメだと言っても、1%でも可能性がある限り復帰は絶対にあきらめないぞと自分に言い聞かせていました。

1月25日に担当医から「この症例で治ったケースはありません。これからは車いすの生活になります」と宣告された時に、私は「はい、わかりました」とだけ答えました。人に弱みをみせるのが大嫌いで、うろたえた姿をさらしたくなかったからです。しかし、実際はわかってはいませんでした。「もうサッカーが出来ない」という事実を受け入れることの恐怖と、「絶対にあきらめないぞ」と受入れを拒む心の浮き沈みの波が、数十秒毎に交互に襲ってきてパニックになり、その場凌ぎに自分の心の負担を軽くするものが欲しくなるのです。宣告の数十分後には、親しくなった看護師さんに、「車いすで出来るスポーツを何か知ってる?」などと尋ねて、「知らない」と答えられても「嫁さんと一緒にホノルルマラソンにでも出るワ」などと言っていました。

それは見栄であって、事実を事実として受け入れられた訳ではありません。その後で面会にやって来た妻に向かって担当医から告げられたことを伝え、もうサッカーが出来ない、車いすの生活になる、という不安をぶつけました。すると妻が泣き出しました。妻にしてみれば、これで隠し事をせずに事実と向かいあっていけるという安心感と同時に、私への同情から出た涙だったと思いますが、この時の私には妻が泣く意味が全くわかりませんでした。「なんでお前が泣くんだ!お前は泣けていいよな。俺なんかショックで涙も出ないよ」と八つ当たりしてしまったのです。すると妻は涙を流しながら、「一人じゃ出来ないことも、二人なら乗り越えられる。これからは一人じゃないんだから、二人で頑張っていこうよ」と言ってくれました。でも、この時の私はこの言葉を受け入れられる精神状態ではなく、「お前に何がわかる!」という気持ちで会話は途切れました。しかし、後でこの言葉がどん底状態の私を救ってくれたのです。

7.“人並みの生活”を目指して

独りになって、消灯時間を過ぎた暗闇の中で、急に怖くなりました。「もうサッカーが出来ない」という事実が怖くなり、「サッカーが出来ないくらいなら死んだ方がましだ」という気持ちになって、ますます怖くなります。怖さで一度涙がこぼれだすともう止まりません。深夜の病室で枕に顔を押し当て、声を殺して泣き続けました。気がつくと朝になっており、一瞬気が抜けたのかお腹が鳴ったのです。宣告後から何も口にしていなかったので何か食べ物か飲み物を、と思って愕然としました。周りにはそんな物は何もありません。病室を出れば自動販売機があることがわかっているのに、そこまで行く「足」が無かったのです。

それまでは何でも自分でやれると思っていた私でしたから、人に頼らなければ食事も出来ない、何も自分では出来ない状態だという当たり前のことを思い知らされた瞬間でした。すると今度は一人では何も出来ない自分、そのことに無知であった自分を責め始めます。他人を認めなかった自分、他人を褒めなかった自分、他人のために何かしたことの無い自分に罵声を浴びせるのです。「うつ病」の入り口の状態です。

ここに至ってようやく、私は妻が入籍を急いだ意味を悟りました。妻の言葉を素直に受け入れられました。サッカーが出来ないことを受け入れられた訳ではありませんが、私は一人ではなく、妻がいます。今の私に出来ることは、先ず第一に妻を幸せにすることだと思いました。彼女を幸せにするために、今、自分が出来ることを一生懸命に全力でやることだと割り切れたら、不安が無くなりました。これまでは弱い自分を隠すために意地を張って生きてきましたが、意地を張らずに話せる妻が居ると思うと気持ちが楽になりました。

次の日から、車いすに乗る練習を始めました。寝たきりの状態から車いすに乗ろうとすると、初めは10秒ともたず、気持ちが悪くなって再びベッドに倒れ込みました。しかし繰り返しトライしていると10秒耐えられるようになりました。10秒~1分と耐久時間を延ばしていくと妻が喜んでくれます。妻の喜ぶ顔を見るのが私のモチベーションになり、一つまた一つとやれることが増えてきました。そんな私を妻は無理に誘って外に連れ出そうとしました。私は「リハビリに集中したいのに」と不満でしたが、たいていは気分がリフレッシュされて妻の予想通りリハビリ効果も上がったのです。私は妻の掌の上で転がされていただけなのかもしれませんが、その時はそれが心地良かったのです。

私はみぞおちから下の感覚が全く無く、排便・排尿のコントロールが出来ませんでしたので、最初のうちは薬でコントロールしながらオムツを穿いて生活していました。努力の結果、トランクスが穿けるようになって、オムツとおさらば出来た時には、「俺もう、何でも出来るゾ」という気になったものです。こういう小さなことの積み重ねから、やれることの方向性が見えてきます。

私達は「人並みな生活をする」ことを目標としましたが、マイナスからの出発ですから何が“人並み”かは時によって変わり、「今出来ることをやる」ことを積み重ねた結果、社会復帰までに2年は掛かると言われていながら、私は二度の転院を経て実質7ヶ月で退院することができたのでした。

8.車いすバスケットボールとの出会い

ここでまた、別の出会いがありました。妻が身体障がい者手帳の交付を受けるために訪れた浦安市役所の福祉課で受け付てくれた小滝修氏が、車いすバスケットボールの元日本代表選手で、妻から私のことを聞いて、後日、面識も無いのに見舞いに来てくれたのです。そして、今の所よりもリハビリに向いている施設として所沢リハビリテーションセンターを紹介してくれて、転院にも尽力して下さったのです。

後で判ったことですが、小滝さんの訪問はスカウトも兼ねていたようで、私は小滝さんが敷いたレールの上を走っていたようなものでした。車いすバスケットボールの世界ではプレーヤーのなり手が少なく、スカウトするには怪我をした人などを探す必要があります。元サッカー選手というのは有望な対象と思われたのでしょう。

所沢リハビリテーションセンターでリハビリしていた頃、そこの体育館で車いすバスケットボールをやっているのを見て、これなら自分でもやれそうだと感じていました。しかし、小滝氏に誘われて見学に行った「千葉ホークス」の練習を見て正直ビビリました。所沢の体育館で見たものとはスピード、パワー、テクニック共まるで別物、単なる障がい者スポーツではなく、本物のスポーツで格闘技だと思いました。小滝氏はその後も熱心に「千葉ホークス」への入団を勧誘してくれましたが、私は決心がつかぬまま返事を保留していました。だが、私の背中を押すいろいろな出来事が起ります。

先ず、地元室蘭で結婚披露パーティーを開いた時のことです。恩師や友人達から祝福はされましたが、車いす姿の私に対する同情の声が多いように感じられ、サッカー選手ではないこれからの私に何かを期待してくれてはいないことがわかって悔しくなってきたのです。パーティーの最後の挨拶で、私は「今日は有難うございました。皆さんの暖かい励ましで、これからも車いすバスケットで頑張ろうという気持ちになれました。アトランタは無理だと思いますが、次のオリンピックを目指して頑張りますので、応援よろしくお願いします」と、まだ車いすバスケットボールを始めてもいないのに、宣言してしまったのです。

一方で小滝さんは、私が車いすバスケットをやるのは規定路線のようにあちこちに触れ回ったり頼み込んだりしてくれていて、名古屋国体に千葉県の代表の一人として連れていってくれることになりました。プレーもしていないのに変な話ですが、私を環境に慣れさせるという親心もあったようです。この遠征には妻の介助無しで参加したのですが、千葉ホークスの人達と行動を共にして、新幹線への乗り方やエスカレーターでの上り下りなどをチームプレーでこなす方法を学び、私が一人で街に出かける術を身につけるキッカケとなったのです。

私はスポーツ用車いすを妻にねだって買って貰いました。安価なものではないので、妻もやや渋ったようですが、「やるからには目標を持ってやってね」と、条件つきで私の願いを聞いてくれました。妻と二人で近所のマーケットに出かけてエスカレーターの乗り降りを練習したこともあります。

次に、親友・藤田俊哉選手の結婚披露宴に出席した時のことです。昔一緒にプレーしていたJリーガー達と歓談していたところ、日本代表の選手達が多くいる方へ、周りの仲間が皆移動してしまい、独りぼっちで取り残されてしまったのです。寂しさと悔しさの中で、仲間達を振り向かせるには、自分で宣言した「日の丸を背負ってプレーすること」の重要さを再認識して、それからは一層車いすバスケットに打ち込むようになりました。

最後の最大の出来事は長女の誕生です。車いすの父親の家庭に生まれたこの子の「自慢の父親」になりたい。そう思うと元Jリーガーという過去の話ではなく、今とこれからも誇れる何かが欲しい。それは車いすバスケットボールしかないと思ったのです。この父親としての思いが、パラリンピックという夢の舞台に向かって、私を一気に加速させてくれることになりました。

9.夢の実現

長女が生まれたのは1996年2月でした。私が目標としていたシドニーパラリンピック開幕まではあと4年しかありませんでした。死に物狂いで練習に励みましたが、全国でも強豪の「千葉ホークス」では、まだスタメンを勝ち取る力は備えていませんでした。

先発メンバーには無くて、自分が備えている能力は何かと考えた末、ディフェンスに不可欠なスペシャリストとして技を磨こうと決めました。サッカーとも共通する部分があり、サッカーではミッドフィールダーで視野が広かった特性を生かせば、相手のパスコースを消し、味方にパスを通して攻守に貢献できると思ったからです。

そんな中で迎えた1999年5月の「日本車いすバスケットボール選手権」。シドニーパラリンピックの日本代表に入るためにはラストチャンスの大会です。予想通りチームは勝ち進みましたが、私が出場できたのはほんの数分だけでした。ここで活躍を見せなければ夢の実現は不可能です。それでも何時かきっとチャンスは来ると信じて、準備は怠りませんでした。

迎えた準決勝、スタメンには起用されていなかったのですが試合前のウオーミングアップ中に日本代表にもなっていた先輩選手が突然鼻血を出して止まらなくなってしまったのです。要の選手でしたし、障がいの重症度によってトータルの持点に制限が設けられている車いすバスケットボールでは、誰でも自由に交代できるわけではありません。ベンチもパニック状態の中で監督と目が合ったら、監督が「取敢えず京谷さん出て」と言いました。たまたま、その選手と私の持点が同じだったのです。

不思議なほど冷静で、普段考えていたことが実行できました。チーム全体もディフェンスが機能して、大差で決勝進出を果たしました。決勝では出場機会が無く、チームも敗れたのですが、準決勝での私のプレーを見ていた日本代表の強化指導部の方が、日本代表合宿の案内をくれたのです。このチャンスを逃がしてなるものかと、代表合宿でも必死のアピールを続けた結果、アメリカ遠征などでも代表メンバーとしてプレーし、事故から7年目に2000年シドニーパラリンピックの代表選手に選ばれました。

その通知が自宅に届いた日には、これまで支え続けてくれた妻とビールで乾杯しました。数々の幸運に恵まれたおかげもありますが、目標を持って、諦めずに、常に準備を怠らなければ夢が実現できることを、その時学びました。

10.将来の夢

こうして私は、2000年シドニー、2004年アテネ、2008年北京、2012年ロンドンと、4大会連続でパラリンピック出場を果たし、北京大会では選手団主将という大役を任されました。

そして、2020年五輪の開催が東京に決まりました。決定の瞬間、正直、複雑な気持ちになりました。車いすバスケットボールから引退し、次の夢の実現のために動き出し始めたばかりで、もし、東京開催が決まれば、自分のやることがきっと増えてくると思いましたし、事故で失ったサッカーの夢を取り戻しに行くのが遅れてしまうような気がしたからです。

「事故との出会い」を恨んでのことではありません。当初は恨みましたが、あれがあったからこそ私は人間として大きく成長できたと思いますし、その後の「出会い」で新しい夢を追うことができました。「事故」があって、「出会い」があって、現在の自分がある。サッカーをやっていた頃の自分よりも、今の自分の方が好きだと言えます。だからこそ、新しい夢を追うために18年間お世話になった車いすバスケットボールに、この大事な時期に別れを告げるのは、元の自分に戻ってしまうようで嫌なのです。

でも、オリンピック東京招致が決まって、私の腹も決まりました。仕事が増えることを覚悟しました。東京大会は7年後です。これまでのパラリンピック出場の経験がお役にたつなら、その役目を果たしてから次の夢を追っても遅くはないと考え直しました。10年後でも私は未だ52歳です。勿論、現役は無理ですが、プレーヤーとしてではなく、指導者としてピッチの上に立ちたいと希望しています。

それまでは車いすバスケットボールとサッカーの指導者を目指して、二足のわらじを履いていくつもりです。スペースの見つけ方など、共通する点がありますので、両方に相乗効果が期待できると考えています。導者として若輩ですが、今後も何かとお力を貸して下さい。長時間ご静聴有難うございました。

Q & A

Q1.千葉県の教育委員を引き受けた経緯と、実際の活動について教えて下さい。
A1.最初は高校生向けの道徳教育の教材として、私の半生記を使わせて欲しいとのお話でしたが、後に教育委員会にも出席を要請されました。車いすバスケットボールの現役で忙しく、その任でもないとお断りしましたが、月1回の定例会に顔を出して関係する話題についてだけ発言してくれればよいと言われて、名誉なことと思ってお受けしました。実際には教育現場の視察もありますが、もうそろそろ(辞めても)よいかなと思っています。

Q2.iPS細胞の研究が進んで、(治療すれば)歩けるようになるとしたら治療を受けたいと思いますか?また、歩けるようになったら何をしたいですか?
A2.以前TV番組に出演して全く同じ質問を受けましたが、(治療は)結構ですと答えました。歩きたくない訳ではないのですが、現在の自分に満足していますし、長年お世話になった車いすバスケットボールに恩返しをするのには、歩けても歩けなくても何も変わらないと思うからです。

Q3.JEFが今後J1に復帰するために、何かアドバイスはありませんか?
A3.同期の江尻君も頑張っているし、戦力的にも充分な力があるので、復帰できるし、しなければおかしいと思います。ただ、監督やコーチのせいにして監督・コーチ陣を変えるのは簡単ですが、ピッチで動くのは選手達ですから、出場しているか否かに拘わらず、全ての選手が同じイメージを共有し、同じ強い気持ちで闘えるかどうかがカギだと思います。

Q4.奥さんの応援や「日の丸」を背負うことがモチベーションになるのはわかりますが、本質的には車いすバスケットボールをするのが楽しいからやれるのではありませんか?
A4.車いすバスケットボールは格闘技で、最初は辛いことが多いのです。また、個人でもチームでもうまくいかなくなった時には(プレーが)楽しめなくなるので、仲間やサポーターの応援等、他にモチベーションを上げる手段に頼りたくなります。しかし、実際に引退した後はプレーしたくてたまらなくなるので、本質的には楽しいと言えるでしょう。

Q5.㈱インテリジェンスは障がい者の就労支援の大手ですが、どんなお仕事を受け持っているのですか?
A5.アドバイザーといいますが、実際は広告塔の役割で、就労支援のための面接等の実務をやるわけではありません。関連のDODA(デューダ)チャレンジという会社が出来た頃に入社し、その広報誌にコラムを書いたり、著名人と対談するなどの仕事をしています。以前には渡辺謙氏と、最近は乙武洋匤氏と対談したことがあります。

 

(記録 最上)