第 3 9 0 回 講 演 録

日時: 平成23年9月26日(月) 13:00~14:30

演題: 日本古代史の真実

講師: ㈱大平事務所代表 大平 裕 氏(あかがね倶楽部会員)

Ⅰ 日本誕生、空白の二百年

1.高天原(原ヤマト)から大和へ、空白の二百年間の真実

最初の著書(前々著)「日本古代史正解」において、戦後64年間日本の歴史をミスリードしてきた古代史学界の姿勢を糺すとともに、西暦200年から400年までの、いわゆる日本古代史の「空白の二百年」の間に躍動した日本の国造りの姿、大和朝廷による国内統一の動き、さらには戦後歴史学界によってその存在を抹殺された歴史上の人物を復権させ、真実の古代史の再現をはかった。戦後の多くの歴史学者達は、戦前の「皇国史観」に対する反発から、中国の王朝に関するものを除けば東洋最古の国史書である「日本書紀」の史実性を否定し、「古事記」については体よく国文学の分野に追いやってしまった。その結果、日本の教科書ではこの「二百年間」に登場する人物は「卑弥呼」と「豊(台与)」の二人だけである。このように日本の古代史は主人公不在の空漠たるものになってしまった。

前著「日本古代史正解―纏向(まきむく)時代編」では、筆者の考える「原ヤマト政権(高天原政権)」と大和朝廷が一時期をはさんでこの地で栄えていたことを論述した。この推論は発掘調査により補強され、史実性が実証されつつあると考える。纏向遺跡・文化は180年頃に突如としてこの大和の地に出現し、前方後円墳を築き、水路を発達させた。その後340年頃に廃絶された。その間250年頃に神殿・居館の柱が抜かれ、移築されていることから、この時期を隔てて、纏向文化は「前期」と「後期」に分けられる。前期はいわゆる高天原・原ヤマト政権、後期が神武天皇の速日命(にぎはやのひのみこと)・長髄彦(ながすねのひこ)との戦いの後に成立した大和朝廷による支配が行われた時期に相当すると考える。神武以降八代の天皇はこの地を離れ、磐余、軽、葛城などに都を構えたが、後期の纏向一帯は、天皇家の外戚として代々皇后、皇姫を入内させている磯城県主(しきあがたぬし)一族が、その名からもこの地に居住していたとみられる。その50年後に天皇家は再びこの地に戻り、崇神、垂仁、景行の三天皇は磯城に都を営み、崇神、景行天皇は没後壮大な前方後円墳に葬られた。景行天皇は晩年、西暦340年頃磯城宮を離れ、近江の高穴穂宮(たかあなほのみや)の行宮に移られ、以後大和朝廷の陵(みそさぎ)と都はこの地に戻ることはなかった。

以上二冊の著書では「卑弥呼=天照大神」、「天孫降臨=ヤマト国による出雲と狗奴国(くぬこく)の征討」、そして、「神武天皇と欠史八代の天皇の実在」の検証を行うことが主な目的であった。天皇家の125代の代数が正しいものとし、一代平均在位年数を10年とすると、日本書記と三国志の魏志倭人伝の年代記述は大筋で一致する。

多くの学者は初代神武天皇から9代開化天皇までの実在を完全に否定し、10代崇神天皇の実在は認めるものの、11代垂神天皇から14代仲哀天皇については賛否両論がある中で否定する学者の方が多い。彼らは否定理由として、①これらの天皇の宝算(寿命)が長寿すぎること、②父子継承が余りに長期間続いていること、③各天皇の系譜とともにあるべき事蹟についての記載が欠けていること、④天皇の和風の諡号(称号)が後世の天皇のそれとよく似ていることを挙げている。これに対して、筆者の反論は①寿命については、魏志倭人伝にあるように当時の日本人は暦を持たず、種蒔きの春と収穫の秋をそれぞれ1年と勘定していたとする「春秋2倍説」によれば、実際の寿命は記載された年数の半分となり、「長寿」とは言えなくなる、②当初は兄弟継承であったものが後に父子継承と伝えられてしまうことは歴史上通常みられることである、③事蹟の欠如については、既に系譜において天皇の称号、都の所在地、皇后・皇姫の出自、皇子・皇女の名、崩年、陵の所在地がすべての九代の天皇について備わっており、これだけでも基本的に天皇の実在を証明するのに十分と考える。

2.古代日本の年記資料(表1)

歴史学者は一般に古代史の年代を特定・記述することを躊躇する傾向があるが、筆者は日本、中国、朝鮮半島の各種史料により明らかとなった日本古代史の年代を明記し年表(表1)として示した。

表の上段は中国の南朝時代の史料で、日本倭国との関係で年代が明示されているものを示す。前半が空白となっているのはこの時期五胡十六国時代で国情が乱れており、倭国との交流は途絶していたためである。413年に「讃」が来朝したと記されているが、「讃」は仁徳天皇である。その後500年頃にかけて数次にわたり、珍(反正)、済(允恭)、興(雄略)、武(清寧ー従来は雄略とされていた)の各天皇の来朝が記されている。

中段は日本の史料を示す。372年は百済王から神功皇后に献上された「七支刀」に刻印された干支によりその年代が判明した。461年の「武寧王(ぶねいおう)」とは25代百済王であるが、武寧王は叔父昆支王とともに百済から倭国に人質に送られる途中筑紫の加唐島(かからしま)で生誕(その直後に帰国)したことが雄略天皇記に書かれており、1972年に発見された武寧王の陵の墓銘碑にも同じく記され、年代が確認されている。471年の稲荷山古墳の鉄剣は雄略天皇が磯城宮で「幼武尊(わかたける)」(鉄剣銘は「獲加多支鹵大王」)と称されていたころ記念として製作されたものである。503年の「隅田八幡鏡」は孚弟王(後の継体天皇)に百済の武寧王から贈られたものである。天皇の崩年(崩御年)は古事記の最古の写本(1271年)に記された干支に基づくものである。318年の崇神天皇の崩年にはやや疑問があるが、日本人が記した最古の年号としての意義がある。これらの年号は学界では異論があるが、筆者は中国、半島の史料に照らして正鵠を射たものと考える。

下段の半島史料においては、390年の応神天皇の即位年は「三国史記・百済本紀」と「日本書紀」の記載年号が一致する最古の年代である。391年は倭が海を渡り、百済・新羅を倭国の臣民とした年である。400年は倭が新羅を攻めた折、高句麗軍が救援したこと、404年には倭軍が帯方郡(京城北方、平壌南方)まで攻め入った年、407年は倭国が新羅に大敗した年である。

欄外に天皇の平均在位年数から初代神武天皇の即位年を推定する計算を示した。雄略天皇の崩年478年から遡って応神天皇の即位390年までの88年間で7代の天皇が在位しており、平均在位年数は12.5年となる(応神と仁徳の間の2年間の空位の時代、仮に菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこ)が就位していたとして、一代加えると平均11年)。1代平均在位年数を10年とすると、応神天皇即位の390年から遡って神武天皇までの15代(摂政であるが神功皇后を1代として加えて15代)で150年となるので、神武天皇の即位は240年(西暦)となる(古代の天皇はそれほど長命ではなかったとすると即位は250年とするのが妥当か)。

3.纏向時代(180年-340)(図1)

纏向(まきむく)遺跡は、正に高天原政権が興り、大和朝廷が遷った中心地である。纏向時代は180年頃に勃興し340年頃に廃絶されたと考えられる。纏向遺跡について特筆すべきことは190年から230年頃にわたって造営されたとみられる前期の前方後円墳が多く存在することである。この頃の前方後円墳の特徴は石塚、勝山、ホケノ山古墳のように小型で「前方」部が小さく未発達な点である。後期になると「前方」部が伸びて、大型になる。図の中央上部に200年頃に建てられ250年頃に廃絶されたと推定される神殿あるいは居館と思われる大規模な建物の跡がみられる。更にその右手(東側)に250年頃に移設され340年頃まで続いたと思われる神殿(居館)跡があり、現在も発掘作業が続けられている。左手(西側)に見られる直線状の遺構は「大溝」といわれる水路で、分岐する水路がないことから灌漑用ではなく運河と考えられる。近くの大和川を経由して約40km離れた浪速との間の文物の輸送に使われた運河と推定される。図中央下にある壮大な箸中山(箸墓)古墳は後期の前方後円墳で、建設時期は諸説(4説)あるが240年から290年の間に造られたと考えられる。被葬者は「卑弥呼」(天照大神)あるいは「台与」(神武天皇を大和に迎え入れた皇后である五十鈴姫)を想定すべきであろう。崇神天皇の叔母の「倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)」とする説もあるが、未だ確定に至っていない。

4.日本古代史空白の200年間年表(表2)

 前著書2巻(Ⅰ、Ⅱ)で論じた内容を年表としてまとめたものが表2である。

①中国・倭国関係

中国側の文献に現れた倭国に関連する記事を列挙した。248年には倭国より卑弥呼が初めて魏に対して遣使、卑弥呼没後266年に台与(推定)から西晋に遣使、その後西晋は武帝の時代に盛期を迎えるが、その間倭国からの遣使は一切行われていない。この時期は大和朝廷の二代から九代目にあたるが、中国の三国時代の最大の盛期に遣使が行われなかった理由は定かではないが、倭国・大和朝廷側に何らかの問題、天変地異などの災害が起きたためと想像される。316年には西晋が滅亡し、中国は五胡十六ヵ国時代の大混乱に陥る。

②大和地方の考古学上の発掘の成果

大和地方は纏向の北西約5kmにある唐古・鍵遺跡などの弥生時代の文化を引き継ぎながら180年から240年間にわたって纏向文化が栄えることになる。190年頃に中国・遼東で公孫氏が力を握ると、楽浪郡から倭国へ大量の鏡の輸入が始まる。200年頃に纏向に大規模な神殿もしくは居館が建てられる。この頃、勝山古墳などの前期前方後円墳が造営される。238年に卑弥呼が魏に遣使と同時に大量の三角神獣鏡の輸入が始まる。248年卑弥呼が崩じるとともに混乱が生じたのか、前述の「纏向神殿・居館」の移設が行われた。箸中山(箸墓)古墳については造営時期には諸説(240年~290年)がある。300年代に入って造営された古墳では、桜井茶臼山古墳(被葬者は崇神天皇の伯父にあたる大彦命(おおひこのみこと))、崇神天皇陵、メスリ山古墳(大彦命の長子、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと))、そして景行天皇陵がある。そして大和朝廷の陵はこの地を340年頃に離れ、奈良北西郡の佐紀地方に移り、戻ってくることはなかった。

③大平観

筆者が中国の史料、大和地方の考古学上の発掘の成果、日本書紀の記述のうち天皇の代数のみを正しいものとして系図を取り込み、高天原時代から大和朝廷に至るまでの変遷を一表にしたものである。倭国は150年から180年頃の大乱の後、天照大神が擁立され男弟高皇産霊神(たかみむすひのみこと)の補佐の下にヤマトを平定する。そして、天照大神の長男天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)と高皇産霊神の息女が結ばれ、ヤマト朝廷の皇祖とされる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が生誕する。二男天穂日尊(あまのほひのみこと)は出雲征討(天孫降臨)に向かい、大国主命の軍を破り、出雲大社を建立して大国主命を祀り、自らは出雲の国造となり、出雲大社の宮司を兼務する。そして出雲を完全なヤマト朝廷の傘下として治める。瓊瓊杵尊は同じく天孫降臨として九州の熊襲の征討に下り苦戦を強いられたが、平定を果たし「日向三代」の祖となる。日向三代は父子継承ではなく兄弟継承の可能性もある。250年頃は中国の史書の倭についての記述、大和地方の遺跡にみられる神殿の移設、日本書記の神武天皇の東征など、年代が一致する。卑弥呼没後、男王を後継に立てるが認められず内戦となり、台与(「豊」とすべき)が立つ。神武天皇が東征により大和を離れていた当時、この地方で強大な権力、財政力を持っていたのが神武天皇の皇后、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)別名、富登多多良伊須須比売(ほとたたらいすずひめ)と考えられる。その後、大和朝廷は九代続き、300年頃、誰もが実在を認める崇神天皇の時代に入り、日本最古の年代記録である318年に崇神天皇が崩御した後、垂仁天皇、景行天皇へと継がれ、景行天皇の末期に纏向を離れ近江の高穴穂宮に移るここでも纏向遺跡の発掘の成果と日本書紀の記述に合致が見られる。纏向遺跡の発掘は未だ5%程度しか行われていないが、今後の進展が期待される。

④他の研究者の諸説

安本美典の説は「邪馬台国」が北九州に在ったという説を基本にしているため、やや無理が生じている。安本説は230年から280年まで北九州に朝廷がおかれ、神武天皇が東征の後290年頃に即位し、342年に崇神天皇が即位したと言っているが、纏向古墳時代は340年頃に既に終わっているので、その頃に崇神天皇が纏向にやってきて即位することはあり得ない。水野正好の説は極めてシンプルで、卑弥呼から崇神天皇の叔母の「台与」へ、次いで崇神天皇に引き継がれたとしている。

Ⅱ 日本の朝鮮半島への進出

「日本古代史正解」―渡海編―の発刊は先の大震災の影響で遅れ、当初の9月10日が10月15日となってしまった。本編では、その帯に「朝鮮半島を席巻していた大和朝廷の軍事外交力」とあるように、今まで余り取り上げられることのなかった古代日本・倭国と朝鮮半島の関係を論述した。倭国は350年から650年の頃まで約300年強にわたり朝鮮半島において大きいプレゼンスを発揮していた。その理由とそれを可能にしたものは何かを解明する。朝鮮三国(高句麗、百済、新羅)、あまり語られることのない任那と加羅、との外交軍事関係について述べる。

1.倭国抜きには語れない古代朝鮮

「後漢書倭伝」「三国志倭伝」「後漢書韓伝」「三国志弁辰伝」はいずれも朝鮮半島南端部に「倭」が存在することを記している。この「倭」は倭国の居留地あるいは集団での基地・租界地であったと考えられる。この居留地での倭人の目的は半島北部の後漢・魏の楽浪郡、帯方郡との朝貢・交易、加羅近辺で採れる鉄の生産活動であったとみられる。三国志弁辰伝によると「韓・濊・倭がこの地で鉄を取っている」とあり、倭は採鉱、選鉱、精錬、更には洛東江を経由して輸送・海上輸送まで組織的に行っていたとみられる。

2.国史「三国史記」と野史「三国遺事」の問題点

三国史記は720年成立の日本書記よりかなり後の1145年に成立したものである。三国についての記載内容の比重は新羅50%、高句麗35%、百済15%と偏っている。これは百済が663年、高句麗が668年、新羅が924年にそれぞれ早く滅亡し、史料が散逸したためとも考えられる。しかし問題点は、紀元年が百済、新羅については200年~250年史実より遡って延長されていること、新羅、百済王家の歴代の王の平均在位年数が、前期は25~30年、後期は16~19年と、日本の奈良7代平均10年、在位期間の確実な98人の天皇の平均14.2年と比べ異常に長いことなど多々見受けられることである。

「高句麗本紀」は中国史書からの借用・引用が多く、「百済本紀」は痩せ細っており、日本書記から補強が必要、「新羅本紀」は倭に関する記述が欠けている。最大の問題はいずれの本紀も任那と加羅についての記述がほとんどないことである。当時から任那と加羅についての史料を持っていなかったものと思われる。これも日本書記に負わなければならない。言いかえれば、朝鮮半島南部は長年日本の強い影響下にあったことを意味するのではないか。

野史「三国遺事」は1275年~1281年に「国僧」といわれた僧一然が撰考したもので、三国王歴、天変地異、仏教関連、古朝鮮(王倹朝鮮)の事など書かれている。その中に韓国・朝鮮の人たちの心の支えとなっている、建国神話の「檀君神話」がある。これは、恐らく高麗朝となりモンゴルから攻め入られた国難の時期に民衆を慰撫するために作られた民俗信仰に近い一種のお伽話であろう。肝心の三国史記にも一切書かれておらず、引用している中国の史記についても出鱈目である。

3.古代朝鮮、三国の歴史の真実

中国の五胡十六国時代、高句麗が南下を始め、343年に「丸都」に遷都し、強盛を誇る。同時期、346年に百済、356年に新羅が興る。南からは倭国の半島進出が始まる。倭軍は新羅の首都金城(現在の慶州)に8回にわたり攻め入る。このうち1回が神功皇后による「新羅征伐」とみている。その後、371年に百済王から倭国王に「七支刀」の献上が行われた。390年から407年にかけて倭国と高句麗が15年戦争を繰り返す。5世紀に入っても高句麗は更に南下を続け、427年には平壌に遷都する。同時に百済は高句麗に押されて衰退し、475年には首都漢城が陥落する。百済は倭国の完全な影響下に入ることになる。倭国は中国の南朝に対し、新羅、百済、任那、加羅に加え、慕韓、秦韓などの半島南部の地域の宗主国としての軍事権を主張している。

4.倭国と百済の出会い

倭国の百済との出会いは、371年、百済王家の13代目の近肖古王(346~375)が七支刀を神功皇后に献上した頃から始まる。日本書紀には、16代目の辰斯王(385~392)の時、天皇に対して無礼があったとして、倭国からの叱責の使者をうけて、王を殺害して詫びたとある。三国史記でも王は狩に出て失踪し死去したと書かれており、変事があった点で符合する。「書紀」は次の安華王は倭国によって擁立されたとしている。21代蓋歯王は弟昆支を倭国に人質として派遣。昆支の子東城王は雄略天皇に擁立されて百済王となる。既述の通り25代武寧王は461年に筑紫の加唐島で生まれたとされている。三国史記による百済王家の王統譜には、日本書紀に照らしてみると多くの誤りがある。なお、武寧王の太子(純陀太子)が同じく大和に人質として来朝した後,大和に帰化し、その10代目の子孫にあたる女性が桓武天皇の生母となったと日本側の系図に残されている。これが、百済の始祖王が高句麗の始祖王・朱蒙の庶子でもあるので、「日本の皇室に百済王と高句麗王の血が入っている」という説の真相である。なお、武寧王は、当時高句麗の進攻によって首都が壊滅的な状態にあった本国百済へは帰らず、大和に身を寄せた可能性もある。

5.倭国と戦った広開土王

三国史記の高句麗本記には倭国のことは一切触れていない。唯一残されているのが広開土王碑である。広開土王(好太王)は高句麗の17代目の王であるが、その息子で18代目の長寿王が父王を顕彰するため集安(現吉林省集安市)にこの碑を建立した。好太王碑には「倭」の字が11ヵ所も刻まれており、391年から407年までの倭国との15年戦争について記録が残されている。一方、この前後の「日本書紀」の記録には好太王碑と符合し、互いに補強する文字が残されている。394年「高句麗の遣使が差し出した上表文に無礼があり、宇治稚郎太子がこれを責めて表を破る」とあるが、これは日本書紀にある応神天皇の皇子「菟道稚郎子命(うじのいらつこのみこと)」のことである。恐らくは上表文に倭軍の朝鮮半島からの完全撤退を求める一節があったのではないか。408年「高句麗遣使が来貢し、鉄の盾、的を献ずる」とは前年407年に終わった戦いの講和の印としてこれらの品を献上したことを示すものと思われる。特筆すべきは、倭軍は敗れたといえ五万(多少誇張もあろうが)の高句麗軍と対抗しうる兵力を海を渡って遠征させるだけの軍事力、経済力、国力を当時既に保有していたことである。

6.神功皇后の新羅征討

倭国は新羅の王都金城(現慶州)に8回攻め入っている。このうち364年の征討が神功皇后の「新羅征伐」であるとみる。倭軍は新羅攻めに当たっては、迎日湾、浦項沖に船を停泊し、陸路近距離にある金城を攻撃した。倭軍の進攻の目的は任那・加羅の実質的な宗主国として新羅に圧力をかけること、及び、朝貢使の派遣要求であったと考えられる。

7.新羅使節の倭国訪朝

倭国の支配下にあった任那と加羅は562年に新羅によって滅ぼされるが、その後新羅は120年間にわたって倭国に使節団を40数回も送っている。しかし新羅本記ではそれが一切書かれていない。これら使節団の来朝を各天皇の年代別に訪朝目的(弔問、祝意など)、使節の官位を一表に纏めた(本邦初出)。興味深いのはこれら使節が時折追い返されていることである。追い返した理由は、天皇に対して非礼があったこと(恐らく、貢物が少ない、使節の官位が低いなど)。あるいは、当時新羅は既に唐の傘下に入っていたため、朝貢使節が「唐服」を着用して参内したところ、これを異様として咎められた、などである。特筆すべき使節団は、孝徳天皇、大化3年の「金春秋」である。この人物は当時、新羅17官位のうちの5番目の官位にあったが、後に新羅王にまでなる。訪朝目的は当時倭国の支配下にあった任那の調を廃す(従来、任那の朝貢品を新羅が代わって倭国に納めてきたが、孝徳天皇がこれを廃した)ことになったことへの礼意を示すためであった。後に新羅の国民的英雄となる金春秋がかつて倭国へ遣使として来朝したという事実を、多くの歴史学者は日本書記にあっても三国史記に一切記載がないことを理由に否定している。しかし驚くべきことに40数回にも及ぶ新羅使節の派遣が新羅本記には元々全く記されていないのである。これが史実であるかどうかは推して知るべしである。

8.任那と加羅

 三国史記には任那と加羅のことは一切書かれていない。僅かに新羅本紀に「太子が后を求めて来訪した」などと散発的に書かれているだけである。一方、日本書紀には圧倒的に多くの記載がある。任那は562年に滅びるが、その最終段階で百済で「任那復興会議」が2回開かれている。これは欽明天皇の依頼で百済の聖明王が主催し、生き残りの任那諸国を糾合し、新羅に如何に対抗するかという会議であったが、会議が終わる前に聖明王自身が戦死してしまう。高句麗の南下も続き、任那救済は頓挫した。一方、倭国も既に継体天皇が531年に没後20年程政情が乱れ、朝鮮に出兵できる軍勢は高々千名程度に縮小せざるを得なくなっていた。任那、加羅側も新羅の直接、間接の圧力によって内部崩壊が促され、562年に滅亡してしまう。

Ⅲ Q & A

Q:大平さんが古代史の研究を始められた動機は?

A:小学校高学年のとき歴史研究会に入り、古事記、日本書紀が完全に否定されたことへ疑問を抱いたこと。

Q:韓国の歴史学界の古代史の歴史認識は?

A:任那と加羅の存在は全く無視している。また日本の学者ですら日本書記の史実性を否定しているので、例えば百済本記は大部分日本書紀の記述により補完せざるを得ないにもかかわらず、日本書紀の研究を全くしようとしない。またハングル化により漢字が読めなくなり、三国書記などの漢字による古代史の研究が困難となっている。

Q:「天照大神=卑弥呼」すなわち、「大和朝廷=邪馬台国の正当な後継者」となるのか?また、記紀に「邪馬台国」に関する記述が全くないのは何故か?後漢書に「ヤマイチ国」とも書かれている意味は?

A:卑弥呼について三国志・魏志倭人伝、三国史記の年代記述と日本書記の天照大神に関する記述で年代がほぼ一致することから、当時倭国で権威を振るった唯一の「高位の女性」として両者を同定せざるをえない。魏書にある「邪馬台国」を「ヤマタイ」と読むのが本来間違いで、「ヤマト」と読むべきである。600年頃隋の使者が「ヤマト」にきてここは「ヤマト」であると言っている記録がある。歴史学界でも「ヤマタイ」の呼称を止めようとしている。音韻学的にも「ヤマタイ」と発音するのはおかしい。「ヤマイチ」は論外である。

Q:秀吉の朝鮮出兵でも軍勢の海上輸送に苦労したというが、その時代に数万の船隊を送ることが可能であったのか?

A:秀吉は慶長の役では朝鮮半島進攻のみならず最終的には明・北京をめざして、20万余の大軍勢を送ろうとしたため兵站の補給にも苦労した。一方、倭の時代の朝鮮出兵は短期決戦を主としたために軍勢、船団もそれほど大きくなかった。しかし神功皇后の出兵当時は数百隻の舟艇を保有していたという。むろんいずれも帆船を使用し風と潮まかせであったことには変わりがないが。

Q:戦後の歴史教育で、特に古代史と近現代史が歪められた。大平さんの主張を受け入れて日本の歴史学界が変わっていくことを期待したいが。

A:日本の歴史学界は縦割り・セクショナリズムに陥っている。考古学と文献学の相互乗り入れは許されず、文献研究者の発掘現場への立ち入りが許されないなどという事態になっている。大学でも教授に対して異論を唱えることも、昇進に影響するため許されない風潮がある。

Q:纏向編で桜井よしこ氏が賛辞をよせているが、経緯は?

A:出版社側で桜井氏に依頼したので、特に古代史について同氏と意見を交わしているということではない。桜井氏は「新しい教科書をつくる会」で活動しているが、変えようとしているのは近代史であり、古代史を変えようという動きはない。この本を献呈して批評を仰ごうと思っている。

  (記録:井上邦信)