第 3 8 1 回 講 演 録

日時: 平成221025() 13:0014:30

演題: 改めて福沢諭吉の先見性を考える ~福沢諭吉を巡る常識と嘘~

講師: 法政大学 キャリアデザイン学部 教授 笹川 孝一 氏

 福沢諭吉といえば、壱萬円札、慶応大学を先ず思い浮かべる福沢諭吉(1834~1901)は、慶応義塾の創立者として広く知られているが、生涯を通して行動力にあふれた多くの著作・言論活動を行い、我が国の各界に多くの影響を与えた。

その主張は時代を超え、今日においても十分通じる先見性に富んだもので、その足跡を改めて振り返ってみることは、大いに意味があると考えられる。福沢誕生の時代背景と、主な著作・言論活動、政治活動ついて、笹川先生に解説して頂いた。

(注)1時間半の講演時間では、説明を尽くせない点もあり、講師のご了解を戴いて加筆した部分もることをご了解ください。

1.このような人物が誕生した背景

幕末から明治新政府誕生という混乱期に、なぜこのような稀有な人物が登場したのだろうか。諭吉は1834年に商業の中心地である大阪に生まれた。父は、大分県の一部である「中津藩」の下級武士である福沢百助。諭吉が満二歳のときに父がなくなり、一家は中津に戻り、経済的に楽でない生活を送った。当時の中津藩は、江戸幕府の九州統治の中心であった日田と、オランダおよび清との貿易拠点の長崎と、大阪と博多とを結ぶ陸上交通、瀬戸内海の海上交通の交差点にあり、様々な文化が交錯する土地であった。キリシタン大名大友宗麟の領地であることから蘭学も盛んで、「解体新書」で有名な前野良沢も中津藩医師である。このような環境の下で、父、兄と共に帆足万里一門の師について漢学、特に朱子学について実学を学んだ。その後、中津での門閥への反発もあり、学者として身を立てるという決意で、長崎に出て蘭学の本格的な勉学に入る。そこで江戸から来ていた蘭医の友人に誘われて江戸に出て修行を続ける決心をした。その途中、当時の蘭医として最高の水準にあった緒方洪庵の「適塾」に入門。福沢は「適塾」で三年半修行したが、慶応義塾の原型は適塾にあるとしばしば言われている。ここで、解剖学を含む医学、生理学修行、窮理学を含む基礎科学を学んだこと、塾の自由な雰囲気の中で育ったことが、後に福沢自身が江戸で塾を開いた際に、研究教授内容、経営方法に大いに影響を与えたことは確かである。当時名声の高かった緒方塾で「塾長」となったことが江戸で知られ、江戸中津藩・中屋敷で蘭学塾の教師となる。1858年は、「日米修好通商条約」が調印された年で、福沢25歳のときであった。イギリス人、アメリカ人、インド人などが多数集まる横浜で、得意のオランダ語で話しかけてみるが、通じなかったことにショックを受けた福沢は、オランダ語、蘭学修行がそうであったように、英語、英学の修行を殆ど独学に近い形ではじめる。

この年、江戸幕府は条約批准のために、使節をアメリカに派遣することになった。アメリカ行きを希望する福沢は、伝を頼って、軍艦奉行の「従僕」として横浜からサンフランシスコ経由でワシントンに行き、約半年後に帰国。幕府の「外国奉行支配翻訳御用御雇」の職に就く。翌61年幕府「遣欧使節」の「翻訳方」としてフランス、プロシャ、ロシア、ポルトガルを歴訪、一年後に帰国。幕府解体前の67年、幕府がアメリカに建造を依頼した軍艦引取りの一行に加わり渡米した。江戸時代末、幕府は留学生をオランダ、イギリスに派遣。また、島津藩、鍋島藩、毛利藩なども独自に留学生をイギリスに派遣していた。しかし、自ら志願して実現した福沢の三回の渡米、渡欧は当時として稀有なものであった。

2.福沢諭吉の主張と行動

多岐に亘る題目に及んでいるので、今日我々から見て参考になるものを、著作「学問のすすめ」、その他を参考にして纏めてみる。

2.1「慶応義塾」の誕生まで

中津、長崎、大阪、江戸、欧米と漢学、蘭学、英学の修行をすることによって、藩の塾を経営しながら、幕府の外交専門員としての地位を占めるという「出世」を実現した。この福沢自身のように、身分の上下にとらわれず有用な人材を養成し、抜擢することが当時の福沢の考えであった。この段階では、福沢の視野には一般庶民即ち「民」は入っていなかった。緊張した国際関係の下、福沢は外交文書の翻訳を行った。そこで西欧諸国の理念として国家同志の対等性と砲艦外交の現実、国内改革の遅れ、日本国内の世論の分裂が西欧諸国の介入の口実を与え、植民地となる危険性を肌で感じた。自分の見聞や購入してきた書物などに基づき、1866年にベストセラーになった「西洋事情」、67年に「西洋旅案内」などを出版し、西欧の議会、学校、病院、郵便制度など主に社会制度を紹介、一躍著名な洋学者となった。日本を含む中華文化圏では、士大夫を中心とする統治者としての「人」と、被統治者としての「民」を合わせた「人民」を「people」の訳語とし、これまでの幕府主導で「人民」を養成するという改革シナリオを放棄し、この人民教育を通じて日本の文明開化を実現しようと決心した。これは、市民社会、市場経済、近代科学、近代産業を日本に作り出し、それによって、欧米諸国と対等な関係を作り出そうという戦略であった。このような戦略転換が可能だったのは、福沢の見聞、学識、自立に向けた主体的努力と第二回訪米の帰国時の一方的な謹慎処分という被蹂躙体験と共に、英学という先端学問の学者、ベストセラー著作者となったことにより、幕府や藩に頼らずに自立する経済基盤が出来たことにもよる。謹慎処分が解けた1867年12月芝の武家屋敷を買い取り、翌「慶応4年」2月、「義」のために、また「義」によって創立された福沢諭吉の私塾、「慶応義塾」が発足する。

2.2実業論と基礎研究を重視した実学論

「方今我が国の形成を察し、その外国に及ばざるものを挙ぐれば、曰く学術、曰く商売、曰く法律これなり。三者挙がらざれば国の独立を得ざること識者をまたず」(学問のすすめ第四編)「商売勤めざるべからず、法律議せざるべからず、工業起こさざるべからず、農業勧めざるべからず、著書訳術新聞の出版・・国全体の力を増し、かの薄弱なる独立を移して動かさざるべからざる基礎に置き、外国と鉾を争っても豪も譲ることなく・・」(第五編)。このような実業論に対応するものとして、福沢の実学論は位置づいている。福沢の実学論はまず、「人間普通の用に近き実学」である。

2.3政府と人民との同等、国と国との同等

福沢は、個人と個人が同等であり、国内にあって人民と政府が同等であるように、国と国との関係も同等の関係にあるという。国とは人の集まりたるものなり。日本国は日本人の集まりたるものなり、英国は英国人の集まりたるものなり。日本人も英国人も等しく天地の間の日なれば、互いにその権義を妨げるの義なし。・・今世界中、貧富強弱は国の有様なれば、固より同じかるべからず。・・我が日本国にても、今日の有様にては西洋諸国の富強に及ばざるところあれども、一国の権義において厘毛の軽重あることなし。(三編)

2.4人民と政府との契約論、法の遵守と政府の権力、専制政治論

「政は国民の名代にて、国民の思うところに従い事をなすものなり」。「その職分は罪ある者を取り押さえて罪なき者を保護するより他ならず」(六編)。この観点からすると、「国民」は二重の役目を持つ。一つは政府を立てて政府の費用を負担し、政府に対してものをきちんと言うことである。「人民は政府の定めたる法を不便なりと思うところあらば、遠慮なくこれを論じて訴うべし」(六編)。もう一つの役目はそのことを前提にして、法を遵守することである。「固く政府の約束を守りその法に従って保護を受くることなり」、「我が日本にては政府の権威盛んなるに似たれども、人民ただ政府の貴きを恐れてその法の貴きを知らざるものあり」(六編)。専制政治が行われてきたのは、人民自身が政府との契約、法の遵守、政府の権威の由来を理解せず、ひたすら系譜の権力を恐れ従ってきたからだと批判し、そうならないためには、人民自身が賢くなることだと強調している。

2.5伊藤博文との関係

2.5.1伊藤博文による明治国家の転換

1881年「北海道開拓使官有物払い下げ事件」という大規模な汚職事件が明るみに出た。国民の不満が高まり、国会開設を求める自由民権運動の引き金になった。政府内進歩派の大隈重信は、国会即時開設を公約に掲げ、人気を博した。これを見て同じく解明派リーダーであり、後に初代内閣総理大臣、朝鮮統監となる伊藤博文は、①国会即時開設という不可能な公約は社会混乱をもたらす、②大隈人気の中で、自身が政府から追い出されるのではないかという二つの不安から、大隈の辞任を引き出した。それ以後、1889年の大日本帝国憲法制定、翌90年の教育勅語公布に向かって、開明的専制君主の下で首相が改革を進めるプロイセン(ドイツ)型の国家形成を目指し、自由民権を弾圧した結果として国内守旧派と妥協して「一身の独立」とは正反対の、福沢が「学問のすすめ」で批判した旧い道徳の復活を容認する。

2.5.2福沢の軌道修正

こうしたなかで、福沢の著作も軌道修正を余儀なくされる。一つは現実的な議論への踏み込みである。現実の西欧諸国が言葉としては人権、権利、文明と言っても現実には「砲艦外交」という力で決着をつける時代、文明と言っても「文明の入口」に過ぎない時代なので、「正道」だけでは対処しきれないと、対外的危機感を表明。そして独立の維持のためには、必要あればあえて「権道」を採ると宣言する。この危機感と関連して「ミツズルカラス」としての元武士である「氏族」における文化伝統の力を評価する。改革の担い手という観点から庶民のための教育と中産階級の教育との区分けを導入し始めたことは否定できない。

2.5.3伊藤を許さなかった福沢

福沢は、「帝室論」で天皇に政治的実権を持たせることに間接的に反対している。西欧諸国の例を挙げながら、「帝室」は学問や芸術、産業や技術の発展のためのサポーターの役割を積極的に担うことを期待している。この時期、福沢は「日本婦人論」、「男女交際論」、「日本男子論」など一連の道徳論を集中的に刊行する。その中で、男性も女性も人間である点では変わらないのにも関わらず、日本女性が身体的、精神的に抑圧されていると現状の批判を行っている。このような男女交際の有様、精神の交わりに興味が少ない男性のあり方、抑圧されて伸びやかになれない女性の多い社会では、西欧諸国と太刀打ち出来ないと述べている。この時期、福沢がこのような道徳批判を行ったのは、かつては進歩派リーダーとされ、1881年以前は福沢にも何かと協力を求めてきた伊藤が、明治維新の理想を投げ捨てたと判断したからである。福沢は、文明社会=「一身独立一国独立」社会と描いていたが伊藤が選択した国家像、道徳イメージは正反対の方向にあった。加えて、伊藤らが、いわゆる「花柳界」に頻繁に出入りしていたからでもあった。

2.6福沢と朝鮮の関係 (注)今年は1910年日韓併合から100年経過の年である。

福沢が朝鮮に対して関心を向け始めるのは、1875年の「江華島事件」のときであった。福沢が和議を主張した根本的視点は、日本を開国させたアメリカと日本の条約が日本の鎖国を打ち破り、日本の近代化を進めるインパクトになったという評価であった。ここから福沢は江華島事件が朝鮮の開国を実現し、朝鮮の近代化の第一歩になると見ていたのである。アヘン戦争以来既に英仏等に侵食されていた清のように、朝鮮もまた西欧諸国の支配下に置かれるとすれば、日本は孤立化し、独立の維持が極めて難しい。こうした判断から、「清、朝鮮」の近代化を支援し、清、朝鮮、日本の連携によって、東アジアを西欧諸国の支配から独立した地域として維持し、発展させようと考えた。

2.6.1金玉均らとの交際、慶応義塾への朝鮮人留学生受け入れ

福沢と朝鮮人との具体的な付き合いは、金玉均およびその周辺の人々との接触から始まる。明治維新から刺激を受けたとされる金玉均は、李東仁を日本に密航させた。彼は、東京で福沢の世話になりながら数ヶ月の日本視察をした。金玉均は、翌82年に初来日し福沢宅に逗留した後、壬午事件の事後処理のために来日した朴泳考代表団の案内役として再来日し、福沢と再会する。日本を直接見聞し、福沢と金の関係に影響を受けた朴は、帰国後30名ほどの留学生を慶応義塾に送った。このように福沢との関係を深めた金、朴の開化派は、日本政府からの借款によって改革を促進しようとしたが、伊藤博文ら政府中枢の賛成が得られず、1884年12月に所謂「朝鮮独立党」のクーデターに打って出る。数日間政権を掌握するが、袁世凱指揮下の清朝駐留軍に敗れ、日本に亡命する。

2.6.2朝鮮独立党の処刑と脱亜論

福沢は、クーデター失敗後首謀者およびその家族が処刑された惨状を知り、許しがたい野蛮な行為であると激しく非難した。そしてそれから三ヵ月後の1885年3月に有名な「脱亜論」を書く。脱亜論で福沢は次のように言う。西洋からやって来る文明は、武力、工業、商売が強力だからというだけでなく、人々の生活に利便性を与え、人々の独立を促すので、この動きに逆らうことは出来ない。そうである以上進んで文明を取り入れる必要がある。日本の場合は、明治維新によって旧いアジアに属していた江戸幕府を壊し、文明の道を歩み始めている。これに対して「支那朝鮮」即ち愛新覚羅氏の清国と李氏の朝鮮国は旧いアジアに固執して文明の道に入ろうとしないので、このままではその独立維持は難しい。日本は、「支那朝鮮」と共に歩みたいと考えてきたが、「支那朝鮮」が旧いアジアを脱して文明の道を歩む意志がないならば、日本は独り文明の道を歩む以外はない。その場合、隣国であっても西欧諸国に対するように、清帝国とその下にある朝鮮王朝に対せざるを得ない。この「脱亜論」はしばしば日本による朝鮮侵略を推進、肯定したものといわれるがその評価には慎重さが必要であろう。というのは、福沢がここで「脱亜」といっている「亜」即ちアジアは、旧いアジア、専制政治のアジア、「独立の気力」のないアジアであってアジア一般ではないからである。この後、福沢は「朝鮮」は滅ぶべきだという趣旨の発言を行うようになるが、ここで言う朝鮮は、「朝鮮王朝」即ち李王朝である。それは「徳川幕府」と同じ、歴史的産物としての「朝鮮」であって、徳川幕府の後に文明主義をとる明治政府が出来たように、「朝鮮王朝」の後には、文明を推進する新たな朝鮮半島国家が誕生することを想定した上での「朝鮮王朝」不要論である。(注)ちなみに、「脱亜入欧」という四文字熟語は笹川先生の知る限り、福沢によってはまったく使われていない。後世の人の創作と考えられる。

2.6.3金玉均の暗殺と日清開戦

脱亜論が、金玉均、朴泳孝政権崩壊から来る落胆と、朝鮮王朝による前近代的事故処理に対する憤りによるものであることは、明らかである。伊藤博文を中心とする日本政府は、クーデター政権崩壊後の朝鮮政府との関係を重視して金らの国外追放を求め、朴がアメリカに行った後も、福沢は日本に残った金の世話を続ける。1894年、金は袁世凱の上司である李鴻章が上海で面会を求めているという手紙に誘われた。行けば殺されると主張する福沢をはじめとする周囲の反対を押し切って、金は上海に行って暗殺された。その遺体は朝鮮政府によって「処刑」され漢城(ソウル)に送られ、バラバラにして晒された。その報に接して東京で葬儀を行い、「時事新報」は、社説で「東洋の偉人逝けり、志士仁人身を殺して仁を為す」と金を讃えた。この金玉均暗殺を一つのきっかけとして、福沢は、背後にいる清朝を倒さなければ朝鮮の文明開化は進み得ないとして日清開戦論を唱え始め、戦費調達キャンペーンを開始する。同時に朝鮮改革のために日本流学生受け入れの提案をした。

2.6.4保護国化反対と朴政権支持

亡命先のアメリカから朴泳孝が朝鮮に帰り改革に着手すると、保護国化、植民地化に反対して「朝鮮独立」を支持した。そして、「大朝鮮国国学部大臣」との間で慶応義塾への留学生受け入れの契約を結び、それ以前の114名に加えて、その後200名以上の留学生を受け入れたといわれる。閔妃による朴の追い落とし以後、亡命してきた朴の世話を知る一方、その後に生じた閔妃暗殺に対して、「事の真相を明らかにすべし」という論説を書き、関係者の処分を主張した。即ち、漢城在住の日本人が関与したことは「疑いのない事実」なので「他国人の身にて、斯くの如き容易ならざる企てなどに加担するとは実に怪しからぬ次第にて我輩の赤面に耐えざる所」として「関係者を悉く厳罰に処して満世界に事の真相を表白」すべきと述べた。

2.6.5求められる福沢の清、朝鮮論の慎重な検討

この事件からおよそ3年後の1898年、福沢は脳溢血で倒れ、回復はするものの、その後は隠居生活に入り、朝鮮関係についても目立った議論はしていない。福沢と朝鮮の関わりについては、既に述べたように様々な評価がある。朝鮮独立を支持した福沢、日本の明治維新モデルを押し付けた福沢、朝鮮植民地化中国侵略の先兵としての福沢、など様々な福沢論がある。福沢と朝鮮の関係についての研究は今後益々盛んになっていくだろう。なぜならそれは、日本と韓国、北朝鮮、中国、台湾、香港等を含む東アジアの近代化と今後を考えて避けて通れない作業だからである。その際に重要なことは事実に即すること、時代の中でそれを評価することだと思う。

質疑応答:

Q1.今回の講演と直接の関係はないが、歴史認識とは何か、どう考えたらよいか

A1.今の韓国と中国は一緒に出来ないと思う。韓国は今はこのことについてあまり言わなくなった。韓国のナショナリズムは外に対して内を引き締めるところがある。ノムヒョン時代が厳しく親日狩をやった。ただし、その世代は日本統治の経験がない。関接情報しかなく、実際日本に来てみて、在日がこんなにいるとは知らなかったなど日本についてまったく知らされていなかったことを驚いている。別の観点から見ると、自分たちより下の人間に支配されたのが不甲斐なく、許せないという気持ちもある。中国、朝鮮、日本という長年のランクがひっくり返った事が許せないのである。今はオリンピック、ワールドカップなどを経て、すっかり自信を持った。   中国は、国内格差が大きいのが深刻な問題だが、政府批判は出来ない。日本を   批判していれば反米より安全。心理的には日本は中国より下と感じている。   共産党、軍は利権がらみもあって、大きい国家がいい国家としている。市場経済を伸ばすためには、分権化が必要とは分かっているだろうが、口にすればゴルバチョフと同じくクビが飛ぶ。今の状態が長く続くとは思えない。20年くらいかな。

Q2.咸臨丸に乗り込んだりして活躍しているが、これはお金が入ってきて、言いたい   事が言えるようになったことによるのではないか。

A2.インドに立ち寄ったときの印象として、イギリス人の横柄、インド人の卑屈さに   触れ、自分もイギリス人になりたいと言っている。幕末、明治初年、地位も身分もなく緊張感を持って生きていたはずだから、ベストセラー作家になって食うに困らない余裕が出来たともいえる。どこに視点を置くかだろう。

Q3.福沢はかなりの大酒のみと聞いているが。

A3. 病気になってから止めている。暗殺を避けるために居あい抜きの稽古をしていたが、それも止めている。

(記録:藤木)