第 3 8 0 回 講 演 録

日時: 平成22年9月14日(火) 13:00~14:30

演題: プロ野球監督に見るリーダーの条件

講師: 慶應義塾大学 法学部 名誉教授 池井 優 氏


講師紹介

1965年慶應義塾大学法学部卒業、法学博士、専門は日本外交史。「六三制、野球ばかり強くなり」の世代として「ヤンキースタジアムでホットドッグを食べながら大リーグを見る」が少年時代の夢であった。1964年ニューヨークのコロンビア大学に留学し、その夢を果たした。以後、大リーグと日本野球に関心をもち、外交史と野球を結びつけた『白球太平洋を渡るー日米野球交流史』(中央公論社)、日本で活躍した外国人野球選手を追った『ハロー スタンカ元気かいー来日ガイジン選手列伝』(講談社)、『野球と日本人』(丸善)などを刊行した。

講演内容

1.男と生まれて一度はやってみたいもの

 男と生まれて一度はやってみたいのが、連合艦隊の司令官、オーケストラの指揮者、そしてプロ野球の監督であるという人がいる。三者の共通点は、①色々な要素を組み合わせて結果を出すこと、②結果が明白であること、③成功したあかつきには大英雄が誕生することである。

2.プロ野球の監督に必要な条件

① 野球というゲームを熟知していること

 プロ野球の監督たるものは野球のルール、選手の使い方、審判のクセ・性格、グラウンドの状況、ファンの気質など様々なことについて熟知していなければならない。例えば、135試合の長丁場では2勝1敗のペースで十分優勝が狙えるので、負けてもよい「捨てゲーム」で若手選手育成のチャンスを与え、全盛期を過ぎた選手に代打で花をもたせファンの期待に応えるなどの気配りができなければならない。アマチュア野球であれば、往年の明治大学の名物監督、御大・島岡監督のように応援団上がりで選手経験もなく、ルールに無頓着、勝つ意欲だけで相手を上回ることを重視し、打者にわざとホームベース上に手・肘を出させ死球を狙わせるなど、天衣無縫に采配を振う監督でも勤まるが。

② 決断力のあること

 先ず、1軍に上げる選手をどのように選ぶかの決断である。かつてイチローがオリックスの2軍のオールスターゲームで首位打者になるなど目覚ましい活躍をしているのに、土井監督は彼の独特のバッティングフォームからその才能を評価せず、1軍に上げないという判断ミスをした。その後イチローは仰木監督により1軍に抜擢され年間200本安打を達成する大打者となった。監督は先発メンバーの決定から始まって、代打か、代走か、バントか、ヒットエンドランか、投手交代すべきかなどについて常に決断を迫られる。その決断について結果責任を負い、解説者がよく口にする結果論的な批評にも耐えなければならない。

③ 包容力のあること

 プロ野球監督は、学歴、年齢、国籍などを異にする選手を掌握するために最も必要なことは「包容力」である。プロ野球で1千勝以上を挙げた監督は11人いるが、その中で一人だけ1度も優勝経験のない監督がいる。その監督の最大の欠点は自分の嫌いな性格の選手は使わないなど、包容力に欠けていたことである。

④ マスコミへの対応が巧みであること

 新聞、TVなどのマスメディアは監督のコメントの前後をカットし、特定部分のみを取り上げて書き、報道する。監督はそれを巧みに利用し、選手を意図的な辛口コメントやほめ言葉で鼓舞したりする。

⑤ オーナーの絶大な信頼があること

 巨人の川上監督に対する正力松太郎氏、ソフトバンクの王監督に対する孫正義氏のようなオーナーの高い信頼を得ることが必要である。オーナーが信頼していない監督は往々にして選手の信頼も得られない。監督に対するファンの人気度は必ずしも重要な要素ではない。日本では長嶋監督の退任時のようにファンから抗議の電話が殺到し、読売新聞、報知新聞の購読者数が減るなどの問題が起きたこともあったが。

3.三大監督のチーム作りと采配

 戦後日本のプロ野球を支えた「三大監督」と称されるのは,三原脩、水原茂、鶴岡一人である。三人の共通点は、①東京六大学のスター(三原・早稲田、水原・慶應、鶴岡・法政)であったこと、②「職業野球」と呼ばれ地位の低かった初期のプロ野球で苦労を重ねたこと、③兵役の経験(三原・インパール作戦、水原・シベリア抑留、鶴岡・九州高射砲部隊)があり、極限状況におかれた人間の生きざまを直に観察したことである。他方、三原は「魔術師」、水原は「勝負師」、鶴岡は「親分」という渾名で呼ばれるように、それぞれ選手の起用方法、試合の進め方などのチーム運営方針が全く違っていた。

① 三原脩・・・魔術師

自分自身が「魔術師」と呼ばれることを嫌っていた。むしろ「超二流選手」という言葉を好み、二流選手を一流選手に育て上げることに腐心した。西鉄ライオンズを率いていたころ、高卒ルーキーホームラン記録を作る豊田泰光が、打撃は一流、守備は二流であったのを攻守両面で一流遊撃手に育て上げた。次に移った万年最下位近辺で低迷していたヌルマ湯球団・大洋ホエールズでは、それまで28連敗ですっかり自信を喪失していた権藤投手を、試合ごとに投球回数を少しずつ増やし、勝利投手の権利を得たところで中継ぎに交代させて勝ち星を与えるなどして、自信を回復させ、監督就任のその年に12勝を挙げさせた。さらに、問題のあった遊撃手のポジションで、打撃はいいが守備の下手な麻生、守備は一流だが打撃の非力な浜中、近鉄から呼んだ野武士・鈴木武などの「超二流選手」を試合の状況に応じて巧みに起用した。そしてついにそのシーズンは巨人を下してリーグ優勝。さらに勢いを駆って、「ミサイル打線」を誇る大毎オリオンズと戦った日本シリーズでは予想を覆して第1戦から4連勝、前年リーグ最下位のチームを見事に日本一に導いた。三原が「魔術師」と言われるゆえんとなったエピソードとして有名なのは、日本シリーズ開幕の前日に組まれたTV番組で対戦相手の大毎の西本監督と対談する予定となっていたのを「巌流島作戦」流に事前に何の断りもなくすっぽかして、西本の神経を酷く苛立たせたことである。案の定、西本は翌日からの試合で普段の冷静さを失ってしまい、満塁でスクイズを強行しダブルプレーを喫するなどの采配ミスをし、結局1勝も挙げられずに終わった。その結果、三原魔術の犠牲者西本は、リーグ優勝したにもかかわらず、大毎の永田オーナーの逆鱗に触れクビになってしまった。

② 水原茂・・・勝負師

選手の起用で時折「大バクチ」を打つので「勝負師」といわれた。1955年、南海と対戦した日本シリーズの第5戦、巨人は1勝3敗で後がなかった。二塁の千葉、左翼の南村などのベテランは疲労の色濃く、このシリーズは南海に勝ちを譲っても仕方がないと言わんばかりの表情であったので、思い切ってこれらベテランを下げ、3番・捕手に藤尾、7番・左翼に加倉井、8番・二塁に内藤など20代前半の若手を起用した。このバクチが見事当たり、藤尾がいきなり本塁打を打って流れをがらりと変え、そこから3連勝し、再びシリーズ王者となった。この選手起用法は水原にとってはバクチではなく、選手の体調・精神状態をよく観察した上で計算された判断であった。水原はその後巨人の監督を川上に譲って東映フライヤ-ズの監督に就任した。当時の東映はバンカラ集団で、礼儀作法を無視した振る舞いをする選手が多かった。水原は先ず選手のユニフォームを上質の生地を使って誂えさせた。次に移動は従来の普通車からグリーン車に変え、選手にプライドを持たせた。自分自身もおしゃれで身嗜みに気をつけていた。野球についてもマナーに煩く、韓国遠征の時、一塁の守備でマナーに反するプレーをした大杉を観衆の面前で平手打ちしたこともあった。

③ 鶴岡一人・・・親分

「親分」と呼ばれたゆえんは,「情」で以て人を使う名人であったことである。ダブルヘッダー第1試合で凡ミスをした選手でも、第2試合で使い、その選手を意気に感じさせ、プレーさせた。また、外国人選手の扱い方が巧みであった。スタンカが来日した時は監督自ら空港に出迎え、家族の生活の面倒を見るなど細かな気配りをし、選手が野球に没頭できるようにした。1974年、南海が阪神と戦った日本シリーズで、阪神が3勝2敗で大手をかけた第6戦でスタンカが完投・完封、さらに第7戦でもスタンカが連投で阪神を完封、南海は日本シリーズ優勝となった。6、7戦で2試合連続完封は日本シリーズ史上初であった。むろん「情」だけでは監督は勤まらない。南海系のノンプロチームを育成し、有能なスコアラーを入れてゲーム・選手の分析に力を入れた。引退して米国に帰っていたスタンカを取材して書いた自著『ハロー スタンカ元気かい』を本人に贈ったことがきっかけとなって、スタンカと家族を日本に招くことになったとき、大阪空港に降り立ったスタンカと鶴岡が感激して固く抱き合った姿は忘れることができない。

4.三大監督に続く名将

① 川上哲治・・・中間管理職の活用

 「不滅の9連覇」を成し遂げた監督である。この空前絶後の偉業をなし遂げることができたのは、川上が自分の監督としての限界をよく知っていたからだといってよい。川上は現役時代には「打撃の神様」という異名をもち、打撃に関しては非常な努力家であった。しかし守備に関しては大変不安があった。一塁送球が高めの時にはミットを出さず捕球しようともしなかった。川上は監督になって、選手がそのようなプレーをしていたのでは、その選手が個人記録を作れても、チームとしての優勝は程遠いと悟った。当時デイリースポーツにいた中日OBの牧野茂が野球評論家として、どうすれば巨人がよくなるか評論をしているのを見て、自分にないものを持っていると感じ、巨人のコーチとして招いた。牧野は自ら希望してドジャースのキャンプに参加し、ドジャースの戦法 ―フォーメーションプレーで、いかに最少得点差で勝つか― を学んだ。例えば、相手走者一塁のときに敢えてバントをさせて、二塁で刺すフォーメーションや、外野への飛球の方向によって内野のフォーメーションを変えることなどを徹底し、守備を強化した。また打者の評価も、バントを2度失敗した場合は加重減点し、安打の加点と相殺するなどチームプレーへの貢献度を重視した。王が巨人に入ってきた時、王の打撃不振の原因がステップ開始の遅れにあると見て、外部から荒川コーチを呼んできて、打席で初めからステップをする、いわゆる「一本足打法」を完成させた。このように川上監督と、牧野、荒川の中間管理職の3者の指導体制が実を結んで、9連覇の不倒記録が達成された。

② 西本幸雄・・・愛情の鉄拳

 「野球の虫」といわれ、まじめで野球に関して全く私心がなく、オーナーによく思われようとか、マスメディアにゴマを摺ろうとかいうことは一切しなかった。選手の指導でも厳格で、あるとき先頭打者が「高めの球は絶対に振るな」という指示に背いたとして、試合中にいきなり鉄拳を喰らわせたこともあった(実は本人は監督が試合開始前に指示を与えた円陣には加わらず,既に打席に立っていたので、その指示は聞いていなかったのだが)。しかし選手からは厚い信頼をえていた。近鉄監督としての引退試合では、かつて監督をしていた対戦相手・阪急の選手も加わって両軍の選手に胴上げされた。

③ 広岡達朗・・・クールな理論家

 野球に関して非常に詳しい理論家である。広岡の性格をよく表すエピソードがある。巨人時代の1964年に対国鉄戦で打席に立っていた時、三塁走者の長嶋がホームスチールをしてしまった。広岡は「こんな野球はない。自分のバッティングがそんなに信用できないのか」と川上監督に食ってかかり、試合終了と同時に帰宅してしまったことがある。広岡はアメリカの野球理論などもよく勉強していた。しかし彼の管理野球は妥協点が高過ぎ、選手がついて行けなかった。突撃隊長が後を振り向いて見たら兵卒は誰もついてきていなかったというタイプである。通算8年の監督歴の中で、ヤクルトや西武を率いて通算3回日本シリーズで優勝した実績があるが、退団する時はいつもケンカ別れであった。正論だけでは人はついてこない。

④ 野村克也・・・ID野球の指導者

 「ID野球」で弱小チームを勝たせる名将といわれる。3歳のときに父親が中国で戦病死し、勉強のよく出来た兄と二人、母親の手で育てられた。兄は大学進学をあきらめて就職し弟克也が高校に進学し野球の道に進むのを助けた。テスト生としてプロ野球に進むに際し、野村は巨人ファンであったのに、当時巨人には藤尾という名捕手がいたので巨人を敬遠し、他の球団で正捕手が30歳以上になっている球団を調べ、それに該当した南海、広島2球団の中から南海を選んで入団テストを受けた。下積みを続けていた野村に運が向いてきたのは入団して3年目、ハワイ遠征をした際、正捕手が年齢的に衰え、次の控え捕手も夜遊びの不品行で鶴岡監督の逆鱗に触れて外され、3番目の野村にお鉢が回ってきて、その才能を認められる機会をもらったときからである。野村はその後南海一筋に活躍したが、サッチーとの不倫問題で南海を辞めざるをえなくなった。その後ロッテ、西武などを転々とし、野球解説者をしている間に、捕手の眼から見た投手の配球の妙、球種による投手の癖などをじっくり観察しデータを積み上げた。そしてヤクルトの監督に就任しID野球の花を咲かせることになる。野村のID野球は南海でプレーイング・マネジャーとして監督をしていた時起用したヘッドコーチ・ブレーザーの指導方法にも因っている。味方が1点差でリードしている守備で9回裏2死満塁、カウント・ツー・スリーで次に投げる球はどうするか?ブレーザー曰く、それはキャッチャーのサイン通りの球でもなく、自分の一番得意の球でもない、二塁への牽制球である。その時二塁走者は牽制に対して警戒心を怠り、あわよくば本塁を奪って逆転勝ちしようとリードを大きくとるのでそこを刺す。三塁走者はヒットでもフォアボールでも容易にホームインできるのでリードを大きくしないから、牽制は効かない。野村はこのようにして磨いた頭脳野球を、ヤクルトや楽天の若手選手に徹底的に教え込んだ結果、これら弱小球団の野球の成績を見事に向上させることになった。阪神監督として不成績に終わったのは、選手たちがタニマチにちやほやされ、ハングリー精神に欠けていたことにある。野村は勝つために必死になって野球をするハングリーな選手を他球団から引き抜いて入れるなどの抜本策が必要と提言。交代した星野監督はその通りに広島の金本を四番打者として迎え入れ、優勝できる球団とした。

5.今後の監督像・・・大リーグに近づくか

① 現役時代の実績は無関係

 有能な監督であるかどうかは現役時代の実績とは無関係であるというのが大リーグの監督像である。監督の能力はマネジメント、つまり選手の力量をいかに引き出すかで決まる。かつてスーパースターであった監督はえてして選手のプレーを自分と比較し、欠点ばかりが目につき、長所に気がつかない。大リーグの現在の監督の平均年齢は49.5歳,現役時代の平均打率は2割4分5厘で、ほとんどが平均以下の平凡な成績しか残していない。面白いのは日本での選手経験のある監督が意外と成功していることである。日本帰りのうち、マニエルのようにフィラデルフィア・フィリーズを率いてワールドシリーズで優勝させた監督もいる。彼は6年間の日本での異文化体験がプライドの高いスター選手や、外国人選手、一軍・二軍の狭間にいる選手たちを使うのにとても役立ったといっている。

② 二軍監督の経験者

 日本ではスター選手が現役のユニフォームを脱ぐと直ぐに監督になることが多い。しかし米国では1A→2A→3Aとマイナーリーグの監督経験を積み、監督たるものはどうあるべきかじっくり学んだ上で、メジャーリーグの監督になることが多い。

③ 解説の経験者

 野村説で、解説者はネット裏から野球を大所高所から観察し、分析することができるので監督に向いているという。

外国人監督の増加

 かつてのような「絶対の監督」がいなくなった現在、サッカーのように外国人監督を呼んでくることが多くなるであろう。そのためには野球を熟知した英語の分かる通訳とコーチが必要であるが。かつて1975年に広島カープが初優勝できたのも、ジョー・ルーツ監督を呼び、ヘルメットの色を真赤に塗り替え「赤ヘル軍団」としてチームの意識を戦闘集団に造りかえるなど、外国人監督でなければできない発想で改革をしたことが奏功したためである。

Q&A

1.原監督の評価は?

 人柄のよさでチームをまとめる才能があるといえるが、尾花投手コーチが去った後、投手起用に問題がある。監督としての力量はB+。

2.落合監督の評価は?

 選手時代の打撃のセンスは天才的であった。監督としても選手からの評価は高い。しかしマスメディアへの対応は非常に悪い。2007年の日本シリーズ、1-0中日リードで、8回まで完全試合ペースで好投していた山井を非情にも大記録達成となる最終回直前で降ろして岩瀬に代えてしまったとして多くの非難の声が上がった。しかし、これは山井の能力・疲労度などから山井が既に限界に達していると見た落合が合理的な計算のうえ下した正しい決断であったといってよい。総合評価はA-かB+。

以上

(記録:井上邦信)

追記:  池井慶應義塾大学名誉教授の慶應義塾大学150周年記念名講義「戦後日本外交の展開とスポーツ」が下記サイトで、動画でご覧になれます。ご参考まで
http://ocw.dmc.keio.ac.jp/j/meikougi_3.html