第 3 6 5 回 講 演 録


日時: 平成年5月26日(火) 12:30~
演題: 橋にまつわる物語 ~昔の歴史から現代先端技術まで~
講師: 開発技建株式会社 代表取締役社長 技術士 花市 頴悟 氏

 「橋にまつわる物語 ~昔の歴史から現代先端技術まで~」という演題で開発技建(株)代表取締役社長 技術士 花市 頴悟氏の講演があった。合わせて、氏のご専門の立場から、皆さんにぜひ関心を持っていただきたいとの思いで、ハイドロプレーニング現象に関するご説明が追加された。今回の講演の実施にあたり、花市氏と高校時代の仲間である会員横田善次氏に多くのご支援をいただいた。こちらの希望を受けて、映像を中心に詳細な準備をしていただき、大変有益な講演であった。以下にその要点を報告する。

Ⅰ.橋にまつわる物語~昔の歴史から現代先端技術まで~

1.橋の歴史

イ.木橋 西洋では、極めて少ない。木材は耐久性がないので、錦帯橋は架け替えながら今日に17世紀創建当時の姿を伝えている。島田市の大井川に架かる蓬莱橋は世界最長の木橋としてギネスブックに認定されている。

ロ.石橋 耐久性は大であるが、大きな荷重が載ると割れやすい欠点がある。

この欠点を克服したものがアーチ橋。17世紀に完成した金沢城兼六園の虹橋は5mの長さを持つが、上に反っているためアーチ橋として機能しており、大勢の人が乗っても折れない。

ハ.石造アーチ橋 紀元前4000年ごろメソポタミアで建設された。現存する最古のものは、ローマ市内のテヴェレ川に現在四つ残る。そのうち古いものとしてはポンテファブリチオ橋(BC62年)、チェスティオ橋(BC43年)がある。そのどれもが石造りアーチ橋で、2000年近く前につくられた橋が今も使われている。その上を自動車が走っている姿をみると、ローマ人が優れた技術を持っていたことがわかる。ローマ帝国の発展は道作りにあり、高度の技術を持って次々と橋梁建設が進められた。

プラハには、ブルタバ(ドナウ)川に1380年代カールス(カレル)橋が完成し、ローマやコンスタンティノーブルと並ぶ中世ヨーロッパ最大の都市まで急速に発展した。「黄金のプラハ」と形容されるほどだった。カールス橋の両側の高欄に30体の聖人彫像、群像があり、その多くはバロック様式である。この橋を模したものは、釧路の幣舞橋に例がある。橋脚上には日本を代表する4人の彫刻家が製作した裸婦立像「道東の四季」を設置し、春・夏・秋・冬を表現する「四季の像」を配し、エキゾッチクな香りを漂わせている。石造アーチ橋は長崎市内の眼鏡橋が1634年に建設されている。江戸時代、中国(明)から技法が伝えられた古いもので、我が国最古の石造アーチ橋である。川面に写るその姿から「めがね橋」と親しまれてきた橋である。1960年に国の重要文化財に指定された。長崎の石橋のなかで本物の石橋はこの橋と桃渓橋と袋橋のみである。

ニ.近代的橋梁 産業革命による鉄の大量生産が可能になって鉄橋の技術が発展した。アイアンブリッジ(イギリス、1779年、安政9年)は、何世紀にも亘って造られてきた木や石の橋で蓄積された構造技術を踏襲したもので、石造アーチの形に倣い、鋳鉄製のアーチリング5本で構成されたアーチ橋である。鋳鉄総重量380トン。この量は当時の高炉生産量の三ヶ月分に相当するといわれる大量の資材を投入した。ハーバーブリッジ(オーストラリア、1932年)。当時、世界最長級のアーチ橋として建設された。4線の鉄道と6車線の道路を有し、これまでの長大橋で最も広い幅員49mとなっている。橋の両端に存立する塔は床幅の両端に独立しており、アールデコ風の20世紀のものである。

2.吊橋の歴史

イ.原始的吊橋 蔓や蔦などの自然植物を渓谷に張り渡しただけの原始的な吊橋が紀元前3500年頃には南米や東南アジア地域に既にあったと考えられている。原始的吊橋は、モノケーブルの「綱のわたし」、「籠の渡し」などから始まって、やがて3本ケーブルの「V字型断面」、4本ケーブルの「U字型断面」の吊橋へと変遷していった。我が国でも徳島県祖谷に「祖谷のかずら橋」が残されている。長さ45m、幅2m、水面上14mに架けられたU字型吊橋。

ロ.近代的吊橋 吊橋は僻地の未開人が利用する危険きわまりない原始的な構造物という認識であった。原始的な吊橋はケーブルと床材が一体となって挙動するため、荷重の加わった箇所は大きくたわみ、人が渡るので精一杯であった。近代的吊橋は、ケーブルと橋床部が分離したことで橋床部は平らになって、大きく進歩した。産業革命以後、主ケーブルはこれまでの動植物系の繊維から鉄が中心になり、吊橋は大きく発展することになる。ケーブル材料に鉄の鎖(リンクチェーン)を採用したことで耐用年数を何十倍も伸ばした。

日本では、隅田川に架かる清洲橋(昭和3年)に、落橋事故が続いた細長い鉄板をピンでつないだアイバーチェーン吊橋があるが、設計法は確立していたので、イギリスのような風で揺れたり、落橋の心配はない。

3.橋梁工学発展途上の事故

イ.風荷重の認識 テイ橋の悲劇(イギリス、1878年、明治11年)、当時世界最長の橋(橋長3,264m)、85径間のうちの73,5m*11、68m*2の13径間の連続トラス桁が30mの風で列車が通過中に乗客75人とともに落橋した。この事故を契機に、橋梁設計時の風荷重の重要性が認識され、橋を設計するときに風の影響を考えるきっかけとなった。

ロ.座屈現象 ケベック橋(カナダ、1917年、大正6年)。世界一を狙ってフォース橋よりも細く、軽い部材を用いて極力使用鋼材を最少化した経済的な構造となっていた。その結果、架橋工事最終段階で圧縮部分が座屈を起こし、全体が落橋した。再建された橋は、当初の2.5倍の鋼重となり、安物買いの銭失いとなった。この事故で座屈現象の認識とともに設計法が確立された。

ハ.風による振動 タコマナローズ橋(アメリカ、1940年7月)。新しい吊橋設計理論「撓み論」によって極限の経済性を追及した設計された華奢な橋の最たるものとなった。開通してわずか4ヶ月後、早朝から17mの風によって揺れ始め、しかもたった風速19mに達した途端、上下に揺れる曲げ振動から、大きく捩れるように揺れる捩れ振動に移行し、その後約1時間の抵抗も空しく、その振幅が増大していく発散振動の過程で、主径間中央部の補剛桁から座屈が始まった。これは経済設計がもたらした悲劇である。この悲劇を繰り返さないため、以後風による振動現象が風洞実験により検証されるようになった。

ニ.歩行者による共振現象 ミレニアム・ブリッジ(イギリス、2002年)。21世紀を迎えるということで、イギリスのミレニアムプロジェクトとして計画されたもののひとつがテームズ川に架かる歩行者専用の吊橋ミレニアム・ブリッジである。竣工前から、この橋は「美しい」「優雅だ」「古典の風格がある」と讃えられていたが、吊橋とは思えない斬新なデザインであった。2000年6月10日に西暦2000年を記念してオープンした。竣工式はエリザベス女王も臨席、20,000人の人が集い、賑々しく祝われた。式典が終わり、共用開始となって大挙して人々が渡り始めると、たちまちにして思いもかけぬ悲鳴が聞こえた。歩行者により橋桁が横に揺れ、その振幅が数センチに達したため、危険と判断されて、2日後に閉鎖された。歩行者による共振現象の事故例は古くから知られており、古典的な力学解析で既に解明されていることをイギリスのArup社という世界でも有数の設計コンサルタントの技術者が見逃してしまった。横揺れ防止策を施して最大約2,000人の歩行者による揺れテストなどが行われ、ミレニアムから2年遅れて2002年2月22日開通した。

4.ブルックリン橋に見る交通体系の変遷 ブルックリン橋(アメリカ、1883年、明治16年)。近代吊橋の出発点として記念碑的な吊橋となっている。

以後時代の要請で次々と規模が大きく、長大化していく。主塔は石造りの主塔で、ゴッシク調の荘厳なデザインにされている。マンハッタンの摩天楼を背景とした石造タワーのブルックリン橋は、もっともニューヨークらしい風景の一つと言われる。茶系統の重厚な石塔として最後のものとなり、以後の吊橋はスチールタワーに変わっていく。ブルックリン橋断面構成の変遷は、その時の交通体系の変遷に伴い、馬車時代、鉄道時代、自動車時代によって使い方が変わっていく。

1883年完成時は鉄道2線+馬車道4線+歩道(馬車時代)。馬車が全盛の時代で、ニューヨーク市内では1日に馬糞1250トン,尿227立方米も発生し、ハエなどによって伝染病の流行原因となったとも言われている。

1898年の断面は鉄道4線+自動車2線+歩道(鉄道時代)。鉄道が隆盛な時代で路面電車2線を追加して4線、フォードのモデルT型車の登場前であるが、自動車片側1車線上下2車線を確保している。

1952年の断面はモータリゼーション(自動車時代)の進展によって、すべての軌道が廃止され、自動車上下6車線、その際補剛トラスの構造も変更され、現在の姿になった。

1869年大陸横断鉄道が開通。1916年には全米で路線延長は40万kmのピークに達した。1920年代になると米国の鉄道建設は止まり、1930年代になると鉄道路線の廃止が始まり、第二次大戦後の1945年には鉄道は貨物中心となり、現在では約半分の20万kmの路線延長になってしまった。旅客輸送の中心は自動車と飛行機に代わっている。鉄道時代から自動車時代へと変遷する過程で強力に自動車への転換を図った出来事があった。1930年代から40年代にかけて自動車のGM社と石油のスタンダード・オイル社とタイヤメーカーのファイアストーン社3社が手を結び、全米の電鉄会社の乗っ取りを進め、それらの路線を後に次々と廃止していった。1946年米司法省により、公共交通機関の廃止を操作したとして摘発されたが、少ない罰金刑で済み、全米の電鉄システムは衰退の一途を辿った。GMはその後全米一の超優良企業となったが、時代の流れをよみきれず今や破綻の瀬戸際にいる。

5.設計理論の発展

マンハッタン橋 (アメリカ、1909年)モイセイフが新しい撓み理論を最初に適用して設計、建設された記念すべき橋で、経済的で美しい吊橋の設計を可能にしたといえる。それまでの吊橋のスパンは500mが限界といわれてきた通弊を打ち破り、吊橋は長大化への可能性を一挙に拡大していく。

ジョージワシントン橋 (アメリカ、1931年)それまでの記録を一挙に2倍に伸ばし、人類始めて1000mの空間を一跨ぎした。吊橋の軽快さと優美さが復活。

ヴェザラノ・ナロウズ橋(アメリカ、1964年)アメリカの吊橋建設は、この橋の完成によって頂点を迎えた。中央支間長1298m完成によって1981年イギリスのハンバー橋が出来るまで17年間、世界一の座を守った。

ゴールデンゲート橋(アメリカ、1937年)モローの意見により自然との調和と霧の多いこの地域での視認性を考慮してインターナショナルオレンジという鮮やかな朱色(緊急事態を表す色でもある)が選ばれた。上下3車線づつ計6車線歩道付きで年間1,000万人以上の観光客が訪れる。

6.本州四国連絡橋

イ.吊橋支間長の変遷 日本での近代吊橋の歴史は、アメリカから約80年遅れて1962年(昭和37年)完成した若戸大橋(367m)に始まる。次いで中央支間長712m関門橋が建設され、1973年に完成した。その後、本州四国連絡橋が段階的に事業化され、因島大橋、大鳴門橋、備讃瀬戸大橋など順次規模の大きな吊橋が建設された。我が国の技術力、経済力の成果が80年以上遅れていた長大吊橋の建設が36年後には世界一の吊橋の完成となって実を結ぶことになった。

ロ.瀬戸内海の景観形式 我が国では最初の国立公園に指定された地域で、多島海景観と瀬戸景観に代表される自然景観との調和が課題であった。

ハ.地震対策 設計に配慮した地震規模は、太平洋プレート境界で150年に1回発生すが予想されるM8.5の地震を対象としている。1995年(平成7年)1月17日早朝、M7.2の兵庫県南部地震がその直下で発生。基礎にはこれだけの衝撃に耐え、変状はなかった。二つの主塔間に断層が走り、地盤ごと最大で1m近く移動し長くなるという世界に例のない事態となった。震災前までは、中央支間1990mで施工されていたものが、震災後は1991mに、主径間の路面計画高も1m上げて97mに変更された。

ニ.風対策、風洞実験 設計風速78mの暴風に対して水平方向に30m変位するが、振動に対しては安全であることを風洞実験で確認している。床版には風抜きのため、穴のあいたオープングレーチングを中央分離帯、路肩に採用している。

ホ.設置ケーソン工法 水面下50~60mまで大型グラブ船でケーソン設置面まで掘削し、そこへドックで製作した鋼製ケーソンを曳航、設置する工法である。海底面を掘削する作業を効率よく行うため、水中発破は、海底に穴をあけて発破をかける穿孔発破という方法が用いられた。

ヘ.色彩検討 航空法の規制によって、海面上60m以上の構造物には紅白の色を塗り分けることが義務付けられていた。欧米ではこのような規定がない上、自然環境の中にはそぐわない色彩であるため、法律の改正を要望して、昼間障害灯をつけることで改正が実現した。本四架橋の色彩はかつて東山魁夷先生のアドバイスでライトグレーN7.5に統一されていた。しかし、明石海峡大橋は神戸市という大都会に隣接しているので、別の色彩を検討することになり、グリーングレー(5GY7.5/1.5)が明るい落ち着いた感じの緑色で橋梁の色として相応しいとの結論になった。

ト.イルミネーション 明石海峡大橋は大都会神戸市に隣接していることもあり、イルミネーションの設置が決まった。世界初の本格的イルミネーションの採用である。赤、緑、青の三原色を発色するランプ(カラー無電極放電管)3個を一つの灯具にセットしたもの1,084台ケーブルに設置した。RGB(色の3原色を組み合わせて発色するので無数の色を表現できる)

チ.明石海峡大橋の雑学 ・橋脚に船が衝突することは。緩衝工が設置されている・大きい船でも通れるの。国際航路は高さ65mに。・主塔はケーブルの圧力で縮む。25cmも縮む。・橋桁は伸び縮みする。温度変化で1.45m変動する。

・地球は丸い。主塔の高さ300m頂上では水平距離が95mm伸びる。

7.吊橋はどこまで伸びるか

メッシナ海峡大橋は海峡を1スパンで跨ぐ3,300mで、世界最長の計画になっている。複線の鉄道とその両脇に片側3車線の道路が設けられ、流線型の箱桁を使うというアイデアである。この橋はこれまでの既知の技術を駆使するだけでは、明らかに吊橋としてのスパンの限界に近づきつつある。長大スパンを経済的に実現するためには、新しいケーブルシステムと新素材の開発が必要である。

欧州(スペイン)からアフリカ(モロッコ)の間にあるジブラルタル海峡は最も距離の短いところで14km、しかし、この位置の水深は、これまでの経験をはるかに超えるものとなる。距離は2倍となるが、深さは半分になるルートの比較がなされてきた。橋梁案としては、九つの2000m径間案と二つの5000m

案がある。現在はトンネル案で検討中。

質問に答えて:現在世界で長径間の吊橋、斜長橋を設計、施工する力のある国は日本、アメリカ、イギリスであろう。フランス、ドイツも潜在的能力を持っているが建設場所がない。最近中国が1.000mを超える長大橋で大きな実績を上げているが、設計、施工は日本人がやっているケースが多い。将来は伸びてくると思う。

 

Ⅱ.ハイドロプレーニング現象について

1.ハイドロプレーニング現象とは

ハイドロプレーニング現象とは、水の溜まった路面で、水上スキーのように滑走する現象である。その原因はタイヤと路面の間に水の膜が残り、車が水の上に浮いた様な状態になるからである。このとき摩擦力が0になり、ブレーキもハンドルも効かない制御不能となって、大変危険な状態になる。「ハイドロプレーン」とは「水上飛行機」のことである。水上飛行機が静止時にはフロートが水中に沈んだ状態だが、速度を上げるとフロートとが水面に浮き上がり滑走する状態になることから、タイヤと路面の間に水が入り込み路面から車が浮いて滑る現象をこのように呼んでいる。ハイドロの怖さは、ドライバーには発生していることに気づかず、ブレーキを踏んだり、ハンドルを切ったときに操縦不能になってから始めて分かるというところにある。それが分かった時にはもう遅いということである。

2.ハイドロプニングにレーニングを起こす要因

イ.タイヤの磨耗(タイヤの溝が減るほど危険)

ロ.タイヤの空気圧不足(不足するほど危険)

ハ.深い水溜り(深いほど危険)

ニ.スピードの出し過ぎ(早いほど危険)、時速80km以下で運転する

3.危険を避けるために

要は降水時に先を急がないこと

イ.わだち掘れ わだちのラインを外して走る

ロ.路面修繕工事の終端 新しい路面の先には地獄が待っている

ハ.トンネルの出口

ニ.右カーブの追い越し車線

ホ.下り坂

ヘ.雨がやんだとき 水溜りはすぐに消えない

ト.スタッドレスタイヤの誤解 雪氷期以外使わないこと

チ.車間距離 

4.シートベルトの必要性 

後部座席でもシートベルト、子供を守るのはチャイルドシートしかない。親の手で抱いてもシートベルトの役目を果たせない。

5.ハイドロプレーニング現象に遭遇したら

水溜りに突っ込まない限り起こらない現象。殆ど1秒以内の短い時間が多い。

目の高さより高く、激しく水が跳ねた状態は既にハイドロ発生のシグナル。

その瞬間、ドライバーはハンドルをまっすぐに、ブレーキを絶対踏まない、アクセルからも足を離さず、運を天に任せてタイヤのグリップが回復するのをそのまま耐えて待つしかない。スピンしたり、車体が斜めにならない限り、まっすぐに滑っていれば事故にはならない。危険なハイドロ状態から脱出できても、次の瞬間、タイヤは急激なグリップを回復するため、ハンドルが切れていたり、車の姿勢が崩れたりすると、車は予期せぬ方向へぶっ飛ばされることになる。

降水時は、その危険性を十分認識し、安全速度80km/h以下の運転を心がける。 

                                              (記録:藤木)