第 3 6 4 回 講 演 録


日時: 平成21年4月20日(月) 12:30~
演題: 中国の現状と今後の展開を考える
講師: 横浜国立大学 教育人間科学部 教授 村田 忠禧 氏

1 改革開放30年の足どり

 1949年10月   中華人民共和国建国(今年は建国60周年)
 1966年~1976年  文化大革命 76年9月 毛沢東死去 10月 「四人組」逮捕
 1978年12月     中共十一期三中総 毛沢東の「階級闘争至上主義」路線から鄧小平の
                                   「経済建設第一」の改革開放路線へと転換する。

 鄧小平は中国の現実から出発することの大切さを強調する。「実事求是」(事実に基づいて真理を追求する)、「実践こそ真理を検証する唯一の基準である」という毛沢東の本来の原点に立ち戻ることを主張し、「毛沢東思想」を中国共産党の集団的英知の結晶であるとして、その堅持を主張する。かつてスターリン死後にフルシチョフがスターリン批判を行ったのとは異なる対応を示し、毛沢東や文化大革命についての評価をあまり具体化させず、むしろ現実的課題の解決を優先させる方針を出した。

日本は中国の改革開放政策を積極的に評価し、政府開発援助(対中ODA)を開始し、中国のインフラ整備に協力した。

・限定された地域で実験的に資本主義社会のやり方を学ぶ

 経済特区(深圳、珠海、汕頭、厦門)を設け、そこでの経験を徐々に全国に拡大していくやり方を進めた (足元を確かめながら川を渡る)

・「先富論」の提起

文革中には才覚や努力で他人よりよい成果を得ようとすることが「資本主義の芽」として危険視され、摘まれた。鄧小平は「貧困は社会主義ではない」として、このような悪平等思想を批判し、条件の備わった人や地域が各自の努力で他より先に豊かになることを奨励した。これは人々の思想を解放するうえで重要な役割を果たした。同時に鄧小平は「共に豊かになる」ことが社会主義の最終目標である、とも述べていたが、こちらのほうはあまり重視されてこなかった。

・農村の人民公社の解体

 社会主義農業=集団化=「人民公社」と言われてきたが、農村は疲弊していた。安徽省の貧困にあえぐ農民たちは農家ごとの生産請負制を選択し、その動きは瞬く間に全国に波及し、中国式社会主義の代名詞ともいわれた人民公社は解体した。

農家生産請負制は生産と収入が連動するため、農民の労働意欲が増大し、農村に活気が生まれ、「万元戸」という言葉も生まれた。

 しかし家庭を単位とする小農経営だけでは限界がある。農業など第一次産業の成長はそもそも第二次、第三次産業に比べて緩やかであり、政府も農業発展への支援策を出さなかったため、都市部に比べ農村の発展は緩慢で、90年代になると格差がいっそう拡大した。

 農民は現金収入を求めて都市に流入する。中国には農業戸籍と非農業戸籍という二元的戸籍管理体制が存在し、農民の都市への移動は制限されていたが、改革開放の進展で、大量の労働力が必要となり、農民は農民工として都市の建設現場や沿海部の労働集約型工場に流入し、低賃金労働力の供給源になった。

 人民公社を盛んに宣伝していた時代には、農民の集団主義、革命的精神の発揚が大いに讃えられた。その代表が山西省昔陽県の大寨で、当時は「工業は大慶に学び、農業は大寨に学ぶ」というスローガンがいたるところで見られた。

 人民公社解体後の大寨がどのようになったのか、本年3月21日に大寨を訪れたところ、かつては荒れ果てた山を開墾して段々畑にして食糧増産に邁進したのだが、今では傾斜が緩やかで食糧生産に適したところは畑として利用しているが、急傾斜地は植林がなされ、アンズなど果実のなる木も栽培されていた。食糧だけでなく、加工食品の生産をはじめとする多角経営を実施するとともに、大寨という全国に名を馳せた資源を利用して観光業も振興していた。

 大寨は特殊であって、全国の農村が同じことができるわけではないが、新農村建設の一つの事例と見ることはできる。

・沿海部の発展と「社会主義」についての認識の変化

 人々の脳裏には「資本主義=市場経済」、「社会主義=計画経済」、「社会主義は資本主義より先進的」といった固定観念が根強く存在していた。改革開放の深化に伴って人々の認識も次第に変化していった。

 1988年4月の憲法改正では私営経済の存在とその発展が承認された。

1987年には「社会主義初級段階論」が提起され、1992年になると「社会主義市場経済体制の樹立」が課題とされ、資本主義か社会主義かという看板の色を気にする風潮は収まっていった。

 1989年の天安門事件を契機に、全世界的に「民主化」の嵐が吹き荒れ、東欧・ソ連の社会主義政権は相次いで崩壊していったが、中国は崩壊せず、むしろ90年代半ばから経済の急速な発展が見られた。

1993年3月の憲法改正では国営経済から国有経済に改められ、1999年3月になると「非公有経済」を重要な経済要素として承認し、2004年3月の憲法改定では私有財産の保護を明記するにいたった。

80年代からのインフラ整備と外資導入の対外開放政策を積極的に堅持した

1992年の鄧小平の「南巡講話」で中国は活気づく。

 外資(台湾企業も含む)は中国に積極的に進出し、中国は世界の加工工場となり、中国自身にとっても就業と投資の機会確保、産業育成、先進的経験の習得など、多くの面でプラス効果をもたらした。

2001年12月にはWTOに加盟し、世界との関係性がより強まった。WTO加盟で輸出が大幅に伸びた。これは中国の企業が外資との結びつきが強いことの反映。

改革開放の当初は東部・沿海地帯の発展に重点を置き、中国経済に体力が付いた1999年になると次のステップとしての「西部大開発」構想が提起され、2003年には「東北(国有企業が多い)振興」、「中部(既存インフラがそれなりに整備されている)の勃興」という方針を出され、次第にバランスある発展を目指すようになってきた。

2 胡錦濤・温家宝体制の特徴

・後継者の育成、抜擢

 毛沢東は後継者問題を正しく解決できなかった(劉少奇、林彪、王洪文、華国鋒)。

 しかも文化大革命期の入党者には資質や能力に問題がある者が多くいた。

 現代化を実現するためには若くて才能があり、しかも専門知識を持った優秀な幹部を大量に育成する必要があった。鄧小平たちは幾層にも及ぶ指導者群を育成し、抜擢する政策を採用した。現在の胡錦濤、温家宝などの指導者は80年代前半に発掘、育成された人材である。

 指導者に定年制(最高指導者でも70歳まで)、任期制(同一職務には二期十年まで)が導入され、指導者が定期的に入れ替わり引き継がれる体制を作り上げた。

 現在の最高指導者群は60代半ばで、理工系出身者が中心で、しかも内陸での活動歴が長い。2012年の党大会では習近平(1953年生まれ)、李克強(1955年生まれ)などの世代が最高指導者群を形成すると見られている。

・十七回党大会の特徴

 胡錦濤が提唱する「科学発展観」(科学的発展観)が党規約に書き加えられた。

 「和諧社会」(調和の取れた社会)、「以人為本」(人間を第一とする)、「新農村建設」「支農恵農政策」、「生態文明」、「資源節約型、環境友好型社会」といった、旧来のマルクス主義理論の枠を越えた主張が目につく。

・胡錦濤・温家宝の政治指導の特徴

 率先垂範(胡錦濤の総書記就任後の最初の視察地は河北省西柏坡だが、その際に自分の食費30元を支払ったことが大きく報じられた。指導者の視察を地元が接待することが当然視されており、そのような大衆から遊離した指導者への警鐘)、現場密着型(SARS発生時や四川大地震発生後の迅速な対応)、親民路線(エイズ患者への見舞い)、専門家の意見を尊重する政策決定(政治局の定期的集団学習の実施)など、新しい政治スタイルの定着化を目指しているが、末端まで浸透し、定着するまでにはいたっていない。

・人民代表大会

 中国の憲法では指導政党としての共産党の役割が明記されているが、国権の最高機関は全国人民代表大会にある。その構成員(現有2,982名)のうち、共産党は2,184名、民主諸党派である中国民主同盟68名、九三学社と中国民主建国会が各60名、中国民主促進会が58名、中国農工民主党が51名、中国国民党革命委員会が42名、中国致公党が35名、台湾民主自治同盟が12名、無党派あるいは明示なしが412名となっている。少数民族に属する代表の大半は共産党員であり、民主諸党派は大半が漢族であり、全国をカバーできるのは共産党のみ、というのが現実である。

 省レベルの人民代表大会常務委員会主任は北京、天津、上海、重慶、広東、チベット、新疆においては共産党委書記とは別人が担当するが、それ以外では省委書記が兼任している。党委書記のほうが常務委員会主任より実権を持っている。

・台湾問題 

1997年7月には香港が、1999年12月にはマカオが中国に復帰し、それぞれ中華人民共和国特別行政区となっている。残された課題は台湾問題の解決である。

2004年4月に台湾の連戦・国民党主席が北京を訪問し、胡錦濤と会見。国民党と共産党との歴史的和解が実現した。

 2008年5月に国民党の馬英九が台湾の総統になったことで、「台湾独立」の動きは鎮静化し、「一つの中国」の方針に戻り、平和と発展のスローガンのもと、経済関係はより緊密さを増し、共存共栄関係を構築しつつある。

 2008年12月から、台湾と大陸の直行チャーター便が運航開始し、大陸から台湾への観光客も増えつつある。双方が現実的対応をするようになっており、陳水扁時代のように対立を挑発する動きは減るものと思われる。

・チベット問題

 2006年の青藏鉄道の開通でチベットに新しい時代が始まっている。

 一人当たりGDP 01年 139.16元→08年 395.91元

 観光客       00年 61万人→08年 225万人 といずれも大幅に増加

 2008年には政府当局者とダライ・ラマ側代表との交渉が5月、7月、11月と3回行われた。2009年3月28日にチベット百万農奴解放50周年記念行事が行われたが、リンカーン大統領の奴隷解放と類する出来事、と指摘することを通じて、オバマ米大統領へのメッセージを発しているものと思われる。フランスのサルコジ大統領もチベット独立を支持しない、と表明するなど、チベット問題への「外圧」は減少傾向にある。当事者双方がいっそう努力すれば問題解決の可能性はある。

・日中関係

 06年10月 安倍総理の電撃訪中(破氷)→07年4月 温家宝総理の来日(融氷)→07年12月 福田総理の訪中(迎春)→08年5月 胡錦濤国家主席の来日(暖春)と中国側は日中関係の変化を表現している。靖国参拝問題から教訓を汲み取り、賢明な対応をとることが政治家の責務である。

 08年5月の胡錦濤訪日において「戦略的互恵関係の包括的推進に関する日中共同声明」が発せられた。内容は多岐、それぞれを着実に具体化することが大切。

 東シナ海のガス田共同開発を現実化させることを通じて、双方の相互信頼関係を強化していくことがとりわけ重要である。

 相互理解という点では未来を担う青少年交流が非常に重要である。

3 今後の中国を見る視点

・世界経済危機の影響

 今年の成長率8%が達成できるかどうかは不明だが、対外貿易に依存しているのは沿海部のみであって、内陸部に影響は及んでいない。

 内需拡大は危機直撃前からの既定方針であり、危機の到来は外資と輸出に依存してきた産業構造を転換するための追い風にすらなっている。

 全国高速鉄道網の整備、低所得者向け住宅建設、農村の教育、道路等インフラの整備、農民の農機具、自動車、家電製品の購入補助など、内陸・農村の発展を促進し、バランスの取れた建設するための政策をとっている。

 胡錦濤のG20演説「携手合作 同舟共済」(手を携えて協力し、一緒になって困難を乗り切ろう)世界一の貿易黒字国となった中国は世界と協調して経済危機を乗り切る姿勢を明確に打ち出している。世界、とりわけ日本は中国の活力をどう取り組むかが課題となっている。環境・省エネなど、日本が協力できる分野は山ほどある。

・長い歴史を背負った老大国が現代化していく過程

 国土が広大で、人口も多く、古い歴史を背負っており、不均質な部分が多い国情であり、その現代化実現には時間がかかる。

 急速に発展はしているが、08年の1人当たりGDPが3,315ドル(日本は38,559ドル、台湾は17,040ドル)と先進国との差は歴然としている。

 しかも変化が急激であるため、対応しきれていない部分が多方面に存在している。

 あらゆる分野で基礎固めが必要な時期であり、安易に「世界一」を求めるべきではない。量、速度とともに質、バランスに配慮した発展を実現することが大切である。

・今後の課題 透明度の向上

 問題があるとはいえ、中国の強みは共産党の支配体制が確立していることにある。そこでは指導者・幹部の役割が決定的である。しかし共産党の腐敗撲滅は「百年、河清を待つが如し」、腐敗分子として摘発される人物は経済発展以上に「高度成長」している。権力と財力の野合・癒着(権銭交易)が横行、民衆の不満・不信が増えている。

 入党を出世、金儲けの手段と見なす連中が増えている。安易な党勢拡大が原因である(党員数は人口の5%近く。およそ7,000万人に達する)。

 全国人民代表大会(日本の国会に相当)を充実させ、名実共に国権の最高機関となるよう改革していく必要がある。公務の公開・公平・公正の原則を貫徹すること、法律規則の整備、内外からの多角的、重層的監視体制の強化が不可欠である。インターネットの普及により、情報の秘匿は不可能になりつつある。

 透明度の向上なしに社会の発展は不可能であるし、市場経済の発展は必ず透明度の向上をもたらす。中国において民主主義が根付くには時間がかかることも事実だが、必ずその方向に進むことも間違いない。                   


(本稿は講師・村田忠禧教授ご自身が作成されました)

                                     (記録担当 井上邦信)