日光たより(486):大寒の寂光の滝と若子神社へ
 日光・玄梅正明 
こんにちは

コロナ禍で、ホームステイばかりでいると身体全体が何となくだらける感じがする毎日ですが皆様お元気ですか。
コロナ禍でしばらく「日光たより」の休みを宣言していますが、50年余も住む家から歩いても30分はかからない所にいながら、厳冬期の「寂光の滝・じゃっこうのたき」は、見たことがなかったので快晴の誘惑にも負け?体調維持管理を目的で日課のウォーキングを三蜜を避け人気の少ない(今日は誰もいなかった)「寂光の滝」と「若子神社」を訪れてみたので「たより」を送ります。

諸節の一番寒い日「大寒」で、気温は今冬二番目の低温日(-10.5℃)だったが、体感温度は一番身に染みる寒さだった。

「日光八景」のひとつに数えられている高さ50m幅6mの7段に流れ落ちる「寂光の滝」。
華厳の滝や龍頭の滝・湯滝と言ったメジャーな滝や、霧降の滝のようにリピーターが多い滝と比べ知名度は低いが、日光の穴場的存在の滝です。
約130段の石段を登ると若子神神社の拝殿・本殿があり、神社の左手を降りるとすぐに寂光の滝がある。
厳冬期の滝は、滝両側に滝水のしぶき氷がいろいろな形状で結氷し、その形が何に見えるかを想像しながら、静寂の中に朝日に輝く滝水と氷の芸術を楽しんできました。
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以下に「若子神社」と「釘念仏供養」について記しておきます。
若子神社(じゃっこじんじゃ)は、弘仁11年(820年)日光を訪れた弘法大師空海は、滝尾神社を開き、次いでこの奥の寂光の滝で修行した。
夢の中で女神のお告げを受け、ここに小祠を建てたと伝えられる。
室町時代には、寂光寺の七堂伽藍が立ち並び、釘念仏道場として繁栄したが、明治以降「若子神社」と改められた。
祭神は「下照姫命(したてるひこのみこと)・祭日は、10月30日で毎年久次良町自治会が煮物や甘酒などで神職や参列関係者に振舞っているのも歴史のある神社の名残ではないでしょうか。
昭和55年(1980)社号標に「二荒山神社摂社・若子神社」とある。
また、滝尾神社の御神体である女峰山への登山口にもなっている。

当時、不動堂には空海彫刻の不動尊像があったが、寂光権現堂、求聞持堂、三十番神堂、常念仏堂とともに明治十年(1887)焼失。若子神社も明治十七年(1884)に焼失したが明治二十年に再建された。

釘抜念仏供養とは文明1469〜87年間に寂光寺で修行中に17日間の地獄めぐりを経験した覚源上人が閻魔大王に頂戴した釘念仏札には、四十九の穴があいていた。死ぬ苦しみじゃなくて死後も苦しむで、この札をもって念仏を唱えれば本人のみならず地獄で苦しむものも救われるということで、寂光寺から釘念仏供養が広まった。
明治二年1869の神仏分離政策で寂光寺は廃寺され若子権現は若子神社として残され現在に至っている。
釘念仏のお札は、現在も輪王寺で受けることができる。

すぐ右側には、素晴らしい形状の田母沢川上流砂防堰堤もあるので見学してくるのも良い。(この川にはイワナが棲息して秋の産卵期にはまじかに見ることができる・・春、秋にはツキノワグマも見ることがある)

001・・神社入口の駐車場には乗用車20台位が駐車でき登山カードボックスや神社滝布の道標が立つ

002・・鳥居をくぐると不動尊の石像と石塔(享保十乙巳天1725)がある。

003・・130段の石段を登ると上方に神社拝殿が見え、拝殿の後ろ、さらに高い石垣に本殿、本殿石段下に元文二天1737年石燈籠がある。          

006・・神社の右側へ下るとすぐに七段の寂光の滝の全景が見える。

010・011・・神社右側へ下るとすぐに砂防堰堤が目につく。


日光の史跡・自然と山を愛し楽しむ \0/ヤッホー 玄梅デース
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2021年1月20日