記憶に残る相撲人たち
  個性豊な力士ほど土俵上でいろいろ仕種をする。“時間デス、待ッタナシ”行司の軍配が反る。最期の塩を取りに行く時の高見盛の仕種が面白い。肩を怒らせ両腕を振り回すパフォーマンスに観客はドットくる。水戸泉が塩を鷲?みにして天井まで撒き上げるのは豪快である。気の小さい男は塩の値上がりを心配する。これに対抗して剽軽な出羽湊は親指と人差指で塩を一寸つまんで足元におとす。これは塩の節約になり協会はこの方を喜ぶ。
 朝乃若という関取りがいた。観衆の受けを狙って仕切りの時にいろいろと変わった形をする。土俵に腹が着くほど低く構えて見苦しいと協会から文句を喰う。さればと?んだ塩を土俵に叩きつけ仕切りに向かうと神聖なる土俵に対してそれは不届きだとお叱りがある。それではと金ピカのマワシをつけて又怒られる。本人は悪気もなくただ目立ちたいだけなのだが、親方衆から見ればそんなことに頭を使うよりは稽古に励めと言いたいのであろう。
 仕切りの構えでは初代清水川の鎌首が有名だ。最後の仕切りの時、両手をおろして首を思い切り上げて相手を睨みつける。蛇が蛙を呑む姿勢のようでお客さんの拍手がわく。
 岩風の低い姿勢は名人級で下から潜り込んで相手の両褌をとる。潜航艇と言われる所以である。肥州山の起重機というのがある。両差しになるとどんな重い相手でも両足を根こそぎ持ち上げて土俵の外に運んでしまう。綾昇の打ち掛け、新海の外掛けに対しては相手は十分に警戒しているのだが一寸のはずみでこの手にやられてしまう。鏡岩磐石の怒涛の寄り身に遭うと電車道で土俵下まで押し潰されてしまう。弾丸巴潟は鉄砲弾のように飛んでゆく。
 決まり手は今幾つあるのだろう。昔から“相撲48手”と言われ投げ手12手、掛け手12手、それ手12、手捻り手12手であった。その後遂時加えられ現在は108手になっている。決まり手以外に勇み足・払い手とか相手の髪を?んで負けというのもある。ユル褌で一物が見えてしまったときも負けである。関取同士ではこんな締まらないことは絶無だが、幕下以下になるとこの珍場面が起きることがある。
 先ほど清水川元吉の名前が出たので彼の数奇な相撲人生を記しておこう。気風の良さと男らしい顔つきで大変女性にもてた。当時の女性観客というのは大分部花街の芸者衆である。実力もあった彼は破竹の勢いで幕下を駆け登り、昭和6年春場所には武蔵山(後の33代横綱)と共に東西の小結を張り、7年春場所には東関脇清水川・西関脇天竜と名を連ねる。その頃“春秋国事件”があり天竜は大錦と共に大阪に去り、角界は分裂する。その時、清水川は残留する。彼はそうすべき恩義があった。その数年前に人気に溺れて酒に迷い、そのあまりの乱痴気に協会を破門される。相撲の世界では一度放逐されたら絶対に戻ることは出来ない。満州(現在の中国東北地方)に流れて浮浪者のような生活を送る。青森に住んでいた彼の父は息子の身を案じて、協会に息子の復帰を嘆願する遺書を残して自殺する。協会もその情に絆され復帰を許す。然し三役まで勤めた身だが十両付け出しという厳しい処置だ。だが清水川も男一匹奮起して遂に大関の位置を仕留める。今に名大関の名を残して年寄り追手風となす。理事待遇で弟子に二代目清水川がいる。二代目は小結まで勤めて引退後は年寄間垣となる。清水川の系譜はここで途切れることになる。
 今年6月時津風部屋の序ノ口力士時太山(当時17歳)が稽古中急死した事件で解雇された時津風親方(元小結双津竜)は角界に戻ることはないだろう。横綱になった輪島も双羽黒も角界からは無縁の人となった。時津風部屋は“角聖”双葉山が昭和16年に創設し、その後大関鏡岩、大関豊山を経て現在の双津竜(東農大卒業で平成8年春に幕下付け出しでデビュー)に引き継がれた。因みに“角聖”と呼ばれる資格を与えてよいのは杉山NHK元アナウンサーに依れば双葉山の他に大鵬(優勝32回)・北の湖(同24回)・千代の富士(同31回)・貴乃花(同22回)等をあげている。朝青龍(同22回)は人格見識未だしというところか。北の湖理事長は朝青龍の帰国、時津風部屋の外傷死の問題に関しては、その処置及び外部に対する応対に関してその手腕には疑義・批判が多い。
 満州に一言触れておこう。大正末期から昭和初期にかけて日本は不況のどん底にあった。“狭い日本にゃ住み飽きた、支那にゃ四億の民が居る”と謳って大陸志向の熱にうかれた。政府もこれを奨励し満蒙開拓団で一村全員がソ満国境に移住例も多かった。満州は支那の領土の一部であったが実質的には日本の植民地であった。1931年5月に日本軍は柳条湖事件を起こし1932年3月に傀儡国家“満州国”を樹立し清朝最後の皇帝“溥儀”を擁立して皇帝とする。彼の終生は映画「ラストエンペラー」でご存知であろう。敗戦後における移住者の引揚げ、逃避行は悲惨を極め“流れる星”によく描写されている。
 清水川に話を戻そう。優勝三回の実績(その中2回は全勝)を持ち横綱は時間の問題と思われていたが、腰を痛めて挫折する。然し、それで良かったと思う。弱い横綱として侮蔑されるより、昭和年代随一の名大関として謳われた方が彼としても本望であろう。横綱になったためにたった四場所で引退しなければならなかった二代目の若の花の例がある。横綱になってから優勝できなかった力士に吉葉山、双羽黒等何人か居る。また、横綱になると負け越しては宜しくない。そこで負け越しそうになると休場してしまう。四勝七敗四休などが盛りを過ぎて引退の近い横綱に多い。敢えてその例を破って15日間努めて負け越した最初の横綱が大乃国である。その蛮勇は誹られるべきか誉めてよいのか? ただこれを先例として栃の海のように平気で負け越す力士が出てくるのも困ったものだ。
 吉葉山が横綱になってから優勝できなかったのは同情すべき理由がある。彼は戦争末期兵隊にとられて実力の充実すべき大切な時期を軍務に忙殺されてしまったのである。両手をグルグル水車のように回して手四つになるのを得意とした九州山も兵士として大陸に渡った。元来相撲取りは身体が大きすぎて徴兵されないのが普通であったが、彼は戦前においても仲間内では小柄の方であった。大半の力士は大きすぎて兵役不適当の丙種になる。
 適齢の20歳で受ける兵隊検査の判定は次の通り、甲種合格(以下合格は省く)第一乙種、第二乙種、第三乙種、丙種、ここまでが一応合格。以下丁種不合格、戊種不合格となる。身体障害者は丁種になる。丙種までは徴兵・召集の心配があったが、戦争末期を別にすれば精々第二乙種程度までが対象となる。九州山は不幸(?)にも引っ張られたが、隊長が温情のある人で退役後を考慮して丁髷を切ることなく温存を許された。
 優勝できない横綱の半面に、優勝しても横綱になれなかった不運な大関もいる。その屈指の例が古い江戸時代の話になるが雷電為右衛門である。彼は史上最強の力士であると思う。6尺5寸(197cm)、45貫(168.8kg)今では並みの身体だが当時では巨漢である。土俵生活21年間、285戦中254勝で勝率96.2%、16年間大関を努めた。然も相手に危害を与えるという心配で鉄砲・張り手・閂の三つを禁じとされるハンデがあった。これほどつよいのに何故最高位を極められなかったか、について諸説紛々とある。彼は外様大名、松江藩の抱え力士であったために、認可の権限を持つ相撲司家の吉田家が、徳川親藩の主君細川候に遠慮をしたためと謂う。或いは抱え主の松平候自身がある理由からこの力士を嫌ったと言う説もある。いずれにせよ幾多の実績を残して1825年59歳で千葉佐倉で逝去する。
出羽嶽という巨人力士が居た。大物として嘱望され関脇まで行ったが腰の故障で続落し、私が見たときは三段目まで下がり子供のような若い者を相手に土俵上で右往左往する。その仕草が面白く観衆の拍手を浴び“文ちゃん”の愛称で親しまれた。彼は山形の生地で学童時代には俊才の誉れ高かった。医師を志して郷土の先輩、斎藤茂吉医学博士の門を叩く。然し博士はその巨躯に感嘆して角界入りを奨める。それに従ったが大成できなかった。“番付も くだりくだりて弱くなりし 出羽ケ嶽見に来黙したり”茂吉の慨嘆の句である。
27代横綱栃木山の強さを表すのにこんな話がある。栃は相手を一月半で仕める。つまり一発半で土俵下まで突き飛ばしてしまう。相手はそれを恐れて俵づたいで逃げる。栃はそれを追う。俵をつたってグルグルと鬼ごっこをする始末となる。
 小兵の奇才力士舞の海もいろいろな珍手を使う。立ち上がるやパット土俵際まで下がる。或いは体操の跳び箱よろしく相手の背に手をついて向こう側に飛んでしまう。相手は敵手を見失ってキョトキョトする。“猫ダマシ”という奇手がある。立ち上がるや相手の顔の前でパチンと手を合わせる。これは時々やる人があるが、成功するのを見たためしがない。力の強いのが一発で相手を張り倒してしまうことがある。技というよりショックを受けるのであろう。横綱東富士がこれを喰って倒れて脳震盪を起こしたことがあり、場内は唖然とした。
 相撲の神様と言われた人に幡瀬川邦七郎が居る。技は何でもござれで男女ノ川、武蔵山も手玉に取り関脇を五場所も務めたが玉錦には勝てなかった。娘婿に横綱照国が居る。肥洲山の吊り出しも愉快だ。今かなと思って見ていると丁度その時期に吊り上げてしまう。
千代の富士の電車道1本走りは横を向いている中に勝負がついてしまう。千代の富士が寺尾を土俵際に追いつめ、吊り上げて下に叩きつけたときには、流石に寺尾は悔し涙を流した。
 建物国技館に話を戻そう。私が最初に見た旧国技館は両国駅の都心側にあり、今の新館と相対的な位置になる。鼠小僧の墓で有名な回向院の隣になる。市電の国技館停留所前を降りた小学生の私は、既に一重二重に群衆が囲んでいる館を目指して薄明の早朝を突っ走る。当時の相撲人気もそれ程すごかった。他に娯楽がないためだろう。戦災で焼失後は神宮外苑のグランド等を利用したが、戦後浜町の隅田川縁に仮小屋が建つ。蔵前警察署の向かい側で、冬場所は寒風が吹き込んで凍えた思いをした。警備に当たる署のお巡りさんは焼き鳥の恩恵を受けただろう。
 新国技館が1960年に竣工したあと、設計施工をした清水建設本社に商談で伺ったことがある。同社の副社長室に新館のミニチュアが飾ってあった。“受注おめでとうございます”と挨拶すると相手はその代わり随分値引きさせられました、と言う。相手は(栃錦理事長・若乃花副理事長)負かすのが商売ですからと苦笑いした。