往時の両国国技館周辺
小学校四〜五年の頃、私は夜明け前に家を抜け出して市電一番線(札の辻←→北千住)に新橋駅前停留所で飛び乗る。後に四つ下の弟がついてくる。逸る気持ちのうちにやっと両国停留所に着いた頃には、国技館は既に一重二重の人垣に囲まれている。当時の入場料は大人50銭、軍人、小人は半額の25銭。巻煙草で一番安いのがゴールデンバット7銭の頃で私は勿論25銭(弟は0銭)を持って大鉄傘天辺の四階に潜り込む。外はまだ暗いのに序の口の前の番附けにのらない前相撲、本中の連中の取口が始まっている。土俵の直径は15尺になる前の13尺である、占領下進駐軍命令で16尺にさせられた時があるがこれは流石に一場所で廃止になった。私の見た頃は検査役は土俵下に居たが、その直前迄は四本柱のところに坐っていたそうだから観客はさぞ見辛らかったであろう。何しろ一日館内にいるのだからあちこちと探検する、一番の楽しみは支度部屋覗きだ。出番前の関取衆が寝転んで昼寝をしたり、仲間同士で将棋を指したり、取的に腰を揉ましている。建前は入場禁止なので世話役にチョイチョイ追い出される。それでも隙を見ては忍び込むのが面白いのである。
場所が始まると下町の電気屋さんの前は町内の社交場になる。ラジオを最大音声にして店前に造った取り組み板に一番毎に負け力士を赤札にひっくり返す。町内の旦那衆も悪童連中ほぼ全員集合、そこでまた予想屋が跳梁する、私などはかなり当て屋であったが実践の方は大したことはなかった。
小学校裏の公園砂場に円を書いて取組が始まる。銘々番附の地位と四股名がある。私は大関清水川を志望したが、親方の悪童頭から幕尻辺りを低迷していた。射水方にさせられてしまった。それでも幕下に落とされなかったのは、私は、少々四十八手を知っている業師であったのと少々人に秀でた相撲知識に敬意を表してくれたのだろう。
 この下町ラジオ巡業では次の1番が最大の記憶にある。11年夏場所8日目、取組は猛牛と言われた鏡岩(前日まで5勝2敗)と全勝の双葉山、ラジオは叫ぶ“鏡寄った。寄った。双葉詰まった、鏡浴びせる・・”ここでラジオは時間切れ。あー鏡岩が勝ったのかの思いで、その晩は寝た。翌朝新聞を見て驚いた。双葉山が得意の二枚腰で見事に打っちゃっていたのである。この場所11戦全勝優勝し、前場所春場所七日目@の浦を打棄りで破って以来の69連勝の驀進街道の最初の場所になる。余談だがこの年のベルリンオリンピックで200米平泳ぎの決勝で前畑とゲネンゲルが競り合い、河西アナウンサーが前畑ガンバレ・前畑ガンバレと連呼しながら“どうかラジオを切らないで下さい、切らないで下さい”と言っていたのを聞いていた。この瞬間にラジオを切る馬鹿が居るかと思っていたが、それは放送局への訴えであったのだ。この両力士は後年無二の親友となり、双葉山道場は鏡岩の立浪一門に引き継がれている。
 四階天辺の貧乏話ばかりしたが、私にも戦前の桟敷には行ったこともある。母の伯父が相撲好きで連れて行ってもらったものである。桝席はこちらの身体が小さかったせいかもっと余裕があったように思える。寿司の出前も来た。伯父の知り合いの新聞記者が来て、当日の組合せの清水川:双葉山の勝負予想や取組みに対する両力士の語ったことなどを伝えていたのを面白く聞いていた。