「岸壁の母」
谷口 啓治

  太平洋戦が終わったのち、昭和25年6月に朝鮮戦争が勃発した。
    筆者が新制中学校二年生の夏だったと思う。丁度そのころには、大戦後、ソビエト・シベリアに抑留されていた旧陸軍の兵士たちが“引き揚げ”て来ることと重なって大変に混雑したことを覚えている。
京都府舞鶴市が、引き揚げ船の帰港地になっていて 東西に分かれている二つの港湾は喧騒を極めていた。
よく知られているように、“引き揚げ者”を満載(まさに満載と言うにぴったりだった)した船舶が度々入港したが、二つに分かれる港湾の入り口には戸島という無人島があって、日本海から入ってきて左手の東港に入港した船から下船する。空船になると、戸島の右手に当たる西港に廻航されて投錨していて次のお役目を待つ、と言う段取りだった。
 筆者は、舞鶴湾(西)の一隅で友人と泳ぎながら聞いた引き揚げ者たちの歌う“インター”が、周りの山々に木霊していたことが忘れられない。
廻航された船の中には、戦時標準船という直線ばかりが目立つ臨時の貨物船(弥彦山丸、白山丸etc)が多かったほか、信濃丸(日露戦争の生き残り?)や高砂丸(病院船として使われたが、戦前は台湾を往復した外洋船だった)、興安丸という元・関釜連絡船などがあった。
  閑話休題
   この“引き揚げ“を巡って多くの悲話が生まれたが、そのひとつにシベリアに抑留されていた
息子(新治・立教大在学中、学徒動員〜旧満州出兵後シベリアで没)の帰国を信じつつ舞鶴の岸壁に立ち続けた端野イセさん(‘81年81歳で没)に纏わる物語があり、最近では二葉百合子の歌謡浪曲を通じて広く知られている。  これらに関連した話をしたい。

1、 二葉百合子は、齢80歳で何んと3歳から芸の道に入り、芸歴77年である由。つい先だって、NHKホールでの“引退公演”を機に、公の舞台から去るとか。父上の勧めで浪曲師としての出発だったらしいが、「岸壁の母」を引っ提げて歌謡浪曲と言う新しいジャンルを開き、村田英雄、三波春夫らが続いた。
浪曲独特のクセに反発した頃もあったが、今は、アッパレであったと感心している。3月26日にNHK-BSで再放送されるらしいので楽しみにしているが、ひとつには、バックにあの頃の舞鶴湾が映し出されそうな予感がするからである。

2、 当時、舞鶴湾の西の沿岸に散在していた四個村からは、巡航船に乗って“街の中学校”へ
通った。「大丹生丸」という船は、村の人たちの生活の足でもあり、精々12・3トンぐらいの木造船で、エンジンは「焼き玉エンジン」という手間のかかるものが付いていた。船名の由来は、舞鶴湾の先端近くにあった(オオニウ)と言う地名に有り、筆者が幼稚園児の頃から高校卒の頃までは個人経営で、親子4人が運行に当たっていた。
その後、舞鶴市の助成を受けて「舞鶴汽船」、ディーゼルエンジン付きのFRP船に変わり、船名も「あさなぎ」「ゆうなぎ」などと呼ばれていたが、数年前に廃止された。四個村にひとつだけあった小学校も廃校になり、街の学校へはマイクロバスが運用されている。
(また脱線)
「大丹生丸」は、引き揚げ船から(平・たいら)桟橋までを往復したり、引き揚げ者を慰問する市の幹部を運ぶ役務もになっていた。2代目の船長で、創業家長男の相根(嵯峨根?)一郎氏は随分昔、NHKの朝ラジで「舞鶴湾を・・・30年」とか言う番組に出演され、当時を回顧されていた。

3、 四個村の舟着き場(桟橋)には、貧しい生計を助ける為に牡蠣の殻打ちに精を出したり、
学校帰りに急な雨が降れば 子のために雨具を持参して出迎えたり、そんな母の姿もあった。

4、 蛇足的であるが、
   A;「岸壁の母」の最後のセリフに異論あり。
     どとう砕くる岸壁に・・と、作詞家・藤田まことが書いているが、平の桟橋は、湾の内側に
      あってまさにタイラな海なのである。
   B;「焼き玉エンジン」とは、
     ガソリンエンジンとディーゼルとの中間的なものか?
     否、もっと原始的であり、ガソリンのように燃料を加圧したり、空気との混合比を加減する
      インジェクターは無い。点火プラグの代わりに焼き玉を装着している。さりとてディーゼルの
      ように高圧で燃料(軽油)と空気の混合体をインジェクトするわけでもない。
     予め加熱された鉄の球をシリンダーの頂部にセットしておき、燃料を垂れながら外部から
      手動でクランクを空転させ、頃合いを見計らってシリンダーを閉じてやって爆発燃焼を続け
      させる、と言うもの。
     球の加熱具合がポイントの一つで、上手く行かないとやり直すので、この船の出航時刻は
      守られにくかった。

 3月9日 ブロッコリーの種まき後に