「メートゥル・スキー」
谷口 啓治

 今年は、オーストリアのレルヒ少佐が上越地方で「スキーを履こう(メートゥル・スキー)」と、国内でのスキー”伝導”を始めて100年になるという。 スタートは、明治44年のことであった。
  そんな努力のせいか、他に楽しむべきレクが無かったためか、猫も杓子もスキーに夢中になった時代がある。
  ところが、最近は行き交う乗用車にも空のスキーキャリアーすら積んだものが見当たらなくなっている。  ナントカ言う宅急便屋が運んでるのかも分らないが、やはり、スキーブームがスローダウンしていることは否めないようだ。
   ここに一枚のスナップ写真を掲げる。  多分、昭和35・6年頃のもので、当時の、古河アルミのスキー同好の人たちである、と思われる懐かしい顔ぶれである。
 















  注; 当時は、工場勤務者の「レク」は極端に少なくて、昼休み時間にやるテニポン、ソフトボール、バレーボールのパス廻しぐらいのものだった(野遊会で遠出をするとか、運動会とかは別) し、ダレかさん達の”軽井沢の恋”に誘発されたテニスは、ソフトテニスの域を出ていなかった、そんな頃の貴重なシャシンである。

 当時、スキーは小山ではもちろん出来なかったが、 国鉄の企画「両毛銀嶺号?」なる夜行列車で新潟か長野へ運ばれて楽しんだものである。
筆者も、新入社員の身ながら一式の道具を買いそろえて仲間に入れて貰った。言わなければ良かったのに、「力学の応用だヨネ」なんてナマを言いながら、「行きは良い良い帰りは怖い」を繰り返していた。力学どころか、ホントへたくそだった。

 猪苗代へ行ったときは、最高に怖かったのを今も忘れられない。北島正和氏、故・山口末吉さんなどの名手とご一緒させていただいたが、コースの頂上のスタート点に立つや「こりゃ、猪苗代湖に突っ込むぞ!」と言う恐怖感が先に来て、まったく動けなかった。
「早く来い!」とのキャップ・北島氏の叱声に、どう対応したか覚えていない程である。

 もう一度、あの人たちと”メートゥル・スキー”!とやってみたいアラ・セブである。

 追記;  「帰りは怖い」、と言ったのは、帰りの電車の中ですっかり「ウイ スキー」になって酔っぱらった筆者の新品のスキーが、古物と替えられたことを指す。
 余談;明治44年は、1911年に当たる。「1900年が明治33年である」とは、高校時代に歴史の授業で教わった唯一の成果なのだ(笑)。 

 1月17日