「申し送り」・ある事例
谷口 啓治

 最近行われたある申し送りについて、3分だったとか 会談はわずか2分間で終了などと メディアの報道は姦しい。

このケースに限って言えば、○○氏は××氏批判の急先鋒で、○×長への抜擢は「脱××」の目玉人事だ。と報じられているように、ある人間模様?がうかがわれる。

 筆者は、何度か申し送りをしたり、受けたりする機会を与えられた。

スタンスとして、「送る」場合は細やかに人事を中心にした。但し、アイツはネなどと言う雑言は避けたつもりである。業務上の事は、鉛筆舐め舐め 書いたものを残すようにしていた。もう一つ、お相手下さった方々からそれまでに戴いた名刺も残しておいた。

それでも、「(仕事が)貴殿に付いて行ってしまっている」とかの、批判を戴いたものだ。

 1、昭和51年12月、「お山(小山)の大将」で不自由なく暮らしていた鋳物工場(その時点では、初代の工務課長)から、日光の第二製板課長に任ぜられた。内示を受けたのは、12月1日午前中だったと思う。ヤハリ、そわそわしていたのだが夕刻になって突然、救急車が構内に入ってきた。何事ならんとと思っていると、出荷ヤードで人身事故発生!とのことで、慌てて現場へ走ったが既に床一面は血の絨毯であった。下請け会社の運転手が長尺材の積み荷に頭部を強打されたため、と判明。

帰宅直前の課員に「禁足」を命じて、積み荷を吊っていた自家製吊り具の設計図の点検をしてもらった。重大事故だったので、吊り具の事はおろか、クレーン運転手や製造課長まで連日のお調べを受けた。

この時だけは、後任の荻野英治氏(在・松戸)にどんな風な申し送りをしたか、覚えていない。

注;初代の3950トン押し出し機(#9プレスで、今は4370トンとか言っている)が完成した直後の慌ただしい時であった。 

 2、さて、日光工場に赴任しての申し送りを受けた相手は、松沢幸利氏であった。彼の残してくれた膨大な資料に一通り目を通すのに、主に時間外ではあったが、二か月くらい掛かったのではなかろうか。筆者は自我が強いせいか、あまり有効な利用は出来なかったように覚えている。

 3、3年半の後に、小山・鋳物工場長として日光を離任する際にはSN氏を相手に申し送りをした。どういう訳か、一か月を経るまでもなく 更に変更がありMT氏に人事交代された。

止せばよいのに、MT氏にも申し送りをする、と言う念の入れようであった(笑)。

 4、昭和55年6月、勝手に「鋳物工場夏の陣」と言わせてもらっているが、部門撤退が準備されていた小山へ着任した。重要な事案を抱えていたわけであるから、真摯な申し送りが必要だったのであるが、前任者にお会いできたのは着任後三日以上過ぎていたように思う。机の引き出しに何かのメモが一枚残っているだけで、文書ロッカーも何も空っぽであったし、遅れてお会いした前任者の「申し送りナンテ必要ないだろう」の一言で片ずけられ掛かった。それでも、じゃあ お聞きしますが、借金はありませんか?「何だ借金とは」などのやり取りの末に分ったのは、ある下請け業者との設備貸借に関する非公式契約であった(数代後の工場長が、それらの設備撤収に際して一悶着あり苦労された事の引き金になった)。

本尊の「部門撤収」については、その趣旨も将来展望に関しての考えもお聞き出来なかった。

 etc 5項以下には (心臓が止まりそうなことも、実はあるのだが)時期を見て筆をとるかも分らない。

 今回の、「3分間」なんてことは極く小さい。時々報じられる外交文書の逸失や(核密約 歴代首相ら黙認)など、重要なことが等閑視にされていないだろうか?ちょっと考えさせられた。

 6月12日