「・・・日光軌道線」 異聞
谷口 啓治

 川村知一氏の(アラカルト)日光の交通事情変化を、フムフムと読ませていただいた。何時もながら、氏の造詣の深さに感じ入るばかり。

筆者は、1959年5月の連休明けから8月のお祭り(7日から二夜だったか)終了まで実習で精銅所にお世話になっていた。土、日の連休ナンテないころで、土曜日の夜は颯爽と街に繰り出した。目当ては、バー「月ヶ瀬」という、現在は日光消防署が鎮座している辺りの映画館付きの歓楽街にあった飲み屋である。

決まって先輩二人が先客でおられゴチになったものだが、お二人ともお元気であり、内お一人はナニカの会の会長としてご活躍中でもある。

1、何時も終電ギリギリまで飲んでいて、その終電に置いて行かれる事が多かった。
   電車と並走しながら、ドアを叩いて「載せて呉れ!」と叫んでも車掌はジロッと眺めているだけ
  で応じて呉れなかった。

    何度かに一回くらい、タクシーのお客に拾われて助かったことがあったが、翌週の実習現場で
  「ご機嫌でしたネ」と恩を売られたりした。

2、翌日の日曜日には、同期入社の故・板倉玲二氏に叩き起こされて、金精峠越えで奥白根へ
   挑んだりした。朝早くて電車やケーブルカーがなかったのか、バスを利用した。二日酔いで瓶
  に詰めた水が切れると熊笹の露をなめての苦行だった。タバコが切れるのも辛かった。

 注;金精峠は徒歩でしか越える事が出来なかったらしい

3、「月ヶ瀬」のママは、店の名前の通り関西人(京都府亀岡市と聞いた?)であって、筆者の
  一寸 した言葉使いから、関西出やろ、と見抜いてしまった。

 若き日の日光電車にまつわる思い出である。

 6月8日記す