平成23年6月オーストリア一周の旅
〜ハプスブルグ家の栄光の跡を訪ねて〜 
竹内  理  
プロローグ
 「いざ行かん 雪見に転ぶところまで」(笈の小文)
 もちろん芭蕉の句である。今回の旅はそんな心境での旅立ちであった。
平成20年春のシリア・ヨルダン・レバノンへの旅以来、三年ぶりの海外旅行である。
 この間、昨年には初めて2か月の入院生活を経験し、更に以前からの悩みであったアキレス腱の不具合、脊柱管狭窄と併せて歩行には全く自信をなくしていた。
とはいえ再開の希望を捨てたわけではない。しかし次回は身体にハードな僻地旅行ではなく、身体にやさしい文明国をめぐる旅にしようと思っていた。
それが今回の「オーストリア一周の旅」であった。旅のテーマは勿論「ハプスブルグ家の栄光の跡を訪ねる旅」である。
オーストリアの首都はウィーンである。私が最初に出張でウィーンを訪れたのは1988年のことで、大学時代の友人が折良くウィーン代表部(大使館とは別組織)の大使として赴任していた時であった。
彼の家に2・3日ほど泊めてもらい、その時彼が国立オペラ劇場でモーツアルトの魔笛とVolksOparでレハールのメリーウィドウに案内してくれた。これが私のウィーンの音楽文化(音楽・劇場・音楽会を中心とした社交界等の一端)に直接ふれた最初の経験であった。
それから14年後 今度は妻と共に観光でウィーンを訪れた。中欧三カ国をツアーで廻った時で、特にウィーンではハプスブルグ家ゆかりの観光スポットをいくつか見て回った。その時は未だハプスブルグ家については、ごく断片しか知らなかったといってよいであろう。
  日本でよく知られているハプスブルグ家の人というと女性が多い。皇帝ではないが実質的に女帝であったマリア・テレジア、その娘でフランスのルイ16世と結婚し、遂にはフランス革命で断頭台の露と消えたマリー・アントワネット、最近宝塚歌劇の舞台に取り上げられたシーシー(ハプスブルグ帝国最後の皇后エリザベート)が挙げられる。
「ハプスブルグ家の発祥の地は、どこなのか?」
「何故ハプスブルグ家は、あの権謀渦巻く中世ヨーロッパにおいて急成長し、ウィーンに華麗な文化を開花させ、更に650年以上の長期に亘り維持できたのであろうか?」


ハプスブルグ家は、実は12世紀ころはスイスのライン河上流の小さな領主に過ぎなかったという。それがある運命のいたずらか神聖ローマ皇帝を引き継ぐことになったことで、その勢力の基盤がドナウ河流域(特にウィーン)に移ることとなった。
そして結婚政策により領土を拡大、欧州の地に6百年以上の長期に亘り絢爛たる文化を築いてきた。特に豪華な宮殿建築、モーツアルトやヨハン・シュトラウス等による音楽の世界は、今もなお生き続けている。
一度オーストリア全土をこの目で見てみたい。そんな望みをふくらましつづけてきた。


旅の記録
                   

一日目(6月13日)月 
夕方 オーストリア航空OS52便は、予定通りウィーン空港に着陸した。
今回のツアー仲間は計11名、このうち男性は2名だけ。最高齢は今なお矍鑠とした遺跡好きの85歳の女性。最近の女性の活躍ぶりを十分伺うことが出来る。男性は肩身が狭くなってきた。 この日は長距離移動の疲れを癒やすべくウィーンに泊った。


二日目(6月14日)火
午前中、郊外のクレムスから遊覧船に乗り、ドナウ河を遡る。途中流域で最も美しいといわれる世界遺産バァッハウ渓谷を通る。景観(写真2)はかつて見たライン河によく似ている。古城、教会、ブドウ畑が3点セットである。こうした風景を楽しみながら船上で昼食。河と町との関係は文化形成上、洋の東西を問わず非常に興味深いものがある。リンツで下船。リンツは人口19万のオーストリア第3の都市である。1485年、ハンガリー軍がウィーンを占拠した際、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ三世はこの地に宮廷を移し、この地で亡くなったという。  ハプスブルグ家ゆかりの地である。
リンツの市内見物の後、バスで145km離れたザルツブルグへ。夕刻ホテル到着。


三日目(6月15日)水
ザルツブルグには3つの顔がある。一つは世界遺産旧市街の顔、一つはモーツアルトを代表とした音楽の街の顔、そして映画「サウンド・オブ・ミュージック」に出て来る美しい風景の顔である。 この三つの調和がこの街の魅力に違いない。
午前は市内見物。モーツアルトの生家、洗礼を受けたという大聖堂、ミラベル庭園等。 午後は丘の上の城塞に上る。この城はこの地を領していた大司教の城である。ここからはザルツブルグの街全体を見おろすことが出来る。ザルツブルグは15万の人口を抱えるこの国4番目の大きな都市であるが、音楽の都としてギュッと凝縮したような街である。ここで開かれる音楽祭は余りにも有名である。嘗て大指揮者のカラヤンが生まれ、亡くなった地でもある。


四日目(6月16日)木
 バスでチロル州マイヤーホーフェンへと向かう。途中映画「サウンド・オブ・ミュージック」で清純な美しさを紹介されたザルツカンマーグート地方に寄る。ゴゾウ湖次いでハルシュタット湖に寄る。
青い湖と、これに沿った小さな清楚な街並み。ここの風景は絵のように美しい。よく観光の目玉として写真が紹介されている。      (写真3.ゴゾウ湖)
   ヨーロッパの自然を見ると何時も感じるのが、日本との比較である。  確かに日本の原風景は美しいが、日本人はそれを通俗化し汚しているのではなかろうか。
  ハップニングが起きた。旅行にはハップニングがつきものであるが我々が下車して観光中、我々のバスが接触事故を起こしたらしい。結局1時間ほど無為に待たされた。後でしまったと思った。この間に近くにあったハルシュタット博物館を見るべきであった。ここは有史以前のハルシュタット文化の遺跡が発見されたヨーロッパの考古学史上有名な地でもある。一説にケルト族のルーツはここではないかともいわれている。添乗さんが少し気を利かせてくれたらと思ったが、やや動顛気味の添乗さんには無理であったかも知れない。
夜7時頃やっとマイヤーホーフェンに着く。ここはアルプス観光の一つの起点である。


五日目(6月17日)金
 ここは小さな山間の、いかにもリゾートの町といった佇まいである。
町の中央にペンケン山(2095m)に登るゴンドラ駅がある。午前中の自由行動の時間、天気が今一ではあったが、ゴンドラに乗った。時々雲が切れて雪をかぶった周辺の山々が姿を現した。午後はバスでチロル州の州都インスブルックへ。 最近は冬季オリンピックの会場として名高いが、私としてはハプスブルグ家のマキシミリアン一世(1486〜1519)とマリア・テレジア(1717〜1780)の愛した街としての関心が強い。特に皇帝マキシミリアン一世はこの地に自らの廟を造った。
しかし彼はそこに眠ることは叶わず、他の地に眠っている。この宮廷教会に彼の空の棺とその周りには28体の等身より大きい黒い青銅像が取り巻いている。異様な壮観であった。夕食後また昨夜と同じマイヤーホーフェンに戻り泊る。
                         (写真4.宮廷教会内部)


六日目(6月18日)土
 今日はこのツアーのもう一つのハイライトであるオーストリア最高峰グロスグロックナー(3798m)と最大の氷河パステルツェ氷河の観光である。
山岳道路に入るとバスは高度をどんどん上げて行く。それと共に視界が悪くなり、フランツ・ヨーゼフス・ヘーエ展望台(2362m)(オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が、皇后のシーシーと共に、ここまで歩いて登った)に着いた頃はかなりの強風が吹いており、アルプスの厳しさを一寸体験させられた。結局眺望は断念、今晩の宿泊地である緑の谷間の町ハイリゲンブルート(1291m)まで下山した。皇帝夫妻はここから4時間かけてヘーエまで登ったらしい。この町は登山基地であるとともにキリストの血を祭ってあるという小さな美しい教会がある。それが町の名になっている。
この夜は落ち着いた調度に囲まれたグロックナーホフの一室に旅の疲れを癒した。


七日目(6月19日)日
 午前は300kmのバス旅行。オーストリア第二の都市グラーツ(人口25万人)に着く。
この街もハプスブルグ家にとってゆかりが深い街である。14世紀に15年間、このグラーツを都とした。大きな大学もあり、日本人の留学生も大勢いるらしい。我々が日本を発つ少し前、NHKTVでこの街で新しく未来型の建造物(クンストハウス=展覧会場)が建設された経緯を紹介していた。世界遺産でもある旧市街の中に建てる建物として相応しいかどうか市民の中で大議論があり、結局実現したらしい。実際見た感じはそれほどの違和感はなかった。


八日目(6月20日)月
 午前セメリンク鉄道に乗りウィーンに向かう。この鉄道はウィーンからイタリアに向かう路線で、最初にアルプスの峠を越えた鉄道として世界遺産にも登録されている。
キャンプに行く小学生の団体と一緒となり、同じボックスに座った子からチョコレートをもらったりした。途中彼らが下車した後に母と娘が座った。彼女らとの片言会話の中で息子が現在千葉で勤務していることが判った。何度か日本にも行っているらしい。そんな話をしているうちに下車駅に到着。美しいといわれる窓外の景色はあまり印象に残らなかった。
 昼食は市庁舎内のレストラン。このレストランの重厚さは、さすがウィーンと思わせる格調の高さであった。 
 午後はウィーンで半日自由行動。我々夫婦は、幾つかの観光名所は以前 訪問済みであったので、目標を二つに絞っていた。一つは「自然史博物館」。ここには亡くなった親友が「もう一つのヴィーナス」と言っていたウィレンドルフのヴィーナスが展示されている筈であった。ところが来てみると博物館はお休み。やむを得ずもう一つの目的地のある「王宮宝物館」を訪れた。  ここには神聖ローマ皇帝の王冠(写真5)をはじめハプスブルグ家の宝物が数多く収められている。
さすがと思わせる豪華さであった。
もう一ヶ所見ようと同じ王宮内あるシーシー博物館に廻った。ところが残念なことに閉館の時間を過ぎてしまっていた。残念。
今夜の宿はインターコンチ。王宮からは、老夫婦で暮れなずむ最後のウィーンの町を味わいながら歩いて帰った。                                             


九日目(6月21日)火
 今日は帰国の日。朝 添乗さんと市立公園を散策。シュトラウス、ブルックナー、シューベルトの像に別れの挨拶。その後空港へ。13.30オーストリア航空OS51便で帰国の途についた。


十日目(6月22日)水
 6.50分成田空港に無事到着。


エピローグ
同行者からは歩き方が心もとなく見えたらしいが、大きなトラブルもなく無事帰国出来たことをまずは喜びたい。 いろいろな方から今度はどこに行かれるのですかと訊かれる。もちろん行きたいところはまだまだ沢山ある。しかしその中で行くことが出来るところは、大幅に限られてきている。これからは身体と相談しながら探して行きたい。
今度の旅行でも多くの知見が得られた。ハプスブルグ家の実像にある程度近づくことができた。
「旅することは国内外を問わず、なんと素晴らしいことか」と改めて確信した。
私が目指した旅のパズルには終わりはない。
さあ 雪見に転ぶところまで行ってみよう!                      完

平成23年8月29日