平塚にて(2)
佐藤 幸彦  
 平塚から厚木に行く道の途中、広大な畠の中に、県営横内団地があった。鉄筋4階建て50棟1360戸の規模は当時としては大きい団地と言えたであろう。団地の傍らには少しの緑があり、あまりきれいではないが農業用水が流れてオアシスの趣も見せていた。団地の人口は4000人位であろうか、これだけ人が集まっていると周辺にはコンビニや大衆食堂など数軒の店があった。
 昭和52年の春の夕方、私は夕食のために横内団地傍の大衆食堂に立ち寄った。
 野菜炒め定食か何かを注文して、本を読みながら待っている時、ふと気がついたら周りが異様な雰囲気になっていた。食事をしている人々がテレビニュース画面を注視してフリーズしているのである。
 この日ピアノ騒音殺人事件として全国に知られた事件の犯人の、死刑が確定したのだった。そしてこの日知ったのだが、この事件は横内団地で起こったのである。
ニュースが特別な感慨をもって受け止められていたわけである。


 この犯人Oは夫婦で1970年4 月に引っ越して来て四階に入居した。Oに少し遅れて真下の三階に入居したのが親子四人の家族である。この家族は割合賑やかな方で、声も良く響き、上の女の子はピアノを買ってもらって練習していた。県営住宅でその頃ピアノはかなり贅沢なものであったらしい。さらにこの家の主人は日曜大工が趣味で、これも音の発生源だった。1974年8 月のある日、学校は夏休みで、女の子は朝からピアノの稽古を始め、これがOの気に障ったらしい。父親が出勤し、母親と次女がごみ捨てに出た時、Oはこの家に侵入し、刺し身包丁で長女を刺殺、ごみ捨てから戻って来た次女を刺殺、更に母親を刺殺した。


 これがピアノ騒音殺人事件のすべてである。これをスクープしたのは大手新聞社の平塚出張所員で、ピアノ騒音殺人事件というネーミングが、その頃話題になりはじめた近隣騒音被害のモデルケースとして、大いに受けたのである。ピアノの音ぐらいで殺人にまで発展するものだろうか、あれはやっぱり痴情怨恨関係だとかいろいろ噂もあったが、結局犯人は八王子のアパートに住んでいた時、趣味のオーディオの音量で隣人と大喧嘩になり、それ以来音楽もヘッドフォンで聴き、自分や妻の入浴の音まで極度に気にしていた変わり者だったという。近所の犬がやかましいと言って何匹か殺し、警察沙汰になったこともあった由である。


 公判で彼は「騒音被害者の会」の弁護人推薦を断って、国選弁護人をつけられた。 一審は死刑判決だったが、弁護人の要求で精神鑑定が行われ、偏執病のため責任能力なしという結果が出て、1976年11月25日、控訴審で無罪或いは減刑の可能性が出てきた。しかしそれより前10月5 日にOは、早く死刑になりたいということで、弁護士に無断で控訴を取り下げてしまっていた。弁護士は、この控訴取り下げも彼の妄想にもとずくものとして、無効の申し立てをしたが棄却され、死刑が確定したのである。(未だ執行されていない?)


 この事件で新聞社からコメントを求められた作曲家の団伊玖磨は、ピアノは本来30畳以上の空間を前提に作られたものだと言った。被害者のピアノ室が3畳であると聞いて、その十倍を思いついた軽口であろうと思うが、彼は三井合名社長・団琢磨の孫であり、裕福な家の出であるだけに30畳に抵抗を感じた人も多かったと思う。なお此のピアノ騒音殺人事件はその後、ピアノの消音装置開発や集合住宅の遮音の向上に貢献したのではないかと思う。
 以上の事件の日時等、細部確認のためインターネットの記事を利用させて頂いた。

平成23年6月