大怪我の経験
佐藤 幸彦  
     
 一昨年の秋にガラスで手首を切り、危うくお陀仏になるところだった。その時の経験をお話することは、多少皆様にも参考になると思うので、語ることにする。
 リストカットというのが若者に流行っていて、大抵はためらい傷ばかりでなかなか死ねないと聞いている。この時は自宅の門前でつまずいた拍子にガラス片が手首を突き、ものの見事に左の脈所を刺してしまったのである。あわてて腕の上膊を力一杯掴んでみたが、全然止血の効果はなく、脈拍と共に鮮血がドクッドクッと出た。幸い斜向かいで引っ越作業をしていた引っ越し会社の若い衆が、駆けつけてくれた。携帯で救急車を呼び、上膊を緊縛してくれたのだが、止血効果はほとんど無い。救急車では消防隊員が更にきつく縛り、そして手で上膊を凄い力で圧迫してくれた。それでも血は止まらないまま、某医大の形成外科にかつぎこまれた。直ちに救急隊員と代わって腕を器械で緊縛され、出血は止まった。その締めつけのおかげで腕の痛みは数カ月間、神経痛となって残った。奇妙なことに左の腕とともに右腕も神経痛に悩まされることになった。縫合は非常に上手で、感心するような仕上がりとなった。
  作業中、医師は私の意識を確認するためか、朝っぱらからお酒呑んでたんですかとか、喧嘩したんですかと絶え間なく話しかけてくるのだが、つとめてはっきり返事をしていた。その中で、一体どのくらい出血したんですかと尋ねられた。多めに言おうか少なめにしようか。多めに言っては気が弱いと笑われるかも知れない。少なめに言ったら----- と考えて、「600ml ぐらいですかね」と答えた。
  しかしこれは後で気がついたが、重要な質問だったのである。実際に血液をどのくらい失ったかは、検査しても判らない。2、3日後に血液の量が水分で補われた後に赤血球の濃度を測定して、貧血の度合いから出血量の見当をつけることが出来るのである。出血直後は出血前と同じ成分の血液が流れているので、出血量の見積もりに関しては、患者自身の申告や目撃者の情報に頼るしかないのである。

 タクシーで帰宅して、昼食をとり始めたら、うつらうつらと眠ってしまった。妻はその時、私をみたら白目を出していた、という。出血性ショックだったのかも知れない。
 再び救急車で病院に行き、入院となった。安静にして血圧や血糖などを管理しながら3日たって、医師が「失血は600ml どころじゃありませんよ。輸血すれば退院まで3日間、輸血しなければ少なくとも10日間の入院になります、どうしますかと言う。勿論輸血しないですむのなら、しないで下さいと頼んだ。しかしこの選択が正解だったかどうか、後に疑問として残った。10日で退院して残ったものは強度の貧血だったのである。家に帰ってもふらふらで、2ケ月ぐらい外出できなかった。そしてその間に足の筋力が弱ってしまったのである。
  医師は輸血をするかしないか、患者に判断をさせたのだが、実際には輸血をして短期間の回復をねらうかそれとも強度の貧血を当分我慢するかを選択させるべきだったのである。輸血はHIVや肝炎は防げても、アレルギーとか未知のウィルスがあるかも知れないと考えて、辞退したのだが、その程度のリスクなら輸血を選択すべきだったのかも知れない。現在は全快したのだが、歩行速度は遅くなった。
平成22年4月