平塚にて(3)
佐藤 幸彦  
 平塚に着任して単身の寮或いは社宅に入りたいと思った。当時の総務課長は私と同期のA君だった。彼は少し考えて菫平に一件空いていて、普通、単身者は入れないのだけど佐藤さんだから入っていいよといった。 話が旨すぎるのだが畳も襖もまだ新しいという。直ちに社宅担当のLさんから鍵を受け取り入居した。
  畳と襖は古くなっていたので近所の畳屋と経師屋を呼んで来て自費で張り替えた。本当は会社の許可なしにこんなことをしてはいけないルールらしいが、私はそんなことは全く知らず、A君に、畳と襖を変えさせてもらったよと言ったら、勝手にそんなことをやってもらったら困るなー、と苦情を言われた。ははあ、Aは調子良いことをいっていたが、短期間に俺を追い出す気なんだな、と感じた。


 平塚の工場には生命保険の小母ちゃんが来て昼休みに若い人を捕まえて商売していた。若手社員のデスクの所に居すわって勧誘し、それがしばしば午後の始業後30分にも及ぶことがあったので、ある時、仕事を妨害するなと一喝したことがある。小母ちゃんはそんなことでは怯まない。昼休みに私を勧誘に来ることになった。
保険の勧誘は世間話から始まる。 「Kさんの奥さんは不幸中の幸いでした。だってKさんが保険の契約をしてから2週間で亡くなっちゃって、ン百万円の保険金を私がお世話して受け取れたんですよ」「あれっ、Kさんって私の社宅の先住者のことではないのかな?」 団地の入口に入居者の一覧表の掲示板があって、それに私の先住者の名が残っていて、確かKと記されていた。私の直ぐ下の階に昔の仕事仲間Y君が居たのでその日のうちにKさんについて尋ねてみた。
「俺佐藤さんに言おうかどうしようか迷っていたんだけどねー」と名物の東北弁で語ってくれたのは次のようなことだった。


 巻線工場の若い作業者K氏は友人を誘って、夜勤明けに平塚の浜に貝堀りに行った。この辺で貝堀りというのは、爪のついた鉄籠を一人が沖へ沈めに行き、相棒が岸からロープで引き寄せるのである。遠くに台風があって、海は荒れ模様だったらしい。K氏は荒波にさらわれて行方不明になった。
 捜索は夜になって打ち切られた。その日菫平の団地ではKさんの家のみ、夜更けまで煌々と灯りがつき、社宅の人達の涙を誘った由である。K氏の遺体は台風の去った後真鶴の近くで収容された。残された奥さんと幼児は早急に荷物をまとめて、社宅を退去したということである。


 総務課長のAの奴、不幸の家の入居者のクッションとして俺を利用しやがったな、というわけで、K氏の事件は知らぬふりをして、Lさんに「どうもあの家はお化け屋敷ではないかねー」と話しかけて、「もしかしてそれを知っていて私を入居させてくれたのかな」と言うと、「そんなことありませんよー」と大まじめで否定するのが面白くて、お化けの話を数編作って楽しんだ。


 昔の電工の業績は銅の相場に大きく左右され、少々の工場努力は無意味になる、と嘆く幹部が多かった。銅で大赤字が出る度に時にはヒステリックな電線のアルミ化の努力がされた。平塚のアパート建設では低圧配電線の徹底したアルミ化をモデル的に行ったと聞いた。
 しかし低圧で圧着端子を用いた回路では突然の接触不良をしばしば起こした。台所の換気扇が突然動いたり、起動しなかったものが夜中に動いたり、電灯のスイッチを切ろうと思ったら何もしないのに消えたり等々、お化け話の素材は沢山あった。
壁にもたれて読書をし、壁を離れたら、すっとシャツの背を引っ張られた。「行っちゃいやっ!」これはどうもKさんの奥さんが壁に好みの壁紙を貼り、それを退去する時、剥がして去ったためのようだった。夜中に赤ん坊を風呂に入れている音がする。これは風呂場の下水の水封がうまく行かなくなっで下の階の物音がもれたためであろう。


 Lさんは間もなく不治の病で逝去されたと聞く。これは以上の話と関係ない。私は総務課長がK君に交替して、遂に菫平を逐われて真土に移った。真土については別稿に発表した通りである。

平成23年6月